べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「真清田神社」(再)(一宮市)

4/29。

「石刀神社」の参拝を終え、もうすこし近隣を巡ってみたかったのですが、どうにも車を停めるスペースが見つからず……コインパーキングもないので、やむなくお久しぶりの「真清田神社」へ。

 

○こちら===>>>

www.masumida.or.jp

 

以前に出かけたときの記事は、

 

○こちら===>>>

「真清田神社(ますみだじんじゃ)」 - べにーのGinger Booker Club

一宮駅周辺〜「大神神社(おおみわじんじゃ)」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑です。

3年前ですね。

まだまだ記事があっさりしていた頃です……。

 

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ちょうど何かのイベントで雅楽が奉納されておりました。

鯉のぼりがかなりいい感じではためいておりますね。

風が強かったのです。

 

以前は境内しか回らなかったので、周りをぐるりと回ってみよう、と思いまして。

とりあえず、鳥居の前の通りを東に向かい、

 

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松降の交差点からしばらく北に向かうと、四角にあります「古守神社」。

蕃塀に末社も備えた、かなり立派な感じですね。

お旅所の役割もあったりするのでしょうか(あ、適当なこといってます)。

 

そのまままた、4ブロックくらい北上しますと、

 

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「山子社」です。

こちらもきちんと整備されていますので、祭礼時にはなんらかの役割を果たすものと思われます(調べなさいよ)。

 

「山子社」の前の道を西に向かい、「真清田神社」の裏あたりまできますと、

 

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神明社」。

こちらも整備されています。

この他にも、周囲には境外摂社末社と思われる神社が見受けられます(今は、グーグルマップを航空写真にしてみると、鳥居の影が写っていたりするので、みなさんも探してみてくださいね)。

また別の機会にぐるぐるしてみたいと思います。

 

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前の御朱印とは、墨字の様子がちょっと違う気がします。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第9編尾張名所図会

 

↑いつも通り『尾張名所図会』から引用してみたいと思います(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

195コマです。

 

正一位眞墨田神社

一之宮村に立たせ給ふ。当国の一の宮と称す。[延喜神名式]に、中島郡真墨田神社 名神大 とあり。 式印行本に墨を黒に誤る。 [本国帳]に正一位真墨田大明神としるせり。夫当社の鎮座は、年暦久遠にして、詳ならずといへども、社説に、神武天皇三十三年癸巳三月三日、松降荘青桃丘 今の一の宮村なり。 に御鎮座なりといへり。抑此御神は、天神七代のはじめ、百王太祖の国常立尊にて坐す。尊神常に天地の中に独立ちて、萬物を化育て給ふにより、天御中主尊とも称し奉りて、天地の間、生きとし生けるもの、此御神の霊徳に洩るるはなし。されば往昔御鎮座のはじめより、荘麗たる宮殿、大小の神祠、常盤堅磐に弥栄え、神門・鳥居にいたるまで、老杉古松の中に毅然として立たせ給ふ。故に[延喜式]にも名神大社の列にえらばれ、当国の大社五箇所のうち、第一の宮たる事分明にして、神徳のほど仰ぐにも猶あまりあり。

(略)

[家集]
其ころ国人はらたつ事ありて、田もつくらじ、種とりあげほしてんといふとききて、又ますだの御社といふ所にまうでたりしに、神に申させし

賎の男が種ほすといふ春の田をつくりますだの神にまかせん  赤染衛門

かくてのち田みなつくりてきとぞ。

今案ずるに、真墨田をますだとよめるは、武蔵の隅田川をすだの川といへるに同じからん。

[十六夜日記]
一の宮といふ社を過ぐるとて

いちのみや名さへなつかし二つなくみつなき法を守るなるべし  阿佛

本社 祭神は卜部兼熙の[大日本国一宮記]に、真墨田神社は真清田大明神是也。大己貴命尾張国中島郡と見えたり、社説には国常立尊天照大神・月読尊・大己貴命・大龍神を合せ祭るといへり。されど[神祇宝典]に国常立尊也。当社祭二神。所謂天神七座・地神五座とかかせ給へるを誠の祭神とすべし。真清田清圓が[探桃集]に、尊神鎮座之時・乗八頭八尾大龍 と見えたり。合殿に大龍神を祭る事は、これによれるにや。又僧惟高が[臥雲日件録]にも、嵯峨天皇の御宇、弘法大師雨を龍神に祈りし時、彼龍神、尾張国真清田宮森木の中に居らん事を乞ひて、此宮に飛び来る。弘法曾てここにおいて秘法を行ひしよししるせり。これらの縁によりて合せ祭れるか。
渡殿 祭文殿 廻廊 瑞牆 日之門 月之門 拝殿 勅使殿 宝蔵 左右楽所 御饌殿 斎館 透垣 西門 神馬厩 御旅所 一之鳥居。
楼門 南面にあり、閣上の扁額『真清田大神』とあるは、[探桃集]及び[集古十種]に 聖武天皇宸翰とあり。故に勅額門ともいふ。
境内末社
熊野社 白山社 愛宕社 三明神社 厳島社 愛鷹社 浅間社 富士社 天神社 八百萬神社 共に本社の南西側にあり。
子守社 住吉社 新厳島社 新愛宕社 共に本社の東にあり。
白旗八幡社 楼門の外の東南にあり。伊豫守源頼義朝臣陸奥の安部貞任を追討の時、当社に結願ありしが、勝利を得られければ、帰洛の時此八幡社を勧請ありて、白旗を村北の川にて洗ひ、奉納ありけり。故に里人白旗の社ともよべり。 その川を旗川といひしが、後世あやまりてわた川といへり。 その外末社殿宇・四境の神門・鳥居等多かりしが、盡く廃したり。そは享禄の頃の古図に備りたるを見てしるべし。

