べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「霊雲山蟠龍寺」など

3/10。

渋谷のほうで催し物があったので、お休みをとったのです。

とはいえ、あまり移動時間がなく、それでいろいろ検索していたら、何やら「五百羅漢寺」辺りでイベントがありまして……どんなイベントだったか忘れてしまったのですが、まあ行ってみましょう、と。

と、その前に「蟠龍寺」に寄ってみました。

 

◯こちら===>>>

https://www.facebook.com/vanryuji344/?locale=ja_JP

 

公式のFacebookがあったので、ログインできる方はそちらを〜。

 

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ちらほら参拝者の方がいらっしゃったので、写真の順番がばらばらですが、「岩屋弁天」と称されるくらいですから、岩屋です。


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今回、写真があんまりな感じです……。


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ので、こんな感じで植物で誤魔化したりしています。


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「蟠龍寺

目黒行人坂付近にあった称名院[慶安元年(1648)開創]を、増上寺の霊雲上人が浄土宗の戒律を復興するため現在地に移し、宝永6年(1709)「霊雲山称名院蟠龍寺」と改名再建されました。

次いで、寛政6年(1794)律院となりましたが、「不許辛肉酒入山門」の結界石がその名残りを今にとどめています。

本堂には本尊として「木造阿弥陀如来像」(都指定文化財)があり、天明年間(1781〜1788)に東都三番札所となり善光寺阿弥陀三尊像も祀られています。

「江戸名所図会」にのった境内は、当時の風趣が偲ばれ、元禄11年(1698)建立の地蔵尊があります。また、山手七福神の一つであり、江戸裏鬼門の鎮守として岩窟内に石像弁財天、弁天堂内に木造弁財天(八臂の天女像)が安置されています。

さらに境内には、藍蝋の歌碑や下目黒尋常小学校創立之碑などもあります。」

 


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何がメインなのか……灯篭か……あ、池か(「弁天」様なので)。


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本堂。


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参道入り口。


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案内板。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

斎藤幸雄 編 ほか『江戸名所図会』2,有朋堂書店,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション

江戸名所図会 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-07-09)

 

『江戸名所図会』をみておきましょう。

52コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「霊雲山蟠龍寺

安養院と号す。同所橋より一町ばかり西南、道より右にあり。浄土律して、縁山に属せり。本尊阿弥陀如来は、慈覚大師の作なり。開山は吟蓮社龍誉一雨霊雲和尚と号す。上野国新田の大光院より退隠の後、当寺草創ありしとなり。境内に丈六の阿弥陀如来銅像あり。又後の方、山崖の下に岩窟ありて、中に弁財天を安置す。弘法大師の作なりといふ。本宮は門の向にあり。惣門の額に安養院と書せしは、黄檗獨湛和尚の筆なり。」

 

図絵を見ていただくと、今とあまり変わらない(100年ちょっとくらいですから)境内の様子が伺えます。

岩屋が補強されてしまっているのがちょっと残念ですね。

 

そしてですね、「五百羅漢寺」にもお参りしてきました。

2年に1回くらいはお参りしているかな……(いやそんなには行っていない)。

 

◯過去記事===>>>

「五百羅漢寺」 - べにーのGinger Booker Club

補遺・「五百羅漢寺」 - べにーのGinger Booker Club

補遺補遺・「五百羅漢堂」 - べにーのGinger Booker Club

「目黒界隈」〜「五百羅漢寺」「目黒不動」「大鳥神社」〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑うん、そんなには行っていない……で、前回の「五百羅漢寺」の記事で、ご本尊の後ろにあったのは「獏王」と、「獬豸(カイチ※OSなどにより表示されない場合があります)」なんじゃないか、と思っていたのですが、公式にはやはり「麒麟」ということになるようです……残念(?)。

スペシャルな御朱印をいただいてきました。

 


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そんなみんな大好き「獏王」、私が知るきっかけとなった漫画足洗邸の住人たち。みなぎ得一/エンペラーズコミックス)が、みなぎ得一全集として今年から配信されております。

みなさん、今です!(?)

