べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「豊川稲荷」(再)(豊川市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

まあ、豊川市ですから、豊川稲荷には行きますよね。

 

◯こちら===>>>

豊川稲荷公式ホームページ TOP

 

↑公式HPです。

 

◯こちら===>>>

「豊川稲荷」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

いやもう、完全に油断していまして、駐車待ちの車も多くて、ちょっと離れたところに駐車して、徒歩での移動。

参拝客の多いこと……。

 

f:id:bennybebad:20170109105110j:plain

f:id:bennybebad:20170109105303j:plain

f:id:bennybebad:20170109105322j:plain

f:id:bennybebad:20170109105333j:plain

f:id:bennybebad:20170109105554j:plain

f:id:bennybebad:20170109105721j:plain

f:id:bennybebad:20170109105731j:plain

f:id:bennybebad:20170109105745j:plain

f:id:bennybebad:20170109105803j:plain

f:id:bennybebad:20170109110005j:plain

f:id:bennybebad:20170109110011j:plain

f:id:bennybebad:20170109110539j:plain

f:id:bennybebad:20170109110558j:plain

f:id:bennybebad:20170109111016j:plain


というわけで、基本おキツネ様の写真ですが、「霊狐塚」は行列だったもので諦めましたよ。

 

f:id:bennybebad:20170109182708j:plain

御朱印も、並んでいたので書置きのものをいただきました。

 

さて。

東海道名所図会』には、豊川の項目はあるんですが、「豊川稲荷」はないんですよね……。

ううむ、どうしよう。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 豊川円福山妙厳寺鎮守吒枳尼真天略縁起

 

↑『豊川円福山妙厳寺鎮守吒枳尼真天略縁起』という、ほぼこれだけで間に合いそうなものがありましたので引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「開創縁起
三州豊川妙厳寺人皇百一代後花園天皇嘉吉元年僧義易の創建にして禅曹洞宗に属す(略)猶吒枳尼真天の堂宇の如き荘厳華麗を盡し結構総へて神社に擬す世俗概ね稲荷の名を以て之を呼ふと雖も安置する所の仏像は真天にして稲荷の本体にあらすと云然れ共之を豊川稲荷と称し四方の賽人日夜絶ゆることなし(略)現今殿堂并諸建物左に

