べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「三井寺」(補)

さてはて。

 

 「三井寺(天台寺門宗総本山園城寺)(1)」〜近江めぐり

「三井寺」(2)〜近江めぐり

「三井寺」(3)〜近江めぐり

「三井寺」(4)〜近江めぐり

「三井寺」(5)〜近江めぐり

「三井寺」(6)〜近江めぐり

「三井寺」(7)〜近江めぐり

「三井寺」(8)〜近江めぐり

 

あまり考察するつもりはないので、いつものように引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

 

東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)

東海道名所図会〈上〉京都・近江・伊勢編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

↑こちらから(なぜか持っているのです、この本)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第7編

 

↑であれば49コマからです。

 

「長等山園城寺三井寺

志賀の郡にあり。一名三井寺、また寺門と称す。天台宗修験道を兼す。女人結界。

それ当山は、もと天智帝第五の皇子、大友の殿舎なり。荘園城邑(城市)の地なれば、園城寺と号す。また祇園精舎・紺園化城にも比するならんか。初め同帝六年(六六七)、大和国飛鳥宮より楽々波大津宮に遷都ましまし、同七年、天皇霊夢を感じて、崇福寺を建立し、金色丈六の弥勒仏を安じ、その翌年また園城寺を草創す。
(『寺門伝記』第六いわく、「崇福・園城ともに天智の御願。皇子大友詔を奉じて両寺を創す。分位同等なり。なかんずく崇福の建立、園城に魁んずること一年。故に崇福をはじめとす。」)その后、大友与多麿(天智帝皇孫・大友皇子五男なり)その男、都堵麿と相議し、天智帝の違勅を蒙り、大友皇子[六四八ー七二]の追福のために崇福寺を他へ移し、園城寺を再営一新す。これより殿堂巍々、荘厳玲瓏として、給孤の布金となる。
その頃教待仙僧ここに練行し、貞観元年(八五九)の春、智証大師に見えて伝法を授与し、東北の石窟に入定す。それより大師入唐して天台山に登り、清涼山に臨み、文珠の霊跡を拝し、開元寺・青竜寺に詣し、石象・石橋を巡り、顕密(顕教密教)二教を究め、在唐六年にして帰朝し、清和・光孝・陽成三帝の戒師となり、宝祚(帝位)延長を祈り、国家泰平を護る。ここにおいて三会の暁を期し、寺門の繁栄ますます熾なり。
長等の山桜は入相(夕暮れ)の鐘に誘われ、丹穂てる(輝く)秋の月は佐々波に湛え、星霜(歳月)累なれば騒擾の愁なきにしもあらず。治承(一一七七ー八一)には源三位頼政(一一〇四ー八〇)に荷担し、平家の暴虐に伽藍(寺院)を弊せられ、行尊はあさぢが原に鶉鳴くらんと述懐を詠じ、天地老いて山河更まり、竜虎争うて草木腥し。ようやく右大将頼朝卿に、当山より牒状(回状)を捧げしかば、平家没官(平家領没収)の地を寄付したまうこと、『東鑑』に見えたり。あるは『平家物語』『太平記』にも所々に見えて、世の人口に膾炙する(評判になる)。この寺の『高僧記』には、延暦寺より一百余年魁んじて興基ありし由を書かれ、三井の古寺を詠ぜしも宜ならんか。最初、天智帝逆臣入鹿を戮し、その罪障を悔い給うて建営ありしこと、当山鴻基(大事業の基礎)の始元とぞしられける。」

 

三井寺」の歴史は、創建時(「天智天皇」の勅命か、「大友皇子」の発案かはよくわかりませんが)、再建時(「大友皇子」の子「大友与多王」による)、再興時(「智証大師」による)、といった流れで進み、源平の頃から何度も戦火に燃え落ちているらしいです。

もともとは「大友皇子」の殿舎があったところに、寺が建てられたとされています。

三井寺」のパンフレットでは、

 

弘文天皇(※「大友皇子」/ブログ筆者注)の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され」

 

となっていますので、「大友与多王」が「大友皇子」から受け継いだ土地に建てられた、という伝説もあるようです。

 

日本書紀〈5〉 (岩波文庫)

日本書紀〈5〉 (岩波文庫)

 

