さて。
○前回まで===>>>
「観音堂」の階段をおりまして、
「浄妙坊(筒井浄妙)坊跡
三井寺の僧兵中一騎当千の勇者、筒井浄妙坊明秀の住坊跡。同じく三井寺の僧兵、一来法師と共に宇治川の合戦で奮戦した。その時の様子が、京都祇園祭の山鉾中、骨屋町の浄妙山にあらわされている。」
○こちら===>>>
↑のことのようです。
出展は『平家物語』。
ええと……とりあえず手元にないので、リンク先の記事を御覧ください。
しかし、この「浄妙坊坊跡」がどのあたりだったのか、についてはほとんど記憶がありません……「観音堂」の階段下じゃなかったような気もします……。
気を取り直して、次は「水観寺」。
開基 園城寺長束 明尊大僧正 長久元年(一〇二八)
本尊 薬師瑠璃光如来
本堂 (略) 明暦元年(一六五五)再建
水観寺は、園城寺(三井寺)五別所の一つ本尊薬師如来は一切衆生を病苦・災難から救済する仏として、多くの人々の尊崇をあつめている。
現在の本堂は、豊臣秀吉による園城寺閉所の後、再建されたもので、民衆との交流を目的とする五別所の本堂の内で最も古く、また背面軒廻りなどに優れた近世的な手法をもつことから園城寺別所の信仰の形態を知る上で貴重なものである。なお当本堂は昭和六十三年からの保存修理の際に現在の地に移されたものである。」
四間平入りというのが珍しいですね(もともとの建物の構造なのでしょうか)。
普通、神社仏閣の正面というのは、奇数の間数になっている(でないと、真正面に柱が立つことになる)ものなのです。
↑の写真を見ていただくと、まあ素朴で開放的な造り(これが、「民衆との交流を目的とする」別所の姿なのかもしれないです)になっていますが、正面柱の右の間から、ご本尊の姿が伺えると思います。
単に建物の中心に鎮座するわけではなく、きちんとその正面は開いていないといけない、と考えられていたものと思われます。
とはいえ、それも厳密なルールではありませんので、様々な理由によってそうなっていないところもありましょう。
写真右手前の建物で御朱印をいただけます。
パンフレットによれば、「現在は西国薬師霊場の第四十八番札所になっている」そうです。
他にあまり情報がありません……。
とりあえず、これで終わり……と思わせておいて、危ない危ない忘れるところでした。
「水観寺」の前を、駐車場の方へ向かうとあるのが、「護法善神堂」です。
手水鉢にも「護法」の文字が。
この手前に、橋があります。
なぜか撮影していません(?)。
門は「護法社唐門」となっており、パンフレットで敷地をみると結構な大きさです。
こちらが「護法善神堂」。
なかなかいい姿だと思うのですが、観光客のみなさんにはそれほど人気がないようで……。
その隣にあるのが……字がはっきり読めませんが、どうも「護法善神」の本地堂のようです。
案内板がなかったんですよね……御朱印もないです(正確には、「千団子祭」のときにはいただけるようです)。
パンフレットによれば、
「護法善神堂[千団子社(略)]
子供の守り神、鬼子母神(訶梨帝母)をまつる。毎年五月の祭礼は「千団子さん」で親しまれ、子供の無事成長、安産を祈る人々でにぎわう。現在の建物は享保十二年(一七二七)の再建。」
とのことです。
図録『不死鳥の寺 三井寺』によれば、
「一般には五月十六・十七・十八日の三カ日に行われる春祭りの千団子祭として著名であろう。本尊は護法善神として鬼子母神を祀る。鬼子母神は従来人間の児を奪い食する悪鬼であったが、釈尊がこれを聞き、母神の子を鉢でかくしたところ、狂髪・啼哭して悲しむに至り、釈尊がこれをして慈愛を垂れたるところ、仏教に帰依し、以後善女神となったという。春祭の日には仙人の子供たちの供養のため千の団子を供え、堂前の放生池には諸衆の願いをこめた霊亀を放す放生会が行われる。」(p114)
とあります。
なるほど、この祭が、
○こちら===>>>
三井寺(天台寺門宗総本山園城寺) 総合観光案内サイト | べんべん
「べんべんくん」の……。
○こちら===>>>
↑公式HPで、「護法善神堂」と「鬼子母神」の紹介がされていますが、
○こちら===>>>
↑「鬼子母神」の紹介は「雑司ヶ谷鬼子母神」のHPのほうがちょっと詳しいかと思います。
『不死鳥の寺 三井寺』より引き続き引用しますと、
「三井寺における護法善神は鬼子母神のことで、天部に属する訶梨帝母である。訶梨帝母はほかに歓喜母、愛子母、天母、功徳天などの名で呼ばれることもある。善神は中院の護法善神堂にまつられ、その開扉法会は毎年五月中旬に三日間おこなわれ、千団子祭として人々に親しまれている。
護法善神、つまり鬼子母神が天女姿で大師の前に現われたのは五歳のときである。
大師に告げて言うには、「児これ三光(太陽・月・星)之中、明星天子の精霊にして、虚空蔵菩薩の権化なり。異日汝必ず仏法を恢興す。その時我当に至って教法を衛護すべし」と。大師が入唐から帰り、三井寺を再興されたところへ、約束により天女善神は再び現われ、大師の側近くにいて、仏法を擁護することを告げるが、三井寺は結界清浄の法域であるから善神たりといえども女神は住むことができないとする大師に対して、善神は、仏法擁護は私の誓いである。弥勒出興の浄刹であり、台密仏法の霊場であるここを去ってどこで住めというのかとせまる。そこで、大師は天女を出家受戒させ尼形の護法善神として山内に留まることを許したと語りつがれている。子供の頃と立派に台密の行者として成長した大師のそばから離れず、これを守ろうとする善神は母の姿そのものといえる。」(p107)
というわけで、「智証大師」が、「鬼子母神」を「護法善神」にした(「大師は天女を出家受戒させ尼形の護法善神として山内に留まることを許した」)そうです。
同じ図録には、「護法善神」像と「訶梨帝母」像があり、若干首をかしげていたのですが、↑のような事情であれば、なんとなくわかります。
「本地堂」が、本来の「訶梨帝母(鬼子母神)」を祀っており、「護法善神堂」には「護法善神」となった「訶梨帝母」を祀っている、ということですね。
…。
……。
………。
私の頭が悪いのか、「出家受戒」して「尼形」になった「天女」を、どうして「社」にお祀りしたのでしょうか……いやいや、「護法善神堂」ですから、「堂」といったら仏教の建築物です、だからいいのです……ということになると、「本地堂」が必要な理由がわかりません。
本地垂跡説は、「日本でいうところの神様」と「外来の仏」を結びつけるためのもので(「神」は「仏」の仮の姿)、仏教側の存在であれば「本地」を必要としないのではないでしょうか。
浅学なので断言できませんが……少なくとも、仏教側の神である「帝釈天」や、「夜叉」の類に関しても、その「本地」が設定されているというのは聞いたことがありません。
それに、現在の「護法善神堂」は明らかに神社の様式ですし(比較的新しいですが)、図録にも掲載されている『園城寺古図』(鎌倉時代の様子と思われる)には、はっきりと「護法社」と書かれています。
……これは、実在の女性の話、なのかもしれませんねぇ……。
と、私のような高田崇史好きはすぐ考えると思います。
が、なにぶん情報が少なすぎるので、妄想することもできやしません。
ふう……。
というわけで、今回はひとまずこの辺りで〜。
次回から引用三昧です。