大門、楼門、通用門、本堂、開山堂、吒枳尼天、奥院、籠堂、禅堂、額堂、庚申堂、秋葉堂、大黒天、愛染堂、万燈、札所、鐘楼、座敷、玄関、広間、立願所、茶所、庫裡、書院、方丈、新方丈、宝庫、浴室、舂屋、
(略)
吒枳尼真天縁起
凡そ聖者賢人の世に出て人を救ひ給ふや必ず天神地祇の之に附随して其道を護り其業を助くるものあり乃ち釈迦牟尼仏の出世し給ふや梵天帝釈四大天王等の衛護をごそかなりしは更にも言はす我国に在りても山王権現伝教大師に於ける稲荷明神の弘法大師に於ける白山権現の承陽大師に於ける等皆然らさるは無し茲に円福山妙厳寺に鎮座し給ふ吒枳尼真天の来由を原ぬるに人皇十四代順徳天皇の皇子出家したまひて承陽大師の正脈を嗣かせ給へる寒岩義尹禅師は寛元年間支那国に渡航し玉ひ彼地天童山に登て如浄禅師に謁し要脈を伝へられて已に帰朝の船に乗らせ給ひしに忽ち霊神あり白狐に跨りて声朗らかに唵尸羅婆陀尼黎吽婆婆訶と唱へ且つ謂て曰く吾は是れ吒枳尼天なり今より将に師の法を護するに此神呪を以てし又師の教化に服する者を守りて安穏快楽ならしめん必ず疑ふこと勿れと言ひ畢りて見へす乃ち禅師帰朝の後手つから其感見する所の形像を刻みて以て護法の善神となし常に其徒に教へて彼の神呪を唱念せしめられたり其後禅師の法子法孫たる鉄山東州梅巖華蔵の四師嫡々相承して妙厳開山東海義易和尚に至る和尚嘉吉元年を以て豊川に寺を開創するに当り別に祠壇を寺中に築きて彼の禅師手刻の吒枳尼尊像を安置し以て有縁の道俗をして随意に礼拝祈願することを得せしむ是に於て四方篤信の貴賎男女競ひ来りて霊験を蒙る者益々多し就中織田信長豊臣秀吉徳川家康諸公の如き今川義元九鬼嘉隆山本晴幸本多忠勝大岡忠相諸氏の如き皆共霊威を馮みて祈誓する所あり殊に文禄年間豊太閤の朝鮮を伐つに当り水軍の驍将九鬼大隅守をして多く軍艦を造らしむるや嘉隆一夕霊夢を感し妙厳寺九世の祖天室伊堯和尚を請して教化を受けたるを以て其軍艦中の尤も壮宏たる者を名けて伊堯丸と曰ひ艦中に吒枳尼尊像を拝請し大般若経六百巻を奉戴し般若理趣法を行ひ怨敵退散降伏一切大魔最勝成就の祈祷を修して吒枳尼尊天の宝符を製し之を征韓各軍隊軍属に頒布し各自の鎧中に納めしめしに戦陣中その霊験の赫々たること実に枚挙に遑あらさりしと役終りて其艦を嘉隆に賜はり明治の初年に至るまで之を志摩の鳥羽港に保存せられたり又慶長五年東照公の関ヶ原陣に趣くや伊堯禅師をして其戦勝を真天に祈らしめ後に寺禄四十石を寄附して之に報賽せられたり又大岡越前守忠相か幕府の奉行として能く屡々疑獄明断して良臣の名誉ある常に萬牛和尚に請て真天の冥助を祈りて遂に尊像を邸内に安置して敬信怠らさりしと斯の如き信仰の篤きにや徳川八代将軍吉宗公享保年間に彼の天一坊の疑獄在て名奉行の越前守に其裁判に苦しし既に割腹と迄覚悟せしか日々怠らず水垢離を取て吒枳尼天を祈念せられしに霊験立處に顕れ其加被力によりて天一坊主従の輩悉く罪に服し処断せらる後其功を以て三河西大平に於て一万石を賜はりて諸侯の列に加へられたり是偏に豊川真天の冥護とて永井郁次郎を代参せしめたりと云ふ現今東京赤坂表町に奉祀せしは即ち大岡が邸内に拝請せし真天なり(略)」

 

「義易」という僧侶については、

 

◯こちら===>>>

東海義易(とうかい ぎえき)とは - コトバンク

 

コトバンクより、

 

「東海義易 とうかい-ぎえき
?-1497 室町時代の僧。
遠江(とおとうみ)(静岡県)の曹洞宗(そうとうしゅう)普済寺の華蔵義曇(けぞう-ぎどん)に師事し,その法をつぐ。嘉吉(かきつ)元年三河(愛知県)豊川に妙厳寺(豊川稲荷)をひらいた。明応6年3月29日死去。三河出身。」

 

とのことです。

嘉吉元年というのは1441年のようですので、そこまで古くはないですね(いや、十分古いんですが)。

大陸から帰ってくるときに、何らかの守護神が船の上に現れる、というのは、一種お約束でもありますが……これでくっついてきたのが「吒枳尼天」だとすると、一瞬思い出すのはあれですよね……ええ、「九尾の狐」です。

まあ、関係ないと思いますが……。

尾張三英傑、「今川義元」に加え、「九鬼嘉隆」なんかが出てくるところが渋くていいですね。

大岡忠相」の話については、

 

◯こちら===>>>

天一坊(てんいちぼう)とは - コトバンク

 

コトバンクの「天一坊」の項目から、

 

「てんいちぼう【天一坊】

《大岡政談》に載る天一坊事件の主人公。事件は,紀州生れの宝沢が徳川天一坊と名のり,赤川大膳,常楽院天忠,山内伊賀亮らとともに8代将軍徳川吉宗の御落胤を詐称したが,大岡越前守忠相の活躍であばかれ処罰されたというもの。この話自体は,大岡の名奉行ぶりをたたえるための後世の作りごとだが,そのもとになる事件は実際にあった。1718年(享保3)の中川正軒事件,29年の源氏坊改行事件などがそれである。【斎藤 洋一】」

 

