「須賀神社」(東京都新宿区)
4/3。
よんどころない事情で上京し、近辺を探ってみたら、見つけた神社に参拝して参りました。
「須賀神社」です。
◯こちら===>>>

……あれ、写真の順番が逆かな……ええと、大鳥居の前から境内、です。
場所的には、「四谷三丁目」駅から少し歩いた、谷の縁にある感じですね。
よくわからないのですが、外国の方が多くいらっしゃいまして、写真もやや上方ばかりです。
穴場的なスポットなんでしょうか(よく知らない)。

うっすら桜と神楽殿。

うっすら桜と拝殿。

「祖霊社」。

火消しの使っていた半鐘、でしょうか。

拝殿、正面から。
花散らしの雨、といった風情でしたか。

「大国主命」の像がいらっしゃいました。
どちらかといえば、「七福神」の「大黒様」ですね。

おっと、「三十六歌仙絵」があるようです。
「天保七年(一八三六)に奉納されたもので、当時、文人画家として高名だった四谷大番町(現在の大京町)の旗本大岡雲峰(一七六四〜一八四八)が絵を、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(一七七九〜一八五四)が書を担当した。」
とのことで。
許可があれば昇殿して拝見することができるようです。

「四谷の総鎮守「須賀神社」と三十六歌仙絵
[須賀神社について]
四谷の産土神(うぶすながみ)で、祭神は建速須佐能男命(たけはやすさのおのみこと)と宇迦能御魂命(うかのみたまのみこと)の二柱です。
かつては、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と稲荷社の二つの神社であったもので、江戸時代は稲荷天王合社と呼ばれ、明治にはいり須賀神社と改められました。
稲荷天王合社のうち稲荷社の由来については、次の二説が伝えられています。
一つは、かつて麹町十一丁目清水谷にあり、一ツ木村の鎮守であったものが、同村にあった別当宝蔵院(神仏習合の時代、神社には別当寺があり、そこの僧侶が社僧として神社の儀式に携わりました)が、寛永11年(1634)に現在の須賀神社の場所に移ったのを機に、稲荷も移転してきたというものです。
もう一つは、稲荷社は、現在の勝興寺(須賀町八番地)境内にあった椎の大木の根元に祀られており、宝蔵院が清水谷にある頃から稲荷社まで注連縄飾りの奉仕に来ていたため、寛永11年(1634)に勝興寺が移転してきた時、相談のうえ宝蔵院(現在の須賀神社)に遷座したという説です。
牛頭天王社のほうは、寛永18年(1641)に、神田明神境内の牛頭天王社を四谷のお仮屋横丁付近に小祠を建て祀ったものだそうです。
ところがこの牛頭天王社に参詣人が多かったため、寛永21年(1644)寺社奉行に願い出て、同年6月18日に宝蔵院境内の稲荷社と合祀し、現在の稲荷天王合社となったものです。
以来、稲荷は鮫河橋・権田原の、天王は四谷の鎮守として崇敬され、現在は四谷地区十八町会が氏子町となっています。(略)」
なるほど、元々「牛頭天王社」でしたか。
御多分に洩れず、神仏分離で、「素戔嗚尊」を祭神とした、ということですね。

「天白稲荷神社」。
この、「天白」というのも、謎の多いものでして……陰陽道絡みの神、だったと思うのですが……調べてみると面白いと思います(あんまりちゃんと調べていないので、書きませんが……地元名古屋には「天白区」という地名があるのですが、「天白川」に由来していて、「天白」が何か知っている人はあまりいないと思われます)。


蝶タイ着けたみたいな狛犬さん。

谷側から見上げた境内。
さて。
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四谷区 編『四谷区史』[本編],四谷区,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2026-03-27)
↑『四谷区史』を見てみました。
『江戸名所図会』で見つけられなかっただけなのですけれども。
p590です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「須賀神社
須賀神社は、須賀町三十二番地に在り、素戔嗚尊、倉稲魂命を祀る。往時は牛頭天王、稲荷大明神と称し二社なりしが、後之を合祀し、中野宝仙寺末新義真言宗稲荷山福田寺宝蔵院が別当職であつた。(略)
稲荷社は往古より一ツ木村の鎮守にて、其頃は南寺町勝興寺の境内は明地なりしが、其内に椎の大木有り。稲荷社は其木の下にありしを、宝蔵院未だ清水谷に在りし頃より預りて、注連飾等をなし来つた。然るに勝興寺は宝蔵院と同年に右の明地を拝領して、其所に移転したので、同寺と対談の上、稲荷社を宝蔵院の新境内に遷し、社頭を取建てたと伝へてゐるが、社寺共に鎮座起立の年月は不明である。
天王社の由来に就ては、文政寺社書上に、
一、天王勧請之儀は寛永十八辛巳年、四谷御門外明地大伝馬町助役町地に相成候に付、依之大伝馬町之産神神田明神社地に有之候牛頭天王を右町々産神に致し勧請、当時里俗御仮屋横町邊に小祠相建候由。然る所追々繁昌に付、氏子共相談之上、寛永廿一年寺社御奉行松平出雲守殿町御奉行石谷重蔵殿に相願、御聞済之上、同年六月十八日当稲荷合殿に遷坐致し候。右に付稲荷は鮫河橋権田原鎮守、天王は四谷邊鎮守に御座候。
と伝へてゐる。町方書上布屋の條には、
先祖兵右衛門儀、玉川調布をもて紡績し、家の業ひとして(中略)商ひ次第に繁昌仕、福裕相暮居候處、寛永十八年巳年当所の儀も大伝馬町加役町に被仰付候に付、同廿一年中大伝馬町の氏神牛頭天王、往古より神田明神社内に御座候を、四ツ屋町々氏神に勧請仕度段、前書布屋兵右衛門儀重立、外町々え申語候處、其段可然旨にて右兵右衛門願人に相成、町御奉行石谷重蔵様え奉願上候處、願之通相済、翌酉年六月十八日神田明神社内より神輿遷座致候處、右兵右衛門方え当分之内安置致置、夫より同所南寺町真言宗中野宝仙寺末稲荷山宝蔵院に有之稲荷社内え相殿勧請仕度段、右宝蔵院より寺社御奉行松平出雲守様に御願申上候處、願之通相済候。依之同年正月八日右稲荷社え遷座、今以相殿勧請有之候。(中略)右任旧例に年々正月八日氏子町々備社と相唱、神事法楽仕来候。且又毎年六月十八日より同廿一日迄、同所伝馬町二丁目え旅所補理、神輿遷座致、祭礼神事執行候節は、前書兵右衛門宅前え暫の内神輿◼︎据へ置、神酒等相備へ候儀、先規起立の由緒を以仕来候。
とありて、少しく所伝を異にしてゐる。但翌酉年とあるのは恐らく同年の、同年正月十八日とあるは翌年の誤りであらうと思はれる。
府内備考に據れば、本社は(略)祭神稲荷の本地仏は十一面観音、天王の本地仏は薬師如来となつてゐる。この社殿は文化十一年八月起工し、文政十一年十二月に竣工したもので、彫刻は精緻を極めてゐる、即ち現存の社殿である。(略)境内に天白稲荷社、金毘羅社、疱瘡神社、末政稲荷神社、庚申社等の末社がある。山中笑氏の四谷旧事談には、鮫ヶ橋の永井の屋敷内に鳥大明神の祭として、酉市で賑つた事があつた。其永井は永井金三郎か永井肥前守か不確である。今の四谷天王社内のお酉様は、多分此を移したものだらうと思ふと書いてある。維新当時神仏混淆を禁ぜられし際、本社は明治元年六月に須賀神社と改称し、同五年十月社格を郷社と定められた。(略)
社寳に青江貞次の太刀あり、又拝殿に掲げた三十六歌仙は、画は大岡雲峰、歌は千種有功である。(以下略)」
概ね、神社の案内に書かれていた通りです(こちらのほうが古いので当たり前ですが)。
最後の方には、「稲荷」は「稲荷」、「天王」は「天王」で、別々に祭礼を行なっていた、と書かれています。
何故一緒になったのか……。
そういえば、写真はないですが(観光客が多かったので)、鳥居前から谷の方を見下ろした景色は、なかなか面白みがありました。
そういったところが、海外の方がくる理由になっているのでしょうか。
日常の中にある景色だと思うので、我々はその良さに気づきにくいのかもしれないです。
とはいえ、大事な海外からの観光客だろうがなんだろうが、神社周辺のお宅の敷地に入り込んで騒いでいるのには感心しませんでしたが(大変静かな住宅街だったので)。
ふらっと参拝、これにて〜。
「大國魂神社」(東京都府中市)
9/16。
何かで出かけたのですが、時間があったので、近くまで行ったことはあったけれども参拝していなかった、「大國魂神社」へ。
◯こちら===>>>
府中といったら東京競馬場……いや、何回かしか行ったことないですけどもね……府中駅で降りて、さっさと参拝へ。

