べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「砥鹿神社」(再)(豊川市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

成人の日でしたね……出勤して、すぐにはからずも4連休……もう、今年一年分のお参りをすませるわさ、とばかりに「砥鹿神社」へ。

一之宮ですからな。

 

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www.togajinja.or.jp

 

↑公式HPです。

 

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「砥鹿神社」 - べにーのGinger Booker Club

「砥鹿神社」末社等 - べにーのGinger Booker Club


↑過去の記事です。

 

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社標。

 

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大絵馬。

 

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拝殿。

 

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えらくポップな雰囲気のする「神鹿絵馬殿」。

 

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二宮・三宮の狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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松の内をすぎたとはいえ、ご祈祷を待っていらっしゃる参拝者さんも多かったです。

以前うかがったときは、あまり人はいなかったような……いやいや、三河一之宮ですから、そんなことはありますまいて。

 

さて。

 

 

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

とりあえず、『東海道名所図会』からいってみましょう。

珍しく、本になっているのを持っているので(本当は、全部の名所図会を本でほしいんですけどね……)。

中巻の124ページ。

 

「砥鹿神社
宝飫郡(諸書に飫を飯に作るは謬りなり)一宮村にあり。延喜式内。峰の社を本宮と称す。吉田より麓へ三里、山路五十町。峰の社頭を本宮岳という。
神大物主命 『風土記』に、「祭る所は大物主神。圭田五十三束。文武天皇の元年[六九七]、始めて圭田を奉り、神札を加う。」
『文徳実録』にいわく、「嘉祥三年[八五〇]秋七月丙子朔、三河の国砥鹿の神に従五位下を授く。仁寿元年[八五一]冬十月乙巳、参河の国知立・砥鹿両神の階を進め、並びに従五位上を加う。」
『三代実録』にいわく、「貞観十二年[八七〇]八月、砥鹿の神に正五位上を授く。貞観十八年六月、従四位上を授く。」
社説にいわく、「祭神大己貴命(大物主七名の内)。文武帝御悩によって、大宝年中[七〇一〜七〇四]、草鹿砥公宣卿、煙厳山(鳳来寺山号)勅使の時、神託あって、公宣卿をもって当社の御神をまつらしむ。今の神主草鹿砥氏はこの公宣卿の後裔なり」という。例祭五月四日。走馬、流鏑馬の形粧[行粧、いでたちの意か?]あり。この本宮岳は東に石巻社、西に猿投社、挙母の里、南に大洋渺々として、風色深妙の地なり。(略)」

 

……過去記事で紹介した『三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起』の記述とほぼ同じです(ま、そりゃそうです)。

ちょっと面白いのは、

 

「宝飫郡(諸書に飫を飯に作るは謬りなり)」

 

の部分で、今では「宝飯郡」ですからね……多分これには、常用漢字云々が絡んでくるので、

 

 

 

↑といった本が参考になるかもです。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑『神社覈録』を観てみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

821ページです(すみません、コマ数を忘れました……)。

 

「砥鹿神社
砥鹿は仮字也 ◯祭神大己貴命、(略) ◯雀部庄一宮村に在す、(略)◯当国一宮也 (略)」

 

……『東海道名所図会』とほぼ同じ内容でした。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑『特選神名牒』はどうでしょうか。

274ページです(こちらも、コマ数ではないです)……と見てみたところ、位階のことしか書いていませんでした……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 古事類苑. 神祇部26

 

↑『古事類苑』はどうでしょう。

39コマです……とこちらも、『延喜式』『東海道名所図会』『文徳天皇実録』『三代実録』からの引用ばかりですね……。

一の宮なのに、扱いがあんまりではないでしょうか……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第3編

 

↑『尾三郷土史料叢書』第3編に、『三河国古蹟考』が収録されておりまして、そちらから。
43コマです。

 

「◯砥鹿神社
(略)
△峰ノ宮謂本宮山名本茂山。三川雀云実ハ本茂山トイフ。」
(略)
鳳来寺縁起云、猿橋ハ当山ヨリ南ニアタレリ、勅使公宣卿登山ノヲリフシ滝川ノ流ニ猿集テ枯木ヲ橋トシ勅使ヲ渡セシ故名ク云々。
(略)
◯又云本宮在長山村社領二十石爲砥鹿明神本宮或熊野本宮。
◯三川雀云、いつの頃にや三川に熊野山をうつし、那智は夏山村、新宮は国府にあり、熊野の谷は赤坂にあり吾妻鏡に源俊成卿若一王子を蒲形里に勧請すると見えたり。
◯按ニ、統叢考ニモ此説ヲ挙テ、ナツ山はナチ山ノ誤ナリト云リ、然レドモ此説スベテ信ラレズ国府近辺広石村地内ニ新宮山ト云ル山有テ山上二社アリ、コレ御津村ノ摂社ナリ源俊成卿云々ノコト藤原ノ誤ナルベシ印本ノ吾妻鏡ニハ見エズ、サレド蒲形ハ彼ノ卿ノ領ス庄ナルコトハ四ノ十丁ニ見エタリ。
◯又按ニ本宮ハ、砥鹿神社ノ本宮ナルコトハ論ナケレド、モシクハ穂ノ宮ノ意ニ非サルカ、此山ヨリ流レ出ル川ヲ宝川ト云ヘド、コモ宝(ホノ)川、本野原ハ中古ノ書トモニモトノ原トアレド旧クハ本(ホノ)原ニテ本野村は穂(ホノ)村ニテ宝(ホノ)飯郡ノ本土ナルヘキカ、可考尚予ガ旧地考ニイヘリ。
類聚国史九十二漠猟部云、欽明天皇九年丁酉春令千田直蒐参河国宝飯郡砥鹿山得双鹿列卒有屠之者忽患疫死自此其疫転而餘卒不疫万許一也、知爲神領而自宮寄附監時祭田也。
◯按ニ此事日本紀ニ載ズ彼ノ漁猟部ト云ル条ハ、六国史ニ載セサル異シキ事ヲ載セテ甚疑ハシキ物也、恐ラク後人ノ附記ナラムカ可考。サテ此事ヲ宣輝神主ニ尋ヌルニ、サル社伝ハナケレド砥鹿神社ノ末社ニ鹿角ノ社ト云アリ社地ハ宝川ノ辺ニ在テ社ハナク一ツノ塚ヲ祀レルノミナリ鹿之御霊ヲ祀ルト社伝ニアリト云ハレタリ。
(略)」

