べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「尾山神社」(石川県金沢市)

9/18。

白山市を後にしまして、金沢市へ。

メインイベントを済ませまして、時間がある限り市内をぶらぶらしてみよう、ということで、まずは「尾山神社」へ。

 

◯こちら===>>>

www.oyama-jinja.or.jp

 

北陸地方は全然詳しくないのですよね……もちろん、室町〜戦国時代もさっぱり……とはいえ、前田家の加賀国のことくらい少しは……ええと、一時期、一向宗に国を治められていたんでしたっけ……ああ、勉強が足りない……。

 

f:id:bennybebad:20241110223326j:image

天気が良かった……。


f:id:bennybebad:20241110223430j:image

鳥居越しの神門。


f:id:bennybebad:20241110223313j:image

鳥居越しの神門(わかった)。


f:id:bennybebad:20241110223323j:image

神門。

これは、そそる建物ですね……様式が素晴らしい……。


f:id:bennybebad:20241110223420j:image

尾山神社神門

尾山神社は、加賀藩前田利家を祀る神社として明治六年(一八七三)に創建され、神門はその正門として明治八年(一八七五)に建築されました。

当時前例のない和漢洋折衷のこの神門は、強いて伝統を踏襲せず、堅固をめざした、と言われています。

初層の三連アーチの骨組は、日本建築の技法で組まれた完全な木造で、外側の石積みには加賀藩を象徴する戸室石が用いられています。三層目は四方に四色のギヤマンが嵌められ、かつてはここに灯をともして金石近海を通る船に灯台の役目をしていました。

屋根頂部の避雷針は、現存する日本最古のものとされています。」

 

なるほど、存外新しい……とはいえ150年前ですか、素晴らしい。


f:id:bennybebad:20241110223413j:image

神門内部。


f:id:bennybebad:20241110223359j:image

こういう階段が好きです。


f:id:bennybebad:20241110223427j:image

むう……竜宮城的な。


f:id:bennybebad:20241110223433j:image

拝殿。


f:id:bennybebad:20241110223330j:image

神門を遠方から。


f:id:bennybebad:20241110223259j:image

拝殿を遠方から。


f:id:bennybebad:20241110223316j:image
f:id:bennybebad:20241110223352j:image

狛犬さん。


f:id:bennybebad:20241110223348j:image

拝殿遠景。


f:id:bennybebad:20241110223338j:image

菊桜。


f:id:bennybebad:20241110223445j:image

神門遠景。

絵になる。


f:id:bennybebad:20241110223303j:image

神門ばっかりですね。


f:id:bennybebad:20241110223319j:image
f:id:bennybebad:20241110223344j:image
f:id:bennybebad:20241110223306j:image
f:id:bennybebad:20241110223309j:image
f:id:bennybebad:20241110223406j:image
f:id:bennybebad:20241110223334j:image

境内をいろいろ巡ってみました。


f:id:bennybebad:20241110223423j:image
f:id:bennybebad:20241110223417j:image
f:id:bennybebad:20241110223456j:image

黄金の蛙。


f:id:bennybebad:20241110223249j:image

摂社の「金谷神社」です。


f:id:bennybebad:20241110223256j:image

煉瓦造りの垣根に。


f:id:bennybebad:20241110223409j:image

赤銅の屋根。


f:id:bennybebad:20241110223241j:image
f:id:bennybebad:20241110223452j:image
f:id:bennybebad:20241110223402j:image

これはこれで、ちょっと異形です。


f:id:bennybebad:20241110223245j:image

前田家の歴代当主と正室がお祀りされております。


f:id:bennybebad:20241110223252j:image

隣にあった……なんでしょうね……。

 


f:id:bennybebad:20241110223355j:image
f:id:bennybebad:20241110223438j:image

何だかカオスな絵面です。


f:id:bennybebad:20241110223341j:image

東神門。

元々金沢城の二ノ丸御殿の唐門だったと伝えられ、卯辰山(をを、卯辰山……)の「招魂社」に移され、昭和になってこちらにきたと。


f:id:bennybebad:20241110223441j:image

優美な彫刻。


f:id:bennybebad:20241110223449j:image

はい、「お松の方」です。

 

f:id:bennybebad:20241111220241j:image
f:id:bennybebad:20241111220245j:image

御朱印

 

さて。

 

金沢市 編『金沢市紀要』,金沢市,大正13. 国立国会図書館デジタルコレクション

金沢市紀要 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-12-11)

 

↑この辺りを観ておきます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p150です。

 

尾山神社の建立

慶長四年利長卯辰山の麓に一祠を建立し、越中の物部八幡・榊葉明神を遷祠し卯辰八幡宮と号し前田氏の祈祷所としたが、其実は父利家の霊を祀つて主神とした、常に社殿を修理し祭儀を荘重に修め佳節朔望には藩士必ず参詣してゐた、廃藩のとき旧領地の士民祭祀を承継し、明治五年旧金谷殿の旧址に社殿を新築して尾山神社と改称し、三十五年別格官幣社に列せられた。

別格官幣社尾山神社の神門は旧藩士長谷川凖也・大塚志良兄弟の発意に成つた、明治七年初めて建設を計画し、金沢病院醫員の和蘭医学博士ホルトマンに設計を委嘱し、其設計に自己の考按を加へしめ、八年一月手斧式を挙げ十一月落成した、爾来其型が神門に相応しからぬを非難されてゐるが、一方に於て欧州文化吸収時代の唯一の遺物として保存の要を唱へられてゐる。」

 

この本が大正の発行ですから、その頃に「神門に相応しからぬ」と言われていたということは、当初はもっとだったのでしょうね。

よく残していただいた、と思います。

 

◯こちら===>>>

金沢市 編『稿本金沢市史』 社寺編,金沢市,大正5-14. 国立国会図書館デジタルコレクション

稿本金沢市史 社寺編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-12-12)

 

↑こちらにも「尾山神社」の記事があります(もう少し詳しい)が、摂末社についての記事もあるので、そちらを。

p35です。

 

