べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「渋川神社」(再)(尾張旭市)〜高速初詣その3〜

1/6。

豊田から瀬戸にくだってきて、そこから守山区に行き、またちょっと戻って尾張旭市

「渋川神社」です。

 

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「渋川神社」(尾張旭市) - べにーのGinger Booker Club

 

以前の記事です。

参拝……とはいっても、ほぼ、

 

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狛犬さんとおキツネさまの写真です……。

 

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あ、一応拝殿もあった。

 

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御朱印
松の内だから大丈夫だろう、と思ってうかがってよかった。
神職さんたちはお忙しそうでしたけれども……申し訳ないです。

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 東春日井郡誌

 

尾張名所図会』『尾張志』『神社覈録』あたりは前回の記事で引用しているので、今回はいつもありがとう『東春日井郡誌』より。
457コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「渋川神社
(略)
祭神 高御産霊大神 大年太神 御食津太神 庭高日大神 阿須波大神 波比伎大神 大宮賣大神 八重事代大神
(略)
由緒 伝に、景行天皇の御代に創建せしと云へり、而して天武天皇白鵬五年御即位の大典を行はせられ、秋九月大嘗祭を挙けさせ給ひし時、此地悠忌斎田に当り、此社に祓穂式を行はせ給へり、時に大年太神以下七柱の神を合祀せり。
当初此の社は渋川の地に在りしが、何時か今の地に移せり、今数町を隔てて南方に鳥居と呼ぶ地あり、之れ又其旧地なるべし、村名も古は斎庭なりしが、何時よりか今の印場と称するに至れり。
一説に此時に創造せられたる社なる由、言ひ伝へり、尚考ふべし。
往昔は山田郡の総鎮守にして、新居、稲葉、大森、藤森、社、一社、高針等の産神なりしと云ふ。
(略)織田信長神殿を改造して神饌幣帛を奉り、徳川家康厚く此社を尊崇して、天正十二年九月家臣本田豊後守に命し制札を建てしめ、又徳川光友貞享五年九月、神殿を再建したる等、古来より崇敬する者少からす。
(略)
尾張地名考に曰く、[里老曰]社辺の田の畔名に祖父川とよぶ處あり、[或人曰]曾父川は、渋川なるべし、[社伝曰]渋川天神は神祇官の八座の神を祭る
明細帳に曰く、当社ノ祭神一柱ナリシヲ天武天皇白鵬五年丙子ノ秋九月、大嘗祭披爲行ニ付、斎庭ノ稲ヲ以テユキ、スキノ御神事御執行ノ時、卜部ノ御占ニアタリテ、尾張国山田郡斎庭ノ里、渋川神社ト定メ給フ、是以高御産霊大神ニ合セ七神ヲ祭祀シ給フ、鎮座年月不詳ト雖モ、古説ニ景行天皇ノ御代ノ鎮座ニシテ、往古ハ今之社地ヨリ南西之方エ四五町隔テシ所ナリトシテ、白鵬五年ニ今ノ地ヘ遷座スト摘要ニ見タリ、延喜式神名帳尾張国山田郡ノ内斎庭ノ里鎮座ノ神ハ、従二位渋川天神、本国帳ニ従二位渋川名神ト有リ、及ビ村名モ往古ハ斎庭村ト書、中古斎場ト書シテ、何時ノ頃ヨリカ如今印場ノ文字ヲ書クニ至レリ。
(略)
境内神社 東五社之宮
祭神 伊邪那美大御神 建甕槌命 日本武尊 野見宿禰 菅原道真
西五社ノ宮
祭神 菊理姫命 天津彦根命 豊受毘売命 火之軻具土命 建御名方命
神明社
祭神 天照皇大御神
熊野社
祭神 建速須佐之男命
稲荷社
祭神 稲倉御魂神
但し同所字南島に在りしが、明治十一年六月一日当社境内に遷せり
津島社
祭神 建速須佐之男命
但し同所字北島に在りしが、明治十一年六月一日当社境内に遷せり
八幡社
祭神 品田別命
忌明社
祭神 不詳
山神社
祭神 金山彦命 大山祇命
八劔社
祭神 天照皇大御神 日本武尊 建稲種命 須佐之男命 宮簀姫命」

 

社伝や他文献と大して違いはありませんが、境内社が細かく掲載されているのがありがたいですね。
「忌明社」は、大正の頃にはもうよくわからなくなっていたようで……。

尾張神社考』(ブックショップ「マイタウン」発行)のp92には、

 

従三位渋川神社 一本作渋河 天神 [正生謹考]山田荘志段見村諏訪明神のやしろ是なるべし。社人水野氏 [和名抄]山田郡志談郷(略)[正生考]いま志段見村と書はかな描也。正字下垂水のいひ也。尾張山の水の雫りおつる處也。故に下垂水と呼。集説本に渋河神社を印場村に引たるは非なり。
[附言]明和年間府志選定に就て、松平君山翁印場の八所明神にて、社人里正共に問れける折柄社辺に曽父川とよふ畔名も有と答たりしは偽言也。渋河は実志談 上中下 の三村をいへば也。」

 

何度も取り上げていますが、津田正生翁は、『尾張神名帳集説』という尾張藩の博覧狂記・天野信景の本に対する訂正等を目的に『尾張神社考(原題:尾張神名帳集説本之訂考)』を書いていますので、定説に異を唱える場合が多いです(といって、天野信景のほうが正確だ、ということでもないようですが)。

なので、わりと大胆な感じで自説を述べられております。

「渋川神社」の記事に関しては、ほぼ地名起源の話になっていて、肝心の神社の起源はわりとどうでもいい感じです。

とはいえ、「天武天皇」時代には存在していただろう、と思われる尾張地方の神社も少ないと思いますので、遷座その他あったとしても、大変な古社です(こちらも、山田郡のどの神社あるいは斎庭から米が献上されたかは、実はわかりませんが……)。

尾張旭市は、もっと推していってもいい気がしますが……ちょっと地味でしょうか。

 

さて、お次は……どこだったかな……。