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広島でのよんどころない祝祭が終わり、大阪で別のよんどころない要件があったので、そそくさと新幹線にて移動。
まだ時間があったので、どこかへお参りを、と思っていて、前回の大阪巡りで見落としていた「露天神社」へ行ってみることに。
○こちら===>>>
梅田駅から歩いた(と思う)のですが、案内があるのにちっとも方向がわからず、最終的にスマートフォンの地図アプリに頼りました。
最初にこれが見えて、「ああ、こりゃ……大丈夫かな」と思いました(?)。
ビルの脇から境内に入ると、とりあえずお初と徳兵衛が。
正面に回ってみたら、大丈夫でした(?)。
繁華街の近くに埋もれているような絵です。
参拝客は多く、地元の鎮守でもあるのだろうなと思わせました。
境内案内図。
私の入ってきたのは「北門」です。
「御祭神 (御本社)
(境外地) 夕日神明社碑
社伝によれば、創建は壱千百余年を遡り、文徳天皇の御代、嘉祥三年(850年)に定め給いし「難波八十島祭」の旧蹟にも数えられ、「住吉住地曽祢神」を祀ると伝えられる。往地此の地は曽根洲と称する孤島にて、曽根洲、後の曽根崎の地名はこの御神名より起こる。
平安期、渡辺十郎源契来たりて入植せしより、渡辺氏一族を始め移植の民次第に増し、曽根崎村へと発展し、当社も産土神「曽根崎天神」として尊崇された。現在も梅田、曽根崎地区の鎮守として信仰を集めている。
昌泰四年(901年)菅原道真公筑紫に左遷配流の途次、当地を過ぎ給う砌、境内の草木露深ければ、
露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを 想い出づれば
と詠ぜられ、菅公太宰府にて御他界の後、その遺徳を偲び奉り合祀し、右の御歌より「露ノ天神社」と称する。 (社名の由来その他諸説あり)」
……このあとは、『曽根崎心中』との関わりを書いているのですが、柱が邪魔で、一つの文章がまるっと読めないのでパス。
神社でいただいた由緒略記によれば、
「社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀りご鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。
創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥三年(850年)にまで遡ることができ、六世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。
なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。
南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。
以後、明治七年(1894年)の初代大阪駅、明治三十八年の阪急電鉄梅田駅の開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。」
とのことです。
「当 水天宮は寛政九年六月 大阪 中之島 久留米藩蔵屋敷内に祀られ、藩主 有馬公殊に尊崇し給いしものなり。
明治維新に際し、蔵屋敷は朝廷に返上せられ、御神霊は丸亀藩蔵屋敷の金刀比羅宮に合祀せられしが、丸亀藩蔵屋敷も上地となり、共に高松藩蔵屋敷の金刀比羅宮に遷し奉り、後、堂島中二丁目に遷座せらる。
明治四十二年「北の大火」の際、該社も被災し、当地に露天神社の境内社として斎祀せらるに至る。
明治天皇御降誕の砌、孝明天皇其の御安産を御祈誓あそばされ、無事御降誕の後、当水天宮(久留米藩蔵屋敷内)へ鳥の子餅を御奉納ありしと伝える。
尚、東京水天宮は文政元年十一月に御鎮座せられしものにて、当社は之れより二十一年以前に祀られたり。
御祭神 天之御中主大神、安徳天皇、大物主大神、崇徳天皇、住吉大神他二柱
(以下略)」
「天下の台所」ですから、諸大名の屋敷はありませんが、かわりに蔵屋敷があったのですね。
○こちら===>>>
さすが大阪、「水の都」、水に関する神様がおそらくたくさん祀られていたんだろうなぁと思いつつ、