「摂社金谷神社は、前田利長・前田利常を祀る、明治六年十一月、これを勧請せり、初め利長自像を彫刻して城内の社殿に置きたれど、慶長十年火に逢ひしかば、波着寺境内に新殿を造りて遷座し、仮に八幡宮と称し、明治元年神仏混淆を廃せられたれば、卯辰八幡社の相殿に祀れり、是より先き、利常の像をも、卯辰八幡の相殿に祀り、仮に天満天神と称したれど、これ亦同時に遷座せるにて、三十五年六月、摂社金谷神社と號せり、

末社榊葉神明宮は、豊受大神を祀る、往昔菊池武重伊勢に潜伏し、外宮に祈願して、榊一本を携へ、越中射水郡阿尾村に至り、榊枝を以て神明宮と称し、一祠を建てたるが、天正中、利家越中に入りて本社に祈願するところあり、慶長四年卯辰八幡社に合祀せり、

末社小松神社は前田利常の像を祀る、正保の頃、石川郡浦波村字土清水に祭り、陽に八幡社と號せしかど、明治八年十一月、今の號に改め、十二年十月、本社に合祀せり、

此他末社に少彦名社・稲荷社あり、又祖霊社に前田氏歴代の霊を祀る、」

 

こちらも大正の頃の発行です。

実在の人物の神格化というのは、現代になっても続いているものですが(神道式の葬式ももちろんあるのです)、やはり前田家、格が違う感じです。

さて、もうちょっとだけ、金沢を巡ってみます。

「金剱宮」(石川県白山市)

9/18。

「白山比咩神社」を後にして、すぐ近くの「金剱宮」へ。

 

◯こちら===>>>

www.shirayama.or.jp

 

思いのほか参拝者が多く、駐車場に停められるかどうか、ドキドキしました。

ちょっと待ちました。

 

f:id:bennybebad:20241025220355j:image

いきなり扁額でした。


f:id:bennybebad:20241025220334j:image

拝殿。


f:id:bennybebad:20241025220421j:image

案内板(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

御祭神は瓊々杵尊で、大国主神」「大山咋命」「日本武尊」「事代主神」「猿田彦神などを合わせて祀る、と。

鶴来町の発生と同時にこの地に鎮斎せられたもので鶴来町の古地名は劒と記し社名又古く劒宮・劒神社と唱えた」ということのようで、近世になって「金剱宮」と呼ばれるようになったそうです。

「中世以来白山七社の一に数えられ内、白山本宮・三宮・岩本と共に本宮四社と称した」ともあるので、かなり大切にされたものと思われます。

名前が名前だけに、武将の崇敬が厚かったようで、「源義経」「源義仲」なども参拝している、と。

……昔から「剱神社」なんて呼ばれていたのだとしたら、それに関する伝説なんかが残っているはずです(私が知らないだけ)。

日本武尊」は怪しいですが、石川県の辺りは通ってないよな……。

境内社には「乙剱宮」「金刀比羅宮」「丈六宮」「粟島神社」「金剱宮恵比須社」などがあります。


f:id:bennybebad:20241025220350j:image
f:id:bennybebad:20241025220439j:image

狛犬さん。

武神に相応しい。


f:id:bennybebad:20241025220430j:image

拝殿遠景。


f:id:bennybebad:20241025220359j:image
f:id:bennybebad:20241025220330j:image
f:id:bennybebad:20241025220342j:image

義経腰掛石」と「天忍石」。

影向されたというのであれば、どんな神霊が降り立ったのでしょうね……。


f:id:bennybebad:20241025220326j:image

山を背中に建っているので、境内が狭く、なかなか謎の構造になっています(何かを隠蔽している、というわけではなく、立地条件上致し方のない構造なのでしょうが、ひょっとすると陰謀めいたものがあるかもしれません……ないかもしれません)。


f:id:bennybebad:20241025220322j:image

本殿ちらり。


f:id:bennybebad:20241025220338j:image
f:id:bennybebad:20241025220257j:image

おお、これは良い狛犬さんだ。


f:id:bennybebad:20241025220346j:image

「乙剱社」。


f:id:bennybebad:20241025220403j:image

「恵比須社」の本殿。


f:id:bennybebad:20241025220416j:image

「天の真名井」。


f:id:bennybebad:20241025220407j:image

「恵比須社」拝殿。


f:id:bennybebad:20241025220304j:image

「金刀比羅社」。


f:id:bennybebad:20241025220425j:image

「丈六神社」。


f:id:bennybebad:20241025220317j:image

粟島神社」。


f:id:bennybebad:20241025220309j:image

二社遠景。


f:id:bennybebad:20241025220300j:image

こちらは「招魂社」ですね。


f:id:bennybebad:20241025220313j:image
f:id:bennybebad:20241025220434j:image

未だ「招魂社」なのは珍しい……こともないか。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

鶴来保勝会 編『鶴来案内』,鶴来町,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション

鶴来案内 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-11-08)

 

 

↑こんな本を観ておきましょう。

p14です。

 

「金剱神社

町の東方社の岡にあり、当町産土の神にて、当町の発祥は同社の創祀に始まる。天津彦穂瓊々杵尊を祀る。今より二千年前、崇神天皇の創祀にして、其創立年代は白山比咩神社と殆ど時を同ふするが如し。中古は金剱宮又は剱大神宮と称え、支社末院尠からず、所謂七堂伽藍は雲表に聳え、神人衆人多く時には白山比咩神社と勢力伯仲の間にあり。後村上天皇興国五年二月十日夜寅尅に鐘楼、講堂、彼岸所、曼陀羅堂、大行事、荒御前仮殿炎上とあるに徴すれば、当時其隆盛なりし事想像に難からず、聖武天皇神亀四年僧泰澄之を重修す、承平中祀官社僧散在せんとしを、僧道澄勧化して弘仁十四年本殿を建立せしが享禄四年焼亡し後また再建す。永観四年正一位の神階を授けらる。明治五年郷社に列し、同十三年白山比咩神社摂社と定められ、同二十八年県社に昇格す。明治維新後は宮の文字を神社號に改む。拝殿は明治十六年の改造にして本殿は同四十三年の改築にかかり、幣殿は大正九年の新築に成れり、南北百餘段の両参道は昭和三年十一月御大典紀念事業として改造せられ、境内には乙剱社、金比羅社の末社あり。

