9/16。
何かで出かけたのですが、時間があったので、近くまで行ったことはあったけれども参拝していなかった、「大國魂神社」へ。
◯こちら===>>>
府中といったら東京競馬場……いや、何回かしか行ったことないですけどもね……府中駅で降りて、さっさと参拝へ。

これはどこで見かけたのか、庚申塔。

「源義家公とけやき並木」。
「大國魂神社」、と呼ばれていたかどうかはともかく、その時代からあった、ということですね。


「大国魂神社と馬場大門」。
内容的に、「ケヤキ並木馬場の寄進は、府中で伝統ある馬市が開かれていたことにもよります。とくに、府中の馬市は戦国時代から江戸時代初期にかけて、関東でも有数の軍馬の供給地」というところが面白いですね。
だから、東京競馬場……。

参道正面。

社標。

振り返ってみました。

鳥居。



まず、おキツネ様。


狛犬さん。


まずは、「宮之咩神社」。
「天鈿女命」が御祭神、「景行天皇の御代(一一一年)」に創立された、とのことです。

……土俵?


日露戦争記念碑。


手水舎。


苔むした灯籠は味わい深い。

狛犬さんも、味わい深い……。

「武蔵総社 大國魂神社
当神社は、大國魂神を武蔵の国魂を仰いで、鎮祭し祠った神社である、
第12代景行天皇41年(111年)5月5日大神の託宣によって創立せられ、武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。其の後孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645年)により武蔵の国府がこの地に置かれて、当社を国衙の斎場として、国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により側に国内の諸神を配祀したので「武蔵総社」と称し、又両側に「国内著明の神社六社を奉祀したので「六社明神」「六所宮」とも称された。鎌倉幕府以後徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を寄進せられた。明治18年より昭和21年迄官幣小社に列せられ、其の後宗教法人と成る。」
……うむ、だいたい知りたいことが書いてある。
まとまっていて素晴らしい。