↑という具合です。

講談ではありますが、その元となる事件はあり、ただしそれを「大岡忠相」が裁いたかどうかは不明。

暴れん坊将軍』でも出てきたような気がしますが……あれ『大岡越前』のほうだったかな……。

ともかく、「大岡忠相」が赤坂に「豊川稲荷」を勧請した、という伝説(?)は残っている、と……面白いですね。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編

 

↑『尾三郷土史料叢書』の第4編『参河国名所図絵』も見ておきましょうか。

 

「円福山妙厳寺
(略)
鎮守稲荷社
本堂西南の隅に在当寺の鎮守たり世諺弁略に云三州豊川村平八狐云々又野翁物語に云平八いなりとて近来時行の神あり云々見へ又刪補松に云当寺境内に平八と名くる狐あり近年祠を建て稲荷大明神と崇むと見へ又渡辺政香の云宝暦の頃吉田領西島村より豊川村妙厳寺境内平八狐の婿になりたりとて婿入の夜は西島より豊川までの野道松明を数百燈したる如く燦然たりしと謳歌し夫より参詣たへず尤霊験新たなりと見ゆ(略)
当社感応の著しきこと響の物に応する如く形の影に随ふに似たり此をもて遠郷より参詣の人々日に増月を超て群集し往来連綿として常に絶間あらされば門前瓦を並べて酒飯を◼︎く境内葭簾に囲ひて左右茶店を列ぬ其繁昌なること都会の人も肝をつぶす殊に紛失の祈願出奔せし人の足止等にいたりては身の毛弥立ばかりの霊験挙て計ふへからす(略)」

 

どうも、「平八狐」というのがいたらしく、

 

 

愛知妖怪事典

愛知妖怪事典

 

 

↑『愛知妖怪辞典』にも、

 

「平七狐
豊川の稲荷は、元々は平七狐稲荷と称えられた。昔、平七という一人の棒手振(振売)がいた。ある時、豊川の渡に差し掛かると、数多の狐が集まって一つの土塀を越えようと競っていた。平七はこれを見てその群に入り、真先に塀を乗り越えた。すると、相貌立ちどころに狐と変じ、その狐群の棟梁となり、ついには稲荷として祀られるようになったと言う。」(p253)

 

という項目があります。

「平七」と「平八」の違いはあるものの、一連の狐伝説ではないか、と思われます。

どうも、西島から狐が婿入りしたらしいので、「平八狐」は雌だったようですが……これは、名前を継いでいった結果なのでしょうか。

それにしても、狐が人間に化けるならともかく、狐になってしまう、という話は、結構興味深いのではないでしょうか。

そうですね、妄想すると……「平八」か「平七」か、そういった恐れられていた盗賊か何かがいてですね、あるとき人々が集団で退治したんですけれど、恨みを恐れて「あいつは狐だった」ということにしてしまって、祀り上げた……なんてストーリーはいかがでしょう。

うーん、でも盗賊だったらぼっこぼこにしたって祟られることはなさそうだな……何かの間違いで善男を殺しちゃった、というほうがまだありそうかな……。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 迷信の話

 

↑『迷信の話』という本から。

豊川稲荷」の前の記事は、稲荷についてかなり長めに書かれていますので、興味のある方は。

 

「十二 豊川稲荷
同じ稲荷でも、吒枳尼天の豊川稲荷は、正一位の肩書がない。そのかはり、狐は大つぴらに祭られる。何となれば、吒枳尼天は狐に乗つてゐる。その狐は玉をくはへてゐる。ことに吒枳尼天の一名を白晨狐王菩薩ともいふからである。
豊川とは三河の豊川で、今の愛知県宝飯郡豊川町である。此の稲荷の起源は、伏見稲荷よりも五六百年後である。
後醍醐天皇の皇子と称せらるる無文禅師が、三河の国に巡錫せられて、宇賀の魂を祭られた伝説がある。その後曹洞宗派の妙厳寺に吒枳尼天を祭つた。いつの間にか、此の宇賀の魂と、吒枳尼天とが一つになつて、吒枳尼天の本地垂跡したのが宇賀の魂であるといふやうになつたらしい。丁度、田沼意次が稲荷信仰を始めた頃、豊川稲荷と其の隣の西島稲荷が並んで隆盛を極めてゐたのであるが、西島稲荷の雄狐が、豊川稲荷の雌狐の所へ聟入をしたといふので、西島稲荷がぱつたり参詣者が無くなつたといふ話がある。此の伝説だけでも、当時の一般民衆が、稲荷即狐であると信じてゐた証拠とするに足りるものがある。東京赤坂の豊川稲荷は、此の三河豊川稲荷分祀である。だから、稲荷と狐とを一つにして、それに対つて幸運を求め出したのは、三百年以前からの事と推定することが出来る。」