本社は其昔白山七社の一にして霊験著しく、源義経が奥州下りの砌終夜神楽を奏ぜし事。又木曾義仲平氏倶利伽羅に攻むるに当り遥に祈願を寄せし事は史乗に明かなる所なり。」

 

「宮」から「神社」になり、また「宮」へ。

本社に当たる「白山比咩神社」と並ぶ勢力だったことがあると……「伊勢神宮」の「内宮」「外宮」の対立や、「諏訪大社」の「上社」「下社」の関係性など、想起されるものはたくさんありそうです。

何故「金」なんでしょうね……豪華だからつけちゃったのか……金でも出たのか……それならもっと、全国的な話題になってもよさそうです。

 

◯こちら===>>>

金沢市 編『稿本金沢市史』 社寺編,金沢市,大正5-14. 国立国会図書館デジタルコレクション

稿本金沢市史 社寺編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-11-08)

 

↑こんなものも見てみましょう。

p86です。

 

「久保市乙剱神社

(略)

乙剱といふは神号なり、貞享二年の由来書に、祭神は白山第四の御子神にて、古来久保市に鎮座すと、此神は白山記に金剱宮は白山第一の王子、又云、金剱宮は大行事乙剱ともありて、今石川郡鶴来町金剱宮の末社に鎮座ある乙剱の神是なりと云、加賀古跡考に、久保市権現は鶴来金剱宮乙剱明神を勧請すといへり、三州志に、或云、其始め日神三剱を嚼て、三神を化生す、其一は鶴来の金剱宮、其二は松任の金剱宮、其三は久保市の乙剱宮なりといへり、平次按に、此は日本紀神代の巻に載せたる宗像三神化生の故事に據て附会せしものなるべし、鶴来の金剱宮は、諸神記に崇神天皇御宇天降三年三月社立、末社乙剱とあり、されば乙剱は金剱宮の御子神ならん、貞享の由来書に、白山第四の御子神と載せたり、これ実に古伝説ならば、金剱宮の第四の御子神にて、乙子なるに依て、乙剱の神とは称したるならんか。

(略)」

 

というような話も載っております。

結局、何故、剣の神になったのか、というのはよくわかりませんが。

本来、地名の「鶴来」の方が古く、そこから「剣」が連想された、というじゃないかと……何となく、鶴が来そうだし……急に「剣」が出てくるよりはわかりやすいでしょう……近くに湖とかあったのかな……。

で、験を担ぐ人たちが、「剣」にしてしまって、戦勝祈願なんかをしたら勝ったりして、盛り上がった……という感じかな、と。

案内板と真逆のことを書いております……「剣」を好字にするために「鶴来」にした、ということなのか……じゃあ神社も「鶴来神社」でいいと思うのですが、そうではない……つまり元々「剣」のほうが古いのだと……ううん、モヤモヤ……『風土記』が残っていれば……。

全国の「剣」という古地名を調べれば、何かわかるかもしれません(調べない)。

 

さて、金沢に向かいますよ〜。

 

「白山比咩神社」(石川県白山市)

9/18。

石川県初上陸……?……ちょっと金沢に行く用事がありまして、であれば行かずにはいられない、「白山比咩神社」……久々の一宮。

 

◯こちら===>>>

www.shirayama.or.jp

 

f:id:bennybebad:20241015211320j:image

駐車場から鳥居を。

いい天気だった(このときは……)。


f:id:bennybebad:20241015211343j:image

「觸穢の所」……祓戸ってことかな……珍しい表現かな。


f:id:bennybebad:20241015211358j:image

社標。

おっと案内があったな……清めどころか。

不浄の観念は仏教とともに、というのが定説ですが、記紀神話に禊のシーンがあることからもわかるとおり、穢れは仏教より以前にあった観念だと思われます……がそれが日本古来のものかといえばどうでしょう?

もちろん何らかの汚れに対する忌避感はあったのでしょうが……狩猟中心の生活を送っていれば、汚れは切っても切れないわけで……だんだんとそれを糊塗していくようになったのかな……と最近読んだ本の受け売りをしてみました(全然、受け売れていない)。

 


f:id:bennybebad:20241015211308j:image
f:id:bennybebad:20241015211312j:image

狛犬さん。

威風堂々。


f:id:bennybebad:20241015211402j:image

読みづらい……がんばるか。

 

「白山本宮 加賀一ノ宮 白山比咩神社由緒

御祭神 白山比咩大神【菊理媛神

伊弉諾神

伊弉冉

当社は遠く神代の昔、霊峰白山を御神体山として生きとし生けるものの「いのち」の祖神である白山比咩大神をお祀りしたことにはじまります。神祠の創建は崇神天皇の七年(紀元前九一年)と伝えらる延喜式内の名社であります。古来「下白山」と称えられた当社は現在「白山本宮」「加賀一ノ宮」として仰がれ、「白山さん」として広く親しまれている北陸鎮護の大社であります。

旧社地は旧北陸鉄道加賀一ノ宮駅前の古宮公園安久濤の森でありますが文明十二年(一四八〇年)大火によって四十有余の堂塔伽藍が悉く消失しましたので、その後は末社三宮神社の境内である現在地に遷座し本宮鎮座の地と定めて今日に至ったものであります

明治維新の後は「白山天嶺」と奥宮「下白山」を本社とし「国幣中社」として国家の殊遇をうけましたが終戦後の今日は全国に三千有余を数える白山神社の総本社として「白山信仰」の中心をなし家内安全・延命長寿・五穀豊穣・大漁満足・商売繁盛・交通安全・縁結びなど広大なる御神徳を仰がれております