これはどこで見かけたのか、庚申塔。

「源義家公とけやき並木」。
「大國魂神社」、と呼ばれていたかどうかはともかく、その時代からあった、ということですね。


「大国魂神社と馬場大門」。
内容的に、「ケヤキ並木馬場の寄進は、府中で伝統ある馬市が開かれていたことにもよります。とくに、府中の馬市は戦国時代から江戸時代初期にかけて、関東でも有数の軍馬の供給地」というところが面白いですね。
だから、東京競馬場……。

参道正面。

社標。

振り返ってみました。

鳥居。



まず、おキツネ様。


狛犬さん。


まずは、「宮之咩神社」。
「天鈿女命」が御祭神、「景行天皇の御代(一一一年)」に創立された、とのことです。

……土俵?


日露戦争記念碑。


手水舎。


苔むした灯籠は味わい深い。

狛犬さんも、味わい深い……。

「武蔵総社 大國魂神社
当神社は、大國魂神を武蔵の国魂を仰いで、鎮祭し祠った神社である、
第12代景行天皇41年(111年)5月5日大神の託宣によって創立せられ、武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。其の後孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645年)により武蔵の国府がこの地に置かれて、当社を国衙の斎場として、国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により側に国内の諸神を配祀したので「武蔵総社」と称し、又両側に「国内著明の神社六社を奉祀したので「六社明神」「六所宮」とも称された。鎌倉幕府以後徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を寄進せられた。明治18年より昭和21年迄官幣小社に列せられ、其の後宗教法人と成る。」
……うむ、だいたい知りたいことが書いてある。
まとまっていて素晴らしい。

