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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「足助八幡宮」「足助神社」(豊田市)

4/9。

桜の残滓を求めて足助方面へ。

紅葉の季節には絶対に訪れたくない場所です(香嵐渓は、それはみごとな紅葉が鑑賞できるのですが、なにしろほぼ一本道なので、超渋滞します)。

春ならまだまし。

 

○こちら===>>>

asuke.info

 

「足助八幡宮「足助神社」へ。

ついてみると、役所の駐車場に誘導されました。

どうやら「足助春まつり」だったようで……本番は明日(日曜)のようなので、下手に混雑する前に参拝をすませて帰りましょう、と。

 

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駐車場のすぐ側に忠魂碑。

 

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まず「足助神社」のほうが近かったのでそちらに。

 

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ゑ〜と……。

 

足助重範を祀る足助神社

足助次郎重範は、飯盛山城主足助氏七代の惣領で、元弘の乱(一三三一年)には、後醍醐天皇に味方して、笠置山京都府)籠城軍三千人の惣大将となり、一の木戸で奮戦した。三人張の強弓で戦うさまが、「太平記」に名文でえがかれている。笠置山落城のとき捕われの身となり、元弘二年(一三三二)五月、京都の六条河原で斬首された。」

 

無事読めました。

南北朝ですか……ほとんど何も知らない時代の話ですね(無知)。

 

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ほぼ同じ内容ですが、明治天皇より贈位もあり、足助神社として祀るようになった。」ということで、新しい神社です。

天皇家北朝系のはずですが、明治の頃にいろいろとあったようで、南朝の正統性が認められてこともありました(今の見解はよくわかりませんが)。

そうすると、「うちの殿様も南朝の天子様のために戦った!」と言うわけで(しかも『太平記』とかに残っちゃっているので)、明治政府的にも顕彰せざるを得ない、という成り行きでしょうか。

 

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やや左側から。

 

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その西側に「足助八幡宮」です。

 

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ちょっとだけ別角度。

 

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味のある狛犬さん。

「梅丸講」と読むのでしょうか……地元の講のようです。

 

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立派な扁額、そして蕃塀。

 

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手水鉢には蛙さんがいらっしゃいました。

 

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「足助八幡宮

天武天皇の白鳳二年(六七三)創建と伝える古い神社で神宮寺のあった名残りの鐘楼もあり多くの文化財を保存している。

八幡神社本殿>(略)

文正元年(一四六六)十一月の債券で、桧皮葺三間社流造である。妻飾・象鼻・手挟など室町時代の特色をよく示しており、特に向拝の蝦虹梁の手法はすこぶる奇異で珍しいといわれている。地方では規模も大きく、稀に見る神社である。

<扁額 鉄砲的打図板額>(略)

慶長十七年(一六一二)三河国岩神村(足助町内)の沢田四郎右衛門尉が奉納したものである。八幡宮の社前で、日の丸の扇を的にして老翁が射撃する図が、大和絵の手法で描かれている。鉄砲を描いた古絵馬(扁額)は全国でも他に三枚しか原ぞんしない珍しいものである。」

 

天武天皇」の時代にね……誇張された縁起だと思いますが、「壬申の乱」において、東国が「大海人皇子天武天皇)」に味方したことが推測されますので、その辺りとの関係が何かあるのかもしれません。

 

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樹齢500年近いスギの大木です。

足助町で四番目に太いとか。

 

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神馬と……左は?

 

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「足神」様でした〜。

 

「当宮には、足腰の病をいやす恵みを始め、様々な有難い霊験が伝わっています。足助は、かつて信州への中継地として栄えていた宿場町で、旅人は、この先の険阻な街道を旅する前に、足を休めて当宮で旅の安全を祈願したと言われています。」

 

とのこと。

 

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拝殿。

 

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「御創建 天武天皇白鳳二年(六七三)

御祭神 品陀和気命

帯中日子命

息長帯比売命 外五柱

文正元年(一四六六)再建重文」 

 

 「応神天皇」「仲哀天皇」「神功皇后」ですね。

 

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境内社の……なんだろう……忘れました。

 

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こちら鳥居近くにある鐘楼。

 

「この足助八幡宮には、明治初年まで境内に神宮寺があった。この鐘楼は、神宮寺のあった名残りである。明治維新神仏分離の際、鐘は三重県柿野町来迎寺に売られ、現在は県文化財に指定されている。」

 

鐘楼はあっても鐘はなし、ですか。

 

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「足助八幡宮」と「足助神社」の間に摂末社が。

左から、「稲荷社」「御鍬社」「津島社」。

お稲荷さんではなく「津島社」だけを朱塗りにしているのは、単に「津島社」を修繕したときにそうしただけなのか、意味があるのか(赤は悪霊を払います)。

 