 

 

「宿鳳山高円寺」(東京都中野区)

2/23。

引き続き高円寺……の「高円寺」

 

◯こちら===>>>

www.city.suginami.tokyo.jp

 

地名に寺ってついてるんだから、そりゃ寺があるだろうという話です。

駅から少し歩きます。

最初、入り口がよくわかりませんでしたので、横手から入りました。

 

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本堂……でいいのか。

 

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彫刻が豪華です。


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堂内の拝観はしておりません(というか、できるのかどうか……今もしっかり檀家のあるお寺、というのはなかなかお邪魔しづらい……)。


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……多分、たぬき。


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こちらは何のお堂だったかな……。


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冬枯れ……あ、お堂には入れなかったようです。


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彫刻をアップで。


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……鬼瓦、ってこういうものでしたっけ……。


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こちら、境内にある、なかなか珍しい、竜の巻きついた鳥居。

品川神社」にもありますね。

 

◯こちら===>>>

「品川神社」 - べにーのGinger Booker Club

「品川神社」(再)(東京都品川区) - べにーのGinger Booker Club


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竜だったり百足だったり、いろいろ巻き付くのですね鳥居。


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山門と扁額。


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山門より。


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字が小さい……。

 

「高円寺

宿鳳山高円寺は、弘治元(一五五五)年、中野成願寺第三世建室宗正によって開山された曹洞宗の寺で、「高円寺」の地名は当寺に由来します。現在の本尊は彫刻家・三木宗策作の聖観世音菩薩立像で、室町期の作と伝えられる阿弥陀如来坐像も安置されています。

かつてこの地は、周辺に桃の木が多くあったことから桃園と称され、恵信僧都源信作の本尊は桃園観音、御堂は桃堂の名で呼ばれていましたが、弘化四(一八四七)年の火災でこれらは消失してしまいました。

当寺が広くその名を知られるようになったのは、第五世耕岳益道の時、三代将軍徳川家光の知遇を得たことによります。現本堂裏の高台が「御殿山」と呼ばれるのも、家光が鷹狩りのおり当寺に立ち寄り休息した茶室跡に由来すると伝わります。また、それまで小沢村と呼ばれた村名を、寺名をとって高円寺村と改めさせたのも家光といわれています。以来、「高円寺」の名は駅名などにもなり、現在に至っています。

当寺は、寛保年間(一七四一〜一七四四)年以降、昭和二十(一九四五)年まで、たびたび火災に見舞われ、堂舎と共に記録類の多くを消失しました。現在の本堂は、昭和二十九(一九五四)年に再建されたものです。」

 

徳川家といえば浄土宗なのか、真言宗なのか、はてさて……という感じなのですが、為政者として一つの宗派に肩入れするのはまずいですからな……とはいえ、大抵平和な時代が続くと、旧態依然の宗派が〜、という話になるのが世の常なので、改革のために新規なお寺とかを厚遇したりはしたのではないかと思います。

将軍様は、まあ、お出かけすると大体鷹狩りしますし、そのときにいいお寺を見つけますね……そういう伝承だとは思いますが。

 

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山門遠景。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

斎藤幸雄 編 ほか『江戸名所図会』2,有朋堂書店,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション

江戸名所図会 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-06-28)

 

『江戸名所図会』を見てみましょう。

最初、「高円寺」を頑張って探してみたのですが、「桃園」ですよねそりゃ……。

p497です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

「桃園

同所西北の方、十町ばかりを隔つ。享保の頃、此の辺の田畝に、悉く桃樹を栽ゑしめ給ひ、其頃台命によりて、此地を桃園と呼ばせ給ひしといへり。今も弥生の頃、紅白色をまじへて、一時の奇観たり。此地に大将軍家御遊猟の時の御腰掛の地あり。又岡の前を流れる小川に架せる橋を、石神橋と唱ふ。此ながれは、石神の三宝寺の池より発する所の餘流なり。

 

桃園観音堂

土人は桃堂と称せり。同所高円寺村の高円寺といへる禅林に安置す。本尊は聖観音にして、恵信僧都の彫像なりといへり。当寺は中野の成願寺に属す。弘治年間の草創にして、開山を建室和尚となづく。むかしは大将軍家度々当寺へ立ち寄りせ給ひ、仮の御殿ありしかば、当寺の山号を御殿山ともとなへ侍るとなり。又当寺境内其頃は桃樹多かりしによりて、桃園と称すべき旨、台命あり、其後享保に至り、新に中野の地に桃園うつし給ひ、田圃の間々に桃樹を多く栽ゑしめ、桃園と命ぜられたりとなり、故に土人は当寺をさして桃園の旧地なりといへり。」

 

江戸期には、将軍家の知遇を得たら、それは大寺院になるということだった……かどうかは定かではありません(いろいろと優遇はされたのでしょうけれど、菩提寺となるまではいかないと……まあ、寺社も幕府の支配下ではありましたから……)。

