べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「弘文天皇陵」「新羅善神堂」(続)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 仏像仏画物語

 

↑こちらの100コマから引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

101コマには、「新羅明神」の像の写真があります(今は秘蔵されていますので、見ることも難しいようです)。

 

園城寺新羅善神像

(略)
かくて在唐実に六年、遍く霊地霊場を巡礼して、祖師の芳躅を弔ひ、名僧知識を歴訪して、知見の拡大に力め、貴重なる一千余巻の経典を購ひて之を行李に収め、業成り志遂げて、天安二年帰朝の程に上つた。一日其乗船は、波穏なる朝鮮の南海岸を過ぐる時、舳の方に当りて、見知らぬ索髪の老翁一人、忽然として軽く其肩を叩くに、円珍やや驚きて、如何なる人かと怪訝の目を向くれば、立てる翁は坐せる円珍を俯瞰して、和尚! 吾を知らずや、新羅明神とは我事である、吾に念願あり、今より和尚の教法を守りて、当来弥勒の龍華三会の暁を待つと、いふ其聲は残れども、姿は煙霧の彼方に消えて、遂に行方を失つた。
暫くして円珍は、海上何の恙もなく、多くの知友に迎へられて、再び故国の土に親み、今は何を惜いても、其将来せる幾多の典籍をば、挙げて之を太政官の倉庫に納め、機を見て分類検討に従ひ、以て後進勤学の資に供せむものと、一先づ叡岳の僧坊に其身を横へた。此の時再び彼の眼前に影現したる者は、他ならぬ新羅明神であつた。それは旧知の蕃神である。神は和尚を諭して曰く、将来の経典を官の倉庫に保管せしめるは必ずしも賢明の策に非ず、寧ろ危険率甚だ多く、一日と雖も安心なり難し。謂ふに彼の倉庫の所在地は、家屋檐を並べ、諸人の出入繁く、誤つて火を失するあらば、再び得難き宝典も、悉く一片の灰燼に帰し、和尚が汗血を盡せる努力も、亦一朝にして水泡とならむ。宜しく速に考慮を廻らし、最も安全の地帯に移せと、次で山王明神も亦、円珍に直接して、比叡山に保管することを勧告した。円珍は再三考慮して、猶王山の意見を容るべく躊躇した。
而も此の結果、円珍は遂に自ら山を下りて、三井の園城寺を興し、新たに一派を樹立して寺門派と号した。恐く此の裏面には、新羅明神の暗躍もあつたらう。されば後年三井戒壇設立の紛糾に際しても、亦明神の策動物凄きものがあつた。ところが園城寺の開祖との間に、かばかり深密の関係ありし明神の記録が、和尚自作の制戒にも、他の神名を挙ぐるにも拘らず、独り新羅明神の尊名を省き、或は三善清行の撰する智証大師伝にも、亦一言之に触るる所なきは何故ぞ。即ち此の点より考ふれば、所謂新羅明神なる者は、何人かの捏造にかかる無稽の神体であらうか、それとも山門の赤山明神に対抗せむが為に、かかる神明を担ぎ出せるか、或は円珍和尚帰朝の際に、実在の一外人を伴ひ来りて、将来の事業に顧問たらしめたる者か、其出現の動機に関しては、甚だ疑ふべき点多々あり、要するに之が真体は、遽に捕捉し且闡明するを得ないであらう。一方園城寺に於ては、其鎮守神として、古来此の明神を崇信すること頗る篤く、殊に永承以降、年毎に厳粛なる祭事を行ふを例とし、武家の信仰亦甚だ盛に、就中源頼義の如きは、其長男太郎義家を、源家の宗廟たる八幡祠前にて元服せしめて、八幡太郎と称せしめしと同様、三男三郎をば、此の明神祠前にて加冠の式を行ひ、新羅三郎の名を負はしめたるに見るも、外蕃の神とはいへ、其信仰の程度を想像して余あらう。
園城寺伝記の示す所に依れば、此の明神像の造立に関して、清和天皇の貞観二年二月、円珍は主なる弟子を促して、恭しく社壇を造営し、曾て感見したる明神像を彫成するに、特に今上天皇の御丈に準拠し、聖体安穏の意味の下に之を堂内に安置したといふ。即ちこれ現存せる明神像にして、其高さ二尺五寸八分、木造着色の坐像に現はされる。聞くが如くは当時天皇は未だ幼少にましまし、随て明神像の寸尺も、之を推して天皇御等身に近からむかといふ。且又其手法より観るも、貞観時代通有の一木彫にしてーー膝部は寄木ーー、彼此相応して園城寺伝記説の真なるに頷かれる。
像は其身に花丸紋の袍を着用し、頭上に山字形の冠を戴き、大らかに座を構へて、超然塵外の天地を望むが如く、流石に異神らしき風采の本に写し出され、拝者をして自ら畏敬の念を湧起せしめる。初め右手に数種の経巻を捧げ、左手錫杖を執つと古伝に聞けど、今は何れも湮滅に帰して、只しか思はじめる両手のみ、やや手持無沙汰の感なくもない。謂ふに此の像の作者は、飽くまで明神としての威厳を保持せしめむが為に、殊更多くの衣紋を刻出せず、其単調なるが中に明神固有の端嚴なる體貌を、如実に顕現せむと力め、而も能く成功を収めしものである。
されば本像は、■に園城寺の重宝たるのみならず、通途の神像とは全然別種の趣あることに於て、天下唯一の称を冠すべく、殊に古来金扉を嚴にし、保存宜しきを得たれば、殆ど完好して今日に伝はりし一事は、真に目出度き限である。」

