べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「八幡社・白山神社(本願寺八幡社)」(名古屋市瑞穂区)

4/9。

名古屋住まいで、市内を攻めきれていないので行ってみましょう、ということで瑞穂区にある「八幡社・白山神社本願寺八幡社)」へ。

 

◯こちら===>>>

名古屋市:民間信仰のみち(瑞穂区)

 

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何故ここに辿り着いたのかはよく覚えていませんが……松が印象的でした。


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ちょっと細身の鳥居さん。

社標は「八幡神社 白山神社」となっています(最終的に村社だったのかな)。


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境内社の「秋葉神社」と「津島神社」。

江戸期から続く神社であれば、境内に「秋葉神社」はマストでしょうか(神仏分離で遷された可能性もありますが)。

津島神社」は、この地方ではこれもまた境内には多いです。


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拝殿。


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狛犬さん越しの拝殿。

 


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狛犬さん。


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おっと、尾張造でしたか。


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狛犬さん。

仔犬のフィット感が愛らしい。


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「尊」は「地蔵尊」だと思われます。

お隣は、下に三猿が見えますので庚申塔、「青面金剛」かな。

 


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「お常稲荷」さん。


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本殿を横から。


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「お常稲荷」さん遠景。


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もっと遠景。

緑豊かですね。


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「お常稲荷」さんの鳥居からの遠景。

 


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天気よく、青紅葉も素晴らしい感じの透過具合。


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境内向かって右手外から。

ちょっと持ち上げてますね、土地。

 


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遠景。

典型的な尾張造の趣が残っていて良いですね。


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これまたなかなか雄壮な……というか、どうしてそうなっちゃったのか……。


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ぐるぐる回ってみました。

こんもり盛り上がっていると、元々は古墳だったのかな、と疑う所です。

地形的に、大きくいって東から西に降っている途中なので、一段持ち上げる理由が何かあったのか。

うむ……『ブラ◯モリ』ばりに考察したいところですが、地形にあんまり興味がないのですよね……(歴史に親しむものがそれではいけませんけれども)。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

深田正韶 等編 ほか『尾張志』5 愛知郡,博文社,明31.3. 国立国会図書館デジタルコレクション

http:// https://dl.ndl.go.jp/pid/764866

 

(参照 2023-08-21)

 

尾張志』愛知郡編から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p7です。

 

「八幡社 西の島といふ所にあり此地の本居神なり本社の南方に行者堂一宇あり

白山社 東の島といふ所にありここの本居神なり菊理媛命を祭る」

 

と、いうことです(をい)。

多分、一つになったんですね……(そりゃそうだ)。

すいません、何か適当になっていますが……

 

◯こちら===>>>

津田正生 著『尾張国地名考』,愛知県海部郡教育会,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/980807

 

(参照 2023-08-21)

 

尾張国地名考』にも、本願寺村の記事があるのですが、少なめで。

ううむ……図書館で郷土史を調べないことにはなかなか……神社名鑑を仕入れたい……。

ロケーションや雰囲気はとてもよく、特に松の勢いが印象的でした。

 

「野間大坊(大御堂寺)」(愛知県美浜町)

2/23。

愛知県にいながら、あまり半島方面をせめていなかったなぁ……と思いまして、野間大坊(大御堂寺)」に行ってみました。

 

◯こちら===>>>

nomadaibou.jp

 

源義朝」公の最期の場所、なのでした。

高田崇史氏の小説で思い出したのですよね……。

そういえば、「源頼朝」公の母は、「熱田神宮」の神官の家でしたっけ……案外、名古屋と鎌倉幕府が関係深い……。

 

 

 

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野間大坊」。


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と思わせて、「大御堂寺」。

「大御堂寺」通称「野間大坊」、なのでしょうが、今ではすっかり「野間大坊」のほうが知られている気がします。


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門……かな……。


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蟇股に狛犬さん発見。


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「大御堂寺 大門」。


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……えっと、これは、算額、かな……。


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本堂。


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象さんと狛犬さん。


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屋根には狛犬さん……飛び狛ではないか……。


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本堂の案内板。

 

「鶴林山大御堂寺一山の根本堂。

現在の建物は3度の火災などにより、宝暦4年(1754年)に鎌倉様式にのっとり再建されたもの。本尊は平安時代作の「阿弥陀三尊像」(左から勢至菩薩阿弥陀如来観音菩薩)。

向かって右側に真言宗の開祖弘法大師、左側に新義真言宗の開祖興教大師をおまつりしてある。(略)」

 

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「大御堂寺」の沿革。

 

「大御堂寺は、通称野間大坊として皆様に親しまれています。

その歴史は古く天武天皇(六七三〜八六)の時代に始まり聖武天皇(七二三〜四九)の時、行基菩薩が中興します。後に弘法大師が諸国行脚の際留錫し、一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。承暦年間(一〇七七〜八一)に白河天皇勅願寺として、大御堂寺と称せられました。後に源頼朝公が亡父義朝公の菩提を弔う為に建久元年(一一九〇)に開運延命地蔵尊と不動明王を奉安され、七堂伽藍を造営します。そして秀吉公、家康公の庇護を受けて発展。現在尾張地方随一の祈祷寺として信仰を集めています。」

 

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武将印……御朱印ブームにあやかってか、いろいろな印があります……しかし武将印は、家紋が入っているのが、勉強になる気がします。

多いですな……。


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源義朝公の墓所」。

 

「『源義朝』とは、鎌倉幕府を開いた『源頼朝」、平家を滅ぼした『源義経』の父である。

1160年(平治元年)の平治の乱平清盛に敗れた源義朝公は本拠地である関東地方へ落ち延びる途中、この地野間を治める家臣の長田忠致・影致親子のもとへ身を寄せた。

ところが長田忠致・影致親子は裏切りの企てをする。義朝公へ「どうぞ朝湯へお入りください。」と勧め、入浴中の裸の義朝公を風呂場にて切りつけ命を奪った。武芸の達人であった義朝公は「無念。我に木の太刀の一本でもあればむざむざ打たれはせん。」と言って絶命した。後の世の人々が義朝公の菩提を弔うため、そのお墓にお花の代わりに木太刀をお供えする習わしとなる。

いつしか、願いをかなえる武将『源義朝』として、人々が願いをしたためた木太刀をお墓にうずたかく供えるようになった。」

 

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というわけで、こんな感じです。

卒塔婆のようにも見えますが、木太刀です。

一定期間が過ぎれば片付けられるのでしょうが、なかなかない光景です。

ある意味で怨霊になってもおかしくない、のですが……時代的にはそろそろ怨霊になりづらかったのか……あるいは、敗残の将だったことが怨霊となるパワーを弱めたのか……結果的に子どもが大活躍しちゃったのでその分差し引かれているのか……高田崇史先生が書いておられたような気がします(本が見つからない……)。


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織田信孝の墓」。

おっと、自害したのはこの辺りでしたか。


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池禅尼の塚」。

こちらはお墓ではなく、供養塔。


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「鎌田政家と妻の墓」。

源義朝」公の腹心だったようですが、主君の前日に殺された、と。

妻はついてきたのか……「平治の乱」で負けて関東に逃げる途中だったのに、妻もついてきたのですね……ううむ……ちょっと疑問。


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御廟の標。


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この右手奥に、「源義朝」公の墓所があります。

左にある建物で奉納する木太刀を買うのだったかな。


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いろいろと碑がありました。


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本堂遠景。


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「弁天」様がいらっしゃいました。

ここまでちゃんと様式が守られる神様もなかなか少ないかと(島、なのです基本)。


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……これはどちらだったか……。


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本堂向かって左手から。


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「平康頼公供養塔」。

平氏源氏の垣根を越えて、という話は時々ありますが、まぁそもそも平治の乱の前には平氏対源氏でもなかったわけなので。


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鐘楼堂。

尾張地方最古の鐘、だそうです。


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五重塔跡。

そうか、七堂伽藍だったのですよね、五重塔もあったはず。


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野間(地名なのです)周辺の観光マップ。

海が近いのです。


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どうも。


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「悠紀殿」。

 

昭和天皇の即位後初めての新嘗祭大嘗祭)のために京都御所内に建てられた悠紀殿。

当山第13世法印興円阿闍梨の尽力により昭和4年10月1日に当時の宮内省より下賜され、ここに移築した。

現在は両界曼荼羅を掲げるお堂。本尊は平安期作の『大日如来』。

この『大日如来』は源頼朝が境内に建立した五重塔に安置したものを悠紀殿本尊として移す。」

 