(略)

別宮 大神神社。花祇天王社。神明社。 社の東に流あり。昔は此流大にして、潮満ちたるよしいひつたへ、今此社地に船つなぎ松とて大樹あり。 神戸神明社。子守社。 神主家及び社輩中の祖神をまつれり。 大國霊社。御供田社。更屋敷社。斎宮社。貴船社。三ツ石社。熊野社。山子社。浅間社。牛野社。東小島社。西小島社。印田社。白山社。四峯社。両郷寺社。 境内に連理樫あり。 松尾社。八王子社。八百萬社。天王社。 共に同村の内所々にあり。」

 

鎮座の年代に関しては、

 

「夫当社の鎮座は、年暦久遠にして、詳ならずといへども、社説に、神武天皇三十三年癸巳三月三日、」

 

ということになっています。

日本書紀』的に「神武天皇」の在位は70年以上に及んでいますから、ちょうどその真ん中くらいということ、にしたいと。

ちなみに在位三十一年に、国見が行われています。

途中、赤染衛門や阿仏尼の歌の引用などもありまして、「祭神」大己貴命だったり、社説には国常立尊天照大神・月読尊・大己貴命・大龍神」だったり、国常立尊也。当社祭二神。所謂天神七座・地神五座」だったりしています。

現在の公式の御祭神は「天火明命」で、いわゆる尾張氏の祖神、ということになります。

国常立尊」というのは、記紀神話の日本創生で登場する神で、『日本書紀』では、一書(異伝)の全てに登場することから、かなり普遍的な神だったのではないかと考えられています。

一方で、だからこそ新しく作られたのではないか、とも思われるのですが(それぞれの氏族が、創生神話を語る上で必要としていた祖神に、共通の名前を与えたのかも)。

描写としては、混沌とした海にプカプカ浮かんでいたモノの中から化生した、と捉えられますので、浜辺、葦辺、島が多かった古代日本の環境で、「様々なものが寄り集まって大地ができた」と発想した人々がおり、そこで名前を「クニ(大地)のトコ(底)からタチ(生成される)上がる」とした……と考えると何かすっきりします。

 

 

すっきりしすぎでも怪しいですね。

 

 

ともかく、『日本書紀』『古事記』成立の時代(ということは、伝承としてはそれ以前)から知られていた神です。

そんな方を主祭神にする、というのもなかなか大胆ですが、他にも祭神と考えられている神々がおり、実態がよくわかりません。

 

「真清田清圓が[探桃集]に、尊神鎮座之時・乗八頭八尾大龍 と見えたり。合殿に大龍神を祭る事は、これによれるにや。又僧惟高が[臥雲日件録]にも、嵯峨天皇の御宇、弘法大師雨を龍神に祈りし時、彼龍神、尾張国真清田宮森木の中に居らん事を乞ひて、此宮に飛び来る。弘法曾てここにおいて秘法を行ひしよししるせり。」

 

↑この辺りはかなり後世に加えられたものですが、背景に蛇神信仰の残滓が見られるとするならば、「大己貴命」というのもあながちハズレではないのかもしれません。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 8 中島郡

 

↑はどうかといいますと(38コマ)、

 