 

前段は、「智証大師」が「新羅明神」と出会うところ、また唐から持ち帰った経典を納める場所を巡って「山王明神」と「新羅明神」が争った様子が描かれています。

本書の作者は、「新羅明神」の伝説がこのようにありながら、「智証大師」の伝記などに神名が現れないことから、

 

「所謂新羅明神なる者は、何人かの捏造にかかる無稽の神体であらうか、それとも山門の赤山明神に対抗せむが為に、かかる神明を担ぎ出せるか、或は円珍和尚帰朝の際に、実在の一外人を伴ひ来りて、将来の事業に顧問たらしめたる者か、其出現の動機に関しては、甚だ疑ふべき点多々あり、要するに之が真体は、遽に捕捉し且闡明するを得ないであらう。」

 

↑と疑問を呈しつつ、真実をとらえるのは難しいとしています。

一方で、

 

「一方園城寺に於ては、其鎮守神として、古来此の明神を崇信すること頗る篤く、殊に永承以降、年毎に厳粛なる祭事を行ふを例とし、武家の信仰亦甚だ盛に、就中源頼義の如きは、其長男太郎義家を、源家の宗廟たる八幡祠前にて元服せしめて、八幡太郎と称せしめしと同様、三男三郎をば、此の明神祠前にて加冠の式を行ひ、新羅三郎の名を負はしめたるに見るも、外蕃の神とはいへ、其信仰の程度を想像して余あらう。」

 

↑と「源義光」の元服時の逸話を引きながら、実際に「新羅明神」が信仰の対象となっていったことを記しています。

その像は、

 

園城寺伝記の示す所に依れば、此の明神像の造立に関して、清和天皇の貞観二年二月、円珍は主なる弟子を促して、恭しく社壇を造営し、曾て感見したる明神像を彫成するに、特に今上天皇の御丈に準拠し、聖体安穏の意味の下に之を堂内に安置したといふ。」

 

↑「清和天皇」の御丈に合わせて彫られた(玉体の安穏のため)とされており、源家の信仰はここから来ているのではないか(あるいは後年に理由づけるための挿話かもしれないですが)、と考えられます。

清和天皇」は清和源氏の祖ですので。

 

 

新羅の神々と古代日本―新羅神社の語る世界

新羅の神々と古代日本―新羅神社の語る世界

 

 

↑「新羅明神」でamazon検索するとこれがヒットしたので、購入してみました(古本です)。

 

三井寺園城寺)は渡来氏族との関係でみれば、いわゆる新羅系の天皇と言われる「天武天皇」勅願の寺であるにもかかわらず、百済系氏族大友村主氏の氏寺であったと伝えられている。そして氏寺の守護神は新羅の神である(新羅百済高句麗を滅ぼし、半島の統一を行なった六七六年は、日本では律令国家の基礎を築いた天武天皇が政権の座にいた時である)。」(p1)