……ちょっとなかなか貴重な建物でした。

運動したからって簡単に下賜されるものではなさそうですが……。

 

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そんな建物があったかと思えば、マニ車発見。


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おっと、また看板を撮っていた。


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野間大坊 客殿」。

 

豊臣秀吉公の晩年の居城『伏見桃山城』の一部を寛永年間(1624〜43)に移築したもの。愛知県重要文化財指定の客殿建築。本尊は『開運延命地蔵菩薩』(秘仏)。仏師定朝の作。源頼朝公が幼少のころから拝んでいた地蔵尊

1190年に頼朝公により当山におさめられた。他に聖観音阿弥陀如来不動明王毘沙門天、大黒天、弘法大師をおまつりしている。(略)」

 

これまた、なかなか貴重な……。

源氏の末裔を名乗った「徳川家康」ですから、源氏関係の寺社はかなり優遇された、ということでしょうか。

 

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いや、立派……中に入ってみたかった……。


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……まあ、陽の石ですね。

リンガ、かな。

愛染明王」なのか……。


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陰の石、です。

「弁財天」……うむ、わからなくもないですが、ちょっと……。


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でかいマニ車があった……思わぬところで出会いました。

そういえば、「経堂」とか「経蔵」って、回転させることができるものがありますよね。

あれは、一種のマニ車なのか……と今更ながら気づいてみました。

で「世界で最初」って本当なのか……。


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「血の池」。

戦国時代なんて、血の池だらけですわな……。


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御朱印と武将印。

何でも印にすればいいというものではない、というご意見も、印にすれば興味を持ってくれる人が増える、というご意見も、どっちもありだと思います。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第9編尾張名所図会,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第1輯第9編尾張名所図会 尾張名所図会. 上,中,下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-08-01)

 

↑『尾張名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

忘れがちなのですが、知多って尾張なんですよね……昔の地理感覚って、難しい。

p78です。

 

「大御堂寺

柿並村にあり。真言宗、長野萬徳寺末。当寺所蔵の天文三年甲午三月の勧進帳に、白河院の御建立、承暦年中草創と見え、[東鑑]に、文治二年閏七月二十二日、前廷尉平康頼法師。浴恩沢。可爲阿波国麻殖保々司(元平氏家人散位)之旨。所被仰也。故左典厩(義朝)墳墓在尾張国野間庄。無人于奉訪没後。只荊棘之所掩也。而此康頼。任中赴其国時。寄附水田三十町。建小堂。令六口僧修不断念仏云々。仍爲被酬件功如此云々。と見えたり。或は、白河院の御宇、既に此寺ありと云々。しかるを康頼別に一堂を建つるといへり。享禄四年十月十三日の兵火に消失し、只大御堂、及び楼門のみ存せり。天文三年甲午三月、伽藍を再修せしを、慶長五年の秋、九鬼大隅守当郡を侵掠せし時、坊舎を焼き払ひてより頽廃せり。近年重修して又舊のごとく、堂宇儼然たり。抑平治元年己卯十二月、左馬頭源義朝、京軍の爲に敗北して、濃州青墓の長者、大炊が許に落ち着き、夫より東国へ下らんとし給ひしに、大炊は懇にもてなし、ここにて年を送り、しづかに御下向あるべしと申しけるが、ここは海道ゆゑあしかりなん、早く尾張の野間に至り、長田を頼むべしとて、いそがせけるに、はや宿の者共聞きつけて、二三百人押し寄せたり。是を見るより佐渡式部大輔重成、討死して通し参らせんとて、馬にのり、寄手の者を散々に蹴ちらし、子安の森に入り、左馬頭義朝自害するぞと名のりつつ、面の皮をはぎ、腹掻き切つて空しく成りにけり。此ひまに義朝は、大炊が弟鷲栖玄光を頼み、夜にまぎれ、小舟に乗りて、株瀬川を下り、十二月二十九日(絵伝に廿八日。)当所長田庄司忠宗(或は忠致に作る。)が亭に至り給ふ。御供には鎌田兵衛政清・(或は正清・政家等に作る。)平賀四郎義宣・澁谷金王丸、及び玄光ともに四人なり。忠宗は譜代の御家人にして、しかも政清が舅なれば、君臣ともに心解けて、暫くここに滞留あるべき由なり。忠宗外には崇敬の礼を厚くし、義朝を書院に請じ置き、随陪の壮士を遠く別間に憩はせ、厨には山海の珍味を集めて、饗応善美を盡すといへども、内には竊に逆意を挟み、其嫡子景致(或は景宗に作る。)を一間へ招きいふやう、かねて六波羅殿よりの御教書に、義朝を討つて進らせなば、勧賞望のままなるべきよし、しかじかと語れば、景致速に同意し、かかる折しもあれ、たとひ我君、是より東国へ下り給ふとも、平家の権勢盛なれば、必定人手にかかり給はん、しかじ吾等御首を討ち奉りて、平家の恩賞を得、永く子孫の栄華を全うせんにはと、素懐を密談し、さて君は、武勇猛威の名将にましませば小勢にわたらせ給ふとも、討ち奉らんこと大事なり。十全の策には、湯殿へすかし入れ奉りて、その時聟の政清をば別間へ招き、酒肴に饗すべし、君討たれ給ひぬと聞きて走せ出でなば、景致妻戸の陰に待ち合せ、彼を斬り伏せん。又橘七郎は、無双の大力なれば、組手と定め、弥七兵衛及び濱田三郎は、達練の武者なるにより、さし殺しまゐらせよと密にてふじ合せ、三人を床下に忍ばせ置き、明る正月三日、忠致義朝の御前に出で、此頃道すがらの御労を休め給はんため、御湯召さるべしと、懇に申しければ、頓て湯殿に入り給ひぬ。かくて金王丸は、御刀を持ちて伺候せしが、程ふれども御浴衣参らせず、諸事ふつつかなれば、金王丸大いに怒り、自ら取りにきける其隙に、床下より橘七郎飛んで出で、組み付きしを、義朝騒がず、心得たりと捕つて押へ、膝の下に踏み敷き給ふ。続いて弥七兵衛・濱田三郎も左右より打つてかかり、無二無三に脇の下を刺し通しぬ。此時政清はなきか、金王丸はといひもあへず、終に空しくなり給ふ。(行年三十八。)しかして御首を打ち取り、相図の者に渡して出づる所を、金王丸帰り合せ、此體を見るより早く、三人ともに湯殿の口にて斬り伏せたり。政清は夫ともしらず、忠宗がもとにて酒飲み居けるが、此由を聞きつけ立ち出づる所に、かねて妻戸の陰に待ち設けたる景致、逃さじと一刀に、諸膝斬つて討ち伏せけり。(行年三十八。義朝と同年なり。最期の始末に諸説あれど略す。)玄光も頭殿の討たれ給ひしと聞きて、こは政清が所業ならんと、長刀かいこみ走せ廻るに、政清もはや討たれぬと聞きて、さらば長田をこそ討たんとて、金王丸と二人諸共に、乱橋にて数多の敵を斬つて廻り、(乱橋は田上と長田が宅の間にあり。)長田を尋ぬれども、父子更に見えざれば、さては御首をもつて上洛しつらん、追駆けんものをと、厩に入りて馬二疋を引き出し、打乗つてみごと礙へばささへて見よと呼ばりしかども、遠矢少し射かけたるのみにて、敢て近づくものもなかりけり。玄光猶も大音に、我今六十三歳、軍に会ふこと十度、いまだ一度も敵に後を見せじと、逆馬に乗つて馳せ行き、終にわしのすに留まりぬ。金王丸は都へぞ上りける。さて政清が妻、かかる夫の横死を聞くより走せ来り、屍を抱きて大に悲歎し、父の不道を恨みつつ、終に夫の刀を取りて自害せり。(諸説異同あれども略す。)かくて長田父子は、池に臨みて御首を洗はしめ、(今当寺の門前に血池といふあり。此池天下に兵乱ある時は、池水血に変ずといふ。又傍に下馬橋といふあり。義朝の厩所を恐れて下馬したる橋なるべし。)是を持ちて上洛し、六波羅の勧賞に望む所に、清盛の喜悦斜ならずといへども、重盛其不義を悪んで、重賞を加えず、ただ壱岐守の號を与へらる。長田案に相違し、猶誅戮せられんもはかりがたければ、早々尾張に下りける。かかる非道の父子なれど、天理に違へる先非を悔い、或は身のなり行を案じつつ、とかくして年月を送りけるが、そののち頼朝公の武威、日を追ひ烈しく成りければ、身を置くに所なく、父子十騎ばかり、羽をたれて鎌倉へ参り、己が罪科を訴へ出でければ、いみじくもまゐりたり。猶身命を惜まず、抜群の軍功あらば、罪を許すのみならず、美濃・尾張を宛て行ふべしとの厳命にて、土肥次郎にあづけられけるが、長田父子、誠に蘇生の心地して、歓喜骨髄に徹し、摂州一の谷の軍をはじめ、数箇度戦功を奏しけり。然るに頼朝公天下平均の後、上洛の序、当地に御駕を枉げられ、先考及び鎌田が石碑を建て、御菩提のため、大御堂寺七堂伽藍を再興し、紀州高野一山の僧侶を請じ、供養あり。かくして長田父子をかうの殿の御墓近く引き来り、兼約のごとく、今身の(美濃)終り(尾張)を賜ふぞとて、磔にしてなぶりごろしにぞせられける。はりつけ松とて、今も山上にあり。何者かしたりけん。