「眞墨田神社

今は一宮大明神と申す 延喜式の印行本に眞黒田神社 名神大 と書て墨を黒とす やはりマスミタと訓てよかるへし 美濃国各務郡に村國眞黒田神社といふ式社も同例也 本国帳に正一位眞墨田大明神と記せり 一宮と申事もいと古く十六夜日記康富記なとに其名見えたり  本国帳集説に眞神田朝臣大神朝臣等祖神■といへるは今案の説にて證としりたきにや 社説に國常立尊天照大神月読尊大己貴命を合せ祭るといへり 卜部兼熙の大日本國一宮記には眞墨田神社眞清田大明神是也大己貴命尾張國中島郡と見え神祇宝典に國常立尊也当社祭二神所謂天神七坐地神五坐也と書せたまひたるを眞の祭神とすへし 赤染衛門の家集にますたの神とよみしは眞清田にて此社なるへし 続日本後紀に承和十四年十月癸酉奉授尾張國無位大縣天神眞清田天神二前并従五位以下と見え文徳実録に仁寿元年十一月辛巳詔以尾張眞清田神列於官社また同書類聚国師史ともに同三年五月辛亥尾張従五位上眞清田神授従四位下と記し三代実録に貞観七年廿六日乙巳授尾張従四位上眞清田神正四位上と見えたり。

本社 南面  楼門 南面にあり閣上の額は弘法大師の筆にて眞清田大神とあり近年誤りて勅額といふ 勅使殿 拝殿 楽所 左右 御供所 御旅所 神馬舎 祓殿 鼓楼 末社 神明社 玉垣の内西の方 足高社 犬飼社 厳島社 愛宕社 三明神社 白山社 熊野舎 富士浅間社 天神社 ともに本社の西の方にあり 住吉社 新愛宕社 新厳島社 ともに本社の東の方にあり 境外末社 天王社 有合にあり 権現社 日比の山にあり 八幡社 四峯にあり 斎宮社 杉戸町にあり 神明社 三ついしにあり 神明社 横町にあり 國玉社 小島にあり 古守社 東むらにあり 濱神明社 神明津にあり 天王社 北石野にあり 八王子社 両江寺といふ處にあり 若宮社 新屋敷にあり 貴船社 御船山にあり 神明社 浅間社 ともに牛野にあり 神明社 印田にあり

 

……うーん、あまり変わりないですね。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑ではどうかといいますと(388コマ)、

 

「眞墨田神社 名神大
(略) ○祭神火明命、 一宮記大己貴命と云り ○松降庄一宮村に在す ○当国一宮也 (略)

宗廟社稷問答云、眞清田神社者、一宮記爲大己貴命非也、成務天皇朝以天別天火明命十世孫小止與命、定賜尾張国造、今所祭愛智郡知我麻神社者是也、先是尾張氏上祖等、歴世居当国、景行天皇日本武尊東征之日、所従師之建稲種命者、小止與命之子、而祭春日部郡内々神社、其神天香語山命者祭同郡尾張神社、凡尾張氏遠祖等所祭国内者三十餘座、其所出自遠祖天照国照彦火明神祭之中島郡眞清田神社、以称当国一宮、眞清田首、眞神田曾禰連、眞髪部造等遠祖也、此所以非国常立尊也、云々、此等説、元禄年中平時庸、源普甫、藤信景等、奉邦君之命撰尾張国郡志之日、點撿考索都鄙及金城文庫自他秘書而所記者如斯、 集説云、神記別録之、 張州府志云、社説曰、祀国常立尊配享天照大神、月読尊、大己貴命、未詳、又云、人物志補遺曰、眞清宮禰宜眞神田朝臣子孫断絶、中世■氏掌宮事、其後氏族佐分氏爲祠官 ○姓氏録、 大和国神別 眞神田首、伊香我色乎命之後也、同、左京神別上 眞神田曾禰連、神饒速日命六世孫伊香我色乎命男気津別命之後也、同、山城国神別、眞髪部造、神饒速日命七世孫大賣布乃命之後也(以下略)」

 

おっと、『宗廟社稷問答』なる書物が登場。

 

○こちら===>>>

宗廟社稷答問・儺追問答

 

国文学研究資料館へのリンクです。

序文を読むと、「元文」の年号があります(1736〜1740)。

『神社覈録』のほうをざっと読みますと、御祭神を「天火明命」とするのは『宗廟社稷問答』に寄っている、ような気がしてきます。

国常立尊」か、「天火明命」か、の論争はあったようですが、『神社覈録』が刊行された明治後期には、「天火明命」と説明されていることを考えると、神仏分離が関係しているのではないかと思われます。

日本武尊」、「建稲種命」、「小止與命」など、尾張地方に縁が深く、なおかつ尊皇の美徳伝わる神々ですから、明治時代には重宝されたのかもしれません。

うーん、味も素っ気もない解釈ですね。

社伝の神武三十三年鎮座が正しいかどうかはともかく、この地方では相当古くからの大社だったことは間違いないでしょう。

そうすると、「熱田神宮」周辺勢力との力関係なんかが気になってきますね。

順当に考えると、尾張氏の祖神が「真清田神社」にあるのですから、南下していった勢力が「建稲種命」や「宮簀姫」で、そこから東国への進出を狙っていたのか……つまり故郷は「真清田神社」、前線基地が「熱田神宮」辺り、ということではないかと思えてきますが、妄想ですので。