「尚、東京水天宮は文政元年十一月に御鎮座せられしものにて、当社は之れより二十一年以前に祀られたり。」
↑元祖・本家合戦をしなくてもいいのに……とちょっと思いました。
「難波(夕日)神明社
社伝が西向きでありしをもって「夕日ノ神明社」とも通称されたこの神社は、平安時代初期・弘仁十二年(821年)二月 嵯峨天皇の皇子 河原左大臣 源融公が、葦草茂る中洲(現在の曽根崎一丁目付近)に皇大神宮を祀られたのが始めと伝えられている。
往時はこの地を「大神宮の北の洲」または「神明の鼻」と称し一帯をもって境内地としていた。
付近(現、西天満三丁目)の旧町名「伊勢町」の起源といわれる。
文治年間(1185〜1189)には「源義経公」より願書と共に寄付物が奉納されたと伝え、後醍醐天皇の御代には勅願所となり度々行幸の栄を受け、江戸期に至りては、大阪城代及び両町奉行の参拝者となり境内も広大であった。
また旧暦六月一日には、氷室に貯蔵の氷を配り「はやり病の無事息災」を祈願したという。この神事を一般に「氷の朔日」と称し、近松の『心中刃氷朔日』の題材になったという。
かつては西向きの当「夕日ノ神明社」・東向きの「朝日ノ神明社」・南向きの「日中ノ神明社」をもって「大阪三神明」として崇敬された。
しかし、天保五年(1834年)七月十一日・明治四十二年の「北の大火」と両度被災炎上し、復興叶わず明治四十三年露天神社に合祀された。
現在旧社地には「神明社旧跡」の碑が建立され往時を偲ぶよすがになっている。」
「大阪三神明」 とはまた素敵な……。
寡聞にして知らなかったものですから、とりあえずwikipediaさんより。
○こちら===>>>
↑「東向きの「朝日ノ神明社」・南向きの「日中ノ神明社」」です。
機会があったら巡りたいですね。
郷社だったんですね。
賑わっていたと思われますし、由来も古いようなのに、社格としては今ひとつ……まあ人間のカテゴライズなんてそんなものでしょうか。
「御井社・祓戸社
御祭神
御井社 古くより露ノ井と称され、人々の暮らしを支え信仰の対象でもありしこの御井に坐す神
祓戸四柱ノ大神 瀬織津比咩大神・速開都比咩大神・気吹戸主大神・速佐須良比咩大神 軽重様々、全ての罪や穢を祓え給う神々
社伝直下の御井は、往時四天王寺の亀の井・清水寺の井・二つ井戸等と共に「浪速七名井」の一つなりと称され、梅雨時期には清水が井戸縁より湧出せし、という。
名井「露ノ井」として当社社名の由来の一つともいわれ、周辺地域を始め、社地前旧池田街道を行き通う人々の貴重な清水であった。
現在では、地下鉄各線や高層ビル群の建設等により、地下水脈が分断され水位が著しく低下している。」
うーん、これはかなりのワンダーランドですね。
自然、古代からの歴史、近代の悲劇、と勢ぞろいしています。
あ、さっきと同じ案内板だ。
では、一番後ろをここから引用。
「元禄十六年四月七日堂島新地天満屋抱えの「お初」と、内本町醤油問屋平野屋の手代「徳兵衛」、当社「天神の森」にて情死し、日を置かず時の戯曲作家「近松門左衛門」により「曽根崎心中」として劇化された。
以後上演の度、男女身分の差無く多数の民衆感激し、挙って当社に参詣慰霊に訪れたと云う。
「お初天神」と通称される所以である。」
この、本殿向かって右にあるのが、「開運稲荷社」と「曽根崎心中ゆかりの地」。
この辺りだけ華やかというか……むしろ、ほかが地味なのがおかしいのか(大阪だし<偏見)。
由緒略記によれば、「開運稲荷社」は、
「御祭神 玉津大神、天信大神、融通大神、磯島大神」
で、
「明治四十二年「北の大火」によって近在各地に祀られていた四社の稲荷社が烏有に帰した。
翌明治四十三年に当社境内地に四社を合祀し御奉斎申し上げた。古くは皮膚病の治癒を願って「鯰」の絵馬が多数掛けられ、お百度を踏む人々で混みあうほどだったと伝えられている。」
だそうです。
「恋人の聖地」になっています。
「恋人の聖地は、官公庁後援のもと、NPO法人地域活性化支援センターが、地域を代表する公共性を有する観光施設などを中心に、プロポーズにふさわしいロマンティックなスポットを選定しているものです。」
……みんな、騙されるな、政府の陰謀だ!!