 

↑の天智紀五年条に、

 

「是の冬に、京都の鼠、近江に向きて移る」

 

とあり、同六年条には、

 

「三月の辛酉の朔己卯に、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷へ諫く者多し。童謡亦衆し。日日夜夜、失火の処多し。

 

とあります。

天智天皇」より前にも、滋賀に都を置いた天皇はいらっしゃいました(「景行天皇」〜「成務天皇」〜「仲哀天皇」)。

そう、滋賀県には、都があったんです(強)。

都があったのなんて、奈良、大阪、京都、東京くらいですからねぇ〜、滋賀はもっと誇ったっていいと思います(誇ってます?)

 

あ、都ですね。

近江大津宮」とか「大津宮」とか呼ばれる都ですが、この遷都は、かなり人気がなかったようです。

「是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷へ諫く者多し。童謡亦衆し。日日夜夜、失火の処多し。」……ですからね、

「童謡(わざうた)」というのは、諷刺や何らかの前兆として受け取られるものです。

それに加えて失火ですから。

 

 

吉野裕子氏は、陰陽五行でこれを解読しようとされています(遷都は、大きな呪術の一つ、というわけです)。

遷都の記事の前に挿入されている、「是の冬に、京都の鼠、近江に向きて移る」という記事に何らかの意味があるのだろう、ということですね。

ええと……詳しくは↑の『日本古代呪術』をお読みください。

本当に鼠が近江に向かって移動したのか、それを先触として天皇が遷都を決めたのか、あるいはこれは呪術を象徴的に記述したものなのか、様々な解釈が可能かと思いますが、とにかく遷都は行われ、しばらくの間、都は大津に置かれることとなりました。

岩波文庫日本書紀(5)』の補注には、

 

近江大津宮(三八頁注二〇)

天智紀では近江宮と記し、天武元年条では近江朝廷・近江京・筱浪(ささなみ)とする。持統六年条にはじめて近江大津宮の語があり、万葉二九の柿本人麿の歌に「ささなみの大津の宮」の句があり、のち大津宮の称が普通に用いられた。……(略)……三宝絵詞や扶桑略記には、大津宮の西北の佐々名実長等山(ささなみながらやま)に崇福寺を建てたという伝説をのせるが、今では園城寺の裏山が長等山とよばれること、崇福寺ははじめ今の園城寺の地に建てられ、間もなく北方の地(今の大津市滋賀里町西部の山中)に移されたという説が平安時代にあることを合せ考えると、最初の崇福寺があったという長等山は粟津の西北にあたるので、この伝説から逆に、大津宮は粟津にあったという説ができたのかもしれない。……(略)……遷都理由は、飛鳥の旧勢力を避け人心を一新するというのが定説で、他に水陸交通の便、対新羅防衛策などが挙げられている。」

 

とあります。

三井寺」のパンフレットによれば、

 

「俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井の寺」と呼ばれていたものを、後に智証大師が当寺の厳儀・三部灌頂の法水に用いられたことに由来します。」

 

とありますが、さすがにこれは伝説でしょう。

ただ、天智紀九年条に、

 

「三月の甲戌の朔壬午に、山御井の傍に、諸神の座を敷きて、幣帛を班つ。中臣金連、祝詞を宣う。」

 

という記事があり、これが「三井寺」の霊泉、今の「閼伽井堂」の水ではないかと考えられるようです。

だとすれば、当寺から「御井」があった可能性はあるわけですね。

 

東海道名所図会』の続きです。

 

護法善神
大門の側にあり。五社鎮守のその一なり。毎歳四月十六日開扉す。この日女人詣す。千団子という。祭神明星天神像を安ず。大師の作なり。本地堂に観世音を安置す。」

 

おっと、「護法善神堂」ですが、本地は「観音菩薩」だったようです。

「明星天神」ってなんだろう……確かここの本尊は「鬼子母神」だったはずでは……。

うーん、江戸から明治になる頃に、いろいろあったのか、そもそも伝承は複数か……。

ああいや、図録『不死鳥の寺 三井寺』に、

 