尾張国神社考』(津田正生/ブックショップ「マイタウン」発行)によれば、

 

正一位眞清田神社(略)

[集説云]松降荘一乃宮村 [佐分清多曰]續後紀。文徳実録竝に眞清田に作を證と爲へし [天野信景曰]祭神大国主命也。眞神田朝臣、大神朝臣等の祖神也 [正生考]一の宮。二の宮の名は、後世の俗語也。一二の字音あるべくもあらず [谷川士清曰]寛喜元年に諸国の一ノ宮の称見ゆ。二の宮の称も又其比よりの事なるへし [或人曰]志摩国一の宮も亦眞清田と唱へたり大国主神を祀る といふ [正生考]和名類聚抄にいへる中島郡美和郷は一の宮村を本拠と爲。それに添て北は三輪川の酒見神社より、西は南木、宮地花池、南は戸塚、妙興寺村、於保、氏永、國府輪までも及ぶ成べし。いまも御本社の乾の陌を杉戸といふ。杉門は美和に縁ありけん [或人曰]眞清田の本社は大国主、花池は大物主、大赤見の宮は、美國玉命と斎奉る、みな大名持神の別称也。国府の宮の祭神も大名持の命とも申また尾張大國玉とあれは、別神也とも申しき(略)」

 

ということで、全体の論調から、何となく「大己貴命」系の御祭神に持っていきたいのかな、という感じがします。

周辺も、「大己貴命」系の「大物主神」「美國玉命」などを御祭神とした神社で固めており、

 

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「尾張大國霊神社」(再)(稲沢市) - べにーのGinger Booker Club

 

↑それほど離れていない「尾張大國霊神社」との関係も考えてみましょうか、という感じにしてあります(とはいえ「尾張大國霊神社」の御祭神とは別かもね、とも書いてますが)。

しかし、そう考えると、「尾張大國霊神社」の社伝で登場する、「中島直天背男命」がほったらかしになりますけれどねぇ……広く中島郡という意味では「真清田神社」もその中に入っているわけで、「中島直」と姓を用いている「天背男命」のことが「真清田神社」の方に全く出てこない、というのが解せません……(まぁ「尾張大國霊神社」の伝承が新しい、という説明で終了なんでしょうが)。

尾張氏系の神社というのは、尾張北部から南部にかけて、わりと大きな神社も含めて点在しており(もちろん、「熱田神宮」も)、それら伝承を束ねて総社としての「大國霊神社」を作るのだとしたら、御祭神は尾張氏の祖である「天火明命」か、その子「天香山命」でしかるべしなんですけれど、「大國霊」という名前に引っ張られてか「大国主命」になってしまっている。

一方で、一の宮である「真清田神社」の方は、「国常立尊」やら「大己貴命」やらとありながら、実際には「天火明命」ではないのかという説もあり、尾張氏系の大氏神として考えればそれも妥当。

結局のところ、後世から見てみれば、「天火明命」だったんじゃないか、で落ち着くのでしょうか(?)。

あまり考察できておりません。

 

ところで、

 

○こちら===>>>

尾張古図と浪越伝説 - 名古屋市図書館

 

↑愛知県人なら誰もが(?)一度は胸熱くした「尾張古図」、私もさぞ本物だろうと思ってはいたのですが、縄文海進などを考慮しても、ここまで海水に浸かっていた時代はなかろう……というのが定説のようです(残念……)。

ただ、↑でも検証されていますが、ひょっとすると「洪水に見舞われた際の、象徴的な図絵」として描かれたのかもしれません。

今で考えれば内陸にある「津島」や、「真清田神社」のある「中島郡」などは、実際には木曽川水系の支流域の川べりにあり、その川がときどき氾濫をして、一時的な「中洲」を形成したことから、「島」の名前が残ったのではないか。

尾張名所図会』にありましたが、

 

「濱神明社。 社の東に流あり。昔は此流大にして、潮満ちたるよしいひつたへ、今此社地に船つなぎ松とて大樹あり。」

 

↑「真清田神社」末社の一つ「濱神明社」にあっては、昔は「流れが大きく、潮が満ちた」と言い伝えられており、船をつないだ松もあり、その名も「濱神明社」です。

これを海浜と考えず、河岸と考える、「津」(港)も全て海岸にあるわけではなく河岸にも当然あった、とすればどうでしょう。

そしてですね、そうした水害の多い地域で、なおかつ流されることなく中洲になっている場所だからこそ、神社の鎮座するにふさわしい、と考えられたとしたら……。

 

 

 

 

 

あ、なんか面白そうで、そうでもない話になってしまいました。

とかく、古い神社は水辺にあったりするものですから。

オチもなく、終了で〜す。