「桃園」のままでよかったんじゃないかな、とちょっと思ったりしました(多分、もう桃の樹はないのでしょう……あったら今も「桃園」でしょう……)。

 

さて、短めの旅でしたが、こうして間隙をついていかないと、神社仏閣巡りは難しくなってきました……もっぱら推し活しているからですが。

細々とご紹介していければ。

「高円寺氷川神社」(東京都杉並区)

2/23。

高円寺といったらジロキチ……行ったことないけど……20年くらい前に芝居を観に降りたっきりの駅……阿波踊り……というわけで、「高円寺氷川神社へ。

 

◯こちら===>>>

www.koenji-hikawa.com

 

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社標と鳥居。

なかなか謎な土地の切り取られ方をしていました。


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「高円寺氷川神社

この神社は、旧高円寺村小名原の鎮守で、祭神は素戔嗚命です。

創建について口碑によれば、天文年間(一五三一〜一五四四)、村内曹洞宗高円寺の創建と同じ頃といわれます。また社伝によれば源頼朝が奥州征伐の際、この地に着き、安達藤九郎盛長に命じて社殿を建立させたとも、家臣の村田兵部某が高円寺村にとどまり農民となった時、大宮の氷川神社を勧請して社殿を建立したのが起源ともいわれています。しかし、詳細なことは詳かではありません。

当社は『新編武蔵風土記稿』多摩郡高円寺村氷川社の条に「除地四段三畝十歩、外ニ供免一段五畝、小名原ニアリ、是モ鎮守ナリ、本社三尺四方南向、上屋二間ニ三間、木ノ鳥居ヲタツ、村内高円寺ノ持」と記されており江戸時代には、原の鎮守様として農民の信仰を集め、高円寺が別棟職を務めていたといわれます。明治七年、村社となりました。

境内には、三社の末社が祀られていますがなかでも気象神社(祭神・八心思比顕命)は、全国でも数が少なく、非常に珍しい神社です。この社は、戦時中、旧馬橋四丁目にあった陸軍気象部内に祀られたものですが、戦後、関係者の要請で当神社の境内に遷されました。

(以下略)」

 

 

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狛犬さん。


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お稲荷さん。


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力石、でしょうか。


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気象神社」。

昭和19年に造営されたそうで。

気象で「八意思兼命」が御祭神なのは、予知したかったんでしょうね。

あるいは、神風でも呼びたかったか。


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狛犬さん。


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案内碑。


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遠景。

神明造……っぽいです。


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向かって右手より拝殿。


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おっと、横に回り込めました。

本殿も神明造か……拝殿との距離が近いですね。


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花手水。


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御朱印


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おっと、忘れていた、「気象神社」の遠景です。

 

さて、もクソもない、案内板に『新編武蔵風土記稿』が引用されていたので、それで。

牽強付会なところはありますが、武蔵国は「氷川神社」が多い地域ですので、なんなら村落単位で勧請されていても不思議ではないですね。

 

 

「阿佐ヶ谷神明宮」(東京都杉並区)

2/23。

やっと……2023年の記事に……(まだ?)。

某ガールズバンドのライブがあるということで上京したのですが、こっち方面は最近来ていなかったので、いっちょ阿佐ヶ谷神明宮に。

 

◯こちら===>>>

shinmeiguu.com

 

阿佐ヶ谷の駅で降りたのは初めてかな……阿佐ヶ谷姉妹には会えなかった(そりゃそうだ)。

 

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鳥居。

西側の大鳥居です。


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狛犬さん。

結構大きくて、造作もしっかりしていました。


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えっと……なんだっけこの入り口……。


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写真の順番が……。


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社殿。


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こちら元宮だそうです。

位置関係は、↑のHPで確認してくださいな。


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拝殿。

神明造っぽい(神明宮だから)。


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神門より。


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能楽堂、だったと思います。


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彩雲っぽかったので。


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「天神」様。

算額っぽい、ということなのか。


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正面参道。


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御朱印

「月読社」だけあるのはなぜだったのか……もうよく覚えていません。

 

さて。

 

斎藤幸雄 編 ほか『江戸名所図会』2,有朋堂書店,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション

江戸名所図会 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-04-10)

 

『江戸名所図会』を見ておきましょうか(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p497です。

 