狛犬さん。
おや、背中に子犬は珍しい造形かな。

神門。
元官幣小社ですからね、格をきちんと見せないといけません。

鐘楼。
神仏習合時代の名残、でしょうかね。




狛犬さん。

扁額。
「総社六所宮」。

拝殿。


ともに関西の本社から勧請されたようです。




狛犬さん。
ちょっと、キョトン。

「東照宮」。


狛犬さん。
いろいろな種類の狛犬さんが見られるところが素晴らしいですな。

「東照宮」の本殿は赤い屋根。

……これは本社の本殿だった、と思います……。

御神木。

本殿、多分横から。


ちょっと頑張ってきて、治療されている狛犬さん。

「巽神社」。
……急に出てきたな。


「松尾神社」。
こちらも京都から勧請されております。


なるほど三間社流造で、一間社を連結したのか……確かに珍しいですね。

遠景。




御朱印と、宝物殿拝観券と、からすおみくじ。
宝物殿には、重文の狛犬さんがあったので、拝観してきましたよ。
さて。
◯こちら===>>>
大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻,大日本名所図会刊行会,大正9-11. 国立国会図書館デジタルコレクション
大日本名所図会 第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻 江戸名所図会. 第1-4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2026-01-12)
まずは『江戸名所図会』を見ておきましょうか。
175コマです。
(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「武蔵国総社六所明神社
府中駅路の左側にあり。延喜式内大麻止乃豆乃(おほまとのつの)天神社是なり。後世に至りて同じく式内小野神社を合せ祭る。故に今両社一社の称あり。神主は猿渡氏、其餘社司社僧等奉祀す。
本社祭神 大己貴命。 相殿 素戔嗚尊・伊弉冉尊・瓊々杵尊・大宮女大神・布留太神。以上六神、これを俗に六所明神と称せり。
天下春命・瀬織津比咩命・稲倉魂大神。以上三神、これを客来三所の御神と称せり。すべて九神、合わせて共に六所宮と称す。此三神の事は一宮と小野神社との条下に詳なり。
大麻止乃豆乃天神社云々。
大麻止乃智天神。圭田六十七束。六毛田。
所祭大己貴命也。安閑天皇乙卯。始奠宮社。花時以花祭之。新稲之時以新稲祭之云々。
[東鑑]に曰く、治承六年八月十一日己酉。及晩御台所有御産気。武衛渡御。中略。爲御祈祷被立奉幣御使於伊豆筥根両所権現。并近國宮社。武蔵六所宮。葛西三郎云々。
[同書]に曰く、寛喜四年二月二十四日。武蔵國六所宮拝殿破壊。有修造之儀。武蔵左衛門尉資頼奉行之云々。
(略)」
まずはここまで。
いろいろ気になるところはありますね。
「東照大権現宮 本社の右に安座す。元和四年戊午御創建といふ。
注連樹 本社の後、蒼林の中にあり。欅の故株にして数十◼︎あり。相傳ふ、上古國造此所より社参ありし頃、門戸のありし址なる故に、注連を引きはへたりしよりかくは号くといへり。
(略)
宮之姫社 随身門の前、左の方の林間にあり。祭神須勢理比咩命・奇稲田比咩命・木花開耶比咩命、以上三神にして、本社の后妃の神なり。例年七月十二日・十三日、近邑の神職來り集りて、社前において神楽を奏す。むかし鎌倉時世、頼朝卿下知ありてより、此神事を執行するとなり。頼朝卿の下知状は、天正の兵火に亡びたりといへり。
馬場 二の華表の内、左右森の外にあり。東の方の一條を◼︎馬といひ、西の方の一條を缺馬といふ。又大門甲州街道を隔てて北の方、一の華表の内の左右にも二條の馬場あり。慶長年間大阪御勝利の後、御寄附ありしより、後世◼︎馬・缺馬等の馬場の地は、古牧の駒をえらびたりし旧跡なりといふ。
馬市 毎歳五月三日に始りて、九月晦日に終るを定規とす。社前大路の傍に制札を建てて以て警す。此地の馬市はむかし国造の在せし頃、毎歳牧の馬を取り、其良二十五匹をえらびて、是を帝闕に献す。しかして後、諸国より牽き來る所の馬を集めて、人民市をなすとなり。此馬市享保年間に止みて、其後は江戸浅草の藪の内と、麻布十番との二所へ引かれたり。然りといへども、御佳例の馬市なればとて、今も江戸馬口労頭高木源兵衛・山本伝左衛門、毎年当社に詣で此所の馬場において賜る所の御馬に乗じ、旧式をなして後、車内に安座なし奉れる。東照大権現宮へ参詣す。
競馬 毎歳五月三日の夜、六所宮の御旅所の前、甲州街道府中番場宿の大路において、駒役の者十二疋の駒に乗じ、燈火を消して後、暗夜に乗競ぶ。此夜社家の輩検使として、御旅所の傍なる仮屋に伺候す。
(略)
大神事 同五日に修行す。当社の御神出現鎮座の辰なる故に、殊に恐れかしこみ、神官各四月二十五日品川の海浜に至りてみそぎし、其日より禁足して斎に籠る。当日は終日神楽を執行す。黄昏におよび、社家一統神主の宅に集会す。其後神殿に至り、神勇の大祝詞を捧げ、終りて燈火を消し、暗となして神輿をわたし奉る。神輿八基の内七基は、二の華衣の前より甲州街道の大路を西へ渡しまゐらす。一基は随身門の前より左にわかれ、府中本町の方より出でて、ともに番場宿の角、札辻の御旅所へ遷しまゐらす。此間社家の輩馬に乗じ下河原に鎮座の津保宮に至り。深秘の神事ありて大幣を捧げ、帰り來りて御旅所に入り。奉幣の式あり、神事終りて、神主猿渡氏、農夫野口といへるが家に仮家を設けたるに至り、古例の祝事をなせり。相傳ふ、此野口と称ふる家は、往古大己貴命始て出現の時、一夜この家にとどまりたまひしとなり。又同じ農家岡野といへるは、其夜門戸を閉ぢて深く慎み居る事旧例なり。此家は大己貴命出現の時、宿を求めたまひしかど、思の事ありて一家穢れはべりしかば、辞し申せし事の古き例を改めずして、かくするといへり。御旅所の神事旧式ことごとく終りて、禰宜本社に帰り、還幸の設をなせり。神主は神馬に乗じ、御旅所の前において流鏑馬を行ふ。終りて太鼓を打ちならせば、すべて社壇より市店に至る迄、一時に燈火を点ずる事、先の闇きに引きかへて尤めざまし。神主は馬上にて前躯たり。帰輿に及んで、二鳥居の左右と、本社の前随身門の前、西の馬場缺場の方へ至るの間等、すべて四箇所にて篝火を焚きて白昼の如し。又神輿供養の道路を照す所の提灯尤も多くして、実に壮観たり。
(以下略)」
馬関係と、神事について。
この後の記事も、神事について書かれています。
くらやみ祭りについては、神社の公式HPでも紹介されています。
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https://www.ookunitamajinja.or.jp/matsuri/5-kurayami.php
武蔵国には、出雲系の神社が多い、というか「氷川神社」とついているのは全部出雲系(「素戔嗚尊」が主祭神)です。
埼玉県の武蔵国一宮である「大宮氷川神社」が中心になっています。
武蔵国造が、出雲系だったからではないか、と思われます。
式内社としては「大麻止乃豆乃(おほまとのつの)天神社」とされていますが、論社もあるようですし、そもそも神社名が謎すぎて……解釈も多数あると思いますので、なかなか……。
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鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2026-02-08)
『延喜式』をとっさに探せないので、『神社覈録」からですが、大和国十市郡条に、「天香山坐櫛眞命神社」という式内社があり、その元の名前が「大麻等乃知神」とされているので、この神ではないか……となると、出雲系の武蔵国造がわざわざこの神を祀った理由はなんだったのか……なにぶん、「大麻等乃知神」自身は記紀神話に登場されず、よくわかりません。
いずれにせよ、出雲系の武蔵国造が支配したことで、「氷川神社」と同様に「大己貴神」が祀られるようになったのではないかと思われます。
「素戔嗚尊」ではないところに、何かありそうな気もしますね……まあ、すでに「大宮氷川神社」があった、ということかもしれません。
そして、神社最大の神事、いわゆる「くらやみ祭」ですが……ちょっと起源がわからないのですが、変遷した結果の伝承として、明らかに「蘇民将来」が混ざっています。
「相傳ふ、此野口と称ふる家は、往古大己貴命始て出現の時、一夜この家にとどまりたまひしとなり。又同じ農家岡野といへるは、其夜門戸を閉ぢて深く慎み居る事旧例なり。此家は大己貴命出現の時、宿を求めたまひしかど、思の事ありて一家穢れはべりしかば、辞し申せし事の古き例を改めずして、かくするといへり。」
この部分ですね。
もちろん、「蘇民将来」の伝説とは異なっているのですが、これはすでに成立している「蘇民将来」伝説を、神社の祭に当てはめてみた結果だと思われるので、まあおいておきましょう。
で、「蘇民将来」伝説の場合、対象となるのは結果としては「素戔嗚尊」(元々は「武塔神」)なのですが、こちらでは「大己貴神」。
ということは、「大己貴神」も当然、怨霊神として認識されていた、ということになります。
「大己貴神」なのか「大物主神」なのか「大国主神」なのか、その辺りの考察はいろいろあると思います。
ですが、まあ、怨霊神であることは間違いないでしょうし、そうすると「大和坐大國魂神社」、今の「大和神社」と言われているの祭神「倭大國魂神」に倣っているようにも思われます。
本来、宮中にあって天皇と同殿共床だった「倭大國魂神」は、祟りを起こしたので宮中から遷されています。
祭祀者に対して祟る、というのは珍しいことではなく、むしろ構造としては、「祟られる理由があるもの」が「祟り」を恐れて「祀る」ので、祭りが満足いかなければ祟られて当たり前なのです。
この「大和坐大國魂神社」に、各地の「大國魂神社」が倣っているのだとしたら、根源的には、その土地の「大國魂神」、土地神として相応しい当時の支配者の土地を大和朝廷が「奪った」(それも、結構なことをやらかして)、ということなのではないでしょうか。
今は「大己貴神」に上書きされてしまっています(それでも怨霊神ではあります)が、ベールを剥いでいけば、古き土地神に至る、という図式が全国の「大國魂神社」には潜んでいる、と言えるかもしれません。
なにしろ、「くらやみ祭」です。
何かを隠したい、としか思えません。
といったところで、妄想を終えたいと思います。
ん〜、記事を書く環境的に、手元に文献がないもので、もっといろいろ調べて妄想したいところです……。
「卯辰山〜金沢城」(石川県金沢市)
5 /27(※2024年)。
何かの催しがさいたまスーパーアリーナでありまして、珍しく一泊したのですが、そこから金沢まで行きました。
目的は神社仏閣城閣ではなかったのですが、結果としてそうなりまして。
まずは、卯辰山の展望台へ。




いい景色でした……いろいろと思いを馳せることもありまして。
で、そこから歩いて、駅に向かいます(途中でいろいろ寄りましたが)。

「燐寸ノ祖」……。
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なるほど、これは知りませんでした……郷土の偉人ですな。


この辺りが、顕彰碑だったりするようです(写真には撮っていましたが、特に意識はしていませんでした)。

「卯辰山三社
卯辰山三社とは、愛宕神社、卯辰山天満宮、豊国神社の三社をいう。
卯辰山天満宮は、慶応三年(一八六六)、一四代藩主・慶寧が庶民のための福利を図らんとして卯辰山開拓時に、守護神として兼六園にあった竹沢御殿の天満宮をこの地に移した。
豊国神社は旧郷社で主祭神は豊臣秀吉と愛宕大神、江戸時代は卯辰山王または卯辰観音と称していた。
明治元年(一八六八)の神仏分離令の際、秀吉を主神とし豊国神社と改称した。後に村社である愛宕社を合祀し、明治一九年(一八八六)、氏子地の殿町に移ったが、明治四〇年(一九〇七)、現在地に移り、村社・卯辰神社を合祀した。
寺宝の刀は、県指定文化財になっている。」