 

日本は基本的に、「親百済」だったと考えられています(「天智天皇」が百済の危機を救おうと、白村江の戦いに向かったことはよく知られています)。

当時の半島情勢にはいろいろありますが、半島南部には明らかに倭人の影響が残っています(前方後円墳とか)。

半島の三国時代、日本がどこに与するか、あるいは与しないのか、というのは、それぞれの国にとって重要な問題でした(何しろ大陸は南北朝で荒れに荒れており、その後に統一国家としての隋帝国が出現していますから、背後を取られる形になりますので)。

この辺りは、いろいろ読んではいるのですが、いまひとつ自分ではまとめられていません。

 

「「新羅神社」は新羅の人々がその居住地に祖先を祭った祠(祖神廟)であり、新羅人が居住した地域の氏神である。したがって新羅神社の由緒を調べることは、古代に渡来した新羅の人々の居住地や痕跡を辿ることである。新羅神社は、ほぼ全国にわたって存在しているが、本書では全国の新羅神社を便宜的に「渡来系」と「源氏系」に分けた。「渡来系」とは文字通り新羅から移住した人々が氏族の祖神を祭った神社であり、「源氏系」とは、三井寺新羅神社の神前で元服し、「新羅三郎」を名乗った源氏の武将源義光に端を発するものである。したがって、渡来系のそれよりは新しくルーツは三井寺新羅神社である。」(p4)

 

「源氏系」の新羅神社と違い「渡来系」の新羅神社の総社は必ずしも三井寺のそれとは言えない。しかし、三井寺の神社は最も古い社の一つであることは確かである。(p4)

 

まあ、ふむふむと読んでおきましょう。

 

渡来系の神社とそれを祭る人々は、古代から現代までの千数百年の間に、神祇制度や祭政一致の政治、社会情勢によりさまざまな制約を受けてきた。

新羅神社の呼称は「しんら」と「しらぎ」が混在しており、表記や発音も、「白城」、「白木」、「白鬼」、「信露貴」、「志木」、「白井」、「白石」、「白鬚」、「白子」、「白浜」、「白磯」などと変化している。中には渡来系の神社であることを社号から全く消し「気多」「気比」「出石」などと呼ばれている神社もある。祭神についても同じことが言える。当初の神を抹消したり加神したりしている。また『記紀』の神話の神を同座させる操作も行われてきた。社号も祭神も共に変えたり、他の神社に合祀したものなどさまざまである。さらに、過去の記録では所在が確認されるが現在の存在は不明なものもある。

「名称が異なっている」神社の中で特に判別しにくいのは、白鬚神社である。この神社は高麗系、百済系など諸説あるがいずれも史的裏づけに乏しい。私は新羅系と考えるが「白鬚神社」については、その地方に住んだ人々、伝承、地名、周囲に在る神社、史跡等により新羅の神と判断できるものについては新羅神として採り上げた。」(p6)

 

「渡来系の神社とそれを祭る人々は、古代から現代までの千数百年の間に、神祇制度や祭政一致の政治、社会情勢によりさまざまな制約を受けてきた。」……うーん、まあ別に、渡来系の神社だけではないと思いますが。

 

「『記紀』神話に最初に登場するのは新羅である。即ち、素戔嗚命新羅の曾尸茂梨の説話である。古代史の国家創世の時代には新羅と特別な関係があったことがわかる。新羅神社の由緒を調べていると、『記紀』の記載は日本各地に伝わる神々の伝承を時間と地域を複雑に組み合わせて作ったものであることがわかる。同じ氏族の神でも地方により名称が異なっている。古代の信仰は自然信仰であり、山や巨岩を神として祭っていた。太陽、火、海なども信仰の対象であったが、祖神を祭るようになって廟ができた。新羅神社は新羅の人々の祖神廟であった。したがって新羅の神の社の名称は比較的新しく五〜七世紀頃と思われる。」(p7)

 

確かに『日本書紀』に最初に登場する外国の名は「新羅」です。

しかし、何分神代のことですので、『日本書紀』編纂者が、編纂当時の知識を持って「新羅」と書いたのではないか、という説もあるようです。

 