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「足助八幡宮本殿(略)

足助八幡宮の創建は、天武天皇の白鳳二年(六七三)と伝えられており、現在の本殿は文正元年(一四六六)十一月に再建されたものです。

屋根が桧皮葺で、三間社流造(正面両端の柱間が三間で、切妻屋根の前面が背面より長く延びている神社の建築様式)の本殿は、室町時代の特色をよく示しています。

愛知県内にあるこの時代の神社建築としては、規模の大きなものです。」

 

確かに綺麗な流造ですね。

向拝の蝦虹梁がまったくわからないのがはなはだ残念です……。

 

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「足助神社」に戻って、足助氏の碑(本殿向かって左手にあります)。

 

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鳥居から外を。

 

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「足助八幡宮」の左手奥に進むと、まずイチョウが。

 

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本殿左手の摂末社

真ん中は「秋葉社」、左は……あれ、なんだったっけ……あ「塩釜社」です。

御祭神はおそらく「武内宿禰」ですから、「八幡宮」にはつきものですね。

 

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本殿に近い「足助天満宮」。

 

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「塩釜社」の左側は……あれ、本当になんだろう。

建築様式からして寺院系っぽいですが……護摩堂かな?

 

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鳥居の前は道路なのですが、その反対側から遠景を。

 

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で、その向かい側には「神宮山十王寺」というお寺が。

「またぎ阿弥陀如来」ってなんだろう……気になったのですが、中でお参りはできず。

 

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「十王寺」なのか「十王堂」なのか。

 

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「十王寺

寛永年間に鈴木正三和尚が創建した寺である。正三は天正七年(一五七九)足助郷則定城主忠兵衛重次の長男として生まれ、徳川家の旗本として仕え大坂夏の陣に戦功をあげた武将であったが、四二才のとき家を弟に譲り出家した風飡無宿の禅僧、宗教自由人として正しい仏教を庶民が日常生活の中で体得するように、仮名草子本(二人比丘尼・因果物語)を書き、近世文学の基となったことでも郷土の誉れ高い人物である。

なおこの寺の本堂に安置される阿弥陀如来立像は別名「またたき如来」と呼ばれ土地の興味深い伝説となっている。また足助八幡宮の境内にあった神宮寺の本尊木像薬師如来座像は高さ九〇センチと小さいが鎌倉期の傑出した作である。」

 

×「またぎ阿弥陀如来

○「またたき阿弥陀如来

 

でした。

うーん、どんな伝説なのか是非とも書いてほしい……んですが、「十王寺」か「十王堂」なのに、地獄の「十王」についての説明がまったくないのはどういうことなのか。

まさか、別の「十王」なんでしょうか……。

 

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御嶽講の碑っぽいです。

 

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こちら「十王寺」の全景。

 

それから、桜を求めてぶらぶらとあたりを歩いていましたが、

 

○こちら===>>>

近況 - べにーのGinger Booker Club

 

↑それはこちらで。

 

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縄文のビーナス」をかたどった(?)像。

「あすけ愛」って書いてあるんですかね。

 

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御朱印は、どちらの神社のものもいただけました。

 

 

さて。

あいにくと『三河名所図会』というのはないのですが、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第6編

 

↑の中に『参河名所図絵』が収められています(最後の文字に注目)。

そこから引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

361コマです。

 

「宮平十王堂
正三の反古集 下ノ十二丁 三郎九郎思立候て去年より十王建立致し、脇ともに十三躰有之候人々先相の遺像に致す心得なる故大方施主有之候我等一族の分は、皆々造り申候道入走は不善根の人に候へば先づ今生に於ても子孫に至迄不吉に可有かと笑止に候間、今一二躰残りたるを二親の為に造らせ申し度、堂の義は足助宮平に立申候、さて朝夕二時に鐘を鳴して仏事勤行を正敷し、人の心をも進めん為に毎年如法に致し候、此処に鐘を撞候へば五千人程の耳に入可申かと思候、彼是以随分功徳に可成様に存じ候、扨又天草の寺の事、■■■■善根を仰付られ誠に子々孫々に至る迄勝れたる功徳に預る事■申盡儀に候以上。」

 

「十王寺」の記述です。

いまひとつ何が書いてあるのか要領を得ませんが、とりあえず「十王」を祀ったことは確かなようです。

ううむ、拝見したかった……。

 

続いて、

 

