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「金峯山寺」の参拝を終え、夜までには家に帰るマンの私は、少しだけ吉野を散策することにしたのでした。
まずは、「吉水神社」へ。
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御由緒 元は吉水院といい、天武天皇の白鳳年間に役行者が創建した格式の高い修験宗の僧坊でした。明治時代に神仏分離が行われ、後醍醐天皇の南朝の皇居であったことから、明治八年に「吉水神社」と改められました。
文治元年ここ吉水院に兄頼朝の追手に逃れた源義経と静御前が弁慶等と共に隠れ住まわれました。悲運に生きた一代の英雄と佳人の悲恋物語を後世へ伝えてきた数々の遺品が吉水神社には残されています。
延元元年後醍醐天皇が京の花山院から行幸され、吉水院宗信法印の援護のもと吉水院を南朝の皇居とされました。南朝四代五十七年の歴史はここよりはじめられ、現存する南朝唯一の行宮となっています。
文禄三年豊太閤(豊臣秀吉)が吉野で盛大な花見の宴をした際に、ここを本陣とされ数日間滞在されました。歌の会、お茶の会、お能の会などを開いて満天下に権勢を示されました。
また、日本住宅建築史上最古の書院として、ユネスコより世界遺産として登録された書院があり、現在の日本住宅の源流をなす実例として数々の珍しい手法が見られます。義経・後醍醐天皇・豊太閤それぞれの時代の遺品や宝物が書院内には展示されています。
十字の詩
(よみ)天勾践を空しゅうすること莫れ 時に范蠡無きにしも非ず
元弘の変に敗れ隠岐に流される途中の後醍醐天皇へ「児島高徳」という忠義の武士が桜の木に刻んだ十字の詩です。後醍醐天皇の南朝皇居である、この吉水神社では十字の漢詩を後世に大切に残すため、この吉野の行宮の門前に掲げています。」
※なお、「吉水神社」の「吉」は、「土に口」です。※
なるほど……明治期は神社仏閣の整理が(強引に)行われ、徳川の時代には軽んじられた人たちが日の目を浴びることになった……というわけでもないか……ともかく、再び天皇にスポットライトが当たった時代でした(祭司王としての役割を、表舞台で果たした、という言い方もできますか)。
入り口。
うん、神社っぽくないとは思ったんです。
拝観料が必要な「北閥門」には行きませんでしたが……九字切りのやり方が載っていたとは……。
景色と紅葉をご覧ください。
左奥が拝殿です。
手前は……なんだったか……。
紅葉紅葉。
拝殿。
なんかもう、ただただ紅葉ですね。
「武蔵坊弁慶」が力づくで釘を押し込んだ岩、だそうです。
紅葉。
「蛭子神社」。
紅葉。
変わった参拝作法でした……「二礼二拍手一礼」という神社ばかりではないのです(とはいえこちらは比較的新しい作法です……)。
「金生大明神」。
「五大尊」とありますね……どの五大でしょうか……。
狛犬さん。
参道入り口付近から。
参道入り口の鳥居です。
「東南院」の多宝塔。
「東南院」は宿坊だったようです。
そういえば昔、無理を言って高野山に旅行に行き、宿坊に泊まったことがあります。
「奈良や比叡山など古い霊地霊山には、東南院あるいは東南寺という名の、寺院があるのが普通ですが、これは、開基または始祖といわれる人が、その霊地を開くときに、中心になる伽藍を建てると同時に、そこから巽(東南)の方角に当たる所に寺を建て、一山の興隆を祈願するということが行われていました。」
初耳……。
「東南院」の本堂……かな。
紅葉越しの多宝塔。
こちら「韋駄天山」という、ちょっと小高い場所。
「金峯山寺」が臨めます。
「韋駄天」を祀る祠があるので「韋駄天山」。
何でまた「韋駄天」なのか……いえ、天部の中では有名ではあるのですが……何か理由があるのでしょうか。
帰り道、蔵王堂。
帰り道にあった「弘願寺」。
ちょっと、何だろう、犬なのか狸なのかゆるキャラなのかわからない像があって、可愛かったです。
ご挨拶程度で済ませました。
吉野に来たのに、吉野っぽいものを食べてなかったので、吉野葛を食べました。
最後は「吉野神宮」に戻りまして、ちょいと散策終了。
御朱印。
二つ目は、何だったかな……「吉水神社」でもらったのは確かなのですが……あ、「勝手神社」だ……あれ、写真がない……?