山を下っていたら、突然神社が登場。
しかし、お参りせずでした……いや、時間が不安だったもので……回らないといけない場所が……。








で、なんやかや回って、金沢城に辿り着きました。
いやあ、歩いた歩いた……。


ビールなぞ飲みながら帰ってきましたが、両足を攣り続ける、という地獄のような時間を過ごしたので、運動不足……いけませんな……。
さて、参拝もしていないのに、一応。
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金沢市 編『稿本金沢市史』 社寺編,金沢市,大正5-14. 国立国会図書館デジタルコレクション
稿本金沢市史 社寺編 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-12-27)
↑こちらより(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
50コマです。
「豊国神社
豊国神社は豊臣秀吉・菅原道真等を祀り、東御影町(九十三番地)に在り、本社は藩政時代に卯辰山王と称し、俗に卯辰観音といひ、金沢城内の産土神に崇め、真言宗観音院其別当たりき、三州志来因概覧附録に、卯辰山王社は初め小立野尻谷坂の上に鎮座ありしかと、慶長六年加賀藩主前田利長卯辰山の地を相し、山王社を遷祀し、本地観音堂を造営して、祈祷所となし、元和二年藩主前田利常の室天徳院は、観音堂等に荘厳を加へたり、との趣を載せ、今枝直方の手記に、卯辰山王は天徳院の産土神にて、公子誕生につき、卯辰山に山王を勧請し、宮参をなしたる由を記し、又延寳二年の由来書に據れば、元和二年天徳院は観音堂及び鎮守山王社を建立し、翌年藩主利常命じて客殿等を造営せしめ、少将公(光高)以下諸公子宮参をなし、定めて歴代産土神の宮寺となし、懐胎毎に祈祷せしむることとなれりといふ、これ等の記述に小異あれど、其来歴粗推知せらる、森田平次は、卯辰山王は石浦山王の影向社ともいふべく、慶長十一年八月石浦七村氏子連判状に、石浦村の内三わうの宮うつしの時、御せんぐとして、あんぜん坊石浦村へ御出云々と見え、石浦観音縁起に、行基亦依郡吏之請山王権現開眼供養面爲地主権現とありて、長谷観音は御其本地仏にて、金沢の城地は石浦の郷内山﨑村の地内なるに依り、城内の産土神なるを、天正八年の兵火に社殿焼亡し、神宝および本地仏をば借ゆき、ここかしこに安置せし頃、卯辰山に社殿本地堂を造立して、観音院と号し、場内の産土神となしたるものなり、といへりしかど、何如にか、卯辰山王に豊臣秀吉の像を祀れることは、古より口碑に伝承するところにして、大阪城陥りて後、徳川氏は京都阿弥陀ヶ峯の豊国神社の本社を毀ちて、廃社となしたれば、徳川氏を憚りて、穏密の間に秀吉を祀り、前田利家を配祀し、卯辰山王を一社の総号となせり、又寛永十年観音院四代祐譽は、一派の觸頭を命ぜられ累代此職を継げり。
(略)
明治維新の際、神仏混合を廃せられたれば、明治二年加賀藩より神祇省に其状し、卯辰山王の社号を除き、豊国神社と號し、秀吉を主神となせり、又従前は本地観音堂は本社の如く、山王社は鎮守の小祠なりしかど、此に至り、観音堂の本地仏十一面観音等の仏像を除きて、仏器と共に医王院・愛染院に附与し、仮に神殿に充てて、神像を遷座し、尚寛永十年より、山王の相殿に祀れる利常及び天徳院の画像と、愛宕明王院に祀れる前田綱紀の画像等をも合祀し、別当観音院は復飾して長谷氏を称す、明治二年五月、金沢藩知事前田慶寧は自ら豊国大明神と書して、これを社頭に懸け、藩庁よりは、長谷大膳に封して、豊国大神の御名目御顕、御産土神御崇敬被爲在候に付、格別之趣を以爲御祈祷料等年々玄米四拾石充、御寄附仰付云々、の書付を與へたり、三年正月、藩庁は百事を改正し、白山比咩神社外四社寺を祈祷所となし、他の社寺が祈祷所たることを廢めたれど、本社及び安江八幡社は、従来の如く、特に祈祷所たるを得たるにて、当時の達書に左の如く見ゆ、
(略)
五年十一月、郷社に列せられる、八年是より先に、明王院は村社愛宕社(阿多護社に作る)と改称したるが、此に至りて本社に合併し、九年九月氏子等本殿・拝殿を新築したれど、十七年殿町の旧藩士佐藤氏邸地の内を買上げて、社地となし、越えて十九年十月、移転の工事竣成して遷座し、四十年九月、復た卯辰神社の社地内に移転して、神殿を新築せり。」
といったわけで、まあ、前田家は徳川についたとはいえ、秀吉は元々織田信長配下の武将ですし、こっそり祀っていたとしても不思議ではないわけですが、さてどうなのでしょう。
郷土史家のみなさまにお任せすることにしましょうか……。
というわけで、急いで行ってきた石川大観光、の途中で立ち寄ってきた記録でした。
「海山道神社」(三重県四日市市)
2/12(あ、2024年です)。
何を思ったのか、ちょっとドライブがしたくなったのですが、あまり時間はなく、行けそうなところで検索し、そういえばあったな……というわけで、「海山道(みやまど)神社」へ。
◯こちら===>>>

ほとんど予備知識なしで、ただ近鉄の「海山道」駅から見えるというだけの理由で気になっていたので、行ってみました。


お稲荷さんだったか……よい爪だ……荼枳尼天の眷属はジャッカルだった説を思い出す……。

連なる朱の鳥居。

「開運稲荷大明神」。

お百度石って左右にあるものなのか……。

ちょっと、境内図が思い出せないのですが、かなり広い敷地だったと思います。
その中にいくつかの神社がある、という感じ……。

本殿……だけど、どこの本殿だろうか……。

「助四郎稲荷神社」。
「助四郎稲荷さまは、海山道稲荷さまの神使狐総本家のお宮です。
二月の節分にはこの総本家助四郎家の子狐助太郎と福徳家の娘狐福子の日本一ほほえましい「狐の嫁入り道中神事」が執り行われます。開運成就はもちろん厄除、縁結び、恋愛、出世などに御霊験あらかたなお稲荷さまとして広く崇敬を集めています。」
……なるほど、総本家……。

……赤い狐!
赤い狐!!

猫!!(急に?)

「大漁清助稲荷大明神」。

お稲荷さんと大漁はどこで結びついたのか……。




こちらが「開運稲荷大明神」か。

おっと、「みやまど天神」様です。
天神様も朱塗りか……。

かなり大きい天神様像のようです。
近代以後、あまり神像というのは作られていないと思います(そういう対象じゃなくなったので)。
でも、耳目を集めるには、こういったものも必要でしょう。

天神様と梅。

そうそう、思い出した、これがあったんでした……多分、日本でここだけの「四角鳥居」。
三角鳥居はいくつかありますが。
こちらは、建てられ方からして、参道のどの方向からでも鳥居をくぐることができるようになっているのだと思われます……。
次は五角鳥居を探しに行くか(ないない)。