白山奥宮一七〇〇ヘクタールの境内を中心とする国立公園白山は毎年春山(五・六月)夏山(七・八月)秋山(九・十月)の六ヶ月間登拝のため開山されます。」

 


f:id:bennybebad:20241015211250j:image

芭蕉さん。


f:id:bennybebad:20241015211254j:image

さすがというか、木々が見事です。


f:id:bennybebad:20241015211227j:image

ええと……人が結構たくさんいたので、上の方しか撮っていませんが、拝殿です。


f:id:bennybebad:20241015211347j:image

こちらも。


f:id:bennybebad:20241015211328j:image
f:id:bennybebad:20241015211405j:image

狛犬さんその2。


f:id:bennybebad:20241015211354j:image

……いかん、由来のわからない、楽しいものに遭遇してしまった……コロナ禍だから、なのかな、「ヨケンノトリ」。

双頭のカラスで、片方が白い……検索したらわかるかな(検索してない)。

また調べてみます。


f:id:bennybebad:20241015211413j:image

姫神さんがコンサートを開かれたようです……ピッタリですな。


f:id:bennybebad:20241015211431j:image

拝殿再び。


f:id:bennybebad:20241015211243j:image

扁額アップ。


f:id:bennybebad:20241015211235j:image

御神木。

見事。


f:id:bennybebad:20241015211350j:image

青空と緑をバックに……山の神社という感じがよいですねえ……。


f:id:bennybebad:20241015211301j:image

「霊峰白山

霊峰白山は、御前峯・大汝峯・別山の三峯から成り立っております。

白山奥宮は最高峰の御前峯頂上に祀られ、全国三千余の白山神社の総本山として仰がれるお社です。白山奥宮の境内一六八九ヘクタールの地域は、古来白山比咩大神の御神体山として尊崇され霊峰白山は富士山・立山と竝んで、「日本の三名山」としてあまねく知られております。

(略)

霊峯白山の遥拝所として今から二千年余年前の人皇第十代崇神天皇の御代にお祀りされたのが当社の創祀とされております。

(略)」

 


f:id:bennybebad:20241015211305j:image

……ええと、白山……見えませんが……。

本殿の様子が見られないなぁ。


f:id:bennybebad:20241015211239j:image

……戦利兵器ってなんだろ……なかなかなものを発見してしまった。


f:id:bennybebad:20241015211247j:image

「盤持石」……力石の類のようですな。

 

f:id:bennybebad:20241015211331j:image

手取川が流れています、この向こう側に。


f:id:bennybebad:20241015211421j:image

人の流れが少し途切れたので、神門から改めて。


f:id:bennybebad:20241015211439j:image
f:id:bennybebad:20241015211224j:image

神門の手前に、「荒御前神社」があります。

案内がなかった……。


f:id:bennybebad:20241015211434j:image

駐車場じゃないほうの鳥居。


f:id:bennybebad:20241015211220j:image

拝殿、別方向から。


f:id:bennybebad:20241015211428j:image

天気いいなぁ……(このときは)。


f:id:bennybebad:20241015211258j:image
f:id:bennybebad:20241015211231j:image

どこかで発見した狛犬さん。


f:id:bennybebad:20241015211417j:image

これが……白山かな……(不確か)。


f:id:bennybebad:20241015211316j:image
f:id:bennybebad:20241015211324j:image

「河濯尊大権現」。

あれ、案内があった気がするのですが……写真を消してしまったか……。

小さいながら、社標が新しいですね……丁寧にお祀りされている様子が伺えます。

ご本尊はなんだろう……何かしらの観音様っぽいけれど、ぱっと見は「弁財天」っぽくもありますな……。

 


f:id:bennybebad:20241015211424j:image

御朱印

 

さて。

 

◯こちら===>>>

横山政和 著『白山比咩神社略誌』,蔵田八十八,明25.10. 国立国会図書館デジタルコレクション

白山比咩神社略誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

(参照 2024-10-24)

 

↑こちらを見てみようと思います(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

まず御祭神は、

 

「三座也 中ハ菊理媛神 左伊弉諾尊 右伊弉冉尊(略) 神階ハ 文徳天皇ノ仁寿三年十月従三位ヲ奉授アリシヲ始トシ世々奉授アリ 崇徳天皇ノ永治元年八月二正一位ヲ奉授セラル」

 

ということです。続いて

 

「称呼 上古ハ単二白山神社ト称セシモノノ如シ 延喜式ニハ白山比咩神社トアリ今之ヲ用ラル 又白山七社トハ白山、金剱、岩本、三宮、中宮、佐羅、別宮、ヲ云 白山、金剱、岩本、三宮、ヲ本宮四社ト云ヒ中宮、佐羅、別宮、ヲ中宮三社ト云 又金剱以下ノ神社二対シテハ白山ヲ本宮ト云ヒ嶺上奥宮二対シテハ凡ヲ下白山七社ト云 又中古白山太神宮ノ称アリ 嘉暦三年ノ古文書二出ツ一宮ト云事ハ白山記二加賀分国以前白山ハ越前ノ一宮二シテ気比ハ二宮也 弘仁十四年加賀分国ノ時白山ハ加賀ノ一宮トシテ気比ハ越前ノ一宮ト成ル由記セリ」

 

単に「白山神社」だったものが(霊山である白山の神社なので、当たり前な呼び方です)、『延喜式』の頃には「白山比咩神社」になっていたと。

 

「鎮座 其始年月諸説一定セス 三宮記康永三年白山宮政所牒ノ案文二據レハ 欽明天皇ノ時已二此社有シ事明瞭ナリ 官社ニ列セラレシハ仁明天皇ノ嘉祥元年勅有テ四十五宇ノ神殿仏間ヲ造立セラレ神講田ヲ免セラレ鎮護国家ノ壇場ト被定官営ニ属セラレタルヲ其始トスヘキカ 但元是 文武天皇慶雲三年圭田百三十二束ヲ附セラレシヲ(是ハ猶越前ノ一宮タリシ時也)其始トスヘキカ 又ハ始ヨリ官設ノ社ナリシカ今不可考 今上天皇ノ明治四年六月改テ国幣小社ニ被列官祭被仰出即今ノ鎮座地ハ石川県加賀国石川郡河内村字三宮二ノ百一番地ナリ」