ながらへて命ばかりはいきのかみ身のをはりをば今ぞ賜はる

右の歌を書きて(此歌一説には、長田が辞世なりといへり。)高札をたて、にくまぬ者はなかりけり。已上[平治物語][参考平治物語][東鑑]及び[絵伝]等を参伍考訂して、什が一を略抄するのみ。爾りしよりこのかた、当寺の法灯断絶なく、両将追福の供養怠慢なし。

本尊 三尊の阿弥陀如来

鎮守 神明宮。

鐘 銘に「建長二年十一月十九日。大工藤原光延。勧進沙弥正因」とあり。

源義朝墓 大御堂の東にあり。長田忠宗、義朝の首を京師に傳へ、其骸をここにうづむ。傳へいふ義朝最期の時、せめて木太刀にてもあらばと悔み給ひしより、今も土民瘧を煩ふもの、木太刀を備ふれば愈ゆると。故に墓所に捧げし木太刀、堆をなせり。

鎌田政清墓 義朝の墓の北にあり。

織田三七信孝墓 義朝の墓の南にあり。(略)

平判官康頼墓 山門の西にあり。治承元年、俊寛法師・丹波少将盛経等と、平氏を討たん事をはかり、事あらはれて、鬼界ヶ島へ流されしが、其途中に髪をきり、名を性照と改め、彼島に居る事三年にして、赦免に逢ひ、帰洛の後、東山の雙林寺に閑居して、[宝物集]を著せり。又阿波国の保司に任ぜられしが、任中当寺へ水田三十町を寄附し、一堂をも建立し、義朝の追福をせられしゆゑ、其のち寺僧此石碑を建てしとぞ。

池禅尼墓 義朝墓の東にあり。平治の乱に、頼朝公平家のために既に失はるべき所、平清盛の継母池禅尼、慈愛深く、殊に頼朝公の容貌、尼公鍾愛の亡息左馬頭家盛に彷彿たりとて、平相国に歎き、一向に命乞して、終に遠流の身となりき。頼朝公彼鴻恩を謝せんがため、境内に一堆の墳墓を築き、自ら八軸の妙典を書写して、塚中に収め、尼公追福の営ありしとぞ。又頼朝公はじめ遠流の時、禅尼の守本尊の地蔵菩薩を頼朝公に附属して、尼公示して曰く、早く出家入道して父祖の菩提を訪ひ、此尊像に帰依し奉れとありしを、頼朝公当寺に寄附せられしとぞ。今も其尊像当寺にあり。

大坊 大御堂寺山中、六院の巨擘たり。内殿の本尊阿弥陀如来は、親鸞聖人の彫刻する所にして、水野家代々の守本尊たりしが、神君此尊像に祈願し、大阪夏冬の御陣に勝利ありし事、当山縁起に見えたり。中興長圓法師は、神君の御縁もあれば、慶長年中此寺に遊び給ふ砌、何事にても望あらば申すべきよし仰ありしかば、長圓戦国の風に習ひしにや、心のままに鹿狩すべき地、并鷹御免あれよかしと申せしかば、神君不法の事におぼしめすといへども、鷹簡・鹿簡及び小鳥の證章なんど命じて、有司より下し給ふ。実に不律乱行の事なり。次の住僧秀圓法師、あさましとて、彼簡を深くかくし置きしが、又其次の住僧快圓法師の時、或人より彼鷹鹿の簡を乞ひけるまま、其人に與へしとぞ。然れども小鳥の證章は、今も猶寺伝す。長田は水野氏の人なりしに、神君の御由緒もあれば、其後代々水野家より住職す。今も猶しかり。

(略)」

 

引用が長すぎるかも……怒られたら消します。

どこまでが物語で、どこまでが史実なのかはもうわかりませんが、「源頼朝」が父親の仇を子飼いにしておいて、報償まで約束して、結果言葉遊び(というか呪いか)というのは、何というのか……器が小さいのか大きいのかわからないといいますか……ただ、耐え忍んで源氏の棟梁、征夷大将軍になったわけですから、どこまでも耐える根性はあったのかもなとも思います。

 

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「金王八幡宮」(東京都渋谷区) - べにーのGinger Booker Club

 

渋谷にある「金王八幡宮」は、噂の「渋谷金王丸」にゆかりのある神社でしたね……記憶力……。

 

 

 

ちゃんと読んだのに覚えてないのはこちらもね……。

しかし、毒蛇長刀どうなったんだろう……どうも長刀を使ったのは「玄光」っぽいですが……。

(一応)源氏の末裔を称したかった「徳川家康」としては、「源義朝」縁のお寺ですから、大事に扱ったということなのでしょうか。

尾張もまだまだ行ってみたいところはありますね……がしかし、今年は北陸に是非とも行っておきたい(時間も金もない……)のです……まあ、のんびりと。

「大阪天満宮」(大阪市北区)+α

2/20。

所用(推しごと)のため、大阪に旅立ってきました。

とりあえず、いつも通り「露天神社」にお詣りを。

 

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「露天神社」〜大阪巡り(続) - べにーのGinger Booker Club

 

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いやあ、本当に行きやすい神社なもので……。

で、本命と言いますか、所用の合間に行けるところを検索してたどり着いたのが、「大阪天満宮」でした。

 

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osakatemmangu.or.jp

 


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参拝者の方が多くて……写真の角度が微妙ですが、拝殿です。


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狛犬さん。

独特……大阪型ともちょっと違……うのか……な?

狛犬に関してはまだまだまだまだ)。


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「天満天神の水」。

大阪には「四ヶ所の清水」というのがあったそうです。


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御井神」。

湧水にはもちろん、井戸にも神様はいらっしゃるのです……こんこんと湧き出ずる泉なんて、神の所業ですよね(当時の人にしてみれば……現代人にも不思議ではあります)。


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……唐門、かな。

天井には、十二支が描かれた、方位盤(?)があります。

正式名称は何ていうんですかね……どういう基準で作られているのか、も気になります。


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梅の咲き綻ぶ季節でした。


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「和魂漢才」の碑は、「天満宮」に多いですね(「菅原道真」公だから、当たり前といえば当たり前、ですか)。


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神武天皇聖蹟難波之碕」。

今やすっかり陸の上の難波ですが、八十島祭のこともあり、ある時期まではかなり入り組んだ内海だったようです。


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「老松神社

祭神 住吉大神 神功皇后

(略)

由緒 古く神功皇后九州筑紫より帰航の折 巨松に風波の難を避け樹下に社を建てたのが始まりと伝う のち貞観二年(八六〇)白砂青松の地(旧老松町三丁目)を卜し 老松神社を建立す(略)」

 


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「老松社紅梅殿」と「白太夫社」。

なかなかの謎ですが、紅白で揃えたのかな、と素人は考えます(私のことです)。


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ちょっと高いところにありますが、古墳ではないでしょうね……。


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「蛭子門の由来

当宮には六つの門がありそれぞれに独自の用途と由来を持っている 当門は入ってすぐ左手に「戎社(蛭児社)」が祀られていたことから「戎門」と呼ばれていた。

江戸時代の「戎社」では毎年の正月・五月・九月の十日に「蛭児尊遷殿神事」を斎行しておりこの年三回の「十日えびす」には数多くの参拝者が当門を利用した

その後「戎社」は境内西北に移されたが「戎門」の名は変わらずに今に伝えられている(略)」

 