「八幡社
祭神
神領当社縁起八十二代後鳥羽院御宇建久六年乙卯四月上旬に、源頼朝此山中御通の時、此社何なるらんと御尋候時、八幡宮にて御坐由申ければ、源氏の氏神にて坐すにより深く信じ給て祭礼の為に領地を寄付有、今本神領是なり。
続群類、足助八幡宮縁起 爰に東海道三河国加茂郡足助惣社八幡大菩薩の元興を窺ふに、人王三十九代天智天皇の御宇当国宝飯郡大深山と云山に怪異者三つ出来せり、一は猿の形、一は鹿の姿、一は鬼體にして、大木の梢、巌石の上、飛行自在に見えたり、人々あやしみを作す所に猿形なるは、石舟に乗り飛行高橋庄猿投大明神是なり、鹿の姿なるは彼所に留り則砥鹿大并と化現せり当国一宮是なり、又鬼神なるは能物言我は是紀州牟漏郡熊野本宮より国廻りする者也と言、彼大深山に鬼出来するに依て、其後鬼見山と云、亦本宮山と云り、而後鬼形黒雲に乗じて北方へ飛去る足助郷深山たりし所に来れり、人家稀にして雲霧のみ深し、彼所に住べき思をなし、元一夜に霊山を築出せり、今の飯盛山と云是なり其山形宝珠に似て、飯をもりたるが如し、是則当社円満の祖なり、鬼神彼山に住り名を善證鬼と云、此所に住といへども、三年まで人知事なし、其後人知と雖も鬼形におそれて、人民親事なし、依之人身に変化して名を帰能士と号す、亦此所に下主神の女あり、自足城(みたりき)姫と云、是と夫婦になりて住事亦七ヶ年也一女二男を生ず一女崇見足姫と云、二男一人は賀浄夫と云、一人は好基士と云ふ、其後帰能士人王第四十代天武天皇御宇白鴎三年乙亥二月十一日誓言を残して隠畢、其誓託語曰
我是護国霊験神 現世即得来長寿
官禄富饒皆成仏 当来廣度諸群王
此語によりて賀浄夫、好基士、二人して則廣社を造、八幡宮と崇奉りけり、我是護国霊験神と云は本紀云、欽明天皇三十二年辛卯神護五年正月十一日、豊前国宇佐郡菱潟の池の邊大尻と云小山の奥に鍛冶する声聞えければ、大神の此善義三年、五穀を絶て、祈念する三歳の小児の形にて、竹の葉の上に立て、託宣して曰、我は是天照大神の末孫仁王十六代帝応神天皇の霊地也、名は護国堂霊験威力陣痛自在王并と云とあり現世即得求長寿官位富饒成就と云は、薬師本願経に曰、求長寿求富饒求官位得官位と有文を託したまへり、依之本地薬師仏にて御座と知て神宮寺に薬師の尊像を立置り其後賀浄夫は行儀并と誓約して、介木を越て居住し、後は稲荷明神と顕りけり、好基士は当社宮寺と成て住宅す、此所山深く、人家稀にして田畠鮮し、当社末小社にて御座して遍く知人なし斯て星霜を送る所に桓武天皇の御時源秀弘と云人、当社の前を通る馬俄かに倒れて落馬せり眼暗くして東西を不辨心地煩ひけるに神気付せ給て宣く、我此山中に神と彰れ、年月を経と雖も、我を崇敬する者なし、汝今よりして法施を致し恭敬せば、子孫繁栄して武運長久たるべきことを知らせん爲に落馬は我なす所なり、と云てやがて夢の覚たる心地して、本心に帰れり。扨一供の僧法、朝夕の法施主をさせしより、このかた、神威光を増し、霊験新なり、而後五十一代平城天皇御宇、大同三年戊子四月中旬に野口村藤太夫が娘、七歳に成に託して曰我此所に路を垂住事久しと雖、神女巫と云事なし此少女我に得させよと云て、物に狂ふこと三ケ日彼親辞し難くして則神女になし社近く住せしより神徳益貴して、渇仰の人多かりけり。」

 

『足助八幡宮縁起』からの引用として、

 

「人王三十九代天智天皇の御宇当国宝飯郡大深山と云山に怪異者三つ出来せり、一は猿の形、一は鹿の姿、一は鬼體にして、大木の梢、巌石の上、飛行自在に見えたり、人々あやしみを作す所に猿形なるは、石舟に乗り飛行高橋庄猿投大明神是なり、鹿の姿なるは彼所に留り則砥鹿大并と化現せり当国一宮是なり、又鬼神なるは能物言我は是紀州牟漏郡熊野本宮より国廻りする者也と言、彼大深山に鬼出来するに依て、其後鬼見山と云、亦本宮山と云り、而後鬼形黒雲に乗じて北方へ飛去る足助郷深山たりし所に来れり、人家稀にして雲霧のみ深し、彼所に住べき思をなし、元一夜に霊山を築出せり、今の飯盛山と云是なり其山形宝珠に似て、飯をもりたるが如し、是則当社円満の祖なり、鬼神彼山に住り名を善證鬼と云、」