阿佐ヶ谷神明宮 同西の方、阿佐ヶ谷にあり。中野の通よりは右へ入りて、十八町計あり。阿佐ヶ谷は小田原北條家の所領役帳に、中野内阿佐ヶ谷とあり。太田新六郎の所領にして、昔は中野に属せし小名なりしとおぼし。祭神伊勢に相同じ。神体は一顆の霊石なり。毎歳九月十六日を祭祀の辰とす。別当真言宗にして、阿谷山世尊院と号す。中野の寳仙寺に属す。則ち寶仙寺の旧地なり。相伝ふ、景行天皇の四十四年、日本武尊東夷を征伐し給ひて、御凱陣の時、この地に休らひ給ひしかば、其後土人等尊の武功を慕ひ奉り、其地を封じて一社を経営し、神明宮を勧請す。然るに建久の頃、此地の農民横井兵部といへる人、(略)祈願あるひより、伊勢太神宮へ参詣せんと、勢州能保野の駅舎に宿す。其夜太神宮の霊示ありて、翌日宮川の水中にして、一顆の霊石を得たり、依て神意に任せ、古里に携へ帰り、件の神明宮の社に安置して、神体となし奉るといへり。其後祇海といへる沙門、神告あるにより、社を今の地に遷すとなり。其旧地は七八町東の方にあり、土人これを元伊勢と称す。」

 

ご存知の通り、関東には「日本武尊」関係の神社が思いのほか多いのです。

記紀の時点で京から関東まで出張ったという神話が残っていて、風土記にも名前が残っているのですから、土地土地に足跡があっても不思議ではないですし、それが一人の英雄ではなかったとしても、畿内の勢力が武力を持って東に進んだ跡と言えるでしょう。

しかし、普通は「日本武尊」が御祭神になっても不思議ではないのですが、神明宮……ううむ、何となく、元々は別の御祭神だったんじゃないかと思います……何があったのやら。

というわけで、ちょっと周辺をうろっとしてみます。

「吉水神社」〜散策(奈良県吉野郡)

11/18。

金峯山寺」の参拝を終え、夜までには家に帰るマンの私は、少しだけ吉野を散策することにしたのでした。

まずは、「吉水神社」へ。

 

◯こちら===>>>

www.yoshimizu-shrine.com

 

 

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世界遺産 南朝皇居 吉水神社

御祭神 後醍醐天皇 楠木正成公 吉水院宗信法印

御由緒 元は吉水院といい、天武天皇の白鳳年間に役行者が創建した格式の高い修験宗の僧坊でした。明治時代に神仏分離が行われ、後醍醐天皇南朝の皇居であったことから、明治八年に「吉水神社」と改められました。

文治元年ここ吉水院に兄頼朝の追手に逃れた源義経静御前が弁慶等と共に隠れ住まわれました。悲運に生きた一代の英雄と佳人の悲恋物語を後世へ伝えてきた数々の遺品が吉水神社には残されています。

延元元年後醍醐天皇が京の花山院から行幸され、吉水院宗信法印の援護のもと吉水院を南朝の皇居とされました。南朝四代五十七年の歴史はここよりはじめられ、現存する南朝唯一の行宮となっています。

文禄三年豊太閤(豊臣秀吉)が吉野で盛大な花見の宴をした際に、ここを本陣とされ数日間滞在されました。歌の会、お茶の会、お能の会などを開いて満天下に権勢を示されました。

また、日本住宅建築史上最古の書院として、ユネスコより世界遺産として登録された書院があり、現在の日本住宅の源流をなす実例として数々の珍しい手法が見られます。義経後醍醐天皇・豊太閤それぞれの時代の遺品や宝物が書院内には展示されています。

 

十字の詩

(よみ)天勾践を空しゅうすること莫れ 時に范蠡無きにしも非ず

元弘の変に敗れ隠岐に流される途中の後醍醐天皇へ「児島高徳」という忠義の武士が桜の木に刻んだ十字の詩です。後醍醐天皇南朝皇居である、この吉水神社では十字の漢詩を後世に大切に残すため、この吉野の行宮の門前に掲げています。」

 

※なお、「吉水神社」の「吉」は、「土に口」です。※

 

なるほど……明治期は神社仏閣の整理が(強引に)行われ、徳川の時代には軽んじられた人たちが日の目を浴びることになった……というわけでもないか……ともかく、再び天皇にスポットライトが当たった時代でした(祭司王としての役割を、表舞台で果たした、という言い方もできますか)。


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入り口。

うん、神社っぽくないとは思ったんです。

 

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拝観料が必要な「北閥門」には行きませんでしたが……九字切りのやり方が載っていたとは……。

 