大師に告げて言うには、「児これ三光(太陽・月・星)之中、明星天子の精霊にして、虚空蔵菩薩の権化なり。異日汝必ず仏法を恢興す。その時我当に至って教法を衛護すべし」と。大師が入唐から帰り、三井寺を再興されたところへ、約束により天女善神は再び現われ、大師の側近くにいて、仏法を擁護することを告げるが、三井寺は結界清浄の法域であるから善神たりといえども女神は住むことができないとする大師に対して、善神は、仏法擁護は私の誓いである。弥勒出興の浄刹であり、台密仏法の霊場であるここを去ってどこで住めというのかとせまる。そこで、大師は天女を出家受戒させ尼形の護法善神として山内に留まることを許したと語りつがれている。子供の頃と立派に台密の行者として成長した大師のそばから離れず、これを守ろうとする善神は母の姿そのものといえる。」(p107)

 

ってありましたね。

これを考えると、「明星天子」は、「智証大師」のことだと思んですけれど……。

何かいろいろと混交している感じがします。

 

 

熊野権現
金堂の側上壇にあり。五社鎮守のその一なり。紀の三熊野を勧請す。

 

金堂
寺門中央にあり。本尊弥勒仏。長一寸八分。中華南岳大師仏法護持の尊像なり。本朝、欽明帝御宇(五五二)初めて渡る。仏像来朝の最初なり。

 

御井
金堂の側にあり。天智・天武・持統三帝降誕の時、この水を産湯に用う。故に御井と呼ぶ。またこの清泉をもって、三密灌頂の閼伽(仏に供える水)とし、慈尊三会の暁を期するとなれば、三井とも号く。また閼伽井ともいう。もとこの井、大友皇子の清所(台所)にあり。むかしよりの名泉にして冽しからず、鈍からず。精妙八徳を具し、冬夏に増減なく味わい甘し。

 

梵鐘
金堂の側上壇の地にあり。高さ五尺五寸、亙り四尺一寸、厚さ三寸五分。竜頭一尺一寸五分。伝にいわく、この梵鐘は天竺祇園精舎、艮の方にかくるところなり。仏滅後竜宮界に入りしが、延喜(九〇一ー二三)の頃、俵藤太秀郷、蚣を退治て、竜宮より十種の宝器を贈る。その中の一器なり。後に当寺に蔵む。
太平記』にいわく、「文保二年(一三一八)、三井寺回禄(火事)の時、鐘を比叡山に奪い取って、撞くといえども更に鳴ることなし。強いてこれをつけば、三井寺へ帰らんというがごとし。山僧怒って、無動寺の峰より谷へ落としけり。すなわち鐘にひびき多く入りし所に、小蛇来たって尾をもって叩けば、その玼ことごとく癒えて元のごとし。」
『寺門伝記』にいわく、「秀郷竜宮より鐘を得るの説、当山において取らず。秀郷湖中より得て、当寺に寄付す。法器となるこのかた、様々の奇瑞(不思議なしるし)をあらわし、寺内に凶事ある時は全体に汗を流し、撞けども声なし。また吉事ある時は、撞かずしておのずから鳴る。文永(一二六四ー七五)の頃、山門の狂輩当山に冦し、かねを取って砕破す。一日雲霧降り、赤竜現じて鐘をめぐること数遍なり。竜去ってかねを見るに、声を発すること元のごとし。また建武の乱(一三三四ー三八)に、逆賊かねを奪い取って地中に堙む。鐘地中にあっておのずから鳴る。これ足利将軍勝利を得るの吉瑞なりとて、掘り出だして寺宝とす。当山什宝数品の中にて、この梵鐘を第一とす」。」

 

「金堂」や梵鐘の記事。

「金堂」の記事では、仏法伝来最初の仏、ということになっていますが、「善光寺」も似たようなことを主張していますね。

梵鐘のところの、

 

「伝にいわく、この梵鐘は天竺祇園精舎、艮の方にかくるところなり。仏滅後竜宮界に入りしが、延喜(九〇一ー二三)の頃、俵藤太秀郷、蚣を退治て、竜宮より十種の宝器を贈る。その中の一器なり。後に当寺に蔵む。」

 

