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「桑名城址」を後にしまして、ぶらっと歩きながら、桑名といえばの「桑名宗社」へ。
普通に歩いていけます。
○こちら===>>>
橋の向こうに鳥居が見えます。
ばばん、と鳥居。
銅板を貼っている、というのか……。
おっと、鋳物師さんが寄進した……ということは、本当にフルで銅なのか……。
隣の石は「しるべいし」、実物はあまり見たことはないですが、『北神伝奇』で出てきたような気がします(うろ覚え)。
ちょっと暗いですが、緑青の出方もいい塩梅だし、紋様も素敵。
赤銅で輝いていた頃は、もっとすごかったことでしょう。
隋神門。
「桑」の字が、旧字なのかな……。
隋神。
それぞれ神紋が違いますが、神社の成り立ちに負うもので、それ以上の意味はないかと思われます。
こんな感じに……「大」と「三」……意味はあとで調べられたら調べます。
……豪華ですねぇ。
「桑名宗社」は桑名総鎮守で、二つの神社が合祀というのか、合体した神社、のようです。
「桑名神社」は昔は「三崎大明神」と呼ばれていたようです。
御祭神は「天津彦根命」と「天久々斯比命」。
「天津彦根命」は、「天照大神」と「素戔嗚尊」の誓(うけい)で生まれたとされています。
『新撰姓氏録』によれば、その子の「天久々斯比命」は、「桑名首」の祖先神。
どこかで系譜が接続されたものと思われます。
そして、「中臣神社」は「春日大明神」。
御祭神は「天日別命」と、「春日四柱神」。
「天日別命」は、「伊勢津彦」を信濃に追いやったとされるお方ですね(『伊勢国風土記」逸文)。
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https://bennybebad.hatenablog.com/entry/2015/03/25/205553
↑かつて、「春日大社」に訪れた際に妄想してみたことがあります。
「春日四柱神」は、「春日大社」と同じということですね(「武甕槌命・経津主命・天児屋根命・姫大神」)。
拝殿。
こちらは「桑名神社」のほうですね。
こちらが「中臣神社」の拝殿。
……「三」はわかるのですが、「大」はなんでしょうね……「春日大明神」の「大」なのか……ううむ。
境内社の「母山神社」。
御祭神は……なんでしょう。
「稲荷神社」。
文政年間に「伏見稲荷」から勧請したようなので、それほど古くはないですね。
明治の例の件で、町々の「お稲荷さん」が集められています。
「桑名東照宮」。
おっと「千姫」が勧請した、と……。
「逸話
千姫は徳川幕府第二代将軍秀忠の長女であり、聡明さと美貌を兼ね備えた美しい姫君とされます。慶長二十年(一六一五)に大坂夏の陣で徳川軍が豊臣軍を滅ぼすと、豊臣秀頼に嫁いでいた千姫が救出されます。江戸に向かう途中、桑名藩主の息子・本多忠刻が千姫一行をもてなし「七里の渡し」の船渡しの指揮を執りました。忠刻は武芸の達人で眉目秀麗な美男子であり、指揮を執る忠刻の姿に千姫は一目惚れをしてしまいます。千姫は江戸に着くと直ぐに祖父の家康の許しを貰い、翌年桑名へ嫁入りしました。嫁入り直前に家康は帰幽してしまいますが、桑名の地で出会い、恋愛結婚を成就させた千姫は家康にまつわる神宝を当社へ奉納し、感謝の意を込めて東照宮を建立しました。
千姫と忠刻は仲睦まじい夫婦であったと言われ、本多家が姫路に移るまで僅か一年ではありましたが、幸せな新婚生活をこの地で過ごしたとされます。」
そうか、「千姫」は本多家に嫁いでいたんでしたっけ……「天樹院」様といったらもう、山田風太郎先生のあれを思い出しますな……なんであのシーンだけ強烈に覚えているんだろう……ああ、せがわまさき先生の漫画のせいか……。
「皇大神宮御分社」。
本殿をちらっと隙間から。
拝殿遠景。
狛犬さん。
ちょっと見上げているのが可愛いですね。
石鳥居にも紋章が。
拝殿遠景。
それぞれの拝殿をちょっと遠くから。
狛犬越しの鳥居。
さて、「桑名宗社」、「村正」と「正重」という日本刀が奉納されているのです。
「村正は伊勢国桑名の刀工で、初代は美濃国の兼村の弟子と言われている。
当社所蔵の室町時代・天文12年(1543)作の太刀二口は二代か三代の作とみられ、佩表に「三崎大明神」「春日大明神」と彫られており、桑名神社と中臣神社の両社に一口ずつ奉納されたものである。
平成28年県文指定当時は、錆止めの漆に覆われて地刃不詳であったが、令和元年に漆を除去して研ぎ上げられた。現出した地刃は美しく華やかな出来で、村正の見所である表裏の刃文が揃うところもあり、制作年記や居住地などの史料的価値と共に美術的にも村正を代表する出来であることが判った。
正重は村正を祖とする千子派の刀工。室町後期には村正のほか正重、正真などが著名であるが、江戸時代には徳川家に祟るということから村正銘の作品は見られなくなり、千子派の系統では僅かに正重が存続するのみ。