 

そもそも山岳信仰から始まっているので、結構な古社ではないかと思われます。

 

 

 

久々の一宮なので、引っ張り出してきました(本当は、『日本の霊山読み解き事典』を引っ張り出したかったのですが、本に埋もれておりまして……)。

p164です。

 

「その名からわかるように、白山比咩神社は白山への信仰を起源とする神社である。富士山周辺の浅間神社のように、白山の周辺には白山信仰の神社が点在しており、それらの多くは個別に成立したものと思われるが、白山比咩神社の勢力が大きくなるにつれてその傘下に入っていった。また、白山を拠点とする修験者が各地をめぐって信仰を広めたので、分祠の白山神社は全国に及んでいる。」

 

と、まあごく当たり前に述べられています。

白山に最初に登ったのは「泰澄」だと言われておりまして、養老元年に白山に登った「泰澄」の前に、

 

「……女神の姿で現れた白山妙理大菩薩は自分のことを伊弉冉尊だと言ったとされ、山頂で現わした本地(本来の姿)は十一面観音であったとする。しかし白山比咩神社の現在の主祭神は菊理媛尊であり、併せて伊弉諾尊伊弉冉尊を祀っている。」(p165)

 

とのことです。

何故「菊理媛尊」が主祭神となったかは謎であるとされ、何しろ「菊理媛尊」自身が謎の神なので、よくわかりません。

 

「……先立った伊弉冉尊を連れ戻そうと黄泉へ降ってみたものの、冥界での伊弉冉尊の姿を見て逃げ出してしまった伊弉諾尊と、その行為に腹を立てた伊弉冉尊が、黄泉と現世の境で争っているところで、『日本書紀』にはこう書かれている。

「是の時に、菊理媛神、亦白す事有り。伊弉諾尊聞しめして善めたまふ」

これだけの話なのだ、しかも肝心の菊理媛尊の発言が書かれていないのである。」(p166)

 

どこから出てきたのかも、何を言ったのかもわからず、という謎っぷり。

神話なのでさもありなんですが、普通に考えれば黄泉と現世の境(いわゆる「黄泉比良坂」)にいたのでしょう。

境界の神ではないかな、と思います。

 

「通説では、黄泉の世界でけがれた体を禊で清めるよう勧めたのだろうといわれる。いっぽう、白山の神は山上で出産したといわれ、ここからケガレを嫌わない神と信じられていた。ケガレを嫌わないということから発展してケガレを払う神と考えられるようになり、そこからさらに発展して禊ぎを勧めた菊理媛尊と結びついたらしい。」(p166)

 

さらに当然のこととして、元々の白山の神と「菊理媛尊」は異なる神格でした。

日本各地で、地元の神が記紀神話に登場するような神に置き換えられていった時代があり、白山では超レアな「菊理媛尊」と置き換えた、と……こんな、記紀神話に一か所しか出てこない神が有名だったとは思えないのですし、『日本書紀』の存在自体を知っている人はそこまで多くなかったのではないかと思われるので、エリート層が絡んでいたんでしょう。

また、江戸期の被差別部落の近くには「白山神社」があった、という話がありまして(ちょっと記憶が薄いので、江戸だけの話だったのか全国的だったのか、までは覚えていません)。

ケガレを押し付けられた(という言い方も語弊があると思いますが、とりあえず)人たちにとって、ケガレを嫌わない神、というのは、ありがたかったのかもしれないです(これが、ケガレを祓う神、となってしまうと、むしろ自分たちを祓ってしまうことになるので)。

それは、元々の白山信仰とはかなり隔たりのあるものだと思いますが。

 

◯こちら===>>>

宮司庁古事類苑出版事務所 編『古事類苑』神祇部28,神宮司庁,[明32]. 国立国会図書館デジタルコレクション

古事類苑 神祇部28 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

(参照 2024-10-24)

 

一宮ですので、『古事類苑』に項目があります。

まずはこちらの資料に目を通されてはいかがかと(私は、半分くらい読みました……)。

 

それでは、石川県のプチ旅行スタートです〜。

「太子堂 円泉寺〜八幡神社」(東京都世田谷区)

8/17。

前回の続きで、太子堂の周辺をうろうろしてみました。

まずは「円泉寺」へ。

 

◯こちら===>>>

www.kotobuki-p.co.jp

 

f:id:bennybebad:20240930213049j:image

聖徳太子之碑」。

何故に、関東で、「聖徳太子」なのか……という素朴な疑問はさておき。


f:id:bennybebad:20240930213041j:image

「円泉寺

聖王山法明院とよび、真言宗である。文禄五年(一五九七)に建てられ、開山は賢恵僧都である。本尊は不動明王立像及び二童子像である。また境内の太子堂には聖徳太子像がまつられ、太子堂の地名は、これにもとづいている。

世田谷教育界の恩人宮野芟平先生の碑がある。

先生は、明治三年郷学所がつくられてから、太子堂幼童学所、荏原学校となまえは変っても、引きつづき校長として郷土の教育につくした。この荏原学校は区内最初の小学校である。(略)」

 

寺のことはあまり書いてませんな。

 


f:id:bennybebad:20240930213021j:image

参道。


f:id:bennybebad:20240930213135j:image

本堂扁額。


f:id:bennybebad:20240930213107j:image
f:id:bennybebad:20240930213145j:image
f:id:bennybebad:20240930213010j:image
f:id:bennybebad:20240930213100j:image