「稲作と金属の技術は半島から伝来した。最初は銅の技術を持った人々が先住の人々とともに文化を造り、その後半島から同族の鉄の文化を持った出雲族新羅系)や天孫族の渡来があった(弥生時代)。百済系の人々や高麗系の人々の渡来もあり、時代の推移とともにこれらの人々の間で権力争いが起こっていく。すでに縄文時代から同族の渡来が何回もあり日本で土着していた。これらの人々は海浜に居住した海住みの民(海人族)と山住みの民に分かれ、海人族は綿津見神となり、山岳地帯や麓の居住氏族は大山祇神と言われている。いわゆる国津神である。縄文時代の文化はアイヌ蝦夷)文化とも言われ、全国にある手長神社、足長神社等はこれを祭るものである。『紀』等の神武天皇の条に登場する長髄彦(長い脛を持つ男)や土蜘蛛(背丈が短く手足が長い)などは古い渡来、または土着と言われる人々である。」(p8)

 

稲作の伝来ルートはいくつかあることがわかってきているそうです。

金属技術は半島経由っぽいですね(半島といっても、大陸からの移住者ではないかと思いますが)。

途中の「国津神」のくだりや、「縄文時代の文化はアイヌ蝦夷)文化とも言われ〜」という部分等は筆者の見解で、私にはなんともなぁという感じです。

 

三井寺新羅神社の祭神は素戔嗚命である。日本の各地には素戔嗚命やその子神が沢山祭られている。素戔嗚命新羅神社以外でも祭られている。これは、平安時代以降、素戔嗚命韓半島から渡来した人々の共通の神となっていくためである。仏教との集合で牛頭天王とも言われている。大阪八尾市の許麻神社、枚方市百済王神社なども牛頭天王を祭っている。しかし、新羅神社について言えば、素戔嗚命を祭っていたのは新羅系の人々、あるいは源氏の武将新羅三郎義光の子孫に係わる人々である。素戔嗚命を祭った神社の数の多さは渡来系の人々が如何に多かったかを物語っている。」(p9)

 

……?

 

いや、人口比率でどのくらいだったのか教えてもらわないと。

仏教が広がったのは、インド人が多かったからですか?

そういう話ではないでしょう?

 

「各地の神々を調べてみると『記紀』に記載の神の系譜は素戔嗚命に係わる系譜に集約されてしまうようである。古代の新羅の神の渡来とは素戔嗚命とその一族が対馬や筑紫地方を経由して渡来し、日本海沿岸地方をはじめ各地を開拓していったということである。その後、都怒我阿羅斯等や天日槍が筑紫を経由して日本海沿岸の地方に渡来し若狭に到っている。天日槍命は筑紫を経て瀬戸内海から河内に到り、淀川を遡り近江を経由して若狭から但馬に到って、出石神社に鎮座している。また素戔嗚命の一族(新羅系の人々)は筑紫から熊本や鹿児島にも入植している。『記紀』神話の中心は素戔嗚命に係わる系譜の神々(人々)である。このことは古代日本の国家創造に携わった人々は新羅系の人々であったということである。天照大神を祭る皇大神宮の成立は文武天皇二年(六九八)のことであり、それ以前は伊勢大神と言われる地方の地主神であった(筑紫申真『アマテラスの誕生』)。素戔嗚命を中心とする新羅の神は数多くの神社名や神社の祭神また、集落名や地名として現存している。天照大神は天照大日霊女命であり、太陽や日を祭る巫女、日霊女であったようである。素戔嗚命は古代日本の最初の王だったのではあるまいか。

祭政一致の古代においては、神社は、国家(国邑)であり都であった(律令制下の神祇政策)。古代の神宮・神社というのは祭祀の場でありかつ地域の政治の中心地であった。古代の王は巫祝王と言われ、『魏志』「東夷伝」の夫余国の条に、「舊の夫余の俗、水旱(大水と日照り)調はず、五穀熟せざるときは、すなわち咎めを王に帰す」とある。