 

天智天皇」の時代に、三河国宝飯郡大深山というところに、「猿の形」、「鹿の姿」、「鬼体」の三つの「怪異者」があった、というところから始まっています。

「猿の形」は「猿投大明神」、「鹿の姿」は「砥鹿大明神」、「鬼体」は紀州の「那智本宮大社」からやってきたものだ、ということです。

このうち「鬼体」のものは、より北方に飛び去って、足助郷にやってきたと。

その後、「鬼体」のものは、「帰能士」と名乗ったようです(「帰能」は「鬼の」ということでしょうか。「きのし」?)。

「自足城(みたりき)姫」という、地元の神の娘と結婚して、「一女崇見足姫と云、二男一人は賀浄夫と云、一人は好基士と云ふ」という一女二男を設けたそうです。 

 「帰能士」は、白鳳三年にお隠れになったようですが、その遺言が、

 

「我皇護国霊験神 現世即得来長寿

官禄富饒皆成仏 当来廣度諸群王」

 

という誓いの言葉だったと。

 この文言が、「宇佐八幡宮」やら「薬師本願経」やらからとったものらしく、子供の「賀浄夫」と「好基士」は父神を八幡神としてお祀りしたようです。

その後「賀浄夫」はお稲荷さんとなり、「好基士」は末社にいらっしゃったのだけれど忘れられており、「桓武天皇」の時代に再発見された、と。

ざっとこんな感じですが、明らかに神仏習合が始まっているので、古い縁起とは考えにくいですね。

面白いっちゃ面白いのですが。

「猿投神社」「砥鹿神社」という、三河地方でも一、二を争う大社と競っていた、ということが言いたいだけなのかもしれません。

 

続いて、

 

「若宮

本社左の脇に在、当社縁起に云、五十二代嵯峨天皇御宇、弘仁七年丙申六月上旬、神女託して曰、此所に開発の者の子、好基子の神霊なり、我内證神位を保と雖、人しらず、急ぎ社を造り、我に與へよと有しかば社を造り崇奉る今左脇の末社若宮是なり。
猿投社
本社左の脇若宮に相並んで在
当社縁起に云、仁治元年秋、当庄仁木郷源長重知行の時、濃州より、土岐次郎入部有べき申聞えしかば、長重当社に祈申て、土岐次郎発向すると云ふ共、理運に当り、郷安堵仕なば、神田を寄進可申、彼次郎が謀反の心を出立仕らざる前に止させ給はば大慈大悲の御利生成べしと偏に丹精有しに、八月二日土岐次郎打立所に藤原利運と云旗指、馬より倒に落ち、首の骨突折て死す、是によりて其時の出張思留りき是則大菩薩の御計にて如此留給者なり、然間仁木九月九日怠慢なく祭禮あり。
縁起に云、弘仁十四年癸卯八月藤原実家の愛子、十一歳になるが病付て、久敷煩けり、色々祈けれども験なし、当社僧直秀律師を請し内加持する所に、彼病者の妹八歳になるに神気付て、口説こと有、我は是高橋庄猿投の神也、当社八幡と値偶有て、本宮山へ飛来れり、我も亦此所に社あまねく與へよ、其望有て、此愛子に付来れり、と託有しにより、実家社を造可申由領掌申ければ病悩すみやかに平癒せり、当社の左の脇若宮に相並で、猿投社と祝申なり。
八劔宮
本社西の脇に在
当家縁起に云五十四代仁明天皇御宇、承和八年八月十四日、当社御供を備へ侍る所に、御供俄に二つにわれて高坏より西におつ、不思議に思ひて、神女に神託を祈る、託して曰、尾州熱田大明神此所に来りたまふ、八幡の御為に、御祖父にわたらせ御座、今爰に来て氏子護り有べき、御誓約によりて此宮中に御座せり急ぎ社を構へて安置し奉べき由、告知せたまへり、夫より当社西の脇に小社をかまへて熱田を崇奉る、今八劔宮是なり、足助枝村、三吉村に当麻太夫と云者、田の境を人に指こまれ、地頭に此由申て歎きけれども、訴人つよかりければ、本望成かたし、当宮において、七座神楽を法楽して、名田本のごとく、境をさせたまへと、祈念一心に申ければ、其時神子に物の気付て

 

春の田の境の柳吹ませと又吹返す天津神

 

