11/30。
さて、「桑名宗社」を後にしまして、「桑名城趾」の御城印をいただくべく駅を目指していたのですが、その途中で出会ったので。
「海蔵寺」へ。
○こちら===>>>
「宝暦年間、木曽、長良、揖斐三大川の治水工事に際し御手伝普請(おてつだいふしん)に当った薩摩藩士の工事の難関に処してよくこれを克服したがその間悪疫に、紛争にまた重大な工事費の処遇など責任を負って殉難した二十四名の墓所(三名は墓碑は湮滅)である。この二十四名は凡て割腹した藩士ばかりで、中央は総奉行平田靭負(ゆきえ)正輔(法名 高元院殿節岑了操大居士・宝暦五年五月二十五日 五十二才)の墓碑である。」
宝暦治水は、愛知県にも跨った大事業だったので、小学校の道徳の時間で習ったような気がします(記憶にうっすらとあります……)。
改めて、先祖の皆さんのご苦労には感謝せねばなりません。
南無。
そこから、さらに駅に向かって歩きまして、「北桑名総社」にたどり着きました。
○こちら===>>>
狛犬さん。
境内全景。
境内摂社は、「八天宮」「稲荷大明神」「金刀比羅宮」「天神社」「船魂社」。
本殿。
「持統天皇御旧跡」。
林銑十郎とな……さすが昭和十年代。
「北桑名総社 北桑名神社」。
「北桑名総社北桑名神社由緒書
当社は、江戸時代始めより現在地に鎮座し「三崎神明社」とも、「今一色神明社」とも称された今一色の産土神です。
明治四十一年、太一丸にあった「太一丸神明社」、宝殿町にあった「佐乃富神社」を合祀し「北桑名総社北桑名神社」と改称しました。昭和十二年、古くなった社殿等の大改修がおこなわれ立派な社殿神舎に成りましたが、惜しくも先の大戦で全て焼失しました。戦後氏子、崇敬者の協賛により本殿拝殿等逐次再建され、今日に至っています。
御祭神 ・天照大御神 ・鵜葺不合尊(神武天皇の父) ・高水上命(伊勢の豪族) ・須佐之男尊 ・天兒屋根尊 ・持統天皇 ・大山祇命
(略)
三崎神明社
桑名の地は古代古書によれば、自凝洲崎・加良洲崎・泡洲崎の三つの洲に分かれていました。自凝洲崎に江ノ奥の記載があり、このあたりに社が奉斎され「江ノ奥神明」とも「三崎大神明」とも呼ばれていたようです。江戸時代の始め、慶長年中桑名藩による町割や開発が行われ、時の城主本多忠政公が神殿神舎を寄進し慶長十九年八月現在地に遷宮しました。
郷土史によれば当社は踊りで有名で、江戸時代六十年を周期とした「お陰参り」が盛んに行われたのに伴い当社への参拝も多く、関東人郡参の社であったと伝わっています。
佐乃富神社・中臣神社
両社とも延喜式内社の古社(「延喜神名帳」に記載されている全国の由緒ある神社)で代々の桑名城主の崇敬があり寛永二十年松平定綱侯が神殿神舎を建立しました。
壬申の乱(六七二年)が起こり大海人皇子(後の天武天皇)は一族を連れて桑名郡家に着き、妻の菟野皇女(後の持統天皇)と幼い草壁皇子を桑名郡家に残し戦場となる不破へと向かわれ、戦いは大海人軍が勝利し桑名の地にもどられました。この間、菟野皇女は桑名郡家に滞在され、それが当社であると伝えられています。
菟野皇女に対する奉仕と功労により菟野皇女より「硯と鏡」を賜り、社宝として当社に伝承されてきました。
五霊神社
当社の境内神社で明治四十一年合祀の際、この地に点在していた小祠を一社に統合して奉斎するようになりました。「赤神様」とも呼ばれる桑名藩主の御命により防火の神、八天宮(火産御霊神)を祀り災害のないことを祈っています。
なるほど……論社だったか……。
さて。
◯こちら===>>>
『現在之桑名』,日新書房,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2023-05-25)
↑こちらから(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
p30です。
「◯北桑名宗社
今一色堤原に在り、従来神明社と称ししが近頃宝殿を合せて斯く名づく。一は大日孁貴命を祭り、一は素盞嗚尊を祀るものか。旧記種々の説あり。其精確なることは得て知るべからず。」
正直者。
◯こちら===>>>
大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯 第4編,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション
大日本名所図会 第1輯 第4編 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2023-05-25)
『伊勢参宮名所図会』の記事をちょっとだけ。
p200です。
「天武天皇頓宮
桑名の町より二十町許西南矢田村にあり。俗に八幡の社といふ。〈羅山紀行〉に曰く、清見原天皇、大友皇子に襲はれ、吉野より潜幸ありて、此を行宮とし、伴ひ給ひし皇后は此地にとめ、不破関へ潜幸あり。終に戦ひ勝ち給ひて即位かせ給ふ。天武帝是なり。皇后は天武天皇の御女、後持統天皇と申す。」
普通だった……これが「北桑名宗社」の場所にあったのかどうかは、郷土史家でもないのでわかりませんが、とにかく「天武天皇」「持統天皇」づいている土地だと。
◯こちら===>>>
大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯 第7編,大日本名所図会刊行会,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション
大日本名所図会 第1輯 第7編 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2023-05-25)
↑『東海道名所図会』はというと。
p284です。
「天武天皇社 同駅鍋屋町にあり。天皇行幸の事は[日本紀]に見えたり。旧地は本願寺村にあり。古跡に菊の井といふ名泉あり。天皇の御供水といふ。天和年中此地に遷す。例祭六月十六日。」
うーん……どうも、ちょっと違うような気がします……と思って検索したら、
◯こちら===>>>
↑ちゃんとありました……おかしいな、見落としたのか……。
◯こちら===>>>
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2023-05-25)
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2023-05-25)
↑この辺りを見ておいていただくと、「佐乃保神社」が「サノホ」と読んで、これが「素盞嗚尊」のことではないかと言われていたり(否定されていたり)、案内板にあるように「桑名宗社」の「春日大明神」と御宝殿にあった「中臣神社」が、式内「中臣神社」の論社になっているらしいことが、ちょっとわかったりします。
『特選神名牒』の方が、「中臣神社」の項目にかなりの文字数を割いているので(長い)、興味のある方はどうぞ(「佐乃保神社」は「八剣宮」と呼ばれていたらしいので、「素盞嗚尊」じゃなくて「日本武尊」からみだろうとか……そういえば、三重ですものね、さもありなん)。
それにしても、潜伏先の吉野から、桑名に出てきた「天武天皇」、伊勢には向かわず……まあ、敵はそっちにはいませんから行く理由もないのですが、皇室の宗廟たる「神宮」があったのに、行かないのも何となく腑に落ちません……と、こういった疑問を浮かべてしまうから、伊勢に謎があるのだ、と思っちゃうのですよね……。
三重県、深いです(しっかり巡る時間が欲しい……)。