これは、『記紀』神話に記載の、置戸を背負わされ鬚を切られ、手足の爪をも抜かれて追放された素戔嗚命の姿とダブる。古代の王の姿である。『記紀』の中には天皇が困難に当たり神託を得ている場面が多く出てくる。神社が集落や国の中心地であったと思われる例は、静岡県小笠郡菊川町に政所・御門・大屋敷・月岡(月を眺めたところ)・五百済などの地名がある。福井県の今庄町にも宮内・宮上・宮の前・天皇谷・舞台などの地名が残っている。」(p11)

 

最後の地名の話は意味が分かりませんが。

 

「『記紀』によれば、初代天皇の神武は三人の兄を持っていた。長男の彦五瀬命は神武東征中に死亡する。次男の稲飯命は『新撰姓氏録』に、新良貴氏は「彦波瀲武鵜葺草不合命の男である稲飯命の後なり。これ新羅に出ず。即ち国主なり。稲飯命新羅国に出て、王は祖合す」と記述されている。兄が新羅人であるということは、弟の神武も新羅人ということになる。この新良貴氏は敦賀市沓見にある信露貴彦神や同じ敦賀市白木の白城神、若狭の若狭彦の神となっている。鵜葺草不合命が祭られる鹿児島県姶良郡は、十六世紀頃までは始良(新羅)郡と言われた。三男の三毛入野命は北九州香春町の「現人神社」拝殿に掲げてある説明に、「新羅に渡り新羅王となり、帰国して都怒我阿羅斯等となった」とある。神武天皇の兄は二人とも新羅人である。また、対馬筑豊地方の伝承を調べてみると『記紀』にある天照大神の子孫神武天皇や祖父の「彦火火出見命」、父の「鵜葺草不合命」は、素戔嗚命の子神であることが判る。素戔嗚命の子神「五十猛命」は、「鵜葺草不合命」や「安曇の磯良」と同一神である。さらに天孫降臨の伝承は『記紀』の筑紫の日向以外にも沢山見られる。」(p11)

 

途中から何を論じたいのかよくわからなくなってくるんですが……。

 

「「彦波瀲武鵜葺草不合命の男である稲飯命の後なり。これ新羅に出ず。即ち国主なり。稲飯命新羅国に出て、王は祖合す」」

「三男の三毛入野命は北九州香春町の「現人神社」拝殿に掲げてある説明に、「新羅に渡り新羅王となり、帰国して都怒我阿羅斯等となった」とある。」

 

↑これ信じるなら、日本から侵略に行って、国王になって、戻ってきたって可能性もありますよね?

で、新羅人ですかね?

ノルマンディー公ウィリアムは、イングランド人だったと言えるんでしょうか?

このあとは、全国の新羅神社が列挙されており、よく取材されていると思います。

 

三井寺のある長等山麓に長等神社(天智天皇の勅により大友皇子が、都の鎮護として、長等山岩座谷に祭ったと言われ三井寺の境内者であった)がある。素戔嗚命を祭っている。三井寺には早尾、三尾など渡来系の神があったが明治の政令で分離されたものが多い。三井寺新羅神社は寺の守護神である。この社寺は渡来系氏族と深く係わっていたと言われている。三井寺大津京の四大寺の中で唯一現存している寺であり、新羅系の天皇と言われた天武天皇勅願の寺である。さらに、比叡山延暦寺第五代天台座主智証大師円珍が天台別院として独自の教義を伝えた寺である。この寺の守護神は源氏の守護神ともなった。園城寺新羅神社の由緒の解明の困難さは寺が百済系、神社は新羅系であるということである。さらに大津京壬申の乱で敗者となったために古代の文献や伝承が見当たらないことである。」(p188)

 