という、「俵藤太秀郷」のムカデ退治は有名な話ですね。

私はあんまり覚えていないんですが、確か龍神に頼まれてムカデを退治したんでしたっけ(ツバを刀につけて……だったかな)。

龍神がムカデに負けるのかい、って突っ込んだ記憶があります。

で、『太平記』によれば、どうも「弁慶」とは関係ないようで……何を見ればいいのか、『平家物語』か『源平盛衰記』かな。

 

 

「食堂

金堂の東にあり。本尊釈迦仏。赤栴檀毘首羯摩天の作。

 

大鍋
食堂の掾(縁)側にあり。口の廻り四尋(一尋は六尺)。

 

唐院
食堂の南にあり。初めは唐坊と号す。伝法灌頂(阿闍梨の職位継承の秘儀)の道場なり。寺記にいわく、清和帝の勅をうけて、智証大師草創す。寺門最初の建立の地なり。唐の青竜寺を模す。中央智証大師坐像、二尺九寸。左黄不動尊、右御骨、大師斗相中央に同じ。黄不動は承和五年(八三八)の冬、不動尊金人(仏)に姿を現し、大師に告げていわく、われはこれ不動明王なり。弘法(仏法普及)擁護のためここに来る、といい終って見えず。すなわちその像を写し、また彫像あり。共に大師の手作なり。

 

護摩
唐院にあり。長日宝祚万歳天下平安の御祈りとして、護摩を修行せらる。

 

三層塔
唐院にあり。本尊釈迦三尊仏。この塔初めは大和国比蘇寺にあり。御当家におよんで、命ありてここに移す。

 

(略)

 

十八神祠
南院にあり。護伽藍神とす。貞観十七年(八七五)大師勧請。祭神は七仏経の文を配祀す。
伊勢 大日枝 十禅師 客人 三の宮 八幡 賀茂 住吉 春日 平野 松尾 石上 武氏 香取 鹿島 江文 丹生 兵主

 

弁財天祠
食堂の前、池の中島にあり。霊験新なりとて、常に信仰の輩多し。

 

(略)

 

灯幡石檀
金堂の前にあり。天智天皇潜竜(東宮)の日、逆臣入鹿を誅し、その罪根を悔いて伽藍を創し、真法供養を修するの遺跡なり。また金堂内陣の三灯は、中央仏法繁栄を擬し、左は聖朝安泰を祈り、右は国土豊饒を期す。大師鴻基を開くの日、まず道場に入って三灯を挑ぐと云々。

 

経蔵
梵鐘の側にあり。尊氏将軍一切経を蔵む。自筆の奥書あり。また慶長七年(一六〇二)に、唐本一切経毛利輝元寄付す。」

 

「 十八神祠
南院にあり。護伽藍神とす。貞観十七年(八七五)大師勧請。祭神は七仏経の文を配祀す。
伊勢 大日枝 十禅師 客人 三の宮 八幡 賀茂 住吉 春日 平野 松尾 石上 武氏 香取 鹿島 江文 丹生 兵主」

 

↑これは、謎の「十八明神社」だと思われます。

平家物語』には「三井寺」がよく出てくるのですが、

 

平家物語〈1〉 (岩波文庫)

平家物語〈1〉 (岩波文庫)

 

 

↑「巻第三」のうち「頼豪」には、

 

白河院御在位の御時、京極大殿の御むすめ、后に立たせ給て、兼子の中宮とて、御最愛有けり。主上此御腹に、皇子御誕生あらまほしうおぼしめし、其比有験の僧と聞えし三井寺の頼豪阿闍梨を召して、「汝此后の腹に、皇子御誕生祈申せ。御願成就せば、勧賞はこふによるべし」とぞ仰ける。「やすう候」とて、三井寺に帰り、百日肝胆を摧て祈申ければ、中宮やがて百日のうちに御懐妊あって、承保元年十二月十六日、御産平安、皇子御誕生有けり。君なのめならず御感あって、三井寺の頼豪阿闍梨を召して、「汝が所望の事はいかに」と仰下されければ、三井寺戒壇建立の事を奏す。主上、「これこそ存の外の所望なれ。一階僧正なンどをも申べきかとこそおぼしめしつれ。凡は皇子御誕生あッて、祚をつがしめん事も、海内無為を思ふため也。今汝が所望達せば、山門いきどほッて、世上しづかなるべからず。両門合戦して、天台の仏法ほろびなんず」とて、御ゆるされもなかりけり。