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熊田葦城 著『日本史蹟大系』第7巻,平凡社,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション
日本史蹟大系 第7巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2024-03-24)
『日本史蹟大系』第7巻より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
p3130です。
「吉水(きっすゐ)院
吉水院は、大和國吉野郡吉野村に在り、天武天皇の白鳳年間、役小角、大峰山修行の時に、創立する所、金峯山寺の一院たり、文治元年、源義経、其兄頼朝の勘気を受けたる時、此處に、潜房したることあり。
延元元年十二月、後醍醐天皇の花山院より、吉野に遷幸あらせ給へる時、法印宗信、兵を以て、迎へ奉り、此院を以て、行宮に充て奉る、後、金輪王寺、即ち實城寺に遷り給へりと雖も、同寺と與に、長く吉野朝廷の行宮となる。
延元四年十月、後村上天皇の即位の礼を挙げさせ給へるは、此院にして、後亀山天皇の践祚あらせ給へるも、亦、此院なること、載せて、吉野山舊記に在り。
明治八年、吉水神社と改称せられ、後醍醐天皇、及び、楠正成を祀る、当年の玉座、御座所に敷きたる高麗縁の御畳、綾の几帳等、今、尚、存すと云ふ。(以下略)」
紹介のあとには、「吉水法印宗信」の檄文が載っていました。
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大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯 第3編,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション
大日本名所図会 第1輯 第3編 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2024-03-24)
そうだ、吉野は大和国でしたね……『大和名所図会』を見るのを忘れていました。
↑は、ちょうど吉野の辺りにページの欠けがあります……ううむ『大日本名所図会』は古本でもいいから手に入れたいところです……p633です。
「吉水(よしみず)院 蔵王堂の少し先の町より左二町計下にあり。当院も後醍醐帝の行宮にして、建武元年二月の遺券呈文あり。又正平・弘和・元中・明徳の年間に賜う所の綸旨に及び、越智・筒井順慶等の願文あり。抑此寺の草創は、役行者山上修行の時、姑息の庵室なり。其後後醍醐の聖寳尊師も、ここに蹤をとどめ給ふ。加之源平兵乱には、源義経・弁慶もここに蟄し、軍議を謀る事三年に及べり。其居席今に破壊せず、庭前には駒の足跡・武蔵坊が力釘、今にその形を遺す。往昔文治元年、源義経大物浦より風波の難をのがれ、此山に登り、夜に入りてひそかに此寺に入る。吉野法師等義経を討たんとせしゆゑ、又此寺を出で、中院谷に隠れしに、悪徒等なほも跡を求め来りければ、佐藤忠信を残して防矢を射させ、静を捨てて、多武峯を経て南院の内藤室の十字坊へ入られしとなり。又後醍醐帝京都を逃れさせ給ひ、此寺に潜幸ありし時、先当院へ行幸ありて行宮とし、後に實城寺に移り給ふ。此院の床を御枕としてよみ給ひし御歌に、
花にねてよしや吉野のよし水の枕の下に石ばしる音
近世豊臣太閤も吉野花見の時、此院に入らせ給ふとなん。
駄天山 は右にあり。」
ちょっと、今『大和名所図会』の「勝手明神」のところを読んでいたんですが、「吉野八神」とか萌えるワードがたくさんあるんですけど……なんで写真ないんだ……。
日帰りが基本(それもできれば夕方には帰宅したい)ので、今回も大急ぎでしたが、本当は一泊くらいしてゆっくり巡りたいですね吉野も……。
楽しい休日でした。