と繰返し、繰返し、うたひければ此神楽も、七座におよばざるに、三吉より便ありて、境越たる者の女子十歳に成が、神の気にとり噤められて田の境本のごとく返せ返せとおめき云ければ本の人に可返由申則境を元のごとく返しけり、名田の内五反、当社に寄進せり、末社八劔宮に祭礼なければ付奉りて、毎歳八月八日祭礼怠る事なし村一色の内五反是なり。
嶽宮
元久元年源頼朝嶽宮御造営ありて、大社に造替たまへりと縁起に見ゆ、
頼朝卿像、当社縁起、建保元年癸酉三月、頼朝夫婦の影像を寫し、当宮石の脇に相並て、宮社を造て今宮殿と号して崇奉る、是ひとへに当社中興の旦那たるによつて御神一味に尊敬する所なり、
(略)
祭禮
例祭
当社縁起に云、承元元年丁卯、源頼重放生会始て執行たまふ、三社の神輿嶽宮より御幸なし奉り、管弦鼓楽を調べけり、同二年戊辰年放生会に、流鏑馬、三騎調て、祭礼尤由々敷執行けり、建暦二年癸酉八月祭礼より田楽、相撲有り。」

 

 摂末社として「若宮」「猿投社」「八劔宮」「嶽宮」などのことが書かれています。

それぞれが現存するのか、あるいは本殿に合祀されている五柱のうちいずれかなのか、よくわかりませんが、このうちのいくつかは合祀されている方でしょう。

それぞれのエピソードは不思議なものばかりです(子供に神がかることが多いようで、シャーマン体質の家系でもあったんでしょうか)。

 

さらに続けますと、

 

「神宮寺
本尊 薬師如来
当社縁起に云、源頼朝卿当社造営有て、扨鎌倉より圓範僧都と云人越置れて、供僧一院なりしを六供になして、一心三観の修行おこたり無し、此時より当社勤行等定有なり、扨建仁元年辛酉当社を大社に造替たまへり、
貞應二年山城八幡より社僧澄永法印当社に来り、供僧に成て居住せしより、社内の勤行前には天台の法燈をかかげしが真言の密行になせり然後顕密ともに、当社に絶す行ひ来れる者なり。
神鐘 建保年中
当社縁起、仁木左京と云者あり、富裕の者にて有しが、俄に面にわろき瘡出来て、療治術なく侍りしかば当社に祈申て本復せば、檮鐘鋳させて奉るべき由申ければ、程なく平癒して、其年の霜月三日鐘を鋳させ奉るなり、
(略)
渡船
五百四十六当社縁起九十二代後伏見院御宇、源憲義久我畷にて馬より落させたまひて右の足打損じ当国に知よし有て御祈願有しに、其立願に十二座の神楽、五百疋の犬追物御幸の時の御爲に舟を二艘、此河に浮べ給ふべき御願有しかば■に御足能ならせたまふ、其年の三月廿日より一色の宮内大輔承て御立願果させたまふ、此舟一艘はは矢作今渡と云所へ所望有しなり。
(略)
猿曳
当郷の猿曳は、往昔楠正成当郡に潜居して鎌倉及び諸国の動静を伺ひ居し当時当郷の猿曳を間者として使ひけるとぞ。

 

「神宮寺」のこと、「鐘」のことなどのエピソードが書かれています(これも「足助八幡宮縁起」なのかがよくわからなくなっていますが)。

 

「渡船
五百四十六当社縁起九十二代後伏見院御宇、源憲義久我畷にて馬より落させたまひて右の足打損じ当国に知よし有て御祈願有しに、其立願に十二座の神楽、五百疋の犬追物御幸の時の御爲に舟を二艘、此河に浮べ給ふべき御願有しかば■に御足能ならせたまふ、其年の三月廿日より一色の宮内大輔承て御立願果させたまふ、此舟一艘はは矢作今渡と云所へ所望有しなり。」

 

↑このエピソードが、「足神様」の「足助」っぽくていいですね。

また、

 

「猿曳
当郷の猿曳は、往昔楠正成当郡に潜居して鎌倉及び諸国の動静を伺ひ居し当時当郷の猿曳を間者として使ひけるとぞ。 」

 

という「猿曳」(猿回しのことでしょうか)が「楠木正成」の間者だった、という講談めいた話も面白いです。

 

 

結論としては、よくわからない、です。

 

 

わかるのは、創建当時の資料ではないだろう、ということくらいですか。

さすがに、この話から妄想を組み立てるのは難しそうなので、うっちゃっておきます。

 

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 忠臣足助重範と其の一族

 

 

↑「足助重範」のことを検索していたら、そのものズバリな書物があったので。

まず17コマ。

 