狛犬さん。
おや、背中に子犬は珍しい造形かな。

神門。
元官幣小社ですからね、格をきちんと見せないといけません。

鐘楼。
神仏習合時代の名残、でしょうかね。




狛犬さん。

扁額。
「総社六所宮」。

拝殿。


ともに関西の本社から勧請されたようです。




狛犬さん。
ちょっと、キョトン。

「東照宮」。


狛犬さん。
いろいろな種類の狛犬さんが見られるところが素晴らしいですな。

「東照宮」の本殿は赤い屋根。

……これは本社の本殿だった、と思います……。

御神木。

本殿、多分横から。


ちょっと頑張ってきて、治療されている狛犬さん。

「巽神社」。
……急に出てきたな。


「松尾神社」。
こちらも京都から勧請されております。


なるほど三間社流造で、一間社を連結したのか……確かに珍しいですね。

遠景。




御朱印と、宝物殿拝観券と、からすおみくじ。
宝物殿には、重文の狛犬さんがあったので、拝観してきましたよ。
さて。
◯こちら===>>>
大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻,大日本名所図会刊行会,大正9-11. 国立国会図書館デジタルコレクション
大日本名所図会 第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻 江戸名所図会. 第1-4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2026-01-12)
まずは『江戸名所図会』を見ておきましょうか。
175コマです。
(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「武蔵国総社六所明神社
府中駅路の左側にあり。延喜式内大麻止乃豆乃(おほまとのつの)天神社是なり。後世に至りて同じく式内小野神社を合せ祭る。故に今両社一社の称あり。神主は猿渡氏、其餘社司社僧等奉祀す。
本社祭神 大己貴命。 相殿 素戔嗚尊・伊弉冉尊・瓊々杵尊・大宮女大神・布留太神。以上六神、これを俗に六所明神と称せり。
天下春命・瀬織津比咩命・稲倉魂大神。以上三神、これを客来三所の御神と称せり。すべて九神、合わせて共に六所宮と称す。此三神の事は一宮と小野神社との条下に詳なり。
大麻止乃豆乃天神社云々。
大麻止乃智天神。圭田六十七束。六毛田。
所祭大己貴命也。安閑天皇乙卯。始奠宮社。花時以花祭之。新稲之時以新稲祭之云々。
[東鑑]に曰く、治承六年八月十一日己酉。及晩御台所有御産気。武衛渡御。中略。爲御祈祷被立奉幣御使於伊豆筥根両所権現。并近國宮社。武蔵六所宮。葛西三郎云々。
[同書]に曰く、寛喜四年二月二十四日。武蔵國六所宮拝殿破壊。有修造之儀。武蔵左衛門尉資頼奉行之云々。
(略)」
まずはここまで。
いろいろ気になるところはありますね。
「東照大権現宮 本社の右に安座す。元和四年戊午御創建といふ。
注連樹 本社の後、蒼林の中にあり。欅の故株にして数十◼︎あり。相傳ふ、上古國造此所より社参ありし頃、門戸のありし址なる故に、注連を引きはへたりしよりかくは号くといへり。
(略)
宮之姫社 随身門の前、左の方の林間にあり。祭神須勢理比咩命・奇稲田比咩命・木花開耶比咩命、以上三神にして、本社の后妃の神なり。例年七月十二日・十三日、近邑の神職來り集りて、社前において神楽を奏す。むかし鎌倉時世、頼朝卿下知ありてより、此神事を執行するとなり。頼朝卿の下知状は、天正の兵火に亡びたりといへり。
馬場 二の華表の内、左右森の外にあり。東の方の一條を◼︎馬といひ、西の方の一條を缺馬といふ。又大門甲州街道を隔てて北の方、一の華表の内の左右にも二條の馬場あり。慶長年間大阪御勝利の後、御寄附ありしより、後世◼︎馬・缺馬等の馬場の地は、古牧の駒をえらびたりし旧跡なりといふ。
馬市 毎歳五月三日に始りて、九月晦日に終るを定規とす。社前大路の傍に制札を建てて以て警す。此地の馬市はむかし国造の在せし頃、毎歳牧の馬を取り、其良二十五匹をえらびて、是を帝闕に献す。しかして後、諸国より牽き來る所の馬を集めて、人民市をなすとなり。此馬市享保年間に止みて、其後は江戸浅草の藪の内と、麻布十番との二所へ引かれたり。然りといへども、御佳例の馬市なればとて、今も江戸馬口労頭高木源兵衛・山本伝左衛門、毎年当社に詣で此所の馬場において賜る所の御馬に乗じ、旧式をなして後、車内に安座なし奉れる。東照大権現宮へ参詣す。
競馬 毎歳五月三日の夜、六所宮の御旅所の前、甲州街道府中番場宿の大路において、駒役の者十二疋の駒に乗じ、燈火を消して後、暗夜に乗競ぶ。此夜社家の輩検使として、御旅所の傍なる仮屋に伺候す。
(略)