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何故に「戎社」がこの場所にあったのか、というほうが気になりますよね、怨霊的な意味で。


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表大門。

何か、お祭りの日だったわけではないと思うのですけれども、屋台が……大阪ってことか(偏見)。


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十二支の方位盤のところに戻ってきました(すいません、写真を撮るためにうろうろしていたので、参拝順が自分でも思い出せません……)。


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「宅間流算術」……かっこいい……。

算額は、「天満宮」に奉納されることが多いですよね(そりゃそうだ)。


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「登龍門

当宮は天保八年(一八三七年)の大塩の乱で本殿及び多くの社殿が焼失しその後弘化二年(一八四五年)に再建され現在に至っております(略)」

 

 

大塩平八郎」……あれって、1837年だったんですね……最近だ。


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時期的なこともあり、「天満宮」でもあるので、梅。


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そして、「天満宮」といえば、「筆塚」です。

薬種商有志」はまあわかるのですが、「御湯講」ってなんだろう……温泉巡りとかする講かな……。


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をを、久々に神社で猫さん発見!

テンションが上がりますよね(?)。


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「亀吉大明神」「鶴姫大明神」。

うむ……案内板があったような、なかったような……。


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「妻社

浪華古図によれば渡辺橋北詰に鎮座ありしを当宮にてはこの社の廃れしを再興せんと昭和二十二年九月社殿を造営し鎮斎す

祭神 大己貴大神(略)」

 

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「妻社」っていうのは、どういう意味合いなのでしょうね……。


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は……は……はっくま〜い!(わかる人にだけ)、の「白米社」。


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回廊のようになっており、後ろに回れるのです。

ロマン溢れる作り。


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「狐、天狗の爪研ぎ石」……お稲荷さんということか。


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真後ろ。

後戸、というわけではないでしょうが、どこにもあるのでしょうかね。


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にゃんこ発見。


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「稲荷奥宮

昭和六十三年師走二十五日 伏見稲荷大社より神璽奉斎 白米稲荷社の奥宮と称し奉る

(略)」

 


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「小社 白米社

祭神 稲荷大神

由緒 創祀伝来等は不詳なれども文政七年刊神仏霊験記図会に記され往時より民庶尊崇厚かりき(略)」

 


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「住吉社」。


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「吉備社」。


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「八幡社」。


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「松尾社」。

この辺り、時間がなくなってしまって、ゆっくり回れず……無念。


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「霊符社」の狛犬さん。

耳がぴん。


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「霊符社」。

「鎮宅霊符神」つまり「天之御中主神」を祀っている神社です。

 

◯こちら===>>>

「鎮宅霊符神社」〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club

 

↑この辺りの過去記事をご参考に。

 


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「霊符社」遠景。


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御朱印御朱印帳。

 

さて。

のんびりのつもりが大急ぎになってしまったのですが、

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第5編摂津名所図会,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション

http:// https://dl.ndl.go.jp/pid/959908

(参照 2023-07-09)

 

↑『摂津名所図会』を見てみましょう。

p440です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

天満宮

天満にあり。本社中央大自在天神・相殿(東ニ)手力雄命・(東三)法性坊尊意・(西ニ)猿田彦大神・(西三)蛭児尊 村上天皇の御宇、天暦年中勅願によつて初めて此地に建立し給ふ、今に至るまで所をうつさず、社職は神主・社家の外に僧侶の加る事なし。

あすも見ん松に大江の夕がすみ 宗祇

夫此地を天満と号するは、当社鎮座し給ふ故なり。

大将軍祠 上古浪花に皇居ありし時四隅に鎮守し給ふ其一なり。故に地主神と崇め奉る。

蛭児尊・遷殿末社 神明・八幡・住吉・十二社権現・荒神・宇賀神・祇園・老松殿・紅梅殿(倶に相殿)。白太夫。此外摂社福島三所天満宮、当社より神事を勤む。神主境内鎮座霊符神同末社稲荷、住吉・松尾の二前は相殿に祭るなり。其外宇賀神・吉備公等を祭る。近年西の方に巍々たる封疆(どて)を築いて草木を植ゑ、末社を遷すもあり、四時詣人多く、社内の市店・観物・軽口噺・植木屋の鉢植・泉水の金魚・小山屋が料理、月毎の二十五日の群参昼夜道に満てり。鉾流しの神事は六月二十五日なり。朝より御迎船として福島の産子はみやびやかに船を飾りて、一様の浴衣を着し、櫓拍子揃へて難波橋に到り、種々の船印に吹きぬきを翻し、飾人形一様の浴衣帷子に、太鼓を拍つて踊り狂ふ。神輿は難波橋より船に移し奉り、警固の役船前後に列し、音楽を奏して戎島の御旅所へ渡御あり、祭礼の船、行列巍々玲瓏として浪花の美観なり。数百の樓船川の面に所せき迄雙び、陸には桟敷を打つて幕引きはへ、金屏立て渡して稲麻の如し。諸侯第には家々の紋の挑灯を照し、船遊は三絃をならし歌の聲麗しく、花炮は星降り・昇り龍、水の面にかがやき、市中の車楽・北新地の妓婦の◼︎物・頓狂言限もなくありて、大坂第一の賑なり。京師の祇園会・浪花の天満祭は聞くよりも見るが百倍なるべし。秋祭は九月二十五日なり。流鏑馬あり。」

 

図絵も、何ページかにわたって掲載されているので、ご確認を。

境内図は、現代とそれほど変わっていません(まあ、江戸末期ですから)。

名所図会シリーズは、基本的には観光案内という性質のものですので、とにかくこの神社の祭りがどれだけすごいのか、を紹介するのに紙幅を割いている感じですね。

途中で「踊り狂ふ」って出てきますからね……いろいろな出店、見せ物が出ている様子なんかは、現代にまで受け継がれているように感じます。

 

◯こちら===>>>

大阪府誌』第5編,大阪府,明36.4. 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/765475

(参照 2023-07-10)

 

大阪府誌』もみてみましょうか。

p105です。

天満宮

天満の大工町に在り、府社にして祭神は天満大自在天神即菅原道真なり。其の初は今の地より北方明星池が辺に鎮座ましまししが後此處に遷座ありしものなりと。社説に依れば昔時此の附近に大将軍森と称する広大なる森林あり、豊崎宮の東南に方り孝徳天皇の白雉年中該皇后の四方に大将軍を祭られし其の旧跡の一なりしが、天暦の頃其の林中に霊光ありて諸人みな奇異の想を起ししに恰菅神里人に神託ありて浪華の梅を慕ひ此處に影向すと告げ給ひしかば里人奏して其の霊を祭りきといふ。其の建立は村上天皇の御宇天暦三年にして天満の名も亦是れより起り、後、天満の市中漸次繁盛を加ふに至り終に此の地の産土神として寛文年中更に今の地に移しまつりき。享保九年火災に罹りて本殿を失なひ再建せしに天保八年に至りて大塩平八郎の徒大砲を宝蔵に放ちて本殿また焼失し、爾後、再建の設計ありしが飢饉の余波を承けて果たすを得ず、十年の久しきを経て之を遂ぐるを得しが当時幕府の令せし節倹の主意を守り尚いまだ給電内部の装飾等十分なること能はず、荏苒、明治三十四年に至り数年来の大修繕建築初めて竣工を告げ、同年十月五日正遷宮の式を挙げき。此の改築には大いに意匠を凝らし其の費用の如きも十万円の巨額に達せりと云ふ。結構荘麗にして數座の末社に至るまで皆雅ならざるはなく、市中稀に見る所なり。式日以後数日間は祭典挙行せられ、其の盛大にして市中一般の殷賑なりしこと蓋空前にして又恐らくは絶後ならんといふ。

宝物尠なからず、御水尾天皇宸翰をはじめ有名なる歌人、書工の筆等皆見るべきものたり。(略)」

 

「大将軍」自体は陰陽道八将神で、「桓武天皇」が都の四方に「大将軍神社」を置いたとか。

孝徳天皇」の「難波長柄豊碕宮」での先例に則ったのか……そうした伝承が残っている、というところで、では京都の「大将軍神社」はみんな「天満宮」になっちゃったのか……そんなことはなさそうですが……「大将軍」が、仏教で言えば「他化自在天」と同一視され、「菅原道真」公が「天満大自在天神」と呼ばれるようになり、一緒にしちゃえ……という意識が働いたのか……。