 

こちらでは、

 

◯こちら===>>>

無文元選(むもん げんせん)とは - コトバンク

 

「無文元選」という僧侶が登場、コトバンクを参考にしますと、

 

「無文元選 むもん-げんせん
1323-1390 南北朝時代の僧。
元亨(げんこう)3年2月15日生まれ。臨済(りんざい)宗。父は後醍醐(ごだいご)天皇という。可翁宗然,雪村友梅にまなび,元(げん)(中国)にわたって古梅正友の法をつぐ。帰国後は各地に庵をむすび,遠江(とおとうみ)(静岡県)の奥山朝藤(是栄居士)にまねかれて方広寺をひらいた。康応2=元中7年閏(うるう)3月22日死去。68歳。諡号(しごう)は聖鑑国師,円明大師。」

 

だそうです。
伝説では、「宇賀の魂」、多分「倉稲魂神」かなと思うのですが、ひょっとして「宇賀神」かもしれません、を祀った、それが「吒枳尼天」と習合していった、とのこと。

狐の婿入りの伝説も書かれていますね、往時は有名だった話のようです。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神仏力くらべ

 

↑『神仏力くらべ』という面白げな本があったのでご紹介。

 

「(四)豊川稲荷
愛知県の豊川町にある。稲荷さんと云ふても、伏見の稲荷さんとは全然異つて、ここには赤鳥居があると云ふ訳ではなし、狐の穴があるわけでもない。妙厳寺といふ禅院境内の一角に勧請して天部吒枳尼真天が本尊で、禅院本堂よりも参詣者は遥かに多く、今裏山に素晴らしい大きな本殿を建築中で、境内には改築寄付金の立札には七万円とか、一万円と云ふ随分思ひ切つたのも立ててある。
投機的現証利益があると見へて、参詣者は商人や花柳界の人達が多く、東京だけにでも六十餘の講があり、一講千人からの団体も少くないといふ。東京のある株屋は毎日曜缺かさず参詣してゐるといふ。
其の境外にコマ犬代りの狐があるがこれが盗難にあつた場合、早速参詣して、その足を縛るとやがて泥棒が捕はるとの伝説からこれを俗に足止稲荷と云つて参詣者又多い。」

 

↑うーん……1926年刊行の本ですので、もう「豊川稲荷」は有名だったはずで……当時は「霊狐塚」はなかったのかな……。

「足止稲荷」の伝説は、↑↑『参河国名所図絵』にもありましたね。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 三州豊川稲荷略誌 : 附・豊川七不思議

 

さすが大人気といいましょうか、『三州豊川稲荷略誌』という本も見つけました。

 