ロマンティックではありますが、プロポーズにふさわしいのかなぁ……。
かつて三原山に投身自殺したことが記事になると、こぞって後を追う人がいたといいますが。
こちらにはそういった不吉なものはないんでしょうか(あまり聞いたことはないですが、ある時期から心中が増えたらしいです……)。
大都会大阪の都心にひっそりワンダーランドでした。
詳しく調べるといろいろ面白そうです。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第5編摂津名所図会
↑の記事から引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
249コマです。
「露天神
曾根崎にあり。世人曾根崎天神と稱す。祭神菅公。例祭九月二十日。傳に云く、むかし菅公筑紫へ謫遷の御時、福島に船泊し給ひ。大融寺佛詣あらんとて、船頭茂太夫案内者となる。此道のほとり露いと深くありければ、菅公御神詠に
露と散る涙に袖は朽ちにけり都のことを思ひいづれば
是より露天神の號あり。又老松祠あり。總じて此邊を俗に北の新地・堂島新地というて、宝永五年の開地なり。常に賑しく、夕暮より両側には軒の懸行燈かがやかして、紅顔雪肌の輩ゆききして。楼上には琴曲絲絃の音麗しく、芝居あり、射場あり。西の町端を編笠茶屋というて、江鮒を製して雀鮓と名づけ、名産とす。みな是天満つる神の餘光なるべし。」
案外あっさりとした記述です。
「常に賑しく、夕暮より両側には軒の懸行燈かがやかして、紅顔雪肌の輩ゆききして。楼上には琴曲絲絃の音麗しく、芝居あり、射場あり。西の町端を編笠茶屋というて、江鮒を製して雀鮓と名づけ、名産とす。」……という感じからして、当時から繁華街だったんだなぁと思えます。
そして、心中事件にぴくりとも触れていないところがまた……悲劇ではあっても、幕府としては心中は取り締まり対象でしたから、観光案内でもある「名所図会」でおおっぴらに触れられるものではなかったようです。
↑の「解説」によれば、
「作者近松が聞いたというのは、その年四月七日夜、大阪梅田曾根崎天神の森であった心中の咄なのだが(『摂陽奇観』)、それについては、翌宝永元年刊の『心中大鑑』に伝えがある。男は内本町端詰の醤油屋平野屋忠右衛門の手代、ただし忠右衛門の兄の子つまり甥でもあった徳兵衛。女は堂嶋新地新茶屋町天満屋抱えの遊女おはつ。徳兵衛はおはつに通い詰めていたが、にわかに忠右衛門の養女と縁組した上で江戸店を任されることになった。そうなるとおはつとは逢えなくなるので天満屋に駆付けると、おはつも豊後の客に身請けされることが決まったところ、という。同じ思いの二人はその夜のうちに脱出して心中した。ーー小説ではあるけれども、ここに抄出した限りでは事実を伝えていると考えられる、『心中大鑑』の記述を参照すれば、「曾根崎心中」も事件の輪郭をほぼ写していることは明らかである。それは、時代を過去に設定し、歴史的な伝承を題材とするのを常としてきた浄瑠璃の歴史にあってはいかにも斬新な作劇法であったので、特に世話物として区別された。「世話」とはその場合、世間咄のことであったようだから、芝居としての世話物はそれの劇化を意味することになる。また世話物はやがて時代物に対して言われることになるから、当(現)代性ということを特に加えてよいであろう。」
『摂陽奇観』という本は国会図書館デジタルコレクションにあるのですが、当該記事を発見できなかったもので、解説から抜粋させていただきました。
「時代を過去に設定し、歴史的な伝承を題材とするのを常としてきた浄瑠璃の歴史にあってはいかにも斬新な作劇法であったので、特に世話物として区別された。」……当時の幕府は、同時代性を禁じていました。
実際の事件に取材して芝居を書くことはいいのですが、それが徳川幕府治世下で起こったことである、と書くことはだめだったのです。