彫刻は当時のものでしょうか……違うかな。


f:id:bennybebad:20240930213044j:image

太子堂


f:id:bennybebad:20240930213014j:image

ちょっと休憩したのですが、そこに童子姿の「聖徳太子」像が。


f:id:bennybebad:20240930213104j:image
f:id:bennybebad:20240930213026j:image

聖徳太子」といえば、いわゆる『職人由来書』で、大工さんの祖とされている……のですよね(詳しく覚えてないです……どこかに本があるはずなんですが)。


f:id:bennybebad:20240930213029j:image

太子堂、がこっちですね。

下にはホールがあるようです。


f:id:bennybebad:20240930213052j:image

本堂遠景。


f:id:bennybebad:20240930213128j:image

八幡神社」に向かってうろうろしていたら、「林芙美子旧居」を発見しました。

ちらっと見ただけですが……。

 


f:id:bennybebad:20240930213113j:image

参道の石標。

うろうろしていたら、太子堂八幡神社にたどり着いていました。

 

◯こちら===>>>

www.taishido-hachiman.or.jp


f:id:bennybebad:20240930213132j:image

まず「弁財天社」がありました。


f:id:bennybebad:20240930213007j:image

「弁財天社」に突き当たって、右を見ると「八幡神社」の鳥居が。


f:id:bennybebad:20240930213157j:image
f:id:bennybebad:20240930213200j:image

狛犬さん。

良き耳。


f:id:bennybebad:20240930213037j:image

太子堂八幡神社略記

(略)

御由緒及此地の沿革

当社の鎮座年歴不詳なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦一五九二〜六年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥安倍氏征討に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられている事から少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。

太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。

此の鎌倉道の附近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村一二一=二番ちの辺を(五丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう読んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残りである。

真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の號をとりて部落の村名とした。

以上は、古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。」

 

源氏ときたら「八幡」様なのですが、里人が簡単に「石清水八幡宮」を勧請できたんでしょうか……武士階級が絡んでいるように思います。


f:id:bennybebad:20240930213117j:image

拝殿。


f:id:bennybebad:20240930213138j:image
f:id:bennybebad:20240930213153j:image

建物自体は江戸以降かな……。


f:id:bennybebad:20240930213149j:image
f:id:bennybebad:20240930213003j:image

お稲荷さんもあります。


f:id:bennybebad:20240930212959j:image

楽殿


f:id:bennybebad:20240930212955j:image

拝殿正面遠景。

何か催し物だったかな……単に暑かっただけか……。

 


f:id:bennybebad:20240930213121j:image
f:id:bennybebad:20240930212951j:image

狛犬さん。


f:id:bennybebad:20240930213017j:image

出羽三山神社」と「鹽竈神社」がありました……関東だな、という感じがしますね(?)。

それより、手前のタコが気になりますね……何故タコなのかはわかりません。


f:id:bennybebad:20240930213203j:image
f:id:bennybebad:20240930213056j:image
f:id:bennybebad:20240930213033j:image
f:id:bennybebad:20240930213110j:image
f:id:bennybebad:20240930213141j:image

御朱印が思いのほかたくさんでした。

日付は、まあ、あまり気にせずに……。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

蘆田伊人 編『大日本地誌大系』第7巻 風土記稿3,雄山閣,昭4-8. 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/1214845

(参照 2024-10-03)

 

『新編武蔵風土記稿』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

12コマです。

 

「◯太子堂

太子堂村は、郡の北の方にて菅苅庄に属す江戸日本橋を距ること二里半、村内円泉寺境内に弘法大師造立の太子堂あり、故に村名起れりと云、(略)小名三軒茶屋を境とす、(略)開闢の年代は詳ならざれども、彼太子堂の由来、及末に出せる村民與左衛門天正年中村内にて新田を開発せしなど云を合せ考ふれば、もとより古田ありしことは論なし、いづれにも古き世より開けたる地なるべし、又與左衛門が租税を始て御代官松風助右衛門へ納めし時は文禄元年なりといへば、おもふに御打入より後御料所となりしならん、夫より後正保の頃は御代官伊奈半十郎支配所にて、其外は山本傳次郎志村又左衛門等の知行交れりと云ことはものに見えたれど、二人が当所を賜はりし年月を詳にせず、慶安年中に至り井伊掃部頭が領分となりし地もいてきしにより、今は井伊家の領地及前の二人が子孫山本橘次郎志村内蔵助等の知行と、大貫次右衛門が御代官所と交れり、

(略)

八幡社 除地一町四方村の南にあり、小祠古木森鬱として幽邃の地なり、鎮座の年歴を傳へず、神体紙幣を建つ村内円泉寺の持、

円泉寺 境内除地二千二百五十坪、村の東の方にあり、新義真言宗多摩郡中野村法泉寺の末、聖王山法明院と号す、開山賢慧法印は当国葛飾郡新堀村の産慶長十六年十月三日寂す、本堂七間半に五間南に向ふ、本尊不動明王木の立像にして、長さ二尺五寸許なるを安ず、側に八幡の木像あり、白馬に跨り弓箭を帯す長八寸許、太子堂 境内にあり二間半四方、檐間に太子堂の三字を扁額す、長谷の僧正動潮の筆なり、聖徳太子の像は長一尺一寸ばかり、相伝ふ往古弘法大師廻国のとき此地に來り自から此木像を彫刻して当所に安置し、住僧に円泉坊の號を授けられしと云、按ずるに此寺往古より草庵にてありしを、賢慧法印の時に至り始て一宇の梵刹となれるか、又十一面観世音の立像を安ず、長三尺餘運慶の作なりと云、当村の名もこの堂ある故に起れると云事は村名の條に見ゆ、(略)」

 

弘法大師」と「運慶」、「夢窓国師」、辺りの名前はあちこちの寺の縁起に出てきますが、そんなに全国くまなく歩いてはいないでしょうから、箔をつけたい寺側の事情、でしょうか(もはや言ったもの勝ち、みたいな)。

いずれ古くから人は住んでいたし、お寺はあったようです。

 

今回は以上です〜。

 