「しかし壬申の乱で敗者となったことから、大友氏の荘園・城邑は大津京とともに破壊されたであろう。そして資料や伝承も消されてしまったと思われる。『扶桑略記』は園城寺のある場所に天智天皇崇福寺を建立したとあるが展示の建立の寺であれば、当然乱の際に破壊されたであろう。この寺は大津京の時代には存在が確認できると言われている。古代の琵琶湖の西岸は新羅系の氏族の居住地であったと考えられる。安曇郡から滋賀郡にかけてはそれらの遺跡が残っている。穴太、大友、錦織の村主等は、はじめから志賀津周辺にいたわけではなく、一度定着した大和や河内から国家の企てによって、その後この地に配置された(水野正好『古代を考える・近江』所収の山尾幸久「大津宮の興亡」)とすれば、大津京以前に新羅の人々が新羅の神を祭っていても不思議はない。雄略天皇の時代に和邇氏を真野郷に移し、大友、錦織に穴太、大友、錦織氏らを編入したと言われている(五世紀後半)。その頃は「御井の寺」であったかもしれない。大津京以前から存在した新羅神社の神宮寺として、御井廃寺跡に天武は敗者の菩提を弔うために大友氏族の寺の建立を許可し「園城寺」を護らせたのではあるまいか。

その後九世紀中頃まで、渡来系の氏族大友村主氏一族が園城寺を彼等の氏寺として守った。貞観八年(八六六)智証大師円珍により三井寺として再興された。天武の許可した寺の名称の「音場」の「園」は「ソノ」である。「ソノ」の「ソ」は新羅の首都「徐羅伐」(徐伐、慶州)から「羅」が脱落して「徐」となったものであり、「首」、「斯羅」の意味である。「伐」は城邑の意味であるので徐羅伐は首城、首邑すなわち「都」であることは前にも述べた。園城寺は大友村主氏が「荘園・城邑」を寺地として創建したという言い伝えの意味は、「園城の寺」は「新羅の城」であろう。園城寺の境内は今も城跡であるが、古代には琵琶湖が境内の東側にまで及んでいたので、長等山裾に築かれた城邑であったであろう。大正一五年(一九二六)の金堂修理に際し、白鳳時代の古瓦が出土して天武天皇の時代に存在したことの信憑性が増した。また、大津京時代の寺院の一つである穴太廃寺からは六三〇年に否定できる庚寅銘を持つ文字瓦が出土している。」(p189)

 

 

新羅神社はかつて三井寺北院の鎮守であった。北院は明治時代に陸軍に没収され、太平洋戦争後はさらに縮小し今は新羅神社とその森が僅かに面影を留めている。大元の王子の御霊の前にある新羅神社は、大きな石の鳥居と広い参道を持つ。鳥居は大きい。参道の周囲には山城のような石積みの壁が続いている。奥の森の中に国宝の本殿がある(足利尊氏の建立)。大きな石の碑があるが字が風化している。「新羅社墓□」とある。神廟としての古墳という意味であろうか。新羅神社については智証大師円珍の入唐弘法の帰朝の際に船中に現れた仏教守護の神、航海安全の神として有名な伝承がある。これについて佐治有清『円珍」は、「円珍は博多ー琉球ー中国連江県という航路を通り、長安で法全に学び、五台山に登り、再び明州から唐商李延考の船で帰っている。これを見ると円珍と新羅の関係は見られない。航路も東シナ海を通っているのでこの「新羅明神の円珍帰朝譚」の伝承は事実ではなく、園城寺の創立以前に氏寺としていた大友村主氏が信仰していた氏神である新羅明神が後世になって円珍の話に結び付けられたもの」と指摘している。大友氏の初見は『紀』垂仁天皇の条の天日槍の来朝時である。大友主とある。大伴氏は神武紀にあり、物部氏とともに最も古い。大友氏族は一般には百済系と言われているが、当地には秦氏族が古くから居住していた。その後百済系の氏族が入植したと考えられる。大友皇子も、元々は伊賀の皇子であり伊賀の竹原氏は新羅系の氏族である。さらにこの地は古代には天日槍の通貨があり、おそらくその一族は当地にも居を定めたであろう。湖北の余呉と同様な状態であったと思われる。