「報国稲荷神社」。



とにかく、お稲荷さんを詰め込んだ感じですね。

「足留稲荷大明神」。

小さい……。

「安全稲荷大明神」。

「合格稲荷大明神。

「福寿」「厄除」「助一」……。

「必勝」。

「玉富」。

「伏見」「出世五社」。
……おお、やっと「伏見」が。
「成功」。

「福龍」。

「助六」「白龍」。


……絶対、弁天か宇賀神だったんじゃないかと思いますね。

「日興」「春熊」……「春熊」ってなんだろう……。

「金生」。

小さい……。

「熊鷹」。
また熊か……。

「真弓」「長谷川」……どこかの家神様だったかな……。

「招福」。

やっと入り口付近……境内図がありました。


で、境内図をみていただけるとわかりますが、かなり大きめのお社なのに、お稲荷さんの存在感に負けている感じのある、「洲崎浜神明宮」。
海が近いんですね。

郷土の偉人のことは、たくさん勉強しておきましょう(私も含めて)。
100年前も、そろそろ歴史学の範疇です。

立派な鳥居も社標もあるじゃないか。




狛犬さんたち。
何故塗った……。

「洲崎浜神明宮」遠景。
天水桶がよい。
今気づいたけど、瓦葺なので、江戸の頃かな。

遥拝所。




「海山道神社」本殿(だと思う)。
地方の中規模クラスの神社は、本殿の後ろにまわれることが多いような印象。


手水鉢。

鳥居越しの駅。

駅からの鳥居。


こちらが正面でした。

拝殿とその周辺。

鳥居の並び具合に節操を感じないな……。
さて。
国会図書館オンラインで、いろいろ文献を検索してみたのですが、ぱっとしたものが見つからず……ううむ……。
で、公式HPをみていたらですね、
「当社は、洲崎濱宮神明神社(すざきはまみやしんめいじんじゃ)の境内社で海山道開運稲荷神社と称し、丁度、前社は伊勢の内宮さま、後社は外宮さまに当り、境内社の方が著名であるのは誠に尊いことです。
俗に“みやまどさん”(総称海山道神社)とよばれるのは、伊勢路の伏見稲荷総社として高遠なる御神徳を称えて此の土地の地名で代称されているのです。
その昔、西行の「昨日たち今日立ちみれば日永なる洲崎に見ゆる森のひとむら」と詠まれたと言うそのままの森は、神々しさ自ら身に迫る思いがします。
また、江戸時代には徳川家のあつい崇敬により葵の御紋を許され、神戸侯を始め水谷検令(代官水谷九佐衛門)等からも崇められ、古くから全国崇敬者の信仰をあつめています。」
らしいんです……あ、「洲崎濱宮神明神社」のほうがメインだったんですね。
「西行」法師が歌を詠んだくらいなのですから、何か文献残っていないかな……私が見つけられないだけだとは思うのですが。
一応、調べてみると、かつては「日永村」、「東海道」から「伊勢参宮街道」に分岐する「追分」という辺りに位置しているようなのですが……。
◯こちら===>>>三重県神職会 編『三重県下の特殊神事』,三重県神職会,昭13. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-09-12)
↑こちらでは、「洲崎濱宮神明神社」の神事が、わりと紙幅を割いて紹介されているので、昭和初期には存在感のある神社だったと思われます。
他にも、「日永村」で検索すると、井上円了先生の『妖怪学』がヒットしたりしまして、それはそれで非常に興味を引かれているのですが……肝心の「海山道」が引っかからず……。
◯こちら===>>>
伊藤清太郎 編『神戸平原地方郷土史』前編,河曲同窓会,昭11至13. 国立国会図書館デジタルコレクション
神戸平原地方郷土史 前編 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-09-28)
↑こんなのを観てみるとですね(p34)、
という記載があって、もはやしっかり郷土史をやらないとわからない……。
◯こちら===>>>
鎌井松石 著『三重管内博物誌』巻16,鎌井松石,明治13. 国立国会図書館デジタルコレクション
三重管内博物誌 巻16 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-09-28)
↑では(59コマ)、
「狐 音胡 俗称 射干
管内處々山野ミナ住ム就中三重郡馳出村海山道ノ社域其夛数百狐窟アリ心願ノモノハ赤豆飯油揚ヲ供フ若シ人ニ托キ或ハ狐ノ為ニ魅サレ大害ヲサス等ノモノハ海山道ノ神宮霊符ヲ以テ禳クトキハ忽チ退狐ス」
という記事がありまして……狐が多かったから、稲荷……まさか……。
◯こちら===>>>
小菅敏治 編『三重の山水を廻りて』,太田書店,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-09-28)
↑では(p130)、
「海山道稲荷は流行神である。此村の代官縄と殿縄との中間は、永禄中長野城主工藤具藤が、国内の諸将と合縦し、亀山城主関盛信と血戦し、大に之を敗つた址といふが、今は耕地である。此辺一たい能く耕地が整理されて居る。再び折返して日永を過ぎ四郷村に入る。西日野に安国寺址がある。此の日野も室山も巨商富豪の巣窟である。両伊藤家の如きは、共に日本の名家として、産業界に赫々たる名声を発揚されて居る。八王子には小さな遊園がある。(略)」
……まあ、詳しいことは書かれていなかったですが……。
とりあえず、「狐が多かったから、稲荷神社が栄えた」説について、地域の方にお伺いしたいところです……。
伊勢国は、掘ると大変ですね……妄想考察するにも、地域の図書館とかに行かないと……皇學館に行けばいいのかな(やめときなさい)。
というわけで、参拝したのはすっかり去年ですが、やっと記事を書けました……。
「日比谷神社」「鹽竈神社」「田村銀杏稲荷大明神」(東京都港区)
ふう、更新が滞る滞る……。
2024年の1/6、です。
新年から催し物があって上京したのですが、その際に初詣できるところ……現場に近くて……と探していたら、発見しました、。
◯こちら===>>>

ロケーション的には、本当に街中の、片隅に、それでも存在感大きく鎮座している、という印象。
日本は、町ごとに教会がある西洋と違って、ちょっとした一隅に神社や祠があって、それを不自然とも思わないのですが(日本人ですから)、現代的な建物が立ち並ぶ中、急に出現すると、ちょっと奇妙ですよね……超高層ビルと、昭和の名残の商店と、神社仏閣……奇妙。
あ、こちらは、お稲荷さんです。
狛犬いますけど。

拝殿。

「稲荷神社」の、これはランタンかな……。


いかめしい狛犬さん。

境内から、鉄道の高架が見えます。
これも奇妙といえば、奇妙、なはずなんですが……。

鳥居と社標。
新年だったので、ちょっとおめでたい感じです。
さて、とぼとぼと徒歩で目的地まで移動したのですが、まだ時間があったので、新橋周辺をうろうろしていると、発見しました、「鹽竈神社」。
◯こちら===>>>

やけに背の低い石灯籠……ではなく、こういった形になっちゃう石灯籠、多いですよね。
長い年月を乗り越えてきたのでしょうけれども、どうしても破損してしまいますからね……。

「塩釜公演の沿革
★」

社標。

地元の方に整備されているのか……神職さんが常駐しているようには見えなかったので、どこかの神社の方が兼務されているのか……参拝したときは、地元の方が公園で遊んでいて、お参りもしていたりして、地元の鎮守だな、と微笑ましかったのを覚えています。

拝殿前。

天水桶……かな……。


小さめ、いかめしい狛犬さん。

ええと……「稲荷神社」と「秋葉神社」の縁起、ですね……縁起か……由緒じゃないのか……。

お稲荷さんです。

で、大きめの「恵比寿」「大黒」……急にどうした、と思いました。
結構シュールだ……。

神社全景。
私の生まれ育った地域にも、公園に隣接した神社があり、ちょっとそれを思い出しました。
鎮守の杜って、怖かったですよね……まあ、それも昭和の人間の感覚なのかもしれないですが(その割に、今でも都市伝説だのが流行っているのが不思議な気がします……人間は、そうそう簡単には変わらない、ということなのか……)。
で、まだうろうろしていたんですが、「浅野内匠頭終焉の地」、「田村銀杏稲荷大明神」なるものを発見。
◯こちら===>>>

歴史好きというのは、須く『三国志演義』と『忠臣蔵』に詳しい、と思われているような風潮が、個人的には納得できないのです……私、全く詳しくないもので……。


「切腹最中」なるものがあるそうで……愛知県には、「全滅クッキー」ってあるんですよね……。
◯こちら===>>>
ブラックジョークというか、諧謔というか……こういうのは、人間、好きですよね(何様?)。

御朱印を「日比谷神社」でいただけました。
最近は、神社仏閣巡りもちっともできていないので、数は増えませんが……できるだけ遠征したら、どこか行くようにしています。
さて。
◯こちら===>>>
大沢興国 編『東京便覧』,錦栄堂,明34.5. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-07-04)
↑まずはこんなところから。
p43です。
「日比谷神社 芝日陰町にあり、豊受太神宮を祀る、万治の頃京都藤の森稲荷を日比谷に遷し、後日比谷辺の町家を移せし時共に遷座し、日比谷稲荷と称せり、毎歳祭礼には軒毎に道具を吊附たる見立絵の灯籠を掲ぐ、見立絵行燈は茲始まれり。」
万治年間といえば1600年代前半か……万治の石仏しか思い出せないな……。
日比谷、は何故日比谷なんだろう……いや、調べれば、多分わかる……。
◯こちら===>>>
『新撰東京実地案内』,薫志堂,1893. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-07-04)
↑これもちょっと覗いてみます。
p33です。
「日比谷神社 芝口三丁目里俗日影町通りにあり鯖稲荷と称へて参詣多し」
鯖稲荷……鯖?
◯こちら===>>>
岡村金太郎 著『水産叢話』,博文館,明40.7. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-07-04)
↑検索していたらこんな本が引っかかりました。
考察の内容の真偽はともかく、日比谷という地名についての考察です。
p144から見てみてくださいね。
簡単に言うと、海苔をとるときの「ひび」という道具が沈めてあった海辺の辺り、だから「ひびや」という、わけではない、という内容が書かれています。
引用するとかなり長いので、それぞれ確認してください。
いや、神社のことを調べていて、水産関係の本に辿り着くとは……面白いものです。
『忠臣蔵』のことは、もうちょっと勉強します……いつの日か……。
「安井金比羅宮」「六道珍皇寺」(京都市東山区)
10/9。
「菅原院天満宮」を離れ、久々に「八坂神社」にやってまいりましたよ。
観光客がすごかったですよ。
直前に、拝殿でのトラブルのニュースがあった頃だったか……違ったかな……。