 

「竹園山最勝寺」(東京都目黒区)

8/17。

ちょっとした宴が三軒茶屋のほうでありましたので、ふらっと太子堂へ。

そこで見つけた最勝寺

 

◯こちら===>>>

kyogakuin.or.jp

 

江戸五色不動」の一つ、「目青不動」でした。

 

f:id:bennybebad:20240825124737j:image

本堂……じゃないのかな。

扁額が見づらいですが、向かって右は「閻王殿」、左は「元三大師」、正面も「不動明王」。

 


f:id:bennybebad:20240825124750j:image

角度を変えてみました。


f:id:bennybebad:20240825124746j:image

下がってみました。


f:id:bennybebad:20240825124731j:image

海老虹梁……ちょっと規格化されてしまったっぽい狛犬さんたち。


f:id:bennybebad:20240825124724j:image

御堂からにゅっと伸びている、妖怪のような風情。

 

f:id:bennybebad:20240825124734j:image

……こちらが本堂だったかな……。


f:id:bennybebad:20240825124742j:image
f:id:bennybebad:20240825124727j:image

遠景。

左に「天台宗 竹園山最勝寺教学院」、右には「目青不動尊」。


f:id:bennybebad:20240825124720j:image

より遠景。

御朱印はありそうですが、いただかず……なぜいただかなかったのかはもう思い出せません。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻,大日本名所図会刊行会,大正9-11. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻 江戸名所図会. 第1-4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-09-05)

 

『江戸名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p150です。

 

「心見観音 同北に隣る。天台宗にして、竹園山教学院と号す。本尊は聖徳太子の真作といふ。」

 

多分、こちらのことなのですが、情報が少ない……。

なお、五色不動については、

 

 

 

 

……いや、違うか……、

 

 

 

この辺りが印象的ですね。

どこの誰が仕込んだのか、よくわかっていませんが、「目黒不動」(「瀧泉寺」)が発端なんだろうな……と何となく思っています(定かではない)。

江戸の守りのために「天海」が……という説もあるようです。

 

◯こちら===>>>

「泰叡山瀧泉寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

四神相応で十分だと思いますが……。

『神の時空 五色不動の猛火』では、もうちょっといろいろな説に触れられていたと思うのですが……でも新幹線で移動してたっけな……ちゃんと覚えていないので、また読んでみないと……。

天台宗のお寺が多いようなので、「天海」とは言わないまでも、宗派のより一層の隆盛を狙った人がいたのではないか……そして、江戸を守る仕掛けの一つとして売り込んだのではないかな、と思ったりもします(妄想)。

というわけでした〜(中身が薄い)。

 

 

 

 

「椙森神社」(東京都中央区)

7/29。

「水天宮」のあとは、ふらふらしていて発見した、椙森神社にご参拝。

 

◯こちら===>>>

www.tokyo-jinjacho.or.jp

 

↑東京神社庁さんのhpより。

 

 

f:id:bennybebad:20240728221310j:image

「椙森(すぎのもり)神社

(略)

椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願した所といわれています。

室町中期には江戸城太田道灌が雨乞い祈願のために山城国京都府伏見稲荷の伍社を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。

しばしば江戸城下等の火災で寺社が消失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。

明治維新以後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和六年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。

境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正八年に建てられたもの(昭和二十八年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区文化財に登録されています。

(略)」

 

寺社の再建にはお布施が必要で、そのための勧進興行というのが何度も開かれていたようですが、富くじ(宝くじの原型、みたいなもの)が流行したのは、現世利益の末なのでしょうか。

今でも売れてますからね、宝くじ。


f:id:bennybebad:20240728221255j:image

別の小さめ案内板。


f:id:bennybebad:20240728221257j:image

これが鉄筋造りの社殿です。

うむ……思いの外、頑張っている感じがします(?)。


f:id:bennybebad:20240728221303j:image

堂々たる富塚。


f:id:bennybebad:20240728221306j:image
f:id:bennybebad:20240728221300j:image
f:id:bennybebad:20240728221313j:image

狛犬さん。


f:id:bennybebad:20240728221251j:image
f:id:bennybebad:20240728221246j:image

こう、なんというのか……境内が薄い……(そういう表現が適しているのか……)。


f:id:bennybebad:20240728221249j:image
f:id:bennybebad:20240728221243j:image

御朱印

うむ……日本橋七福神、はいいのですが、何故「恵比寿」様……元々「伏見稲荷」じゃなかったのか……ああ、東京神社庁のHPを見たら、しっかり御祭神になっていました……いつのことだろう。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻,大日本名所図会刊行会,大正9-11. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻 江戸名所図会. 第1-4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-08-09)

 

『江戸名所図会』を見てみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p87です。

 

「杉森稲荷社新材木町にあり。俗に当社ある故に此所いなり新道と字す。社記に云ふ、此神像は、相馬の将門威を東国に逞しうせし頃、藤原秀郷朝敵誅罰の計策を廻らし、此御神の加護に依て、遂に将門を亡したり。後霊夢を感じ、此地に至り、矯々たる杉の森ある地に崇め祀る。当社是なり。寛正の頃、東国大に旱魃す。太田道灌江戸城にありて、深く是を患とし、此御神に祈るに、其験ありて雨降り、百穀大に登る。依て其頃山城国稲荷山を模して、伍社の御神を勧請なし奉るとなり。毎年四月十六日祭奠、神主小針氏奉祀す。当社始は町屋の後園にありて、参詣の道さへなかりしに、元禄十六年、本多弾正少弼忠晴、寺社の観林たりし時、社へ参詣の道を開き給ふとなり。菊岡沾涼云く、此所は昔杉の木立いと深かりしとなり。又此地の或古老の話に、寛文の頃、此地は小針孫右衛門といへる商戸の地にして、彼宅地にありし稲荷の祠なりしが、其後延宝七年五月二十九日、此辺火災に依て焦土となりし頃、此祠のみ現然と残りければ、諸人皆これを奇とす。吉川氏某深く信仰して、新に蛭子と姫大神とを相殿に祀ると云ふ。又或人云ふ、長谷川町旧名を禰宜町と云ふ。昔当社の巍々たりし時、禰宜の住みし所故にしか号くると、されども此説信じがたし。」