最初は「明星池」に鎮座していたというのも、「大将軍」が金星絡みの方位神というところに合わせた感じがしますね。

なお、『大阪府誌』の続きには「明星池」の項目がありまして、どうも星に関係したっぽいです……後世の附会という可能性ももちろんあります……日本では星の神というのはあまり祭られず(オリオンの三つ星っぽい「住吉三神」とかは別です)、たいてい祭られているところは、星(隕石)が落ちたところ(と考えられた)っぽいのです……隕石あるかも……まあそれはいいとして、どうやら「七夕池」というのもあり、その近くに「七夕神社」があり、1300年前からあるらしく、しかも御祭神が「若日女霊神」ときています……水辺、七夕、「ワカヒルメ」……記紀神話をよくご存知の人が揃えたような気がします……。

 

ところで、井原西鶴好色五人女』の中の「情を入れし樽屋物かたり」は、大坂天満で起きた事件が元となったとされていますが、その中に、「天満の七不思議」が出てくるのです。

 

「天満に七つの化け物あり。大鏡寺の前の傘火、神明の手なし児、曾根崎の逆女、十一丁目の首しめ縄、川崎の泣坊主、池田町の笑ひ猫、鴬塚の燃え唐臼」

 

作中で「七不思議」と書かれてはいませんが、江戸の「本所七不思議」の向こうを張ったんじゃなかろうか……と思ったりします。

これが井原西鶴の創作なのか、当時そうした噂があったのか……江戸と並ぶ都市だっただけに、大阪の当時の都市伝説も面白そうです(やっぱり石燕や水木大先生が絵にしていないと、知名度が落ちますけども……)。

日本中の「七不思議」(妖怪系)を集めてみたいものです。

 

というわけで、全然参拝ができなくなってしまった2022年をちょこっとずつ進めたいと思います。

「岩津天満宮」+α(岡崎市)

2/11。

やっと2022年に入りました……初詣です(え?)。

とりあえず、久しぶりの「豊川稲荷」さんへお詣り。

 

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◯こちら===>>>

「豊川稲荷」 - べにーのGinger Booker Club

「豊川稲荷」(再)(豊川市)〜高速初詣三河編〜 - べにーのGinger Booker Club

 

記事にしたのはこれだけか……。

 

で、実は本命は、いつも東名高速を東京方面に走っていくと、岡崎インター付近で発見する、「岩津天神」に行ってまいりました。

 

◯こちら===>>>

www.iwazutenjin.jp

 


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案内板。

山の上にあるのです。


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ええ……と、そう、ちょうど受験シーズンですね……ですので、参拝客の方が多く、写真が少なくなってしまいました。


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狛犬さん。


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天神様なので、やっぱりありました。

牛さん。


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お稲荷さん。


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「岩津観音」。

ちょっと、閉じ込められちゃった感じがありますが。


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本当はこちらから登ってくるのです、の参道。

駐車場に停めると、ショートカットできます。


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遠景。


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豊川稲荷」と「岩津天神」の御朱印

節分のものは限定だったかと思います。

 

 

◯こちら===>>>

「霊鷲山降劔院真福寺」(愛知県岡崎市)〜岡崎ちょいぶら= - べにーのGinger Booker Club

 

実は、すぐ裏が「真福寺」だということを、駐車場から出て初めて知りました。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

額田郡神職会 編『参河国額田郡神社誌』,額田郡神職会,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション

http:// https://dl.ndl.go.jp/pid/1214266

(参照 2023-06-15)

 

『参河国額田郡神社誌』より。

そうそう、この時期はまだ額田郡なんですよね……。

p109です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

無格社 天神社

(略)

一 祭神 菅原道真

一 由緒

桃園天皇宝暦九年正月、岩津信光明寺第二十二代の住職一譽上人、年頃の賀を申すべく江戸へ下る。其の途中病起り難儀の折節、里人の勧に依り、鎌倉なる荏柄天満宮に祈願して、忽ち平癒、出府年賀も滞なく、帰途鎌倉に立寄り、仝社前に報賽し、御分霊を勧請し、仝所の名匠に属して菅公の木像を彫刻せしめ、奉持して帰寺、境内の観音堂に合祀して、崇敬怠らさりき。後三年、仝上人夢想に感じて後方の山嶺に本殿、拝殿、渡殿等を造立し、遷座し奉る。是れ即ち当社創立の由来となす。信光明寺上人系譜に「第廿一代一譽上人、明和丙戌秋九月、建立天神社於山上。」と見ゆ。後三十余年、光格天皇文化三年、社殿を改造し、天保四年石階を建設し、仝七年参籠所を建築す。仝八年八月十八日暴風の為社殿破損す。仝十三年大修繕を加ふ。嘉永二年本殿を修営し。仝三年石鳥居を建設し、廻廊を建設し、安政三年唐門を造立す。これより先、大黒天、毘沙門天不動尊、陀吉尼天等を合祀し、信光明寺住職累代奉仕して明治維新に及べり。維新後大政官の布達に遵ひ、仝九年仏像仏具等は全部信光明寺に撤回し、公然神社の班に伍し、無格社に列せらる。明治十九年十一月祝融の災に罹り、建造物悉皆烏有に帰す。仝二十年、本殿拝殿其他旧に復せしが、明治の末年に至り、境内大に廃頽せり。茲に碧海郡新川町に服部長七といふ者あり、曾て当社の神徳を仰ぎ、霊験を蒙りたる報賽の為、当社の維持奉祀に留意し、社殿再建を発起し、本澤徳次郎等の翼賛を得、乃ち現今の社殿を建造したるなり。時に大正二年なり。大正六年五月二十日会計法指定神社に指定せらる。昭和四年四月神楽殿を建造す。(以下略)」

 

存外に新しかったです。

 

◯こちら===>>>

http://www.tenjinsha.com/

 

↑「荏柄天神」はこちらでしょうか。

 

◯こちら===>>>

額田郡教育会 編『三河国額田郡誌』,額田郡,大正13. 国立国会図書館デジタルコレクション

三河国額田郡誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-06-15)

 

三河国額田郡誌』も見てみましょう。

p366です。

 

天満宮

岩津村大字岩津に在り、芭蕉天神と称し宝暦九年信光明寺第廿二世一譽上人の勧請に係る三河名勝志に曰、芭蕉天神祠は信光明寺境内後の山にあり、当寺先代上人伊豆国芭蕉天神に信仰厚く寺境の内に一社を創造し乃ち芭蕉天神を祀り後今の所に移し奉ると云ふ天神の来由を尋ぬるに往古久我大納言駿州富士浅間宮へ奉幣使の命を蒙り下向し給ふに途中はからず疝癪に罹り薨じ玉ふ其時供奉せし者に伊豆国人あり。公の薨じ玉ふを悲哀し御装束を受領し伊豆国へ持ち帰り芭蕉山に埋め天神と崇奉ると云ふ芭蕉山にあるを以て後世芭蕉天神と称し奉るより、近頃茲の岩津芭蕉天神を諸病ある人祈るに霊験顕著なり、依て正五九月の祭日には貴賤郡参して往来路を塞ぐ、参詣の者小瓶に酒を入て寳前に捧奉る、当時東三河に豊川の稲荷明神あり西三河に岩津天神ありて其繁昌伯仲す云々是を以て考ふれば岩津天神は久我大納言を祭るを以て本旨とすれども今の祭神は菅原道真公なり。」

 

◯こちら===>>>

www.pref.shizuoka.jp

 

↑「芭蕉天神」はこちらのことでしょうか。

ふむ、さて、由来が「荏柄天神」か「芭蕉天神」か、という論はあるようですが、いずれにしろ比較的近世の勧請のように思われます。

ここのところの、『どうする家康』での、岡崎の盛り上がりにはあまり関係なさそうなのが残念。

しかし、地元の方にはしっかり崇敬されている、と思いました。

あと、受験シーズンに、下手に天神様には行ってはいけない……と。

「海蔵寺」「北桑名総社」(三重県桑名市)〜ちょっと桑名巡り

11/30。

さて、「桑名宗社」を後にしまして、「桑名城趾」の御城印をいただくべく駅を目指していたのですが、その途中で出会ったので。

海蔵寺へ。

 