頼豪口をしい事也とて、三井寺に帰ッて干死にせんとす。主上大におどろかせ給て、江帥匡房卿、其比は未美作守と聞えしを召て、「汝は頼豪と師壇の契あんなり。ゆいてこしらへて見よ」と仰ければ、美作守綸言を蒙ッて、頼豪が宿坊に行向ひ、勅定の趣を仰含めんとするに、以外にふすぼッたる持仏堂にたてこもッて、おそおしげなるこゑして、「天子には戯の詞なし、綸言汗のごとしとこそ承れ。是程の所望かなはざらんにおいては、わが祈り出したる皇子なれば、取奉て、魔道へこそゆかんずらめ」とて、遂に対面もせざりけり。美作守帰り参ッて、此由を奏聞す。頼豪はやがて干死に死にけり。君いかがせんずると、叡慮をおどろかさせおはします。皇子やがて御悩つかせ給て、さまざまの御祈共有しか共、かなふべしとも見えさせ給はず、白髪なりけり老僧の錫杖持ッて、皇子の御枕にたたずむと、人々の夢にも見え、まぼろしにも立けり。おそろしなンどもおろかなり。

去程に承暦元年八月六日、皇子御年四歳にて遂にかくれさせ給ぬ。敦文の親王是也。主上なのめならず御歎ありけり。山門に又、西京の座州良信大僧正、其比は円融房の僧都とて、有験の僧と聞えしを内裏へ召して、「こはいかがせんずる」と仰ければ、「いつも我山の力にてこそ、か様の御願は成就する事で候へ。九条右丞相、慈恵大僧正に契申させ給しによッてこそ、冷泉院の皇子御誕生は候しか。やすい程の御事候」とて、比叡山に帰りのぼり、山王大師に、百日肝胆を摧て祈申ければ、中宮やがえ百日の内に御懐妊あッて、承暦三年七月九日、御産平安、皇子御誕生有けり。堀河天皇是也。怨霊は昔もおそろしき事也。今度さしも目出たき御産に、大赦はおこなはれたりといへ共、俊寛僧都一人赦免なかりけるこそうたてけれ。

同十二月八日、皇子、東宮に立たせ給ふ。伝には小松内大臣、大夫には池の中納言頼盛卿とぞ聞えし。」

 

とあります。

簡単に書きますと、

 

白河天皇の御宇、関白藤原師実(京極大殿)の娘が中宮になっていた。皇子の誕生を望んでいたので、当時験力のあるといわれた三井寺の頼豪阿闍梨を読んで、「お前、中宮が皇子を生むように祈りなさい。皇子が生まれれば、その褒美は望みのままだ」とおっしゃった。頼豪は「簡単なことです」と三井寺に帰り、百日間祈祷をあげると、中宮は解任して、承保元年十二月十六日に、安産で皇子を出産した。

頼豪を呼んで「何が望みか」と尋ねると、三井寺戒壇を立てることを望んでいると奏上した。「それは存外の望みだ。てっきり僧正の位を望むかと思っていた。皇子誕生、皇位を継がせることは、世間に何事もないようにと思ったからだ。今その望みを叶えれば、山門(延暦寺)が起こって、世の中は静かではいられまい。寺門・山門の争いとなり、天台宗は滅びるだろう」と言ってお許しにならなかった。

頼豪は残念なあまり、三井寺に帰って餓死しようとした。天皇は大いに驚いて、大江匡房卿ーー当時は美作守だったがーーを呼んで、「お前は頼豪とは師僧と檀家の関係だったはず。行って説得してくるように」とおっしゃったので、大江匡房卿は頼豪を訪ねて綸言を言い聞かせようとしたが、護摩の煙が立ち上る持仏堂からは恐ろしい声がして「天子には戯れの言葉はない、綸言汗の如しであるとご承知あれ。このたびの願いが叶わないのであれば、私の祈りで生まれた皇子である、奪い取って魔道に参ろう」と、会うことも叶わなかった。大江匡房は帰還して、このことをお伝えした。頼豪やがて餓死し、皇子もやがて病気になり、様々な祈祷を行うが、その効果が現れる様子はなかった。白髪の老僧が錫杖を持って、皇子の枕元に立つ、という姿が人々の夢に見られ、また幻としても立っているように見えた。恐ろしいという言葉では表現できない。