そこで、「時代を過去に設定し、歴史的な伝承を題材とする」という作劇法が生まれました。
ご存知の方も多いと思いますが、例えば『仮名手本忠臣蔵』というのは、当時にあっても大事件で、作家がそれに触発されないわけがないのですが、何しろ幕府の取り締まりは厳しいものですから、このお話も「時代を過去に設定し」て、もちろん登場人物の名前も変えられているわけです。
年末時代劇などで『忠臣蔵』に馴染んでいる世代だと、『仮名手本忠臣蔵』の「大星由良之助って誰だよ?」と思っちゃうかもしれません。
その作劇法に対して、「世話物」というジャンルは、同時代性(例えば、無人探査機「はやぶさ」が帰還すると、それにまつわる映画やドラマが大々的に公開される、という感覚でしょうか)があったのです。
ただ、それが厳密に「同時代」だったのか、はわかりません。
何しろ「同時代性」を描くと、お縄になる可能性があるのですから。
となると。
「時代物」が、時代を「過去」に設定しながら、観客に対しては「わかりますよね?」と言っている(=時代が違うから、取り締まりの対象ではない)のと同様に。
「世話物」は、具体的な時代には触れずに、ただ今と同じような街(大阪)を描写することで、観客に対しては「わかりますよね?」と言っている(=時代がはっきり表現されていないので、取り締まりの対象ではない)のでしょう。
どちらも、観客の「暗黙の了解」を前提とした、ある意味では観客を共犯者に仕立て上げて、最初から「第四の壁」を曖昧にしなければ成立しないお芝居だった、のかもしれません。
ま、私は浄瑠璃も演劇も全くわかりませんので、適当なことを書いてみました。
さてさて。
案内板や由緒略記にも載っていたのですが、
「社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀りご鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。
創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥三年(850年)にまで遡ることができ、六世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。」
だそうです。
で、この「須牟地曽根」なんですが、摂津国住吉郡の式内社にあるんですね。
○こちら===>>>
↑289コマ。
「須牟地曾禰神社
須牟地は前に同じ、曾禰も仮字也、○祭神曾禰連祖神歟、比保古同じ ○南花田蔵前村に在す、今勝手社と称す、河内国八上郡に隷す、 摂津志○姓氏録、左京神別上 曾禰連、石上同祖、同、右京神別上 曾禰連、神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也、同、 和泉国神別 曾禰連、采女臣同祖(略)」
「須牟地は前に同じ」というのは、それより前の「中臣須牟地神社」の記事で、
「須牟地は仮字也、和名鈔、郷名部 住道、須無知」
と書かれていることを指しています。
「須牟地(すむち)」は、「住道」のことだ、というわけです。
○こちら===>>>
↑106コマ。
「八十島祭」については、
○こちら===>>>
「生國魂神社」(補)〜大阪めぐり - べにーのGinger Booker Club
「生國魂神社」(補々)〜大阪めぐり - べにーのGinger Booker Club
↑で触れましたが、『官幣大社生国魂神社誌』の引用を再度掲載しますと、
「【神祇志料 五】
八十島祭、蓋住吉神、大依羅神 各四座 海神、垂水神、住道神 各二座 を祭て、狭國は広く峻國は平けく、島の八十島墜る事なく依し奉る事を祈る、故之八十島祭と云、
延喜式 文徳天皇嘉祥三年宮主占部雄貞、神琴師菅生朝臣未繼、典侍藤原朝臣泉子、御巫榎本連浄子を摂津國八十島に向はしむ、八十島祭蓋此に始まる、