まあ、ほぼ狛犬さんに会いに行っただけなんですが……。
そして、そこからブラブラ歩いてみよう、ということで、「安井金比羅宮」へ。
◯こちら===>>>

事前知識ないままに参拝したのですが、こちらも人が多い……有名なところなんですね(無知)。

「(略)
江戸時代には綱敷天神や梅丸天神とも呼ばれ、洛中(京都の市中)の主要な天満宮を巡る「洛陽天満宮二十五社巡拝」のお社の一つとして信仰を集めました。文政四年(一八二一)に奉納された第三番巡拝所であることを示す石碑が現在も建っています。なお第十七番とする説もあります。
また社前の狛犬は台座の銘文から、明和四年(一七六七)十月、木屋町二條(現、京都市中京区)の人々によって建立されたことが分かり、年代が明確な石造狛犬としては京都市内最古として有名です。
(略)」
……そういえば、「菅原院天満宮」も「洛陽天満宮二十五社」に入っていたのではなかったか……どこかで一覧を探してみましょうか。


なるほど、趣がありますな……キャラクターとしての味が出ています。

「久志塚」……櫛の塚ですね。
どこかでも見たかな……芸術系の神様(「天鈿女尊」とか)の神社にあったような。
こういったものも、だんだんと薄れていくんでしょうね……悪くないものだと思うのですが。

櫛、といえば、「八岐大蛇」退治の頃は、まだ大陸から櫛が伝わってきていなかったのではないか、という話がありますね。
だからどうした、ですが。

「末社 八大力尊社
御祭神 八大力尊
(略)
八大力尊は、この地にあった蓮華光院の御堂の柱を支えた力石であったと伝えられております。当宮の鎮座する東山安井には、明治時代まで安井門跡「蓮華光院」という真言宗の寺院がありました。明治維新後の神仏分離の影響を受け、明治四年(一八七一)、鎮守社であった金比羅宮のみが残され、寺院は大覚寺へ合併され廃寺となりました。その後、地中より発見された御像を奉祀奉祀したのが八大力尊社といわれています。
当神社に残る唯一の蓮華光院ゆかりの八体の御石像は、基壇の一部として建物を支え続けたことに由来して、基礎を固めて困難や逆境に打ち勝つ力、社会を生き抜く能力を授けてくださる神様として、また現在では基礎能力の向上、スキルアップの御利益・御神徳の神様として崇敬されています。平成二七年に社殿の建替工事を行い、大覚寺御門跡とともに同年十月十日正遷座祭を斎行致しました。」
なるほど、神仏習合な存在ですね。
何かの基礎になる、ということは「そこから動くな」ということでもありますので、仏像ではよく夜叉が踏まれていますね……もちろん、単純に力持ち(力士とか)にあやかって、基礎にすることはあると思われますが、やっぱりSF古代史好きとしては、人柱的なものではなかったか、と妄想してしまいます。

あれ、「八大力尊社」じゃないな……。
「秋葉社」、「人丸社」、「咡社」。
「秋葉社」は、火伏せですね。
「火之焼速男神(ひのやぎはやおのかみ)」という表記は、多分神仏分離の頃につけられたのではないか、と思います(「秋葉権現」ですから)。
「火気の元の火止まる」の語呂合わせで「防火」の神様と……知らなかった。
「咡社」はまた珍しい……御祭神が不詳、「密語社」とも言われている……「密教の呪文」の意味もあるらしく、真言宗らしい神仏習合ではないか、とも考えられますね……しかし、「白山比咩大神」という可能性はないでしょうか……記紀神話で内緒話といったらもう、「白山比咩大神」でしょう。
何ら証拠はない、ただの妄想ですよ。

あ、こちらが「八大力尊社」です。

裏に回っていけます。

「御背の御扉
主祭神 崇徳天皇様がお鎮まりになる御本殿中御座の御内陣の真後、即ち御神座の背面に位置する御扉。
神社建築では、本殿裏側に扉を設ける事は非常に珍しく、当宮は明治維新まで安井門跡蓮華光院という寺院の鎮守社であったため、仏教建築の影響によるものかと思われます。仏堂では背後に「後戸」という入口を設ける事があり、神仏習合(神仏混交)時代の様式を残すものと考えられます。
本殿外からとしては、御神座に最も近いことから、いつの頃からか御本殿正面のみならず当御扉にも手を合わせて祈願する習わしがございます。
なお「お百度参り」の際は、【①本殿正面で参拝②右回り(時計回り)で本殿真裏に至る③「御背の御扉」で参拝④右回りで正面に戻る⑤「お百度石」に至る】という一連の流れを一回と数え、百回繰り返して祈願する方法が伝わっております。現在では殆ど見受けられませんが、古くはより一層の御神徳を受けたいと切実に願う人々がお百度を踏まれました。」
というわけで、いわゆる「後戸」にまわることができるのですね。
案内文にもありますが、お百度の踏み方も(右回り、つまり右繞)、仏教的な要素が加わっているように思います。
天台宗で「後戸」といったら「摩多羅神」で、主祭神の「崇徳天皇」とはあまり共通点はないように思われます……が、怨霊ですからね……。

これは……何だったかな……。

「御背の御扉」。

拝殿正面。

「稲荷社」「厳島社」。

……これも何だったか……二階建ての構造物が神社には珍しいので撮影したみたいです。

松。


狛犬さん。

社標。
薄いですね……「郷社 安井神社」。

縁切り……あれ、この狛犬さんはアップで撮影していないぞ……。

社伝によれば、保元の乱(一一五六)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳上皇の霊を慰めるため、建治年間(一ニ七五〜一ニ七七)に大円法師が建立した光明院観勝寺が当社の起こりといわれている。その後、観勝寺は応仁の兵火により荒廃し、元禄八年(一六九五)太秦安井(右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として、崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金比羅さんの名で知られるようになった。
本殿東の絵馬館には、当社に奉納された代償様々な絵馬が陳列されており、江戸時代の画家山口素絢等の作品も含まれている。
また、境内にある「久志塚」は、古い櫛の供養のために築かれた塚で、毎年九月の第四月曜日に櫛祭が行われる。」
なるほど、移ってこられたのか……それにしても、「崇徳院」と「源頼政」を一緒に祀っているのはどんな理由なんでしょうね……保元の乱では敵対関係ですし……何か逸話があったかな……「源頼政」は、怨霊になるにはちょっと弱いし……ううむ……。
あ、それはともかく、こちらの有名な「縁切り縁結び碑」ですが、あまり天気のよくない日にも関わらず、多くの方が順番待ちをされていたので、撮影はしていません。
縁切りたいのか、縁結びたいのか、どちらもなのか……「崇徳院」もお困りなのではないでしょうか(「日本の大魔縁」になったお方ですので、合縁奇縁自由自在、ということなのか……)。
さて、そこから足を伸ばして、「六道珍皇寺」にもお参りに。
◯こちら===>>>

