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神社仏閣ラブ(弛め)

補遺・「五百羅漢寺」

 

甦える羅漢たち―東京の五百羅漢 (1981年)

甦える羅漢たち―東京の五百羅漢 (1981年)

 

 さて、今回は五百羅漢寺で購入した『甦える羅漢たち』という本をまとめてみようかと。

【開山】

始まりは松雲禅師という人からです。

慶安元年(1648)年に、現在の京都で生まれたらしい松雲禅師(俗名九兵衛)は、長じて仏工になったそうです。

京の仏師の業界は、極端な分業制になっていたそうです。

 

アメコミみたいなものでしょうか。

 

松雲禅師は、こうした「部品屋」になりさがった(と思った)仏師達に嫌悪感を抱きながら、人の心を打つ仏像を彫りたいとの思いを強くしていたようです。

松雲禅師は、黄檗宗の鉄眼(大蔵経を印刷するための木版を製作するため喜捨を募り大成した僧侶)の弟子となり、江戸に出て喜捨を募って五百羅漢像を彫り始めます。

最初は、浅草寺境内の庵に安置された羅漢像ですが、五代将軍綱吉の母桂昌院からの下金があり、その後には将軍より本所の土地が下賜されて、元禄九年(1696)に「天恩寺五百羅漢時」が開創されました。

元禄十三年(1700)には、五百羅漢像はほとんどが彫り終わったということです。

彫り始めたのが元禄四年(1691)ですので、九年で彫り上げたということになります。

堂宇の揃わないまま、松雲禅師は、宝永七年(1710)に没します。

正徳三年(1713)、黄檗宗本山から、象先禅師が派遣されました。

この人は、難波での修業時代に、

 

両手の指を切って華厳経を血書したことがある

 

という、またとんでもない人です。

繕った衣服や経典等以外には何も持ち歩かなかった、というところは、「布袋尊」の元になった契此(かいし)に通ずるものがあるかもしれません(黄檗宗だし)。

派遣された「五百羅漢寺」は大層荒れており、象先禅師は松雲禅師のように喜捨を集めて堂宇を建てると決意しました。

八代将軍吉宗は、享保九年(1724)に「五百羅漢寺」を訪れています(鷹狩りの帰りだったと言われています)。

ぜいたくに遊び、仏道の本質を忘れた当時の仏教界(だいたいそういう見方をされるものですが)と比べると、松雲禅師や象先禅師のプロジェクトは、吉宗の目に新鮮に映ったのでしょう(いや、わかりませんが)。

享保十一年(1726)に、東西羅漢堂、大雄殿、翌年には方丈(本堂、住職住居などを兼ねる建物)、表門が建ったそうです。

この「大雄殿」と「東西羅漢堂」の配置が、非常に面白い造りをしています。

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(『甦る羅漢たち』p104より)

自作の図で見づらいのは申し訳ないです。

「大雄殿」には須弥壇が置かれ、本尊の「釈迦牟尼仏」、脇侍の「文殊菩薩」、「普賢菩薩」、仏弟子の「迦葉尊者」、「阿難尊者」が安置されていました。

高さもかなりのものだったようです(図はかなり低くしてあります)。

さて、ゆっくりと参拝したい人は、履物を脱いで板間の通路を、矢印のように進んで、堂内をめぐることができました。

羅漢像を間近で見られたわけです(「羅漢堂」は東西対称で、「大雄殿」の後ろを通って「東羅漢堂」へ行くことができました。また、本尊の裏側には、「獏王」像が置かれていたそうです)。

あまり時間がないけれど参拝に来た人は、板間に上がらず、履物を履いたまま、土間(青色部分)から参拝できました。

よく考えられている部分は、この

 

「土間」部分と板間の通路が、「立体交差」している

 

ことです。

また、板間の部分も実際には手すりがつけられており、一方通行になっていました。

急ぐ人と、ゆっくりと参拝したい人を物理的に分離し、なおかつゆっくり参拝したい人達の動線を一方向にする、というアイデア

五百羅漢寺」をたくさんの人が訪れた、というのは、もちろん帰依の心ありきではありますが、一種の物珍しさテーマパーク的な面白さを求めてのことではなかったでしょうか。

もし現代に残っていたら、是非とも行ってみたいものです……。

 

今回はここまで〜(図を作るのに2日かかったよ……)。