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景色と紅葉をご覧ください。


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左奥が拝殿です。

手前は……なんだったか……。


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紅葉紅葉。


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拝殿。


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向かって左側に、「楠木正成」公と「吉水院宗信」法印公。


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なんかもう、ただただ紅葉ですね。


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武蔵坊弁慶」が力づくで釘を押し込んだ岩、だそうです。


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紅葉。


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蛭子神社」。


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紅葉。


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変わった参拝作法でした……「二礼二拍手一礼」という神社ばかりではないのです(とはいえこちらは比較的新しい作法です……)。

 


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「金生大明神」。

「五大尊」とありますね……どの五大でしょうか……。

 


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狛犬さん。


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参道入り口付近から。


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参道入り口の鳥居です。

 


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東南院」の多宝塔。


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東南院」は宿坊だったようです。

そういえば昔、無理を言って高野山に旅行に行き、宿坊に泊まったことがあります。

 

「奈良や比叡山など古い霊地霊山には、東南院あるいは東南寺という名の、寺院があるのが普通ですが、これは、開基または始祖といわれる人が、その霊地を開くときに、中心になる伽藍を建てると同時に、そこから巽(東南)の方角に当たる所に寺を建て、一山の興隆を祈願するということが行われていました。」

 

初耳……。


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東南院」の本堂……かな。


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紅葉越しの多宝塔。


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こちら「韋駄天山」という、ちょっと小高い場所。


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金峯山寺」が臨めます。


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「韋駄天」を祀る祠があるので「韋駄天山」。

何でまた「韋駄天」なのか……いえ、天部の中では有名ではあるのですが……何か理由があるのでしょうか。

 


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帰り道、蔵王堂。


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帰り道にあった「弘願寺」。

ちょっと、何だろう、犬なのか狸なのかゆるキャラなのかわからない像があって、可愛かったです。

 


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ご挨拶程度で済ませました。


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吉野に来たのに、吉野っぽいものを食べてなかったので、吉野葛を食べました。


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最後は「吉野神宮」に戻りまして、ちょいと散策終了。


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御朱印

二つ目は、何だったかな……「吉水神社」でもらったのは確かなのですが……あ、「勝手神社」だ……あれ、写真がない……?

 

◯こちら===>>>

熊田葦城 著『日本史蹟大系』第7巻,平凡社,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション

日本史蹟大系 第7巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-03-24)

 

『日本史蹟大系』第7巻より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p3130です。

 

「吉水(きっすゐ)院

吉水院は、大和國吉野郡吉野村に在り、天武天皇の白鳳年間、役小角大峰山修行の時に、創立する所、金峯山寺の一院たり、文治元年、源義経、其兄頼朝の勘気を受けたる時、此處に、潜房したることあり。

延元元年十二月、後醍醐天皇の花山院より、吉野に遷幸あらせ給へる時、法印宗信、兵を以て、迎へ奉り、此院を以て、行宮に充て奉る、後、金輪王寺、即ち實城寺に遷り給へりと雖も、同寺と與に、長く吉野朝廷の行宮となる。

延元四年十月、後村上天皇即位の礼を挙げさせ給へるは、此院にして、後亀山天皇践祚あらせ給へるも、亦、此院なること、載せて、吉野山舊記に在り。

明治八年、吉水神社と改称せられ、後醍醐天皇、及び、楠正成を祀る、当年の玉座、御座所に敷きたる高麗縁の御畳、綾の几帳等、今、尚、存すと云ふ。(以下略)」

 

紹介のあとには、「吉水法印宗信」の檄文が載っていました。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯 第3編,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第1輯 第3編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-03-24)

 

そうだ、吉野は大和国でしたね……『大和名所図会』を見るのを忘れていました。

↑は、ちょうど吉野の辺りにページの欠けがあります……ううむ『大日本名所図会』は古本でもいいから手に入れたいところです……p633です。

 