承暦元年八月六日、皇子は四歳でお亡くなりになった。敦文の親王がこれである。天皇のみならず嘆かれた。山門(延暦寺)に、良信大僧正、そのころは円融房の僧都だったが、験力のあるそうと聞こえたので内裏に呼び、「これはどうしたらよいか」とおっしゃると、「常に比叡山の修法の力こそ、そのような御願は成就するものです。右大臣藤原師輔卿が慈恵大僧正と師壇の契りを結んでいらっしゃったからこそ、冷泉院の皇子は御誕生になった。簡単なことです」と、比叡山に帰り、山王大師に百日間祈祷をあげると、中宮は懐妊して、承暦三年七月九日、安産で皇子を出産した。堀河天皇がこれである。怨霊は昔も恐ろしいことである。(略)」

 

という感じです。

全然簡単じゃないですな。

この話の背景には、山門と寺門の対立、があります。

 

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

 

 

前にも引用したような気がしますが、↑から、

 

「円仁と円珍

まず、注目されるのは円仁である。円仁(七九四〜八六四)は承和五年(八三八)四十四歳で入唐、それから会昌の廃仏の荒れくるう唐に十年滞在して、承和十四年(八四七)に記憶した。その間の様子は『入唐求法巡礼行記』に詳しい。台密の形成上、円仁の果たした大きな成果は蘇悉地法を伝えた点で、台密では金胎両部に蘇悉地を加えて三部とする。円仁は理論のうえからは法華円教と密教は同一であるが、実践のうえでからは違いがあるとした(理同事別)。なお、円仁は五台山の念仏を伝えたが、その音楽的な念仏は「山の念仏」として親しまれ、のちの浄土教の発展に大きな影響を与えた。

次に円仁を承けたのが円珍(八一四〜八九一)である。円珍は第二代天台座州義真の弟子で、仁寿三年(八五三)に入唐、天安二年(八五八)帰国。多くの密教典籍を伝えた。円教と密教の関係に関して円仁より一歩すすめ、理論的には同一であっても、実践的には密教の優位性を認めた(理同事勝)。円珍の門流からは優れた人がつづいたが、やがて円仁の門流と争うようになり、十世紀末には比叡山を下り、園城寺に拠るようになった。」(p120)

 

ということで、これが山門(延暦寺)と寺門(園城寺三井寺)の対立の発端と思われます。

図録『不死鳥の寺 三井寺』の略年表から(あと、おまけにいただいた略年表も混ぜて引用しております)、

 

仁寿三年(八五三) 七月 円珍、入唐す。

貞観八年(八六六) 五月 三井寺園城寺)を延暦寺別院となす。

貞観一〇年(八六八) 六月 円珍、天台座主となる。また円珍に三井寺を賜い、唐より請来の経籍を唐坊に納める。

寛平三年(八九一) 一〇月 円珍、比叡山山王院に寂す。

延長五年(九二九) 十二月 円珍に智証大師の諡号を賜う。

天元四年(九八一) このころから円仁・円珍両門徒不和となり、山門と寺門の確執が始まる。

正暦四年(九九三) 八月 比叡山上における円仁・円珍門徒の争いを機に、円珍門徒下山。比叡山千手院安置の智証大師像を三井寺唐坊に移す。

寛仁元年(一〇一七) 一〇月 智証大師遠忌に当り、藤原道長・頼通ら三井寺に来寺して法華十講を修し、はじめて碩学竪義を置く。

長久二年(一〇四一) 五月 朝廷、三井寺戒壇建立の可否を諸宗に問う。延暦寺のみ反対する。以後長く戒壇問題が紛争のもととなる。

長久三年(一〇四二) 三月、山門派、園城寺円満院を焼き打つ、

延久二年(一〇七〇) 六月、園城寺戒壇設立の可否を諸宗に問う。

承保二年(一〇七五) 二月、延暦寺園城寺両衆徒、戒壇のことで抗争。」

 

基本、「三井寺」側の文書ですので、どの程度争いがあったのかは不明ですが、「円仁」派対「円珍(智証大師)」派の争いは、いつしか、

 

