さて。
○前回まで===>>>
前回の最後の階段を上ったところに「観音堂」があります。
「三井寺観音堂
観音堂は園城寺南院札所 伽藍の中心建物で如意輪観世音菩薩(重要文化財)を祀る。
建立年代は棟札により元禄二年(一六八九)に再建上棟したことが知られる。
建物は正堂(佛像を安置する部分)と礼堂の造り■いで繋ぐ複合建築である。
礼堂は桁行九間・梁間五間の重層入母屋造本瓦葺で側、廻りは面取りに舟肘木■をのせ漆喰壁をつけて簡素にまとう。
正堂と礼堂を繋ぐものが合の間でその天井は化粧屋根裏として軽快な意匠である。
正堂は柱、虹梁などに極彩色をつけ元禄期の華やかさをみせる。」
パンフレットには、
「西国三十三所観音霊場の第十四番札所。本尊は如意輪観音(重文・平安時代)で、三十三年ごとに開扉される秘仏。琵琶湖を眺望する境内には元禄二年(一六八九)再建の観音堂を中心に諸堂が並び札所伽藍を構成する。」
とあります。
図録『不死鳥の寺 三井寺』では、
「貞享三年(一六八六)に火災にあい、元禄三年に再建された大きな堂である。礼堂・合の間・正堂からなる。内部には多くの絵馬が奉納されており、そのなかには、観音堂再建の様子を描いた「石突きの図」や、その「落慶図」も残されており興味深い、」(p114)
とあります。
表に見える礼堂の桁行九間がかなりの大きさです。
もちろん、中に入れます。
ご本尊は秘仏ですので拝見できません。
手水舍越しに「観音堂」。
手水舍は明治十四年の建築だそうです(パンフレットより)。
「観音堂」向かって右手に「鐘楼」。
「鐘楼は園城寺南院札所伽藍の一つで建立年代は棟札により文化十一年(一八一四)に上棟したことが知られる。
正面三間、側面三間で袴腰付の立の高い本格的な鐘楼で屋根入母屋造り、檜皮葺である。組物は尾垂木を用いない三手先で中備えは蟇股または蓑束で飾る。腰組も三手先とし、簀縁に高欄を廻す
この鐘楼は総欅造りでまとめ、正規の手法を用いた一九世紀はじめの鐘楼として見るところが多い。」
「鐘楼」の手前に「百体観音堂」。
『不死鳥の寺 三井寺』によれば、
「堂内中央に三井寺観音堂(正法寺)本尊と同じ如意輪観音像を奉安し、その左右に西国札所の三十三観音像を二段にまつる。右には坂東三十三カ所、左には秩父三十四カ所の本尊を安置し、合わせて百体の観音像を安置することから百体堂と呼ばれる。江戸中期以降、庶民の間に札所巡礼が高まりを見せるが、本堂はその庶民信仰を示す建物といえるだろう。」(p115)
とのことです。
……いつも思うのですが、「四国八十八カ所」「西国三十三カ所」「坂東三十三カ所」はともかく、「秩父三十四カ所」って秩父だけ範囲が狭くないでしょうか?
まあ戯言なので。
その隣が「観月舞台」。
「駿河の国清美が関の女が京の清水観音に参籠し行方知らずになった我が子千満丸との再会を祈るうちに霊夢を得て近江の三井寺に来た。折しも中秋名月の夜、鐘の音にひかれて夢中で鐘楼にのぼり、鐘をつきながら鐘の功徳をうたい、月に浮かれてたわむれつつ子を求めて心乱れる母親を、はからずも寺僧に伴われて月見に来ていた我が子に見出され共に郷里に帰ることが出来た。」という物語が謡曲「三井寺」である。観音のカゴによる仏法の尊さを、湖水を渡る鐘の音に月を配して創られた詩情豊かな曲として名高い。
パンフレットによれば、嘉永三年(一八四九)に建てられたそうです。
能、狂言、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、落語……そういうものに全く疎いので、これも勉強勉強です。
こういう生ものの芸術(テキストでないもの)は、弱いんですよね……何より記憶の定着率が悪くて。
はぁ。
境内からは、概ね琵琶湖が望めます。
展望台もあります(私は登りませんでした……いえ、登れなかったわけではなく、この時間になると「西国三十三観音」めぐりと思しきみなさんも多くてですね……)。
『不死鳥の寺 三井寺』には、桜の頃の黄昏、麓を流れる琵琶湖疏水トンネルから見上げた「観音堂」の写真がありまして、これが非常に幻想的です。
これは見てみたい、と思わせる幽玄の美。
たぶん、そんな時期には近寄れないほどの人出なのでしょうけれども……。
「観音堂」の御朱印。
眺めがいいのでのんびりしていたかったのですが、先を急ぐ旅ですから……。
今回はここまで〜。