「足助の地名が歴史の上に現はれたあとを尋ねて見ると、其の地理的位置が重要性を持つてゐるのに対し、歴史活動の方面では寄与してゐる所少く、極めて寥々たるものである。
先づ鎌倉時代以前に於ては何れの文献にも其の名は殆ど全く見出されない。国史の語る所によれば第十三代成務天皇の御代参河の国造(矢矧川を中心とする今の西三河地方)が置かれてゐるし、また第三十六代孝徳天皇の大化年間には全国に亙り国郡が制置せられたのだから、その際足助の属する加茂郡(賀茂とも書く、明治以後は加茂に統一)も設けられたであらうと推測せられる。併しながら、その当時に於ては勿論、それより以後の奈良平安両時代を通じて其の名は何にも現はれてゐない。それが今より六七百年前の鎌倉時代より漸く三河の一勢力とし名を高めて来、その時代の末に至つて足助重範の忠勇と共にその名始めて天下に知られた。(足助は荘園の一として足助庄と呼ばれた筈であるが、当時に於ては高橋新庄と呼ばれて足助庄とは見えてゐない。)続いて吉野朝時代には中部地方に於ける重要な位置と地位とを占めて信州と海道との連絡を握り、勤王の地として名を轟かしたが、室町時代には何も聞ゆるものがない。戦国時代に入ると上三河経略の要点として今川、武田、松平三者の間に屢々争奪戦が演せられたが、結局松平氏(後の徳川氏)の手に帰して、徳川の覇業に参加した。江戸時代に於ては三百年を通じて平穏無事で、ただ信州飯田街道が岡崎足助間の足助街道に連絡する要地として、地理上の立場から時々史に散見してゐるにとどまる。
かうして眺めて見ると、歴史を動かす程の主要な動力として歴史上に足助が演じた役割は、やはり重徳及びその一族の勤王を措いては外にないわけであつた。」

 

「足助」の呼称は、鎌倉時代までは文献には現れない、ということが書かれています。

確か二「足助」って、ちょっと珍しい地名なのですよね。

「足を助ける」なんて、後付っぽいので、「アスケ」という地名なのか人物なのかが最初はいた、ということにするか、アイヌ語源に逃げるか、もっとトンデモ語源に逃げるか……ここで下手に「アスカ(飛鳥)と何か関連があるのではないか?」とか書いてしまうと、「な、なんだってー!?」(BY『MMR』)みたいな展開になりそうなので、これもやめておきます。

 

その続きから。

 

「第二節 足助氏の由来

(略)
足助氏の由来及び系統に就ては全く「尊卑分脈」に見えた所を以て拠り所とする。(註二)此の書によれば足助氏は第五十六代清和天皇の御孫、六孫王経基の子孫で、清和源氏の流れを汲んだ名門の一であつた。経基の第一子は満仲で、のち頼光、頼信と続いて清和源氏の本流をなし、第二子満政の流れがのちに足助氏を称するのである。
祖満政は鎮守府将軍に任ぜられ、また伊豫守、武蔵守、陸奥守等に歴任し、武門中の棟梁として錚々たる人であつた。満政の子忠重、孫定宗は各々検非違使となり、忠重は従四位下に叙し駿河守、遠江守及び陸奥守に、定宗は従五位下に叙して駿河守に任ぜられた。共に衛門府の大尉になつてゐるから、朝廷直属の武士であつた事が判る。定宗の子重宗は従五位下佐渡守に叙任せられ、重宗の子重實は召されて鳥羽上皇の武者所に入り、数ある北面の武士の中でも特に豪勇を以て聞え、当時四天王の一人と謳はれた程で、勇武勤王の血に燃えてゐた。
かく足助氏の祖先たちは、在京の武士として孰れも名声高きものがあつたが、不図した事件から、京を棄てて草深い地方に移らねばならぬこととなつた。白河天皇の承暦三年八月に源義家が一族国房と争ふた時、重宗が国房に加担して討死し、勅勘を蒙つたことがそれである。重實の子重遠は祖父重宗の猶子となつてゐた関係上、遂に京都を棄てて尾張国へ移住し浦野の地(今の春日井郡の内か)に住んで浦野といふ氏を用ふることとなつた。重遠の子重置は更に転じて尾張国河邉庄(今の山田)に住み、よつて河邉の冠者ともまた山田先生とも称した。重直の長子重満はそのまま山田に居り、其の子重忠は承久の乱の時に忠勤をぬきんでて、尾張国勤王の嚆矢をなした。
尾張三河両国に於ける勤王の事跡が共にこの一族を以てその濫觴とすることは誠に意義深きものがある。
重直の第六子重長は源平合戦の時。源氏に與して平家に討たれた。よつて重長の子重秀は平家の■迫を避け、一族を率ゐて山田より更に地を求めて、此處水清らかに山深く、地の利を得たる三河国足助に住むこととなり、土地に因み、ここに始めて足助氏を称した。
重秀の母は鎮西八郎為朝の女であつたと伝へられて居るが、重秀の妻は越中安達盛長の女であつた。安達盛長三河国最初の守護であり、幕府の開祖将軍頼朝に仕へて功あり、信任厚く幕府重鎮の一人であるに対し、足助氏は幕府の支配統括を受けぬ非御家人であつた。それ故此の婚姻は容易な話ではなく、当時此の地方にいかに重秀の勢望が高かつたかを思はせるものがある。重秀の長子を重朝と云ひ、次子を重成といふ。重成は承久の際に京方となり、北條氏の兵と戦つて討死した。
重朝の子重方は朝廷に仕へて佐渡従五位の蔵人となり、昇殿を許された。武士で昇殿を許されるといふのは極めて異數であり、また蔵人に抜擢されてゐる所を見ても仲々の才物であつたらしい。破格の恩遇であると同時に愈々足助氏の勢望を推測することができやう。重方は重範の曽祖父に当る人であり、それが朝廷に仕へて恩遇を忝うしたといふことは、足助の地が皇室御領であつたこととともに、のちの重範及びその一族の勤王の由来を考察するに極めて重要な史実であらねばならぬ。
(略)」