文徳実録 延喜の制、御巫、生島巫、及史、御琴師 一人 神部 二人 内侍、内蔵属 一人 舎 二人 を難波津に遣して此祭を行ふ、住吉神祝、大依羅、垂水、海、住道祝等又之に預る、中宮、東宮共に此祭あり、
延喜式○中略 朱雀天皇承平三年、典侍滋野朝臣縄子 (略) 難波津に至て八十島祭を行ふ、
日本紀略 此後天皇即位の後一度此祭を行はるるを恒例とす、日本紀略、左経記、西宮記、江家次第、
○按日本紀略冷泉帝安和二年の後、此祭みえざるは絶たるにはあらず、恒例なればなるべし、」
と、「住道神」が祀られる対象として登場します。
ところがここに挙げられている神々は、式内社に祀られているのですが、どうも住吉郡(今の住吉区等)に固まっており、今の曽根崎や梅田辺りの神社ではなさそうなのです。
ですから、式内社としての「須牟地曾禰神社」と、「露天神社」が主張している曽根の鎮守神とは、別のものと考えなければいけないようです(現に、なぜか「露天神社」は式内社とは言われていませんし、論社でもないようです)。
ということは、今の「露天神社」にあった神社が、「須牟地曾禰神社」に分祀されたのか。
あるいは逆に、「須牟地曾禰神社」から遷されたのが「露天神社」だったのか。
さて、どちらなんでしょうね……多分、「須牟地曾禰神社」から、今の曽根崎に遷されたと考えるのが妥当なのかと。
「須牟地曾禰神社」は明らかに住吉系の神のようですので。
それに、「曽根崎」の語源が、「須牟地曾禰神社」にある、って言ってるんですからまず「須牟地曾禰神社」ありきでしょう。
ただ、どうして移ってこられたのかはよくわかりません。
「八十島祭」と関係あるのかないのか……関係あるとしたら、「住吉大社」はともかく、他の神社が移ってきてもいいんですよね。
うーん……。
これ以上は脳みそがパンクします。
さてさてさて。
○こちら===>>>
↑どこかで見ました「難波之古図」ですが、この図の中央からやや左より、「座摩社」の対岸に「神明の鼻」と書かれており、これが 「夕日神明社」の案内板に書かれていた、
「平安時代初期・弘仁十二年(821年)二月 嵯峨天皇の皇子 河原左大臣 源融公が、葦草茂る中洲(現在の曽根崎一丁目付近)に皇大神宮を祀られたのが始めと伝えられている。」
「皇大神宮」のことです。
「露天神社」は載っていません。
ということは、曽根崎では明らかに、「源融公」が創建した「皇大神宮」の方が有名だったんでしょう。
そのあとで、「須牟地曾禰神社」が遷ってきたので、この辺りが曽根崎と呼ばれるようになった。
そして、由緒略記にあった、
「南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。」
となって、「露天神社」の勢力が大きくなった、と。
でも、「渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)」と、「源融」の末裔なんですから、先祖が開いた「皇大神宮」を盛り上げていけばいいような気もしますが……。
また、「源融」が、西向きに社殿を作ったのは、もちろん日の出の太陽を拝むためでもあったのでしょうが、東方には「伊勢神宮」がありますから、そんな理由もあるのでしょう。
ただ、「浪速之古図」を見ていただくとわかりますが、曽根崎の付近は明らかに島ですし、室町時代でそうなのですから、「源融」の頃にはもっと小さな島だった可能性もあります。
なんでそんなところに「皇大神宮」を祀ったんでしょうね……。
うーん、大阪は、実は謎だらけのワンダーランドなのです。
そういう視点で見ると、浪速も随分違った印象です。
今回は、巡りと言いながら一箇所だけですが、また機会があればあちこち巡ってみたいものです。
「露天神社」が超メジャーになったのは、心中事件と『曾根崎心中』のおかげです。
結局、近松門左衛門様々、ということなんでしょうか。
うーん、正体のわからない神社だ……。