「長久二年(一〇四一) 五月 朝廷、三井寺戒壇建立の可否を諸宗に問う。延暦寺のみ反対する。以後長く戒壇問題が紛争のもととなる。」

 

になってしまったようです。

キーワードは「戒壇」。

 

○こちら===>>>

戒壇(かいだん)とは - コトバンク

 

↑を見ていただければいいのですが、僧侶になる(出家する)には戒律を受けなければいけない、とされており、その場所のことを戒壇と言っていました(ざっくり)。

一応『日本大百科全書』から、

 

仏教で戒を授ける儀式の場所。戒場ともいう。授戒の場所であるが、戒壇と訳されたために、中国や日本では1段ないし3段の壇を築くようになった。広さに決まりはないが、3~5メートル四方ぐらいで、高さは1段で約70センチメートル、3段で約2.5メートル。中国では、セイロン僧求那跋摩(ぐなばつま)により431年ごろ南林寺に初めて戒壇がつくられ、のち各地に広まった。6世紀には梁(りょう)の武帝が宮中に戒壇を築き、自ら受戒して以来、この風習ができた。日本では、鑑真(がんじん)が唐から来日し、754年(天平勝宝6)東大寺の大仏殿の前に壇を築いたのが最初で、聖武(しょうむ)天皇上皇)はじめ400余人が鑑真から菩薩(ぼさつ)戒を受けた。
 僧になるには、この壇上で10人の僧の行う儀式により具足戒を受けるが、これは禁欲その他の僧の戒律(二百五十戒)を守ることを誓う儀式である。菩薩戒は菩薩道の修行をしようと誓う儀式であり、『梵網(ぼんもう)経』に説く「十重・四十八軽戒」を受ける。これは俗人も僧もともに受けることができる。
 のち大仏殿前の壇は西に移され、3段の戒壇をつくり、そこに戒壇院が建てられた。そして僧となるには、かならず戒壇で受戒しなければならないとする規則ができ、遠方の人のために、下野(しもつけ)国(栃木県)の薬師寺と筑紫(つくし)国(福岡県)の観世音寺(かんぜおんじ)にそれぞれ1段の戒壇がつくられた。これを天下の三戒壇という。のち最澄(さいちょう)は比叡山(ひえいざん)に大乗の修行を誓う大乗戒のための戒壇をつくろうとして、勅許を得ようとしたが、その生前には許されず、死後の822年(弘仁13)に許された。これが比叡山の大乗戒壇であり、梵網戒を授ける。」

 

「日本では、鑑真(がんじん)が唐から来日し、754年(天平勝宝6)東大寺の大仏殿の前に壇を築いたのが最初」……とありますが、「鑑真」和尚を大陸から招いたのは、授戒できる高僧がいなかった、というのが大きな理由なのでした。

天台宗としては、

 

最澄(さいちょう)は比叡山(ひえいざん)に大乗の修行を誓う大乗戒のための戒壇をつくろうとして、勅許を得ようとしたが、その生前には許されず、死後の822年(弘仁13)に許された。」

 

ということで、「智証大師(円珍)」が入唐する前から「比叡山」には戒壇がありました。

「寺門(園城寺)派」と「山門(比叡山)派」に分裂した天台宗では、「比叡山」にのみ戒壇がある。

三井寺園城寺)」としては是非とも自分のところにも戒壇がほしい。

そこで、「頼豪」の話に戻りまして、「白河天皇」と「藤原師実」の娘との間に男子が生まれるよう祈祷した「頼豪」は、「三井寺」への戒壇設置を希望したのです。

それが叶わなかったため、「大江匡房」の説得にも耳を貸さず、餓死した上にせっかく生まれた王子を祟り殺しました。

この話を背景として、

 

○こちら===>>>

「三井寺」(6)〜近江めぐり

 

↑の最後の方で紹介した「十八明神」(ねずみの宮さん)の伝承ができ上がっているのですね。

 

 

↑によれば、

 

「頼豪のたたりのせいか、敦文親王はわずか4歳で急死。だが、呪いはそれだけではすまなかった。

頼豪の怨念は、8万4000匹ものネズミの大群となって比叡山にのぼり、三塔十六谷の仏像、経巻、宝物を手あたりしだいに食い破ったのだ。さすがの比叡山も手を焼き、一山の大徳が神通力で大猫になってネズミを食い殺し、やっと治まったという。