 

足助氏は、『尊卑分脈』によれば、

 

「足助氏は第五十六代清和天皇の御孫、六孫王経基の子孫で、清和源氏の流れを汲んだ名門の一であつた。経基の第一子は満仲で、のち頼光、頼信と続いて清和源氏の本流をなし、第二子満政の流れがのちに足助氏を称するのである。」

 

ということで、清和源氏の名門になってしまっています。

うーん怪しいですね……まあ、系図の捏造なんて普通に行われていたでしょうし、そうでないにしても養子縁組がどのようにされたのかまではよくわかりませんので、ひょっとするとこういうこともあったのかも、と。

もともと京都にいた足助氏は、流れ流れて尾張から三河へとやってきたようです。

最終的に、「地の利を得たる三河国足助に住むこととなり、土地に因み、ここに始めて足助氏を称した。」というわけで、足助氏がやってくる前から、どうやらこの地は「足助」と呼ばれていたようです。

うーん、結構古い地名ということになると、よくわからないというのが正直なところです……ああモヤモヤする。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 足助重範公事蹟

 

↑もう一つ、こんな本もありましたので。

9コマです。

 

「公の勲蹟
後醍醐天皇天資英邁にして常に深く皇威の衰へたるを慨し給ひしが、偶々執権北条高時の人心を失ひたるに乗じ之を滅さんことを企て、日野中納言藤原資朝等に命じ密勅を齎し諸国を巡行し地方の武士を説かしめ給へり、時に美濃の人土岐頼貞、多治見国長勇武の聞えありて、偶々京都に在り、資朝等先づ之を納れて同謀の士となさんと欲し、屢々頼貞国長等を引きて宴飲し深く相結託す。会する毎に衣冠を乱し、髪を散じ、座に位席を設けず、快談論議す。名けて無礼講と云ふ。時に公も亦密旨に応じて之に與れり。
既にして謀洩れ、事破る。天皇事の成らざるを以て、愈々北條氏を憎み給ひぬ。然れども当時の武士、猶心を北條氏に属し其力の恃むに足らざるを以て、更に僧兵を藉らんと欲し、第三の皇子護良親王をして、延暦寺の座主とならしめ以て僧徒の心を結び、又奈良に幸し東大興福両寺の僧徒に諭し給へり。高時之を聞きて、大に怒り兵を遣し京都に入り天皇を廃し、護良親王を弑し奉らんとす。親王諜して之を知り夜半急を告ぐ。天皇蒼皇笠置山に幸し給ふ。時は元弘元年八月二十四日なり。公は其子重政、錦織俊政等と共に馳せて笠置山に到り、天皇を警護し奉れり。
九月二日六波羅の将北條仲時、同時益兵を遣して笠置を犯す。南は畿内五ヶ国の兵七千六百餘騎、搦手に向ひ、東は東海十五ヶ国の内伊賀、伊勢、尾張三河遠江の兵二萬五千餘騎、伊賀路より金剛山越に向ふ。北は山陰道八ヶ国の兵一萬二千餘騎、追手に向ひ、西は山陽道八ヶ国の兵三萬二千餘騎、追手に向ひ木津川を上りて推し向ふ。追手搦手都合七萬五千餘騎、笠置山の四方二三里許、尺地を餘さず充満す。
三日払暁賊兵吶喊進み来れども、城中寂として応ずるものなし。蓋し笠置山深谷を濠とし、巨巌を壁としたる天険の山城なり。故に賊の二萬餘騎、追手の一の木戸口二王門の前に至りて復一歩を進むることを得ず。唯錦旗翩々旭日に輝き勤王の武士三千餘騎粛然として警衛するを見るのみ。
時に公木戸の上なる櫓より矢狭間の板を押開き、大声呼て曰く、
三河国の住人足助二郎重範、辱くも一天の君に頼まれ参らせて此城の一の木戸を固めたり。先陣に進みたるは美濃、尾張の人々の旗と見るは僻目か、十善の君のおはします城なれば六波羅殿が御向ひあらずらんと心得て御儲のために大和鍛冶の鍛へうちたる鏃少々用意仕て候。一筋受けて御覧し候へ」
と三人張の弓十三束三伏の矢を箆かづけの上まで引きかけ、暫く堅めて丁と放つ。其矢遥なる谷を隔てて二町餘の外に控へたる荒尾九郎が鎧の千檀の板を右の小脇まで箆深にぐさと射込む。一矢なりと雖究竟の矢坪なれば、荒尾馬より逆に落ちて斃れたり。舎弟彌五郎之を敵に見せじと矢面に立ち塞がり、楯をはずして進み出でて云ひけるは、、
「足助殿の御弓勢、日頃承り候ひし程にはなかりけり。此所を遊し候へ、御矢一筋受けて物の具の實の程、試し候はん」
と欺きて弦走りを敲きて罵りければ公は、
「さらば今一矢仕り候はん、受けて御覧候へ」
と前よりなほ引き絞り手答へ高くはたと射る。思ふ矢坪を違へず、彌五郎が兜の眞甲金物の上二三寸餘り砕きて眉間の眞甲にぐさと射込みたれば物をも言はず、兄弟同じ枕に斃れたい。山田重綱之を見て無念にや思ひけん、馬を躍して土手の側まで進み出でて一散に駈け入らんとsえしを公、又射て之を郤けたり。之を戦の初めとして追手、搦手、城の内外、をめき叫びて戦ふ程に喊の聲此所彼所に起り大山も崩れんばかりなり。暫くする程に晩景になりければ、賊兵益々加はり楯を突き寄せ木戸の口まで攻め寄せたり。此所に奈良盤若寺の律僧本性房といへる大力無双のもの、袖を結びて大盤石を小脇にかひはさみ、二三十ばかり続けのさまに投げつけたり。公等大に力を得て共に働ければ雲霞の如き大兵も驚き恐れて逃げ退き、唯達攻にしたりけり。
二十八日賊将陶山藤三義高山の東北面より登り風上なる宝蔵坊に火を放ち、喊の聲を挙げて攻め寄せれば、公は其こ重政と共に城兵を指揮して防戦に努めたれけれども衆寡敵せず、城遂に陥り公捕へられて六波羅に送られ、翌元弘二年五月三日賊のために六條磧に斬殺せられたり。」