 

面白そうなところだけ孫引きしています。

御祭神が「大物主神」か「大己貴神」であることは確定っぽいのですが、どうにも揺れがあるようで、「熊野本宮」を引っ張ってきたり。

類聚国史』の記事は、「白い鹿が祟った」というお話です。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編

 

↑『尾三郷土史料叢書』第4編には『参河国名所図絵』が収録されています。

173コマです。

 

「砥鹿神社
同村に在 当国の一の宮とす、延喜式に載る所の官社なり (略) 或る説に 聖武天皇の御代に六十六ヶ国に一社つつ撰み置玉ふと云るはさもあらんか 又或説に 崇神天皇の御時に定め置賜ひし天社を一ノ宮と称し其後垂仁天皇の御時に定め置賜うき地社を二ノ宮と称するなど云へれと信し難き説なり 三河国渥美郡羽田村神明宮の神主羽田村敬雄主より恒の消息のついでに一ノ宮と云は国司神拝又祭礼奉幣せらるる時ごとに最初に事行ひし社なるかと考へ侍りさるは国内神名帳の和泉三河駿河伊豆美濃上野若狭紀伊などの国々悉く第一に一の宮を挙たれはなりと見へたり(略)
(略)
足助八満宮縁起の中に 東海道三河国賀茂郡足助総社八幡大菩薩の元興を窺ふに仁王三十九代天智天皇の御宇 当国宝飯郡大深山と云ふ山に怪異者三ツ出来せり 一は猿の形 一は鹿の姿 一は鬼形にして大木の梢巌上の上飛行自在に見へたり 人々あやしみを作す処に猿形なるは石舟に乗飛行高橋庄猿投大明神是なり 鹿の姿なるは彼所に止り則砥鹿大明神と化現せり 当一の宮是なり 亦鬼神なるは能物言我は是紀州牟漏郡熊野本宮より国廻する者なりと言彼大深山を鬼出来するに依て其後鬼見山と云 又本宮山というり云々見ゆ 又宮島伝記に云永正十三丙子年十一月十六日当国一ノ宮砥鹿大明神本社棟上あり牧野田三平信成祈願に依て是を造営す 亦田三別腹の子を以て一ノ宮神職を継く左エ門大夫と号す(略) 又明応四乙卯歳九月廿一日一ノ宮甲斐左衛門太夫卒す(略)
◯但馬続風土記に二方温泉の記を引て上古大穴持少彦名二神入田道間洲開瀬門経営此温湯後居朝来郡赤渕宮終向東方参河国とあり
式に朝来郡刀我石部神社あり可考」

 

前半は、「一の宮ってなんぞや?」な内容。

『足助八満宮縁起』の話は、

 

◯こちら===>>>

「足助八幡宮」「足助神社」(豊田市) - べにーのGinger Booker Club

 

↑の記事でも取り上げています。

『但馬続風土記』の伝説は、どうなんでしょう、「刀我石部神社」が式内社として『延喜式』に掲載されているのは事実ですが……。

鹿といったら、普通「春日大社」、藤原氏、「鹿島神宮」といった辺りが想起されますけれども、そういった伝承はないようですね。

うーん……出雲から但馬を経由して、三河に入ってきた「大物主神」奉斎氏族がいた、という可能性はあるのでしょうか。

朝来郡には「足鹿神社」もあったようですし……。

 

ところで、「とが」といったら、すぐに「科・咎」、が浮かんできますよね。

音的に、結構不吉な感じがしますけれども……「砥鹿」は明らかに当て字でしょうから、御祭神が「咎の神様」だったとすると、神紋が占いを想起させるものであっても不思議でないかな、と。

吉凶を占う「亀卜」ですが、罪科をはかる役割も占いにはあったりしますので(神明裁判、「盟神探湯(くがたち)」とか)。

そんな役割を持っている神が、ある時期までは存在していたけれども、大和朝廷の成立で整理されてしまったのか……。

鹿の骨、も卜占には使いますね……。

 

おっと、散漫な感じに。

というわけで、高速初詣(三河編)でございます。