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比較的身近を攻めていない、と思ったので、この度は行ってみました桑名市。
まずは、「桑名城址」に行ってみました。
○こちら===>>>
「本多忠勝」像。
関ヶ原後に封ぜられました。
逸話と言ったら、「蜻蛉切」と「生涯一つの傷も受けなかった」という断片的なことしか知らないのですが。
揖斐川の水を引いて堀とした、そうです。
「鎮国守国神社」。
県社となっております。
手水舎。
牛。
ということは、天満宮があるはずです(記憶力……)。
社殿。
まあ、何といいますか、寺ですね……。
それはそれで、江戸時代の様相を残している、と言えるかもしれないです。
扁額。
ちょっと下がってみました。
向かって右から、裏の方に廻ってみます。
瓦には葵。
桑名藩は「松平定綱」が封ぜられて、幕末には佐幕派筆頭、(高須)松平四兄弟の一人である「松平定敬」が藩主でした(兄弟には会津藩の「松平容保」がいます)。
水城、とまでは言えないのかもしれないですが、揖斐川氾濫したら大騒ぎですよね……。
「戊辰殉難忠魂碑」。
独鈷杵なのか……。
金属の灯籠。
ちょっと珍しい気がしたので。
狛犬さんs。
御祭神は「鎮国大明神(松平定綱公)」、「守国大明神(松平定信公」。
相殿も多め。
由来は、ちょっと調べないとですね……。
紅葉越しに、狛犬さん。
参道。
「九華招魂社」。
六曜紋が、逆さになっているのは何故でしょう?
招魂社だからか……?
ちょっと寂しげ。
「高龗神社」となっておりますが、提灯には「御井社」とあります。
「藩祖松平越中守定綱公本丸に一井を掘り高龗神を崇め、本城鎮護・延命長寿・子授け・子育てを願い奉祀」
と案内板にはあります。
地下水なのか、揖斐川の水を引いてきたのか。
「大砲隊」。
狛犬さんsその2。
「鎮国稲荷神社」。
例によって、ぎゅっとされたようです。
おキツネ様。
「宮光稲荷大明神」「稲荷神社」とあるのは、ぎゅっとされたうちの一つでしょうか。
連続体の美。
遠景。
……カエル様。
神戸櫓跡。
「戦国時代、この付近には伊藤武左衛門が治める東城があったとされる。織田信長の伊勢侵攻の時、伊藤氏は降伏し、東城は廃されたものと思われる。
文禄の頃(1592〜1596)一柳直盛が城主となると城郭が築かれ、その時伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれている。
江戸時代、初代藩主本多忠勝は城を拡張し、本格的な近世城郭を築いたが、神戸城の天守閣は櫓としてそのまま残され「神戸櫓」とよばれた。」
……そうです。
急に大砲。
うむ、晴れていれば良い景観。
辰巳櫓跡。
「桑名城本丸の東南角にあり、三重櫓であった。
元禄十四年(1701)天守閣が消失し、再建されなかったので、以後はこの辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在であった。このため、明治維新の時、降伏のしるしとして新政府軍に焼き払われた。
現在大砲が置かれているが、由来等は不詳。」
……ってことは、誰か勝手に置いていったのか……。
天気が良ければ……しかし本当に水城ですね。
案内板。
桑名城絵図。
「桑名城の沿革
戦国時代、この付近には伊藤氏が支配する東城と呼ばれる城がありました。戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され信長の家臣滝川一益(かずます)の支配を受けました。豊臣秀吉の時代には、一柳右近や氏家行広が治めました。
桑名城に初めて天守閣が築かれたのは文禄四年(一五九五)で、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれています。
桑名に本格的な城郭が築かれたのは慶長六年(一六〇一)です。徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しました。忠勝は東城があった所を中心に縄張りを行い、近世城郭を造りました。同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し町の守りとしました。忠勝の行ったまちづくりを「慶長の町割り」と呼びます。
桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができました。天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが元禄十四年(一七〇一)の大火で焼失し、以後は再建されませんでした。門や櫓の数は多く、享和三年(一八〇三)の記録には、本門や路地門などを合わせて六十三ヶ所、櫓は九十五ヶ所とあります。
しかし幕末戊辰の役(一八六八)の時、桑名藩は旧幕府方に付き、藩主松平定敬(さだあき)は東北地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏しました。その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。新政府軍は天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓(略)を焼き払い、桑名城落城のしるしとしました。その後桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされました。」
なるほど…
御城印。
確か、桑名駅近くにある、観光案内所でいただいたんだったと思います。
さて。
お城に関しては、案内板に書かれているのを見れば(とりあえずは)事足りるようにも思いますが。
あと、城というのは当たり前ですが、江戸時代には藩主なりが住んでいたので、名所図会等の観光案内に、そんなに詳しく書かれては困るわけです。
ということで、
○こちら===>>>
『現在之桑名』,日新書房,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2023-04-24)
比較的新しめの本から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
p31です。
「○鎮国神社、守国神社
二社相殿にして旧城址御本丸に在り。明治十三年十月県社に列せらる。鎮国神公諱は定綱初名定清又定治又定信とも称し俊峰と号す、徳川家康公の異父弟松平隠岐守定勝公の第三子なり。慶長十年四月越中守に任ず、同十九年の冬及元和元年の夏大阪に出陣し、夏の役殊功あり、寛永十二年桑名に封ぜられ、十一万石を領し海道第一の名将と称せらる。爾来城郭を修補し文武を励まし、深く民政に注意す。元和八年将軍家光公日光社参のとき本多上野介の逆謀あり、神公途中にて将軍と駕籠を交換し、将軍に代て宇都宮城に臨み、事故なく江戸に帰りしを以て其まま駕籠を下賜せられ子孫に傳ふ、是所謂黒塗の棒とて他藩に比類なき名誉の駕籠なり。慶安四年十二月二十五日病を以て薨す。御年六十。江戸深川霊岸寺に葬儀を行ひ、遺骨を桑名照源寺に蔵む。寛政九年奥州白河城内に崇祀し、後桑名に遷座す。
守国公諱は定信字は貞郷旭峰と号し、致仕の後は楽翁と称す。中納言田安宗武郷の第七子にて、幼名を賢丸と云ふ。安永三年台命を以て松平越中守定邦公の嗣となる。時に御歳十八。天明三年越中守に任ず、襲封以来深く心を国政に用ゆ。同七年六月侍従に任じ、加判の列上座を命ぜらる。即老中の首席なり。同八年将軍輔佐の職を命ぜられ、又内裏造営の総督を命ぜられ、其歳五月上洛して天顔を拝す。寛政四年には海防の総督を命ぜられ、翌年伊豆、相模、安房、上総等の海岸を巡視す。最初執政に任せられしは御年三十なりしが、爾来七年幼主を輔佐し、旧弊を改革し賢を挙げ奸を退け綱紀大に張る。辞職四度に及び、寛政五年七月之を許され、左近衛権少将に推任、溜の間詰を命ぜらる。文化九年致仕を乞ふこと再度に及び◼︎に之を許さる。時に御歳五十五。文政十二年五月十三日病で薨す。御歳七十二。江戸深川霊岸寺に葬る。後天保五年鎮国神公の相殿に崇祀す。」
元々、本丸内に祀られていたようですが、いわゆる霊廟というか、御霊屋、としてだったのでしょうか。
それを神社と呼ぶかどうか、はいろいろとあるでしょうけれども、仏教的な位牌と仏壇だけでなく、こうした祀り方もあったのだということは覚えておきたいものです(故人の神格化、と言うと何だかあまりいいイメージではないですが、意識としては仏壇と変わらないように思います)。
さて、桑名をちょっとだけぶらっとしますよ。