短い時間しかいられなかったのですが。

平安の昔、この寺の界隈は今日の東の葬地、鳥辺山へと続く道の出入り口付近にあたり、現世と冥界の境「六道の辻」と呼ばれていました。
また、徒然草に「あだし野の露、鳥辺山の煙・・・」とあるように、当時は飢饉や疫病の流行により、鳥辺山にはいつも骸を荼毘に附す煙が絶えず、また裾野一帯には火葬にすらできない人びとの遺骸や髑髏が散在するといった、まさに寂寥だけが支配する荒無地であったのです。
こうした人の世の無常とはかなさの光景を憂い、亡者の魂魄(霊魂)の弔いと冥界での往生を願われた弘法大師(空海)が、今より千年以上前に、この「六道の辻」の地に身の丈七尺七寸(約二メートル三十センチ)の大きな石仏を一夜にして刻まれたのが、この『大石地蔵尊』と伝わります。
この地蔵尊の持ち物は左手に「宝珠」、右手には「錫杖」を持たれていますが「宝珠」とは「如意宝珠」にて意のままに願望を成就させてくださり、「錫杖」は、この世で迷い苦しみの世界にある衆生から地獄に堕ちた亡者まですべての救済のためどこにでもこの杖をついて出向いてくださり、そして時にはこの杖上部の金の輪を鳴らし、悪をも退け救っていただけることを表しています。
こうした地獄の果ての罪人までにも慈悲の目をそそいでくださる地蔵尊だからこそ、いく世紀も前より今もって京の人びとに篤い信仰があるといえるのです。(略)」

なるほど……この屋根の趣の無さよ……。

境内。

「平安の銘鐘」は鳴らせたようです。

「閻魔・篁堂
堂宇には、右手に笏を持った等身大の衣冠束帯姿の小野篁立像(江戸時代)と善童子や獄卒鬼さらにはその傍には、閻魔大王坐像(小野篁作)を安置するとともに弘法大師(空海)坐像等を合祀する。
小野篁(八〇二〜八五二)は、参議小野岑守の子で嵯峨天皇につかえた平安初期の政治家であり文人・歌人としても知られる。
文章生より東宮学士(皇太子の先生)などを経て閣僚級である参議という高級官僚にまでなり、また乗馬・弓術・剣術など武芸百班にも優れた文武両道の人物であった。
不羈な性格で、「野狂」ともいわれるように奇行も多く、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔王宮の役人であったという奇怪な伝説は、「江談抄」や「今昔物語」などの説話集や「元亨釈書」等にも数多くみたれることより、平安末期頃には篁が、独特の神通力を有しつねに現世と冥府の間を往来する閻魔庁における第二の冥官であると語り伝えられていたことがうかがえる。
また、篁は承和五年(八三八)三十代半ばで遣唐副使に任じられながら、大使の藤原常嗣と争い、「西道謡」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどにより嵯峨上皇の怒りに触れて、隠岐へ流罪となり、一切の官位官職を奪われたこともある。しかし、承和七年(八四〇)には帰京・復位を許され、その後は学殖を高くかわれて順調に官位を登り、承和十四年には従三位という高位に就いていることからも篁の尋常でない才能のほどがわかる。
篁が流刑地の隠岐へ流されるときに詠んだ歌は小倉百人一首にも採られ、知る人も多い。
わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船(略)」

「地獄の冥官 小野篁の伝説が残る現世と冥界の境界にある寺
古来、化野、蓮台野とともに風送の地として知られていた鳥辺野。かつての五条通であった門前の松原通は鳥辺野へ亡骸を運ぶ際の通路であった。現世から冥界へ行く際の入り口とされたこの寺の界隈にはさまざまな伝説が残る。
平安時代、五条坂から今熊野あたりの阿弥陀ヶ峰の麓一帯は鳥辺野と呼ばれる京の東に位置する葬送の地であった。
都人たちは、人が亡くなると亡骸を棺に納め、鴨川を渡り、鳥辺野へ至る道筋にあたる六道珍皇寺にて野辺の送りの法要を営み、この地で最後のお別れの後、隠亡により風葬の地である鳥野山の麓へと運んで行かれた。
そんな風習のためか珍皇寺の辺りを中世以降「六道の辻」と称し、他界(冥界)への入り口とされてきた。
この六道とは、仏教の説く六道輪廻の死後の世界のことで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つの世界をさす。
衆生は死後生前の善悪の業(行い)により、六道のいずれかに赴くとされ、珍皇寺はこの六種の迷いの世界への入り口にあたり、こここそが人の世の無常とはかなさを感じる「あの世とこの世」の分岐点と信じられてきた。
この寺と冥界にまつわる伝説がもう一つある。それは、平安時代初期の官僚で、閻魔大王に仕えたとされる小野篁は、この珍皇寺の庭の井戸を使い、夜毎冥界へ通ったという。また、その出口として嵯峨野の大覚寺門前の六道町に明治頃まであった福生寺の井戸を使ったとの説もあるが近年当時の隣接民有地(旧境内地)より、冥土からの帰路の出口に使ったのではと伝わる「黄泉がえりの井」も発見され、神秘の世界との繋がりをより深めることとなった。(略)」

「お迎え鐘
この鐘楼にかかる鐘は、毎年盂蘭盆にあたり精霊をお迎えするために撞かれるが、古来よりこの鐘の音は、遠くは十萬億土の冥土まで響き渡り、亡者はそのひびきに応じてこの世に呼び寄せられると伝わることより「お迎え鐘」と呼ばれている。
「古事談」によれば、この鐘は、当時開基の慶俊僧都が作らせたもので、あるとき僧都が唐国に赴くときにその鐘を三年の間、この鐘楼下の地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立った。
ところが留守をあずかる寺僧は待ちきれず、一年半ばかりたって掘り出して鐘を撞いたところはるか唐国にいる僧都のところまで聞こえたといい、僧都は「あの鐘は三年間地中に埋めておけば、その後は人手を要せずして六時になると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた」といって大変残念がったという。
しかし、そんなはるか彼方の唐国にまでも響く鐘なら、おそらくは冥土までも届くだろうと信じられ、このような「お迎え鐘」になったと伝えられている。かかる話は「今昔物語」巻三十一にも同巧異曲の物語で出てくる。こうした由来の鐘であるから、お盆の時期にはこのお迎え鐘を撞く順番を待つ参詣人の列が八坂通りまで蜿蜿と続く。
そんな風景をみて昭和初期の歌人、川端茅舎は次のような俳句を詠んでいる。
金輪際 わりこむ婆や 迎え鐘
迎え鐘 ひくらしろより 出る手かな
毎年お盆の時期になると、このお迎え鐘は千年もの長きにわたり澄んだ音色を時空をこえて冥土まで響かせ、旅立たれた多くの精霊たちを晩夏の都に迎えている。そして、また来るお盆を迎えるまでは、この寺を訪れる多くの人たちの心の安らぎと幸せをもたらす「慈しみの鐘」として、その穏やかな音色は渇いた心をやさしく癒してくれる。(略)」
……『今昔物語』、全部読んでいないな……大事だ。

「薬師堂」。

「六道の辻」。

「小野篁卿舊跡」。
今までこの辺りはよく通っていたんですが、どうしても「六波羅蜜寺」に行ってしまう、という……(いや、結構離れているだろう……)……「六道珍皇寺」、中の写真はあまりありませんが(仏像は基本撮影できませんから)、やっと私も「六道の辻」に……で、結果解脱はできないのですね……悟ってからここに立つべきか……。