そのいっぽうで、ネズミの害を封ずるため、ネズミを神として祀る小社「子の社」を日吉大社境内に建立した。ここの参るとネズミの害をまぬがれるという民間信仰が、現在でも根づいている。

また、園城寺にも「ねずみの社(十八明神社)」があるが、こちらはいまでも比叡山をにらみつけるようにして建っている。

頼豪の怨念がネズミに化けて比叡山を襲うという伝承は、頼豪の時代に園城寺比叡山の対立抗争が激化していた背景を反映したものとして受けとめられよう。」(p61)

 

 

百鬼解読 (講談社文庫)

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↑多田克己先生によると、

 

「ある伝えによると頼豪は、百日の間に一度も髪を剃らず、爪も切らず、一室に籠って呪詛の護摩を焚き続け、ついに断食によって干からびるようにして死んだという。

しかし皇子が死んでも、頼豪の深い恨みはおさまらず、頼豪が餓死する間ぎわに、彼の吐く最後の息とともに、その怨念が八万四千匹の大鼠と化して、比叡山のある真北を目指して走って行ったという。この大鼠は鉄の牙をもち、石の体を持つ妖怪で、鳥山石燕は『画図百鬼夜行』で「鉄鼠」と名づけている。

群れをなした数万匹の大鼠は比叡山に押し寄せ、山内にある仏像や経典を、ことごとく齧り食い破った。

頼豪の怨念による祟りを恐れた比叡山の僧侶たちは、麓の東坂本に宝倉を建てて、頼豪の霊を神として祀った。後にこの社は「鼠の禿倉」と呼ばれた。

また現在の三井寺園城寺)の境内には十八明神という社があるが、別称を「鼠の宮」といって、同じく頼豪の霊を祀った神社であるといわれ、比叡山のある北方を睨むようにして建てられている。

いっぽう比叡山では、ある高僧が験力を使って大猫を出現させ、頼豪の大鼠を退治したとも伝えられ、この猫を祀る「猫の宮」が坂本にある。この社は、真南にある三井寺園城寺)の方角を睨むようにして建てられている。」(p83)

 

ということで、「頼豪」さんは「鉄鼠」という妖怪になってしまったのでした。

 

 

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

 

 

はい、もはや正方形に近づいているとさえいわれた京極夏彦氏『鉄鼠の檻』に登場するので、ご存知の方も多いでしょう。

『鉄鼠ー』はねぇ……一番好きで、大枠は覚えているんですが、「鉄鼠」がどう語られていたのかがさっぱり思い出せないのでした。

しかし、こんな面白い話が『平家物語』から外されているのはなぜでしょうね……伝承として比較的新しいからなのでしょうか(『平家物語』、「源三位頼政の鵺退治」があるくらいですから、化け物が出てきたっておかしくはないのです)。

で、これを高田崇史氏っぽく解釈すると、

 

「ネズミというのは、もちろん人間のことで、三井寺に属する神人とかの下級神職だったりしたのではないだろうか。天皇の皇子はすでに祟り殺したので、その牙を向けるべきは当然延暦寺になる。8万4000匹というのは、仏教的な意味での「無数の」ということだが、おそらくはそれほど多くなく、ゲリラ戦をしかけたのだろう。」

 

ということになるかな、と。

では、なぜ「鼠」なのか……というと、この記事の最初の方で振っておきました『日本書紀』の一文、

 

「是の冬に、京都の鼠、近江に向きて移る」

 

↑伝承を作った人達の中には、これが頭にあったのではないかと思います。

もともと、「天智天皇」の大津宮遷都には反対する人達が多かった。

一方で、京都から近江に移った人々(鼠と称された)がいた(「天智天皇」派、でしょうか)。

その後「大友皇子」に仕えたのか、勅願寺である「三井寺」に仕えたのかわかりませんが、とにかく「三井寺」派の中に「鼠」と考えられた人達がいたとすると。

その人達が「三井寺」のため、「比叡山」に戦いを挑んだ、ということなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

お久しぶりです、妄想です(謝)。

 

 

 

 

 

ああ、随分字数をとってしまったので、続きます〜。