○こちら===>>>

kaizouji.net

 

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「宝暦年間、木曽、長良、揖斐三大川の治水工事に際し御手伝普請(おてつだいふしん)に当った薩摩藩士の工事の難関に処してよくこれを克服したがその間悪疫に、紛争にまた重大な工事費の処遇など責任を負って殉難した二十四名の墓所(三名は墓碑は湮滅)である。この二十四名は凡て割腹した藩士ばかりで、中央は総奉行平田靭負(ゆきえ)正輔(法名 高元院殿節岑了操大居士・宝暦五年五月二十五日 五十二才)の墓碑である。」

 


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宝暦治水は、愛知県にも跨った大事業だったので、小学校の道徳の時間で習ったような気がします(記憶にうっすらとあります……)。

改めて、先祖の皆さんのご苦労には感謝せねばなりません。

南無。

 


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そこから、さらに駅に向かって歩きまして、「北桑名総社」にたどり着きました。

 

○こちら===>>>

www.kankomie.or.jp


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狛犬さん。


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境内全景。


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境内摂社は、「八天宮」「稲荷大明神」「金刀比羅宮」「天神社」「船魂社」。


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本殿。


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持統天皇御旧跡」。

林銑十郎とな……さすが昭和十年代。


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「北桑名総社 北桑名神社」。


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「北桑名総社北桑名神社由緒書

当社は、江戸時代始めより現在地に鎮座し「三崎神明社」とも、「今一色神明社」とも称された今一色の産土神です。

明治四十一年、太一丸にあった「太一丸神明社」、宝殿町にあった「佐乃富神社」を合祀し「北桑名総社北桑名神社」と改称しました。昭和十二年、古くなった社殿等の大改修がおこなわれ立派な社殿神舎に成りましたが、惜しくも先の大戦で全て焼失しました。戦後氏子、崇敬者の協賛により本殿拝殿等逐次再建され、今日に至っています。

御祭神 ・天照大御神 ・鵜葺不合尊(神武天皇の父) ・高水上命(伊勢の豪族) ・須佐之男尊 ・天兒屋根尊 ・持統天皇 ・大山祇命

(略)

三崎神明社

桑名の地は古代古書によれば、自凝洲崎・加良洲崎・泡洲崎の三つの洲に分かれていました。自凝洲崎に江ノ奥の記載があり、このあたりに社が奉斎され「江ノ奥神明」とも「三崎大神明」とも呼ばれていたようです。江戸時代の始め、慶長年中桑名藩による町割や開発が行われ、時の城主本多忠政公が神殿神舎を寄進し慶長十九年八月現在地に遷宮しました。

郷土史によれば当社は踊りで有名で、江戸時代六十年を周期とした「お陰参り」が盛んに行われたのに伴い当社への参拝も多く、関東人郡参の社であったと伝わっています。

 

佐乃富神社・中臣神社

両社とも延喜式内社の古社(「延喜神名帳」に記載されている全国の由緒ある神社)で代々の桑名城主の崇敬があり寛永二十年松平定綱侯が神殿神舎を建立しました。

壬申の乱(六七二年)が起こり大海人皇子(後の天武天皇)は一族を連れて桑名郡家に着き、妻の菟野皇女(後の持統天皇)と幼い草壁皇子桑名郡家に残し戦場となる不破へと向かわれ、戦いは大海人軍が勝利し桑名の地にもどられました。この間、菟野皇女は桑名郡家に滞在され、それが当社であると伝えられています。

菟野皇女に対する奉仕と功労により菟野皇女より「硯と鏡」を賜り、社宝として当社に伝承されてきました。

 

五霊神社

当社の境内神社で明治四十一年合祀の際、この地に点在していた小祠を一社に統合して奉斎するようになりました。「赤神様」とも呼ばれる桑名藩主の御命により防火の神、八天宮(火産御霊神)を祀り災害のないことを祈っています。

御祭神 ・火産御霊神 ・宇迦御霊神 ・大物主神 ・神功皇后 ・菅原道真侯」

 

なるほど……論社だったか……。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

『現在之桑名』,日新書房,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション

現在之桑名 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-05-25)

 

↑こちらから(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p30です。

 

「◯北桑名宗社

今一色堤原に在り、従来神明社と称ししが近頃宝殿を合せて斯く名づく。一は大日孁貴命を祭り、一は素盞嗚尊を祀るものか。旧記種々の説あり。其精確なることは得て知るべからず。」

 

 

正直者。

 

◯こちら===>>>

 

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯 第4編,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第1輯 第4編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-05-25)

 

『伊勢参宮名所図会』の記事をちょっとだけ。

p200です。

 

天武天皇頓宮

桑名の町より二十町許西南矢田村にあり。俗に八幡の社といふ。〈羅山紀行〉に曰く、清見天皇大友皇子に襲はれ、吉野より潜幸ありて、此を行宮とし、伴ひ給ひし皇后は此地にとめ、不破関へ潜幸あり。終に戦ひ勝ち給ひて即位かせ給ふ。天武帝是なり。皇后は天武天皇の御女、後持統天皇と申す。」

 

普通だった……これが「北桑名宗社」の場所にあったのかどうかは、郷土史家でもないのでわかりませんが、とにかく「天武天皇」「持統天皇」づいている土地だと。

 

◯こちら===>>>

 

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯 第7編,大日本名所図会刊行会,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第1輯 第7編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-05-25)

 

↑『東海道名所図会』はというと。

p284です。

 

天武天皇社 同駅鍋屋町にあり。天皇行幸の事は[日本紀]に見えたり。旧地は本願寺村にあり。古跡に菊の井といふ名泉あり。天皇の御供水といふ。天和年中此地に遷す。例祭六月十六日。」

 

うーん……どうも、ちょっと違うような気がします……と思って検索したら、

 

◯こちら===>>>

www.kankomie.or.jp

 

↑ちゃんとありました……おかしいな、見落としたのか……。

 

◯こちら===>>>

 

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション

神社覈録 上編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-05-25)

 

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション

特選神名牒 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-05-25)

 

↑この辺りを見ておいていただくと、「佐乃保神社」が「サノホ」と読んで、これが「素盞嗚尊」のことではないかと言われていたり(否定されていたり)、案内板にあるように「桑名宗社」の「春日大明神」と御宝殿にあった「中臣神社」が、式内「中臣神社」の論社になっているらしいことが、ちょっとわかったりします。

『特選神名牒』の方が、「中臣神社」の項目にかなりの文字数を割いているので(長い)、興味のある方はどうぞ(「佐乃保神社」は「八剣宮」と呼ばれていたらしいので、「素盞嗚尊」じゃなくて「日本武尊」からみだろうとか……そういえば、三重ですものね、さもありなん)。

それにしても、潜伏先の吉野から、桑名に出てきた「天武天皇」、伊勢には向かわず……まあ、敵はそっちにはいませんから行く理由もないのですが、皇室の宗廟たる「神宮」があったのに、行かないのも何となく腑に落ちません……と、こういった疑問を浮かべてしまうから、伊勢に謎があるのだ、と思っちゃうのですよね……。

三重県、深いです(しっかり巡る時間が欲しい……)。

 

「桑名宗社」(三重県桑名市)

11/30。

桑名城址」を後にしまして、ぶらっと歩きながら、桑名といえばの「桑名宗社」へ。

普通に歩いていけます。

 

○こちら===>>>

www.kuwanasousha.org

 

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橋の向こうに鳥居が見えます。


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ばばん、と鳥居。

銅板を貼っている、というのか……。


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おっと、鋳物師さんが寄進した……ということは、本当にフルで銅なのか……。

隣の石は「しるべいし」、実物はあまり見たことはないですが、『北神伝奇』で出てきたような気がします(うろ覚え)。

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ちょっと暗いですが、緑青の出方もいい塩梅だし、紋様も素敵。

赤銅で輝いていた頃は、もっとすごかったことでしょう。


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隋神門。

「桑」の字が、旧字なのかな……。


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隋神。

それぞれ神紋が違いますが、神社の成り立ちに負うもので、それ以上の意味はないかと思われます。


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こんな感じに……「大」と「三」……意味はあとで調べられたら調べます。

 


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……豪華ですねぇ。


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「桑名宗社」は桑名総鎮守で、二つの神社が合祀というのか、合体した神社、のようです。