 

これは『太平記』からの引用でしょうね。

平家物語』も『源平盛衰記』も『太平記」もろくに読んだことがないもので……なかなか面白そうですね。

↑も、三河の「足助重範」が、美濃、尾張といった同じ東国武士(?)に対して口上を上げて矢を放つ、熱いシーンです。

まず『平家物語』くらいざっと読むかなぁ……。

 

14コマより、

 

「公の贈位及祭祀
明治二十四年七月廿三日朝廷特旨を以て正四位を贈り、公の勲功を追賞し給へり。是に於て足助町并に郡内の人士勇躍して悦び、仝年十月奉告祭を執行し、仝三十二年に到り公の古墟真弓山に碑を建て、仝三十五年足助町に足助神社を建立し、五月三日を以て祭日と定めらる。」

 

死後数百年が経って、「足助重範」に正四位追号がなされ、明治35年に「足助神社」が建立された、とのことです。

 

16コマより、

 

「○足助神社 足助町にあり。祭神は贈正四位足助二郎重範公なり。明治三十五年の創立にして祭日は五月三日なり。
○足助八満宮 足助神社の西に接す。祭神は誉田別尊、配祀は帯中日子尊、息長足姫尊にして、創立は白鳳二年なりと伝ふ。成瀬隼人正の祖先良範は公の孫なるを以て公の木像を彫みて之を本社に合祀せり。」

 

うーん、簡単な紹介。

東海地方の歴史を探っていると、ちょくちょく「成瀬隼人正」という人が出てきます。

 

○こちら===>>>

「犬山神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑の記事でも、コトバンクからの引用で紹介しておりますが、すっかり忘れています……。

 

 

というわけで、妄想しづらかったもので、まとまりに欠ける引用に終始してしまいました。

歴史の勉強をもうちょっとね……。

それよりも、尾張三河の神社名鑑くらいは手に入れたいものです……せめて合祀されているのがどなたなのかがわかれば……いや現代なら愛知県でいいのか……神社庁に問い合わせてみるか……。

 

生きているうちに、何かの巡り合わせで、「秋の香嵐渓」に行くことがあったら……特に夜景はないと思いますが……ご紹介します。

それでは〜。