「吉水(よしみず)院 蔵王堂の少し先の町より左二町計下にあり。当院も後醍醐帝の行宮にして、建武元年二月の遺券呈文あり。又正平・弘和・元中・明徳の年間に賜う所の綸旨に及び、越智・筒井順慶等の願文あり。抑此寺の草創は、役行者山上修行の時、姑息の庵室なり。其後後醍醐の聖寳尊師も、ここに蹤をとどめ給ふ。加之源平兵乱には、源義経・弁慶もここに蟄し、軍議を謀る事三年に及べり。其居席今に破壊せず、庭前には駒の足跡・武蔵坊が力釘、今にその形を遺す。往昔文治元年、源義経大物浦より風波の難をのがれ、此山に登り、夜に入りてひそかに此寺に入る。吉野法師等義経を討たんとせしゆゑ、又此寺を出で、中院谷に隠れしに、悪徒等なほも跡を求め来りければ、佐藤忠信を残して防矢を射させ、静を捨てて、多武峯を経て南院の内藤室の十字坊へ入られしとなり。又後醍醐帝京都を逃れさせ給ひ、此寺に潜幸ありし時、先当院へ行幸ありて行宮とし、後に實城寺に移り給ふ。此院の床を御枕としてよみ給ひし御歌に、

花にねてよしや吉野のよし水の枕の下に石ばしる音

近世豊臣太閤も吉野花見の時、此院に入らせ給ふとなん。

駄天山 は右にあり。」

 

ちょっと、今『大和名所図会』の「勝手明神」のところを読んでいたんですが、「吉野八神」とか萌えるワードがたくさんあるんですけど……なんで写真ないんだ……。

 

日帰りが基本(それもできれば夕方には帰宅したい)ので、今回も大急ぎでしたが、本当は一泊くらいしてゆっくり巡りたいですね吉野も……。

楽しい休日でした。

「金峯山寺」(奈良県吉野郡)

11/18。

吉野神宮」の参拝を終えまして、駐車場まで登り、目指すは金峯山寺です。

 

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「七曲り下の千本」。


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紅葉。


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芭蕉の句碑……あれ、ここだっけ。


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なんか、階段あった。


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「大橋」。

護良親王」が鎌倉幕府軍相手に寡兵で持ち堪えた、ときに激戦になったそうです。


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「黒門」。

金峯山寺」の総門だそうです。

 


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銅の鳥居。

逆光甚だしい。

東大寺」の大仏を作ったときの余った銅で作った、という伝承があるそうです。

 


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裏から見てみました。


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「仁王門」……保存修理中……こういうタイミングが結構多いなぁ……令和も大修復の時代かな。


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「脳天大神」……かなりですな(何が?)。


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というわけで、「蔵王堂」にやってきました。

 

◯こちら===>>>

www.kinpusen.or.jp

 

……うわぁ、今初めて「きん『ぷ』せん」だと知った……ずっと「きんぶせん」だと思っていました……。


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鐘楼……かな。


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ご本尊の御会長に合わせて参拝してきたのですが、もちろんご本尊は撮影できません。

垂木の連続性が大好きな私にはたまらない建物でした。

いや、初めて参拝しましたが、特別開帳中ということで、間近での拝観……迫力がすごかった……密教の仏像好きなのです……「金剛蔵王権現」は密教ではないですが……。

堪能しましたので、ふらふらすることに(とはいえ、時間に限りのある旅ですので)。


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……こうして見ると、完全に山の奥ですな……こんなところまで「後醍醐天皇」は逃げ込んだと……。


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天気良かった……。


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遠景。


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紅葉。


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天気よかったんだな……。


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「愛染堂」と「観音堂」。


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境内の「威徳天満宮」。


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狛犬さん。


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「(前略)この神社の由緒は、今から千年あまり昔、椿山寺(竹林院の前進)でしゅっけした日蔵道賢(如意輪寺の開基)という僧が、大峯山の笙の窟という所で修行中のある日、急に仮死して閻魔宮へ行ってしまい、そこで冥土をさまよっている天子の衣服を着けた人に出会ったので、わけをきくと「自分は延喜の帝(醍醐天皇)である。生前は善政を行ったつもりだが、ただ藤原時平の告げ口のよって、菅原道真を九州の太宰府へ流してしまった。その罪によって死後の苦しみに会っている。生前、私が師と仰いだ上人よ、再び生き返って道真の霊をまつって欲しい。そうしたら私はこの苦しみから救われるだろう。」といわれたと思うと、日蔵はこの世によみがえりました。

日蔵上人は修行を終えると吉野山に帰り、威徳天満宮としてまつったのが、この社殿であると伝えています。(略)」

 


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「久富稲荷大明神」と「吉富稲荷大明神」。


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金峯山なのか大峯山なのか、ともかく修験道にも講があったようです。


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「二天門趾」。

「村上義光」が最期を迎えたところでもあるようです(どうも、『太平記』を読まないといけないようです……ほんと、鎌倉とか南北朝とかも疎いもので……)。

 


