さて。
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大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻,大日本名所図会刊行会,大正9-11. 国立国会図書館デジタルコレクション
大日本名所図会 第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻 江戸名所図会. 第1-4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2023-10-28)
↑『江戸名所図会』を見ておくことにしましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
p349です。
「三囲稲荷社 小梅村田の中にあり。故に田中稲荷とも云ふ。別当は天台宗、延命寺と號す。神像は弘法大師の作にして、同大師の勧請なりといへり。文和年間三井寺の源慶僧都再興す。慶長の頃迄は、今の地より南の方にありしを、後此地に移せり。当社の内陣に、英一蝶の画ける牛若丸と弁慶が半身の図を掛けたり。
五元集
牛島みめぐりの神前にて、雨乞するものにかはりて
夕立や 田をみめぐりの神ならば 宝晋齋其角
あくる日雨ふる。
社僧云く、元禄六年の夏大に旱魃す。しかるに同じ六月の二十八日、村民あつまりて神前にむかひ、請雨の祈願す。其日其角も当社に参詣せしに、伴ひし人の中に白雲といへるありて、其角に請雨の発句をすべきよしすすめkれば、農民にかはりて一句を連ねて、当社の神前にたてまつりしに、感応やありけん、その日膏雨たちまちに注ぎけるとなり。其草は今も当社に伝へてあり。」
現地の解説板とちょっと異なっていますが、まあ概ね同じ内容かと。
「弘法大師」が祀ったかどうかはさておき(日本全国に登場しますからね、あのお方も)、その後に「三井寺」の僧侶がどうして再興したのかがよくわかりません。
現地の解説板によれば、そのときに白狐にまたがる老翁の像が発見され、狐がどこからともなくやってきて3回回ったので「三囲稲荷」と呼ばれるようになったそうですが……あ、絵図の方には、自在に狐を呼べたらしい嫗のことがちらっと書かれています……実際には何があったのか。
「三井寺」、「三囲」、「三井」……いろいろと妄想はできそうです。
え〜、参拝を終えた後、土砂降りでした。
宝井其角許すまじ(そうではない)。