「八坂神社」は、昔もらい忘れていた分をいろいろと。
「六道珍皇寺」は、本当に立ち寄っただけで、御朱印がいただけるのかどうか、わかりません。
さて。
◯こちら===>>>
大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第1編都名所図会,大日本名所図会刊行会,大正7-8. 国立国会図書館デジタルコレクション
大日本名所図会 第1輯第1編都名所図会 都名所図会. 上,下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-04-16)
『都名所図会』から。
まずは、p220。
「安井観勝寺光明院 は安井御門跡前大僧正性演再興し給ふ。古より藤の名所にて、崇徳天皇の后妃阿波内侍、此所に住ませ給ふ。天皇保元の乱に讃岐国へうつりましまして、御形見に束帯の尊影、御随身二人の像を画きて、かの地より皇后に送り給へり。其後天皇(讃岐院とも申す。)配所松山に於て、大乗経を書写し、和歌一首を添へ給ひて、都の内に納めんとて送り給ふ。
濱千鳥跡は都にかよへども身は松山にねをのみぞなく 讃岐院
然るを小納言入道信西奏しけるは、若咒咀の御心にやとて、御経をば返しければ、帝大に憤り給ひて、大魔王となつて天下を朕がはからひになさんと誓ひて、御指の血を以て願文を書き給ひ、かの経の箱に、奉納龍宮城と記し、椎途といふ海底にしづめ給ふに、海上に火燃えて、童子出でて舞踏す。是を御覧じて、所願成就すと宣へり。夫より爪髪を裁り給はず。六年を経て長寛二年八月二十六日に崩御し給ふ。御年四十六、讃州松山の白峰に葬り奉る。(已上[保元記]に見えたり。)夫より御霊此地に来りて、夜夜光を放つ。故に光堂ともいふ。然るに大圓法師といふ真言の名僧、此所に来つて参籠す。崇徳帝尊体を現じ、往時の趣を示し給へり。大圓これを奏達し、詔を蒙りて堂塔を建立し、かの尊体を鎮め、奉り、光明院と號しける。仏殿の本尊は准胝観音なり。御影殿は後水尾院の宸影、明正院并に東福門院の尊牌を安置し奉。又弘法大師像あり。奥の社は崇徳天皇、北の方金比羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶ゆる事なし。崇徳帝、金比羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ、利生霊験いちじるしとぞ見えにける。当寺の門前を新更科と號し、中秋には洛陽の騒客ここに集りて、東山の月を賞す。今は家居繁く建てならびて、風景を喪ふ。」
半分くらいは「崇徳天皇」の伝説で、あとは「光明院」だった頃の描写。
最後に「風景を喪ふ」っていうのは、なかなかすごい表現だな、と思います(江戸末期〜明治に書かれているので、さもありなんか)。
続いて、p100に戻りまして、
「珍皇寺 は建仁寺の南、松原通にあり。(六道と號す。)本尊薬師仏は、伝教大師の作にして、開基は慶俊僧都、中興は弘法大師。篁堂には小野篁の像を安置す。(此所より冥土へ通ひし道なりとぞ。)閻魔堂は東の方にあり。迎鐘は七月九日十日、参詣の人此鐘を撞いて、聖霊を迎はしむなり。
六道辻 本堂の南にあり。当寺は久代平安城の墓所なり。桓武天皇延暦十三年に、長岡より此京にうつらせ給ふ時、此所を諸人の墓所に定め給ふ由、[遷都記]に見えたり。又ここを愛宕ともいふなり、([源氏物語]に、桐壺の更衣を葬り、おたぎといふ所に其さまいかめしうしてと書けるも、此所の事なり。[河海抄]には、弘法大師の聖跡として、東寺の長者管領しけるとかや。今は建仁寺の塔頭大昌院の兼◼︎所となる。)」
ちょっとあっさりですが。
「小野篁」といえば、我々世代には、『篁・変成秘抄』なのですが、これが不思議なことに読んだ記憶がない、という……『宇宙皇子』は読んでいたんですがね……ともあれ、初めて「小野篁」を意識したのはこの本であることに間違いはないです。
いやあしかし、年に一度は京都に出かけて、「萬福寺」でのんびりしたいものですね(祇園も東山も嵐山も、観光客だらけ……)。
「六道珍皇寺」は、もっといろいろと妄想したかったです……。
「菅原院天満宮神社」(京都市上京区)
10/9。
「護王神社」から丸田町方面へ下っていったら、発見したのは「菅原院天満宮」。
◯こちら===>>>

※(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)
「由緒書
一、祭神
(略)
当、菅原院天満宮神社は、従四位、下治部卿菅原古人朝臣。次は従三位、清公卿、次は参議是善卿の三世、子々相伝へて棲み給ひし邸宅の趾にて。やがて是善卿の御子道真公の誕生し給ひし霊地なり。
古人朝臣は桓武天皇に仕へて侍読となり。清公卿は嵯峨。淳和、仁明の三帝に歴任し是善卿は文徳、清和の二帝に奉仕して倶に侍読の栄職におはせしかば此邸宅をも受継ぎ住み給ひしより世には菅原院と呼びたりとぞ。拾芥抄を案ずるに菅原院は勘解由小路(下立売通)烏丸の西一町(室町迄)菅贈太政大臣の御所、或は云く参議是善卿の家なりと。当時歓喜光寺と号し、北野祭の日神氏此所に来りて枇杷を取りて神に供すと。又京城の古図には烏丸、西室町、下立売、南椹木町の間を菅原院と記せり。蓋し往古は境域の広大なりしを知る可きなり。又袋草子国宝北野縁起(藤原信実朝臣筆)菅氏録に據れば、菅原院は是善卿の旧邸地にして菅公は此の處に於いて御誕生あらせられし爾来菅公亦襲ひて邸宅とし給ひついで菅家のために、此地に歓喜光寺を創建せられしが後故ありて六條道場に移せし由見えたり。然ればそのかみ此地に社殿を存し菅原道真公を本座とし相殿に御父是善卿を奉祀して古より断ゆること無く今に至れり実に是れ菅公御発祥の霊地にして聖蹟廿五拝の第一にして今も尚産湯の井及び天満宮御遺愛の石燈籠一基を存せり。
(略)」
なるほど、元々菅原家の邸宅だったとされている、と。

通りからちょっと入ったところにあるのですが、元々邸宅だったからか、変わった造りになっています(全体を写した写真がないので、Googleマップの航空写真とか見てください)。

鳥居と扁額。

狛犬さん。
渋い色味だ。

「地蔵社」。
いきなりの神仏習合。

本殿がちらり、と。

牛かな……天神様だからな……「施文教」ってのはなんでしょうね……普通の文章なのかな……「文教を施す」って……。

お稲荷さんと、「梅丸大神」

これが例の灯篭……いや、趣があるといえば、そうなのかも……。

「戸隠社」。
「戸隠大神」は「天野手力男命」、一緒に「九頭龍大神」。

拝殿の手前に……これは、単なる雨除けなのか……とにかく、新造と思われる部分の色合いが、何となく、風情を感じさせない……ちょっと残念。


狛犬さん。
苔生しているのはとても好きです。

「菅原道真」公の産湯に使った井戸。
あやかったら勉強が得意になったり、出世したりしたのでしょう。
『キン肉マン』でも、似たようなシーンがあったな……スーパーフェニックス……。

……本殿を撮ったのかな……。


狛犬さん。
大分崩れてしまっていますが、これはこれでちょっと風情があってよいのではないかと。
できれば直していただきたいですが……(別の様式になっちゃうのは残念……)。

御朱印。
さて。
◯こちら===>>>
内貴甚三郎 著『京華要誌』上,内貴甚三郎,明治28. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-03-20)
↑より。
p238です。
「菅原院天満宮
菅原是善卿の第舎の在りし所にして之を道真公に伝襲せり後天満宮を此地に祭れり中世以降漸次縮小し僅に小祠を存するのみなりしか弘化年中修造せり祭神は道真公にして是善卿を配祀す祭日は七月二十五日なり」
ふむ。
次は、
◯こちら===>>>
[秋元興朝] [著] ほか『旧都巡遊記稿』上京區之部 享,秋元春朝,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション
旧都巡遊記稿 上京區之部 享 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-03-20)
↑です。
p7です。
「菅原院天満宮
烏丸通り下立売南堀松町にあり菅原是善卿の茅舎在りし所にして之れを道真公に伝襲せる地なり本社は東面し祭神道真公にして是善卿を合祀す本社の外稲荷新宮火之子の三社あり猶一宇の社殿に服部老松白太夫の三神を合祀す」
私は「菅原道真」公のことはそれほど勉強していないのですが、あちこちの天満宮には行きますので、ときどき見かける「服部」「老松」「白太夫」……太宰府時代に、菅公に仕えた人たちでしたっけ……いかんいかん、もうちょっと基礎的なことから勉強しておかなければ……で、結局神社の由緒書きが一番詳しい、と。
ちょっと雲行きが怪しくなってきた京都です。