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正面。


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後醍醐天皇導きの稲荷」。

後醍醐天皇」が吉野に落ち延びるときに導いたそうで。

こういう場合、高田崇史的には、キツネと呼ばれた現地の人が導いたということになるんですよね……。


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いや、紅葉の美しいこと。

 

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御朱印

もうちょっといろいろあった気もしますが……あ、全部書き置きです(コロナ禍余波……)。

 

さて、現地でパンフレットと、『金峯山寺の365日』という本を買ってきました。

パンフレットから引用しますと、

 

金峯山寺(きんぷせんじ)は、国軸山と称され、白鳳年間(七世紀後半)に修験道の始祖役行者役小角神変大菩薩)によって開創されました。

役行者は、幼少の頃から仏心篤く、葛城山で修行を重ねられ、さらに大峯で苦修練行されました。そして、金峯山頂(山上ヶ岳)において、衆生済度のため金剛蔵王権現を感得されました。金剛蔵王権現は、最初、湧出岩に現われて空中に飛び立ち、ついで龍穴に降り立ったとされています。その龍穴が、つまり現在の大峯山寺本堂内々陣にあたります。役行者は、この蔵王権現の御姿を桜の木で刻まれ、そして、山上ヶ岳吉野山の二ヵ所に安置されました。これが山上山下の蔵王堂のおこりであり、金峯山寺の草創であります。」(p2)

 

我々世代は、『宇宙皇子』という強烈なラノベを読んでいたはずなので、「役行者」も大峯山も前鬼後鬼も韓国広足も、身近なものだったのです(誇張)。

 

金剛蔵王権現のお姿は右手に三鈷を握って肩をいからせ、左手に刀印を結んで腰を押さえ眼は怒りに燃え、左足はどっかと盤石を踏まえ、右足は大地を高くけり上げているのでありmす。頭髪は逆立ち乱れ、背後には火炎が燃え盛り、口の両端から牙が刃のように出ていて、全身ことごとく悪魔降伏の姿を現しているのであります。……(略)……しかも背後の火炎は大智慧、御身の青黒色は大慈悲を現わしているのであります。……(略)……権現とは、仮りのお姿で現れることを意味するのであり、金剛蔵王権現は、釈迦如来千手観音菩薩弥勒菩薩の三尊の変化身であらせられるのであります。

蔵王堂には三体の金剛蔵王権現をお祀りしていますが、中央には釈迦如来、右は千手観音菩薩、左は弥勒菩薩の権化でありまして、釈迦は過去、観音は現在、弥勒は未来をあらわし、過去、現在、未来の三世にわたって民衆を救済するために、仮りのお姿となって現れたのが金剛蔵王権現であり、役行者が不惜身命の苦行の結果、感得することのできた守護仏であります。

有名な奈良東大寺二月堂のお水取りの最後の三日間、神名帳を読み上げて一万三千余の神々や菩薩を呼び寄せる行事がありますが、そのさい「金峯山大菩薩」の御名を真先に読み上げます。これをみても金峯山寺の本尊、金剛蔵王権現の霊顕がいかに高いものであるかを示したものであると言えるのであります。」(p6)

 

金剛蔵王権現」は、江戸時代まで各地でたくさん祀られていたのですが、おそらく神仏分離を契機に、ちょっとマイナーな神様になってしまったと思います(「牛頭天王」に通じるところがありますか)。

それでも、あちこちに蔵王堂はありますので、忘れ去られたわけではない、と。

しかし、白鳳年間には既に、日本独特の仏が爆誕していた、というのがちょっと驚きです(密教が伝わる前ですね)。

お姿は、明らかに明王系ですね、「背後の火炎は智慧」というところは「不動明王」に通じるものがあります。

肌が青黒いのは、インドの「シヴァ神」を思わせます(「シヴァ神」は「降三世明王」に踏んづけられているのですが、「金剛蔵王権現」は何も踏んでない、ということで「シヴァ神」に通じるといってもいいのではないでしょうか……?)。

輪身、という考え方が日本に伝わったのはいつなんでしょう……仏教の知識は浅いもので……密教かなやっぱり……。

忿怒相の仏は、「四天王」をはじめとして、割と仏教伝来初期に伝わったようにも思います。

我々が思っているよりも経典が伝わっていて、その中から「役行者」がヒントを得たのか……。

また、「金剛蔵王権現」という名前も面白いですね。

「金剛蔵」の「蔵」は、「地蔵」「虚空蔵」と同様に、「金剛」を格納している、という意味だと思われます。

その「金剛」が何を指すのか、仏教的な「ヴァジュラ」なのか、あるいは金属のことなのか……山岳信仰者は「丹」(水銀)の在処を知っていた、とよく言われていますので、「金剛蔵」は水銀の鉱脈を知っていた、ということではないかと……その中の王という意味で「金剛蔵王」を名乗ったのかな、と。