「桑名神社」は昔は「三崎大明神」と呼ばれていたようです。

御祭神は「天津彦根命」と「天久々斯比命」。

天津彦根命」は、「天照大神」と「素戔嗚尊」の誓(うけい)で生まれたとされています。

新撰姓氏録』によれば、その子の「天久々斯比命」は、「桑名首」の祖先神。

どこかで系譜が接続されたものと思われます。

そして、「中臣神社」は「春日大明神」。

御祭神は「天日別命」と、「春日四柱神」。

「天日別命」は、「伊勢津彦」を信濃に追いやったとされるお方ですね(『伊勢国風土記逸文)。

 

○こちら===>>>

https://bennybebad.hatenablog.com/entry/2015/03/25/205553

 

↑かつて、「春日大社」に訪れた際に妄想してみたことがあります。

「春日四柱神」は、「春日大社」と同じということですね(「武甕槌命経津主命天児屋根命姫大神」)。


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拝殿。

こちらは「桑名神社」のほうですね。


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こちらが「中臣神社」の拝殿。

……「三」はわかるのですが、「大」はなんでしょうね……「春日大明神」の「大」なのか……ううむ。


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境内社の「母山神社」。

御祭神は……なんでしょう。

 


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「稲荷神社」。

文政年間に「伏見稲荷」から勧請したようなので、それほど古くはないですね。

明治の例の件で、町々の「お稲荷さん」が集められています。


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「桑名東照宮」。

おっと「千姫」が勧請した、と……。

 

「逸話

千姫徳川幕府第二代将軍秀忠の長女であり、聡明さと美貌を兼ね備えた美しい姫君とされます。慶長二十年(一六一五)に大坂夏の陣で徳川軍が豊臣軍を滅ぼすと、豊臣秀頼に嫁いでいた千姫が救出されます。江戸に向かう途中、桑名藩主の息子・本多忠刻千姫一行をもてなし「七里の渡し」の船渡しの指揮を執りました。忠刻は武芸の達人で眉目秀麗な美男子であり、指揮を執る忠刻の姿に千姫は一目惚れをしてしまいます。千姫は江戸に着くと直ぐに祖父の家康の許しを貰い、翌年桑名へ嫁入りしました。嫁入り直前に家康は帰幽してしまいますが、桑名の地で出会い、恋愛結婚を成就させた千姫は家康にまつわる神宝を当社へ奉納し、感謝の意を込めて東照宮を建立しました。

千姫と忠刻は仲睦まじい夫婦であったと言われ、本多家が姫路に移るまで僅か一年ではありましたが、幸せな新婚生活をこの地で過ごしたとされます。」

 

そうか、「千姫」は本多家に嫁いでいたんでしたっけ……「天樹院」様といったらもう、山田風太郎先生のあれを思い出しますな……なんであのシーンだけ強烈に覚えているんだろう……ああ、せがわまさき先生の漫画のせいか……。

 

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皇大神宮御分社」。


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本殿をちらっと隙間から。


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拝殿遠景。


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狛犬さん。

ちょっと見上げているのが可愛いですね。


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石鳥居にも紋章が。


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拝殿遠景。


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それぞれの拝殿をちょっと遠くから。


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狛犬越しの鳥居。


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さて、「桑名宗社」、「村正」と「正重」という日本刀が奉納されているのです。

 

「村正は伊勢国桑名の刀工で、初代は美濃国の兼村の弟子と言われている。

当社所蔵の室町時代・天文12年(1543)作の太刀二口は二代か三代の作とみられ、佩表に「三崎大明神」「春日大明神」と彫られており、桑名神社と中臣神社の両社に一口ずつ奉納されたものである。

平成28年県文指定当時は、錆止めの漆に覆われて地刃不詳であったが、令和元年に漆を除去して研ぎ上げられた。現出した地刃は美しく華やかな出来で、村正の見所である表裏の刃文が揃うところもあり、制作年記や居住地などの史料的価値と共に美術的にも村正を代表する出来であることが判った。

正重は村正を祖とする千子派の刀工。室町後期には村正のほか正重、正真などが著名であるが、江戸時代には徳川家に祟るということから村正銘の作品は見られなくなり、千子派の系統では僅かに正重が存続するのみ。

神社には正重の太刀も二口を所蔵。寛文元年作は奥平貞昌の奉納。正重自身の奉納と見られる寛文二年正月作は、令和元年に村正同様に研ぎ上げられ、地刃の健全で力強く野趣に富む出来が現出した。」

 

村正ったら、徳川に祟るものですよね……『風雲!真田幸村』でもそうでした(時代劇?)。

 

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御朱印もたくさん。

最後のは、季節限定だったかな……七五三ですよね。

日本刀の御朱印は、どこかでいただいたかな……。

 

○こちら===>>>

https://bennybebad.hatenablog.com/entry/2020/05/09/201847

 

あ、鍔だけだったか……ガーベラストレート……。

 

さて。

 

○こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯 第4編,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第1輯 第4編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-05-09)

 

『伊勢参宮名所図会』を見てみましょうか(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p189です。

 

「桑名神

式内なり。祭所大櫛命云々。俗に三崎明神といふ是なり。桑名市中より続き、東北の方にあり。社伝に曰く、景行天皇の御宇鎮座、天武大友の皇子をさけて、皇后もろとも、吉野より此地に潜幸ましまして、東国に入り給はんとす。依乃仏神を祈らせ給ひ、此地に皇后をとどめ、船にて尾張・美濃に入り、官軍をかたらひ給ふ。その時の示現に、神現はれて曰く、我は往古より此地の地主にして、娑謁羅龍王の女妙吉祥といふ。本地は十一面観音、垂迹は三種の神宝なり。故に夫を表し、三崎明神と申すなりとて、虚空に飛去り失せぬ。夫より尾張熱田へ渡海し、不破関の合戦に打勝ち、大友皇子を亡し、天位を継ぎ給へり云々。縁起の文詳ならず。さるべき事ともおもはれず。

中臣神社

桑名の市に有り。式内なり。春日大明神といふ。世俗には伏見院正応年中、八月十八日奇瑞示現ありて、鹿島より移り給ふ云々。

御神詠とて

鹿しまより牡鹿にのりて海原や此桑原に跡をとどむる

毎年七月十七日祭礼、俗にひやうり祭といふ。ひやうりは試楽のひやうしをいふなり。又八月十八日祭礼ありて、前十七日を試楽といふ。公より社領御寄付、領主も尊敬有りて、当所第一の神社なり。中臣の神社ゆゑに春日大明神と称するなるべし。」

 

そうか、どっちも式内社か……。

天武天皇」が吉野から東国(尾張)に行く途中に当たるのか……しかし、「三種の神器」が垂迹というのは、本当にどこから引っ張ってきた話なのか……。

 

○こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯 第7編,大日本名所図会刊行会,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第1輯 第7編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-05-09)

 

同じ名所図会でも、『東海道名所図会』はどうでしょうか。

p286です。

 

「桑名神

同駅宮通の北にあり。[延喜式]に云く、桑名神社ニ座。例祭七月七日。石取神事といふ。又七月十七日ヒヨウリノ神事、八月十八日大祭禮。

祭神 三崎明神・神秘・ 春日明神。

摂社 大山祇神木花開耶姫命

母山祠 祭神大己貴命、地主神とす。

末社 神明・熊野・若宮八幡・多度・酒解神荒神・白山・獅子・住吉。

神宮寺 行基の草創。仏眼院と號す。

当社は波母山地主神とす。日吉山王大宮神社なり。延喜式内桑名神社とはこれならん歟。又三崎明神をいふにや。其後 伏見院御宇正応三年、南都より春日明神を桑名益田庄桑部村に移し、同帝永仁三年八月十八日、益田庄より加良洲の内此母山の社地に移す。」

 

似ているようで、ちょっと違います。

「みさき」というのは、シンプルに考えれば「岬」で、「御先」なわけで、水上に突き出した地形を指しているのでしょうから、「みさきにあった神社」で「三崎明神」(「三崎神社」)なのではないでしょうか。

呼ばれ方として、「桑名神社」とどっちが先なのかはもうわかりませんが。

気になるのは、ほとんど水神の気配がないことでしょうか……岬の神様なんて、ほぼ水神(あるいは航海神)の属性を備えているはずですが、祖先崇拝で「天津彦根命」と「天久々斯比命」を持ってきている。