大神事 同五日に修行す。当社の御神出現鎮座の辰なる故に、殊に恐れかしこみ、神官各四月二十五日品川の海浜に至りてみそぎし、其日より禁足して斎に籠る。当日は終日神楽を執行す。黄昏におよび、社家一統神主の宅に集会す。其後神殿に至り、神勇の大祝詞を捧げ、終りて燈火を消し、暗となして神輿をわたし奉る。神輿八基の内七基は、二の華衣の前より甲州街道の大路を西へ渡しまゐらす。一基は随身門の前より左にわかれ、府中本町の方より出でて、ともに番場宿の角、札辻の御旅所へ遷しまゐらす。此間社家の輩馬に乗じ下河原に鎮座の津保宮に至り。深秘の神事ありて大幣を捧げ、帰り來りて御旅所に入り。奉幣の式あり、神事終りて、神主猿渡氏、農夫野口といへるが家に仮家を設けたるに至り、古例の祝事をなせり。相傳ふ、此野口と称ふる家は、往古大己貴命始て出現の時、一夜この家にとどまりたまひしとなり。又同じ農家岡野といへるは、其夜門戸を閉ぢて深く慎み居る事旧例なり。此家は大己貴命出現の時、宿を求めたまひしかど、思の事ありて一家穢れはべりしかば、辞し申せし事の古き例を改めずして、かくするといへり。御旅所の神事旧式ことごとく終りて、禰宜本社に帰り、還幸の設をなせり。神主は神馬に乗じ、御旅所の前において流鏑馬を行ふ。終りて太鼓を打ちならせば、すべて社壇より市店に至る迄、一時に燈火を点ずる事、先の闇きに引きかへて尤めざまし。神主は馬上にて前躯たり。帰輿に及んで、二鳥居の左右と、本社の前随身門の前、西の馬場缺場の方へ至るの間等、すべて四箇所にて篝火を焚きて白昼の如し。又神輿供養の道路を照す所の提灯尤も多くして、実に壮観たり。
(以下略)」
馬関係と、神事について。
この後の記事も、神事について書かれています。
くらやみ祭りについては、神社の公式HPでも紹介されています。
◯こちら===>>>
https://www.ookunitamajinja.or.jp/matsuri/5-kurayami.php
武蔵国には、出雲系の神社が多い、というか「氷川神社」とついているのは全部出雲系(「素戔嗚尊」が主祭神)です。
埼玉県の武蔵国一宮である「大宮氷川神社」が中心になっています。
武蔵国造が、出雲系だったからではないか、と思われます。
式内社としては「大麻止乃豆乃(おほまとのつの)天神社」とされていますが、論社もあるようですし、そもそも神社名が謎すぎて……解釈も多数あると思いますので、なかなか……。
◯こちら===>>>
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2026-02-08)
『延喜式』をとっさに探せないので、『神社覈録」からですが、大和国十市郡条に、「天香山坐櫛眞命神社」という式内社があり、その元の名前が「大麻等乃知神」とされているので、この神ではないか……となると、出雲系の武蔵国造がわざわざこの神を祀った理由はなんだったのか……なにぶん、「大麻等乃知神」自身は記紀神話に登場されず、よくわかりません。
いずれにせよ、出雲系の武蔵国造が支配したことで、「氷川神社」と同様に「大己貴神」が祀られるようになったのではないかと思われます。
「素戔嗚尊」ではないところに、何かありそうな気もしますね……まあ、すでに「大宮氷川神社」があった、ということかもしれません。
そして、神社最大の神事、いわゆる「くらやみ祭」ですが……ちょっと起源がわからないのですが、変遷した結果の伝承として、明らかに「蘇民将来」が混ざっています。
「相傳ふ、此野口と称ふる家は、往古大己貴命始て出現の時、一夜この家にとどまりたまひしとなり。又同じ農家岡野といへるは、其夜門戸を閉ぢて深く慎み居る事旧例なり。此家は大己貴命出現の時、宿を求めたまひしかど、思の事ありて一家穢れはべりしかば、辞し申せし事の古き例を改めずして、かくするといへり。」
この部分ですね。
もちろん、「蘇民将来」の伝説とは異なっているのですが、これはすでに成立している「蘇民将来」伝説を、神社の祭に当てはめてみた結果だと思われるので、まあおいておきましょう。
で、「蘇民将来」伝説の場合、対象となるのは結果としては「素戔嗚尊」(元々は「武塔神」)なのですが、こちらでは「大己貴神」。
ということは、「大己貴神」も当然、怨霊神として認識されていた、ということになります。
「大己貴神」なのか「大物主神」なのか「大国主神」なのか、その辺りの考察はいろいろあると思います。
ですが、まあ、怨霊神であることは間違いないでしょうし、そうすると「大和坐大國魂神社」、今の「大和神社」と言われているの祭神「倭大國魂神」に倣っているようにも思われます。
本来、宮中にあって天皇と同殿共床だった「倭大國魂神」は、祟りを起こしたので宮中から遷されています。
祭祀者に対して祟る、というのは珍しいことではなく、むしろ構造としては、「祟られる理由があるもの」が「祟り」を恐れて「祀る」ので、祭りが満足いかなければ祟られて当たり前なのです。
この「大和坐大國魂神社」に、各地の「大國魂神社」が倣っているのだとしたら、根源的には、その土地の「大國魂神」、土地神として相応しい当時の支配者の土地を大和朝廷が「奪った」(それも、結構なことをやらかして)、ということなのではないでしょうか。
今は「大己貴神」に上書きされてしまっています(それでも怨霊神ではあります)が、ベールを剥いでいけば、古き土地神に至る、という図式が全国の「大國魂神社」には潜んでいる、と言えるかもしれません。
なにしろ、「くらやみ祭」です。
何かを隠したい、としか思えません。
といったところで、妄想を終えたいと思います。
ん〜、記事を書く環境的に、手元に文献がないもので、もっといろいろ調べて妄想したいところです……。





















































「成功」。

















































































































































