2/23。
引き続き高円寺……の「高円寺」。
◯こちら===>>>
地名に寺ってついてるんだから、そりゃ寺があるだろうという話です。
駅から少し歩きます。
最初、入り口がよくわかりませんでしたので、横手から入りました。
本堂……でいいのか。
彫刻が豪華です。
堂内の拝観はしておりません(というか、できるのかどうか……今もしっかり檀家のあるお寺、というのはなかなかお邪魔しづらい……)。
……多分、たぬき。
こちらは何のお堂だったかな……。
冬枯れ……あ、お堂には入れなかったようです。
彫刻をアップで。
……鬼瓦、ってこういうものでしたっけ……。
こちら、境内にある、なかなか珍しい、竜の巻きついた鳥居。
「品川神社」にもありますね。
◯こちら===>>>
「品川神社」 - べにーのGinger Booker Club
「品川神社」(再)(東京都品川区) - べにーのGinger Booker Club
竜だったり百足だったり、いろいろ巻き付くのですね鳥居。
山門と扁額。
山門より。
字が小さい……。
「高円寺
宿鳳山高円寺は、弘治元(一五五五)年、中野成願寺第三世建室宗正によって開山された曹洞宗の寺で、「高円寺」の地名は当寺に由来します。現在の本尊は彫刻家・三木宗策作の聖観世音菩薩立像で、室町期の作と伝えられる阿弥陀如来坐像も安置されています。
かつてこの地は、周辺に桃の木が多くあったことから桃園と称され、恵信僧都源信作の本尊は桃園観音、御堂は桃堂の名で呼ばれていましたが、弘化四(一八四七)年の火災でこれらは消失してしまいました。
当寺が広くその名を知られるようになったのは、第五世耕岳益道の時、三代将軍徳川家光の知遇を得たことによります。現本堂裏の高台が「御殿山」と呼ばれるのも、家光が鷹狩りのおり当寺に立ち寄り休息した茶室跡に由来すると伝わります。また、それまで小沢村と呼ばれた村名を、寺名をとって高円寺村と改めさせたのも家光といわれています。以来、「高円寺」の名は駅名などにもなり、現在に至っています。
当寺は、寛保年間(一七四一〜一七四四)年以降、昭和二十(一九四五)年まで、たびたび火災に見舞われ、堂舎と共に記録類の多くを消失しました。現在の本堂は、昭和二十九(一九五四)年に再建されたものです。」
徳川家といえば浄土宗なのか、真言宗なのか、はてさて……という感じなのですが、為政者として一つの宗派に肩入れするのはまずいですからな……とはいえ、大抵平和な時代が続くと、旧態依然の宗派が〜、という話になるのが世の常なので、改革のために新規なお寺とかを厚遇したりはしたのではないかと思います。
将軍様は、まあ、お出かけすると大体鷹狩りしますし、そのときにいいお寺を見つけますね……そういう伝承だとは思いますが。
山門遠景。
さて。
◯こちら===>>>
斎藤幸雄 編 ほか『江戸名所図会』2,有朋堂書店,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2024-06-28)
『江戸名所図会』を見てみましょう。
最初、「高円寺」を頑張って探してみたのですが、「桃園」ですよねそりゃ……。
p497です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「桃園
同所西北の方、十町ばかりを隔つ。享保の頃、此の辺の田畝に、悉く桃樹を栽ゑしめ給ひ、其頃台命によりて、此地を桃園と呼ばせ給ひしといへり。今も弥生の頃、紅白色をまじへて、一時の奇観たり。此地に大将軍家御遊猟の時の御腰掛の地あり。又岡の前を流れる小川に架せる橋を、石神橋と唱ふ。此ながれは、石神の三宝寺の池より発する所の餘流なり。
桃園観音堂
土人は桃堂と称せり。同所高円寺村の高円寺といへる禅林に安置す。本尊は聖観音にして、恵信僧都の彫像なりといへり。当寺は中野の成願寺に属す。弘治年間の草創にして、開山を建室和尚となづく。むかしは大将軍家度々当寺へ立ち寄りせ給ひ、仮の御殿ありしかば、当寺の山号を御殿山ともとなへ侍るとなり。又当寺境内其頃は桃樹多かりしによりて、桃園と称すべき旨、台命あり、其後享保に至り、新に中野の地に桃園うつし給ひ、田圃の間々に桃樹を多く栽ゑしめ、桃園と命ぜられたりとなり、故に土人は当寺をさして桃園の旧地なりといへり。」
江戸期には、将軍家の知遇を得たら、それは大寺院になるということだった……かどうかは定かではありません(いろいろと優遇はされたのでしょうけれど、菩提寺となるまではいかないと……まあ、寺社も幕府の支配下ではありましたから……)。
「桃園」のままでよかったんじゃないかな、とちょっと思ったりしました(多分、もう桃の樹はないのでしょう……あったら今も「桃園」でしょう……)。
さて、短めの旅でしたが、こうして間隙をついていかないと、神社仏閣巡りは難しくなってきました……もっぱら推し活しているからですが。
細々とご紹介していければ。