さて。
○前回まで===>>>
うっすらと前方に見えるのが「村雲橋」です。
図録『不死鳥の寺 三井寺』によれば、
「中院と南院を分ける水溝にかかる石造の橋が村雲橋で、『寺門伝記補録』によれば、ある日、この橋の上で西の空に炎気があることを悟った智証大師は大唐青龍寺の火禍を感知した。大師が呪水を灌したところ、雲霧となって西方の空へ飛び去り、彼寺の火災を鎮めたといい、これ故にムラカリタツクモの意を伝えて村雲橋と名づけたという。』(p113)
とのことです。
橋の構造は最初からあり、名前があとからついた、ということですね。
だからなんだ、という話ですが。
そのまま進むと、「微妙寺」に到着します。
「園城寺別所 微妙寺
開基 慶祚大阿闍梨 正暦五年(九九四)
本尊 重要文化財 十一面観世音菩薩
本堂 安永五年(一七七六)再建
微妙寺は、園城寺(三井寺)五別所の一つ。別所とは平安期以降、広く衆生を救済するため本境内の周辺に設けられた園城寺の別院で、当寺のほかに水観寺・近松寺・尾蔵寺・常在寺があり、総称して園城寺五別所という。
唐寺の本尊は、十一面観音(重文)で除病・除難・滅罪を誓願とする仏として、特にその霊験のあらたかなことで有名である。
往時には、境内に参詣者の群をなし、そのためかぶっている笠が破れ脱げる程であったと伝え、俗に「はずれ笠の観音」「笠ぬげ観音」として親しまれ道俗の帰依をあつめている。」
「みみょうじ」かと思っていましたが、読みは「びみょうじ」でいいようです。
別院が多いということは、寺の規模や勢力を表すことになるようですね。
『不死鳥の寺 三井寺』によれば、
「もと、園城寺五別所のひとつ尾蔵寺の本尊と伝えられ、参拝人が多数押しかけて、人々の笠が破れたりしたため、俗に「笠ぬげの観音」と呼ばれて信仰された。ヒノキの一木造で、台座の蓮肉も同じ材から彫出されている。」(p116)
……はて?
「微妙寺」は、境外にあった別所を移したもののようですが、そこの本尊が同じ別所の「尾蔵寺」の本尊と……?
もともとの「微妙寺」の本尊はどうしちゃったんでしょうね……。
うーん。
それはともかく、図録で見るとこの観音様は、約81センチ(三尺)の小さなものなのですが、ほぼ四頭身のディフォルメされたお姿で、なんとなく愛らしいです。
「十一面観世音菩薩」の御朱印。
「湖国十一面観音霊場」の公式HPが見つからず、止むを得ず人様のHPへのリンクをば。
○こちら===>>>
なお「微妙寺」では、
「黄不動尊」の御朱印もいただけます。
……何故に?
多分、「唐院」から近いから、ではないかと思います。
「微妙寺」の隣には、「天台大師」の像があります。
「天台智者大師 天台大師は西暦五三八年、中国荊州華容県に生れ、南岳、大賢山に修行し、十八才にて授戒、光州大蘇山の慧思禅師に師事し、法華三昧を体得された。その後、金陵(南京)の瓦官寺で法華経と禅法を説き、三十八才、天台山に修禅し法華円頓、実相中道を証悟された。
陳皇帝に招かれて四十八才に金陵で法華文句を説き、また玉泉寺に法顕玄義摩訶止観を説かれた。その後西暦五九七年、石城寺に入滅さる。
智証大師入唐求法して天台山に修禅し、以って法華円教、この長等山に輝く。天台大師一千■百年遠忌に際し、報恩謝徳に誠を捧ぐ。」
ふぅ……さっぱりです(?)。
いえ、大陸に天台山というのがある、くらいのことは知っていますが、それ以上の仏教の知識が私にはないのですよね……。
ですので、おおよそスルーで。
「微妙寺」のほぼ向かい側には、真新しい建物がありまして、どうやら文化財収蔵庫なのだそうです。
こちらも華麗にスルーで(寄り始めると、他のところにいけないものでね……日帰りなもので)。
とはいえ、見逃せないものもあったりしまして。
……「三井寺」、お前もか……。
○こちら===>>>
三井寺(天台寺門宗総本山園城寺) 総合観光案内サイト | べんべん
↑どうやらこのキャラクターは「べんべん」と言って、「弁慶の引き摺り鐘」を被った亀(「千団子祭」というのに関係がありますが、またいずれ)のようです。
公式HPで見ると、なんかえらくかわいいのがまた悔しい(?)。
しかし、ヒゲ生やして「ぼく」言われてもなぁ……。
それに「べんべん」……てっきり「智弁大師」絡みかと思いましたが、違っていたようで、よかったよかった(?)。
キャクターグッズは買ってませんから(今度行ったら、買うかもしれませんけれど……のせられているのせられている)。
今回はここまで〜。