神社には正重の太刀も二口を所蔵。寛文元年作は奥平貞昌の奉納。正重自身の奉納と見られる寛文二年正月作は、令和元年に村正同様に研ぎ上げられ、地刃の健全で力強く野趣に富む出来が現出した。」
村正ったら、徳川に祟るものですよね……『風雲!真田幸村』でもそうでした(時代劇?)。
御朱印もたくさん。
最後のは、季節限定だったかな……七五三ですよね。
日本刀の御朱印は、どこかでいただいたかな……。
○こちら===>>>
https://bennybebad.hatenablog.com/entry/2020/05/09/201847
あ、鍔だけだったか……ガーベラストレート……。
さて。
○こちら===>>>
大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯 第4編,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション
大日本名所図会 第1輯 第4編 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2023-05-09)
『伊勢参宮名所図会』を見てみましょうか(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
p189です。
「桑名神社
式内なり。祭所大櫛命云々。俗に三崎明神といふ是なり。桑名市中より続き、東北の方にあり。社伝に曰く、景行天皇の御宇鎮座、天武大友の皇子をさけて、皇后もろとも、吉野より此地に潜幸ましまして、東国に入り給はんとす。依乃仏神を祈らせ給ひ、此地に皇后をとどめ、船にて尾張・美濃に入り、官軍をかたらひ給ふ。その時の示現に、神現はれて曰く、我は往古より此地の地主にして、娑謁羅龍王の女妙吉祥といふ。本地は十一面観音、垂迹は三種の神宝なり。故に夫を表し、三崎明神と申すなりとて、虚空に飛去り失せぬ。夫より尾張熱田へ渡海し、不破関の合戦に打勝ち、大友皇子を亡し、天位を継ぎ給へり云々。縁起の文詳ならず。さるべき事ともおもはれず。
中臣神社
桑名の市に有り。式内なり。春日大明神といふ。世俗には伏見院正応年中、八月十八日奇瑞示現ありて、鹿島より移り給ふ云々。
御神詠とて
鹿しまより牡鹿にのりて海原や此桑原に跡をとどむる
毎年七月十七日祭礼、俗にひやうり祭といふ。ひやうりは試楽のひやうしをいふなり。又八月十八日祭礼ありて、前十七日を試楽といふ。公より社領御寄付、領主も尊敬有りて、当所第一の神社なり。中臣の神社ゆゑに春日大明神と称するなるべし。」
そうか、どっちも式内社か……。
「天武天皇」が吉野から東国(尾張)に行く途中に当たるのか……しかし、「三種の神器」が垂迹というのは、本当にどこから引っ張ってきた話なのか……。
○こちら===>>>
大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯 第7編,大日本名所図会刊行会,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション
大日本名所図会 第1輯 第7編 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2023-05-09)
同じ名所図会でも、『東海道名所図会』はどうでしょうか。
p286です。
「桑名神社
同駅宮通の北にあり。[延喜式]に云く、桑名神社ニ座。例祭七月七日。石取神事といふ。又七月十七日ヒヨウリノ神事、八月十八日大祭禮。
祭神 三崎明神・神秘・ 春日明神。
母山祠 祭神大己貴命、地主神とす。
末社 神明・熊野・若宮八幡・多度・酒解神・荒神・白山・獅子・住吉。
神宮寺 行基の草創。仏眼院と號す。
当社は波母山地主神とす。日吉山王大宮神社なり。延喜式内桑名神社とはこれならん歟。又三崎明神をいふにや。其後 伏見院御宇正応三年、南都より春日明神を桑名益田庄桑部村に移し、同帝永仁三年八月十八日、益田庄より加良洲の内此母山の社地に移す。」
似ているようで、ちょっと違います。
「みさき」というのは、シンプルに考えれば「岬」で、「御先」なわけで、水上に突き出した地形を指しているのでしょうから、「みさきにあった神社」で「三崎明神」(「三崎神社」)なのではないでしょうか。
呼ばれ方として、「桑名神社」とどっちが先なのかはもうわかりませんが。
気になるのは、ほとんど水神の気配がないことでしょうか……岬の神様なんて、ほぼ水神(あるいは航海神)の属性を備えているはずですが、祖先崇拝で「天津彦根命」と「天久々斯比命」を持ってきている。
伊勢国なので、「神宮」の威光を借りた、ということも考えられます。
きっと、掘ってみると面白いことがたくさん出てくるのでしょうけれども、勉強が足らないのでこの辺りで……。
しかし、「ひやうり」とか「ひやうし」とかって何なんでしょう……きっと、郷土史家の方が調べていらっしゃると思いますが(「表裏」、試楽の「表紙」、「拍子」……うん、よくわかりません)。