 

「本多忠晴」公は、「本多忠勝」公の曾孫に当たる人物のようです。

「観林」って何かわかりませんが、wikiさんによれば、どうやら寺社奉行を務めていたようなので、そういうことなのでしょう。

火事で焼け残った、ということで水の神様を祀ることはまあわかるのですが、何故「蛭子」様だったのか……火除けといえば愛宕でしょう……何かあるのか、何もないのか……山じゃないのがまずいのか(?)。

『江戸名所図会』には図絵もありまして、かなりの広い境内が描かれています。

その中に、現在の境内地かなと思わせる部分があります。

江戸の古地図と重なってみられるサイトが昔ありましたが(今もあるのかな?)、そういったもので見てみるのも一興かと思います。

「銀杏八幡宮」「水天宮」(東京都中央区)

7/29。

宴があって出かけたのですが、時間があったのでぶらぶらと。

とはいっても、それほど遠くには行けませんので、そういえば行ってないな、と思い日本橋から「水天宮」を目指しました。

 

f:id:bennybebad:20240715182406j:image

と、その前に、途中にあった「銀杏八幡宮へ。

 

◯こちら===>>>

日本橋 銀杏八幡宮のご利益や御朱印、アクセス情報まとめ【読み:いちょうはちまんぐう】 | とーんと日本橋

 


f:id:bennybebad:20240715182339j:image

都会の真ん中の、小さめのお社というのは、良い風情なものです。

 

f:id:bennybebad:20240715182354j:image

こちらは「銀杏稲荷」でよいのかな……。


f:id:bennybebad:20240715182403j:image
f:id:bennybebad:20240715182334j:image

おキツネ様


f:id:bennybebad:20240715182345j:image
f:id:bennybebad:20240715182418j:image

ちゃんと調べていませんが、どちらかの大名屋敷に祀られていたそうなので、江戸時代の案内にはあまり載っていないのだと思います(調べるべき本が違う、ということです……そこまで頑張れない……)。

 

続いて、「水天宮」に到着。

 

◯こちら===>>>

www.suitengu.or.jp



f:id:bennybebad:20240715182326j:image

何だか仰いでいますが、天気が良かったのです。


f:id:bennybebad:20240715182412j:image

「水天宮」です。

社紋がちょっとわからず……。


f:id:bennybebad:20240715182348j:image

由緒書……もっとアップにすればよかった……。

 

「御由緒

御祭神 天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)

安徳天皇 第八十一代

建礼門院 高倉天皇中宮 安徳天皇の母君 御名 徳子

二位ノ尼 平清盛の妻 御名 時子 安徳天皇の祖母 建礼門院の母

当社は文政元年(一八一八)港区赤羽に在った有馬藩邸に当時の藩主第九代・有馬頼徳公が久留米城下に鎮座していた水天宮の御分霊を藩邸内に祀ったことに創まります。

壇之浦の戦で敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ筑後川の河畔に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇建礼門院二位の尼の御霊をささやかな祠をたててお祀りしたのが、水天宮の創めです。

江戸時代の当社は藩邸内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ入れて参拝したと伝えられています。ただし毎月五日の縁日に限り、殿様の特別な計らいによって藩邸が開放され、参拝が許されました。

その当時、ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒の鈴紐)のお下がりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ、ことのほか安産だったことから、人づてにこの御利益が広まりました。その当時の当社の賑わいを表す流行り言葉に「なさけありまの水天宮」という洒落言葉があった程です。明治維新により藩邸が接収され、有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治五年十一月一日に現在の蛎殻町に御鎮座致しました。

関東大震災では神社も被災しましたが、御神体隅田川に架かる「新大橋」に避難し難を逃れました。その後復興も相成り、昭和五年に流れ造りの社殿が完成し、昭和四十二年には権現造りの社殿となりました。

現在の社殿は平成三十年の江戸鎮座二百年を迎えるに当たって、有馬家十七代当主・当代宮司の有馬頼央の念願により、平成二十八年境内地全面免震構造の建物として完成致しました。(略)」

 

f:id:bennybebad:20240715182317j:image

なるほど新しいのみならず、免震構造とは。

 

f:id:bennybebad:20240715182351j:image

f:id:bennybebad:20240715182320j:image

拝殿。

天気が良い。


f:id:bennybebad:20240715182400j:image

境内社

奥から「高尾神社」「火風神社」「秋葉神社」。

「高尾神社」がちょっとわかりませんが(調べないスタイル)、「火風神社」「秋葉神社」は、江戸ですから火除け・火伏せ、ということですね。


f:id:bennybebad:20240715182332j:image

「宝生辨財天」。

これまた由緒書きが読めません……。


f:id:bennybebad:20240715182409j:image
f:id:bennybebad:20240715182315j:image

むっきむき狛犬さん。

 

御朱印
f:id:bennybebad:20240715182311j:image
f:id:bennybebad:20240715182414j:image

うむ、多臂であったか……。


f:id:bennybebad:20240715182336j:image
f:id:bennybebad:20240715182342j:image
f:id:bennybebad:20240715182357j:image
f:id:bennybebad:20240715182329j:image

たくさんありました、御朱印

 

さて、ざっと検索してみましたが、「なさけありまの水天宮」という地口についての情報が得られず(探し方が悪い)。

古文書を当たらないといけないのだと思うのですが、そこまでの時間がなく。

毎月五日だけ藩邸が開放される、という話も、他にもそういった例があるのかないのか。

文政元年といえば、もう幕末に近いころですから、そんな時期にわざわざ「水天宮」を勧請したのはなぜでしょう……尊皇のアピールでしょうか。

本家の「水天宮」にはいつか行ってみたいな、と思います(いつだろう)。