伊勢国なので、「神宮」の威光を借りた、ということも考えられます。

きっと、掘ってみると面白いことがたくさん出てくるのでしょうけれども、勉強が足らないのでこの辺りで……。

しかし、「ひやうり」とか「ひやうし」とかって何なんでしょう……きっと、郷土史家の方が調べていらっしゃると思いますが(「表裏」、試楽の「表紙」、「拍子」……うん、よくわかりません)。

「桑名城址」(三重県桑名市)

11/30。

比較的身近を攻めていない、と思ったので、この度は行ってみました桑名市

まずは、桑名城址」に行ってみました。

 

○こちら===>>>

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本多忠勝」像。

関ヶ原後に封ぜられました。

逸話と言ったら、「蜻蛉切」と「生涯一つの傷も受けなかった」という断片的なことしか知らないのですが。

 


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揖斐川の水を引いて堀とした、そうです。


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「鎮国守国神社」。

県社となっております。


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手水舎。


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牛。

ということは、天満宮があるはずです(記憶力……)。


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社殿。

まあ、何といいますか、寺ですね……。

それはそれで、江戸時代の様相を残している、と言えるかもしれないです。


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扁額。


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ちょっと下がってみました。


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向かって右から、裏の方に廻ってみます。


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瓦には葵。

桑名藩は「松平定綱」が封ぜられて、幕末には佐幕派筆頭、(高須)松平四兄弟の一人である「松平定敬」が藩主でした(兄弟には会津藩の「松平容保」がいます)。


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系図に、天守台跡の案内板。

水城、とまでは言えないのかもしれないですが、揖斐川氾濫したら大騒ぎですよね……。


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「戊辰殉難忠魂碑」。

独鈷杵なのか……。


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金属の灯籠。

ちょっと珍しい気がしたので。

 


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狛犬さんs。


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御祭神は「鎮国大明神(松平定綱公)」、「守国大明神(松平定信公」。

相殿も多め。

由来は、ちょっと調べないとですね……。


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紅葉越しに、狛犬さん。


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参道。


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「九華招魂社」。

六曜紋が、逆さになっているのは何故でしょう?

招魂社だからか……?


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ちょっと寂しげ。


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「高龗神社」となっておりますが、提灯には「御井社」とあります。

 

「藩祖松平越中守定綱公本丸に一井を掘り高龗神を崇め、本城鎮護・延命長寿・子授け・子育てを願い奉祀」

 

と案内板にはあります。


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地下水なのか、揖斐川の水を引いてきたのか。


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「大砲隊」。


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狛犬さんsその2。


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「鎮国稲荷神社」。

例によって、ぎゅっとされたようです。


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おキツネ様


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「宮光稲荷大明神」「稲荷神社」とあるのは、ぎゅっとされたうちの一つでしょうか。


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連続体の美。


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遠景。


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……カエル様。


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神戸櫓跡。

 

「戦国時代、この付近には伊藤武左衛門が治める東城があったとされる。織田信長の伊勢侵攻の時、伊藤氏は降伏し、東城は廃されたものと思われる。

文禄の頃(1592〜1596)一柳直盛が城主となると城郭が築かれ、その時伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれている。

江戸時代、初代藩主本多忠勝は城を拡張し、本格的な近世城郭を築いたが、神戸城の天守閣は櫓としてそのまま残され「神戸櫓」とよばれた。」

 

……そうです。

 

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急に大砲。

 

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うむ、晴れていれば良い景観。


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辰巳櫓跡。

 

桑名城本丸の東南角にあり、三重櫓であった。

元禄十四年(1701)天守閣が消失し、再建されなかったので、以後はこの辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在であった。このため、明治維新の時、降伏のしるしとして新政府軍に焼き払われた。

現在大砲が置かれているが、由来等は不詳。」

 

……ってことは、誰か勝手に置いていったのか……。

 

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天気が良ければ……しかし本当に水城ですね。


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案内板。


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桑名城絵図。

 

桑名城の沿革

戦国時代、この付近には伊藤氏が支配する東城と呼ばれる城がありました。戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され信長の家臣滝川一益(かずます)の支配を受けました。豊臣秀吉の時代には、一柳右近や氏家行広が治めました。

桑名城に初めて天守閣が築かれたのは文禄四年(一五九五)で、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれています。

桑名に本格的な城郭が築かれたのは慶長六年(一六〇一)です。徳川家康関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しました。忠勝は東城があった所を中心に縄張りを行い、近世城郭を造りました。同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し町の守りとしました。忠勝の行ったまちづくりを「慶長の町割り」と呼びます。

桑名城揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができました。天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが元禄十四年(一七〇一)の大火で焼失し、以後は再建されませんでした。門や櫓の数は多く、享和三年(一八〇三)の記録には、本門や路地門などを合わせて六十三ヶ所、櫓は九十五ヶ所とあります。

しかし幕末戊辰の役(一八六八)の時、桑名藩は旧幕府方に付き、藩主松平定敬(さだあき)は東北地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏しました。その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。新政府軍は天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓(略)を焼き払い、桑名城落城のしるしとしました。その後桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされました。」

 

なるほど…

 

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御城印。

確か、桑名駅近くにある、観光案内所でいただいたんだったと思います。

 

さて。

お城に関しては、案内板に書かれているのを見れば(とりあえずは)事足りるようにも思いますが。

あと、城というのは当たり前ですが、江戸時代には藩主なりが住んでいたので、名所図会等の観光案内に、そんなに詳しく書かれては困るわけです。

ということで、

 

○こちら===>>>

『現在之桑名』,日新書房,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション

現在之桑名 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-04-24)

 

比較的新しめの本から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p31です。

 

「○鎮国神社、守国神社

二社相殿にして旧城址御本丸に在り。明治十三年十月県社に列せらる。鎮国神公諱は定綱初名定清又定治又定信とも称し俊峰と号す、徳川家康公の異父弟松平隠岐守定勝公の第三子なり。慶長十年四月越中守に任ず、同十九年の冬及元和元年の夏大阪に出陣し、夏の役殊功あり、寛永十二年桑名に封ぜられ、十一万石を領し海道第一の名将と称せらる。爾来城郭を修補し文武を励まし、深く民政に注意す。元和八年将軍家光公日光社参のとき本多上野介の逆謀あり、神公途中にて将軍と駕籠を交換し、将軍に代て宇都宮城に臨み、事故なく江戸に帰りしを以て其まま駕籠を下賜せられ子孫に傳ふ、是所謂黒塗の棒とて他藩に比類なき名誉の駕籠なり。慶安四年十二月二十五日病を以て薨す。御年六十。江戸深川霊岸寺に葬儀を行ひ、遺骨を桑名照源寺に蔵む。寛政九年奥州白河城内に崇祀し、後桑名に遷座す。

守国公諱は定信字は貞郷旭峰と号し、致仕の後は楽翁と称す。中納言田安宗武郷の第七子にて、幼名を賢丸と云ふ。安永三年台命を以て松平越中守定邦公の嗣となる。時に御歳十八。天明三年越中守に任ず、襲封以来深く心を国政に用ゆ。同七年六月侍従に任じ、加判の列上座を命ぜらる。即老中の首席なり。同八年将軍輔佐の職を命ぜられ、又内裏造営の総督を命ぜられ、其歳五月上洛して天顔を拝す。寛政四年には海防の総督を命ぜられ、翌年伊豆、相模、安房、上総等の海岸を巡視す。最初執政に任せられしは御年三十なりしが、爾来七年幼主を輔佐し、旧弊を改革し賢を挙げ奸を退け綱紀大に張る。辞職四度に及び、寛政五年七月之を許され、左近衛権少将に推任、溜の間詰を命ぜらる。文化九年致仕を乞ふこと再度に及び◼︎に之を許さる。時に御歳五十五。文政十二年五月十三日病で薨す。御歳七十二。江戸深川霊岸寺に葬る。後天保五年鎮国神公の相殿に崇祀す。」

 

元々、本丸内に祀られていたようですが、いわゆる霊廟というか、御霊屋、としてだったのでしょうか。

それを神社と呼ぶかどうか、はいろいろとあるでしょうけれども、仏教的な位牌と仏壇だけでなく、こうした祀り方もあったのだということは覚えておきたいものです(故人の神格化、と言うと何だかあまりいいイメージではないですが、意識としては仏壇と変わらないように思います)。

さて、桑名をちょっとだけぶらっとしますよ。