「抑々豊川稲荷は往古神部に属し正一位豊川稲荷大明神と號し我国に於て稲荷の陰神と言伝へり日本の稲荷として京都伏見の稲荷を陽神(男神)とし豊川稲荷を陰神(女神)とし二柱を以て真の稲荷といふ也故に豊川稲荷の御真像は女神の御影が白狐に跨り玉ふ御姿なり茲に三州宝飯郡豊川町曹洞宗円福山妙厳寺に鎮り玉ふ縁故は其昔 後鳥羽天皇の皇子出家ましまし曹洞宗承陽大師の正脈を嗣かせられたる寒巖義尹禅師より妙厳寺山東海義易和尚に伝り当山に鎮守せられたる事にして昔し之の稲荷大明神を世俗に平八稲荷と称し霊験顕著御利益の甚大なるは衆庶の能く知る処なり然るに明治維新の際時の大政官より神仏混合して奉斎するを許さずと云ふ御布達なりしも豊川稲荷は元是神社なるも奉斎は妙厳寺にて行ふ事なれば日常祈祷奠供とも総て宗教に依り奉献し来りしを今更神社とするときは曹洞宗妙厳寺と離れざるべからざる場合に立至り爰に至りて正一位豊川稲荷大明神を豊川吒枳尼真天と改め従前の通り妙厳寺に於て奉斎する次第となれり故に現今の称は豊川吒枳尼真天なるも其実豊川稲荷大明神なり然り而して稲荷の御神咒なる「オンシラハツタニリウンソワカ」と言へるは其人の願望は如何なる事にても信者の尊信唱念に依り願望成就すると云ふ事は信徒の能く知る処にして今更喋々を要せず然るに 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 今川義元 九鬼嘉隆 山本晴幸 本多忠勝 大岡越前守等皆其霊威を祈誓す殊に豊太閤朝鮮征伐及東照公関ヶ原陣に戦勝を祈りて霊験著しく故に寺禄四十五石を寄付報賽せられたり其後徳川公の天下と倶に豊川稲荷は益々繁昌と成れり又大岡越前守は幕府の名奉行として知られ疑獄を明断す就中彼の難中の難たりし徳川天一坊事件を能く裁断して誤らざりしは全く豊川稲荷大明神の冥助なりとし遂に稲荷の御分霊を江戸赤坂一ツ木の大岡邸内に安置し敬信厚かりし今の東京赤坂豊川稲荷は之れなり又維新後明治に至りて貴顕の信仰厚く故有栖川宮熾仁親王殿下の御祈願厚くして豊川閣と称号を附し額面を寄付せられ今現に稲荷の拝殿に掲けあり又日清日露の役に於ける出征軍人諸氏にして豊川吒枳尼真天の御守護札を携帯せし諸氏が不思議の霊顕を蒙りし事実は実に枚挙に遑あらず殊に豊川吒枳尼真天を唱念するに『勝』の祈誓を以てするときは成就疑ひなき事衆庶の能く知る所なれば日々の参拝者は何れの社会階級を不問万を以て数ふるに至れり。」

 

おっと、こちらでは「伏見稲荷」を「男神」、「豊川稲荷」を「女神」としていますね。

「平八稲荷」という呼称もあったようで……設定にゆらぎがありすぎて……。

神仏分離令の頃のことが書かれていて、それが正しいのかどうかわかりませんが、「正一位豊川稲荷大明神」ではなく「豊川吒枳尼真天」だと言い張って、神仏分離を逃れた、というのはなかなか生々しい話のように思えます。

面白いのは、「豊川七不思議」という付録記事のほうかもしれません。

 

「豊川七不思議
第一 平八稲荷を俗称するは開山義易大和尚当寺開創の時一老翁来り自ら名を平八郎と称し大和尚に随従して庫裡の炊事等克く労働す然るに平八郎何れよりか一つの釜を持参して飯を炊き湯を沸し茶を煎ずるに供し食時縦ひ何百人の多きたるも悉く此の釜一ツにて満足して不足する事なし実に神通妙用なる人力の及ぶ所にあらず如此小釜を以て能く多衆に供するを得るやと問ひたるに平八郎答へて曰く、吾れに三百一の眷属あり何事にても弁事せざる事なりと其後義易大和尚遷化と同時に其釜を遺し何何ともなく平八郎は立去れり其釜今に至も宝物として保存あり」

 

あら、出ました「平八稲荷」。

しかも「平八郎」っていうおじいさんだし……設定のゆらぎが……。

四国の「八百八狸」を率いた(んでしたっけ?)「隠神刑部」にはかなわないまでも、こちらの「平八狐」も眷属三百一、かなりの勢力です。

うーん、地元の人は、この辺りをもっと推していけばいいのになぁ……と思いましたが、初詣客の数といい、宣伝はもう必要ないかもですね。

ちなみに、残りの六不思議は、

 

「第二 宝物の中の純白の毛玉
第三 大祭典の夜になくなる三百一膳のお供え
第四 地上三尺を飛走せる白狐
第五 宝物の中の増殖する仏舎利
第六 宝物の中の瑠璃の玉
第七 吒枳尼天本殿北側の福寿石」

 

だそうです(そんなに古くないのもあります)。

ふう……いや、いろいろ伝わっていて面白かったです。

誰かがきっと、これをまとめてくださっていることでしょう(伝説とか伝聞とか怪しげなお話とか混じっていますが、それでこそ「稲荷」みたいなところがあります)。

さて、もうちょっと三河をうろうろしてみようっと。