これをこねくり回せば、「水銀の王」→「朱砂の王」→「スサノオ」……で、荒ぶる姿をしているのも頷ける、というわけです。

……。

という妄想は置いておいて(既出でしょうし)。

こういう、日本独自の仏というのは興味深いですね……実際の像も迫力が素晴らしい……青黒い肌というのが日本人の感性ではないような気がしますので、海外にヒントがあったんじゃないかなやっぱり……その辺りの考察をしている本がどこかにあると思います(私が思いつくので、もう誰かが考えてくれていることでしょう)。

仏教も勉強途中……ああ時間が……。

 

というわけで、もう少し吉野をぶらぶらしてみます。

 

「吉野神宮」(奈良県吉野郡)

11/18。

は!!っと思い立ったので、「そうだ、吉野行こう」……というわけで、朝から自家用車で吉野に行きました。

まずは、吉野神宮へ。

 

◯こちら===>>>

yamatoji.nara-kankou.or.jp

 

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鳥居。

秋だった……。


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官幣大社吉野神宮

祭神 後醍醐天皇

境内摂社

御影神社 祭神 贈従二位藤原資朝卿 贈従三位藤原俊基卿

船岡神社 祭神 贈正四位児嶋範長朝臣 贈従三位児嶋高徳卿 贈正四位 櫻山茲俊朝臣

瀧桜神社 祭神 贈正四位土居通増朝臣 贈四位得能通綱朝臣

例祭 九月二十七日」

 

……中世〜近世の人を神格化しているようですね……「後醍醐天皇」以外わかりませんが、まあ多分忠臣なのでしょう(これで違ったらとんでもない話で)。

 


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狛犬さん。


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鳥居から。

まだ太陽が若いのです(9時少し前かな……結構急いだので)。


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お洒落な手水場。


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楼門。


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拝殿。


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摂社。

 

「御由緒 近代日本の繁栄の基は明治維新にあり 明治維新の根源は後醍醐天皇建武中興と吉野朝の歴史にありといわれます。

それ故に明治の御代と共に後醍醐天皇を祭る吉野神宮を初め鎌倉宮 湊川神社など建武中興関係の皇族忠臣を祭る官幣社が十五社御創建になりました。

正面の三柱には格別の御功臣でありながらこれら官幣社に祭られていない方々をお祭り申し上げております。」

 

なるほど、知らないわけだ……。

 

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いろいろと、レイアウトに凝っている神社のようです。

神社というより、御霊屋っぽいですね。


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楼門内側から。


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紅葉が鮮やかでしたな……。


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御朱印いくつかありまして。

御朱印帳も購入しました。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

吉野神宮奉賛会 編『吉野神宮誌』,吉野神宮奉賛会,昭14. 国立国会図書館デジタルコレクション

吉野神宮誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-02-26)

 

もう、こちら↑を読んでいただければ大体わかるようになっていますので、是非どうぞ。

大陸の南北朝に擬せられた日本の南北朝時代も面白そう……と思いながら、ほぼ全くといっていいほど知りません。

後醍醐天皇」を祭神としている「吉野神宮」(あ、皇族関係が御祭神なので「神宮」なのです)、創祀したのは「明治天皇」……というか明治政府なわけです。

立憲君主制を敷くとはいえ、天皇がトップの政体を作り上げたい明治政府としては、「後醍醐天皇」に背いた「足利尊氏」らを称えるわけにはいかない(武家政権として、源家を継いだ徳川家をやっつけた薩長土肥の出身者が多かったことも理由のひとつかもしれませんが)。

とはいえ、現在の皇統は北朝ですし、どっちにしろ皇統には違いないわけで、そっとしておけばよかったのに……現代人にはあんまり不都合はないのですよね。

まあ、明治政府は大変だったのでしょうが……ことが皇統に関わることだけに、今までに議論百出、現在も論争が続いているものと思われます……まあ、何というのか、どんな政体でも分裂して二つのトップが並び立つような事態は起こり得る、というのは面白いと思います(ローマ教会の大分裂とか……あっちは最終的に教皇3人並立しましたっけ)。

勉強してみよう。

 

というわけで、吉野ぶらり旅です。