さらに、円珍と新羅との関係を見ると、円珍は長安で田口朝臣円覚禅和と会い、円覚の尽力で新羅の人雲居和尚の房に世話になっている。また、『新羅大神記』には次のように記載されている。「明神他国従吾朝遷給う。御本意一非繁多なり。大師大唐法全大師従三種悉達地秘法を受、神又御在位時、玄超阿闍梨従彼秘法を受、新羅国の保寿寺玄超者善無畏三蔵弟子、恵果和尚師範也、三種悉地付浅略深秘有、大師独深秘伝……」。新羅明神が異国から日本に来た。また新羅明神新羅保寿寺の玄超から「三種悉地法」を受けた。玄超は善無畏三蔵の弟子で恵果(青龍寺)の師である。法全は恵果の弟子で円珍の師である。三井寺の『寺門伝記補録』には新羅大明神の大に点を加えて使うとされている(後三条天皇宣命による)。また新羅太神は素戔嗚命なり、その子五十猛命を帥いて新羅の国に降り至り曾尸茂梨に居す…」と記述し、太神にはいくつかの名があることを述べている。「朱山王、崧嶽王、四天夫人、素髪翁。素髪翁は海上に現じた時の名、その他は神嵩山(唐国)及び韓国にいた時の名」としている。さらに垂迹神も非常に多い。「摩多羅神牛頭天王、朱山崧嶽、武塔神祇園三座(牛頭天王、婆利女、少将井)。牛頭天王素戔嗚命又は武塔神を示し、婆利女は南海龍女である。少将井は稲田姫。備後風土記に北海の武塔神南海の龍女に通う、深津の郡に在す須佐能の神の社なり。五十猛命は南海龍女の子か」と記している。

いろいろと示唆に富む。おそらく素戔嗚命五十猛命に係わる伝承が多くあったものと思われる。南海の竜女は豊玉姫命であろうか。何やら彦火火出見命と豊玉姫命を思わせる。素戔嗚命彦火火出見命であろうか。当地には降臨伝承がないが彦火火出見命や天日槍などの伝承があったであろう。三井寺新羅神社の素戔嗚命は日本への最初の渡来神であり北九州や出雲と同じ頃のものと思われる。「神仏図会」には五十猛命は近江新羅大明神と記されている。『延喜式』によれば宮中で祭る神に園併韓神三座ありとある。園神、韓神である。園神は曾保理神(新羅の神)である。「園」という地名は大津市の南「栗津町」の隣り一帯が「園山」であり、南には「多羅川」(多羅は加耶の一部)がある。志賀郡の古名は「新羅郡」あるいは「曾の郡」であったであろう。湖西は新羅国でありその中心に新羅人が祖廟を祭り(後世、新羅社)、仏教が入ってからは新羅寺を建立していたものであろう。「園城」の「園の寺」である。園城寺にある早尾神社も同じである(祭神は素戔嗚命、船神、はやお、そうお、と言われた)。新羅神社の境内には地主神である「火の御子神」の祠がある。「この神の神像の神服は唐製」と言われている。新羅神とともにいずれも異国の風俗を着けているところが渡来氏族の崇拝した神を連想させる。この社寺は新羅系と百済系が混在し、天皇も両系統が係わっていることが由緒を複雑にしているが、このような例は他所にもいくつか見られた。」(p191)

 

というわけで長々引用してみました。

 

日本中に「新羅」に限らず、「百済」「高麗」の名を冠する地名が多く、また神社仏閣も多い。

それは、半島からやってきた人々がそこに住んで、祖廟を建てたからだ、ということを言いたいわけです。

ま、それはいいのですが。

いつも思うのですが、祖廟祖廟というわりには、その一族の祖先の神とかではなく、「新羅明神」とかなのはどうしてなんですかね。

百済神社」「百済寺」「高麗神社」……寺はまあいいとして、祖先崇拝の神社であれば、神社名にもうちょっとバリエーションがあってもよさそうですけど(地名も、みんな「白木」とかで、「新羅」の自分の住んでいた土地の地名、ってのがないんですよね……佃島みたいなの……愛着なかったってことでしょうか)。

いえ、これって、例えば日本人がどこかの国に移住して、そこで「日本明神」をお祀りしているようなものでしょ?

今よりずっと、祖先崇拝に意味があったとされている時代に、祖先神の名前が残っていないというのはどういうわけなんでしょう。

大和朝廷に抹殺された、ということでしょうか。

だとしたら、渡来人の影響力はその程度のもの、ということになりませんか?

 

というわけで、謎は全く解けませんが、裏メイン終了……あ、そうそう。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江の聖蹟

 

↑こちらに「弘文天皇陵」についての記事があります。

47コマです。

 

「長等山前陵

長等山前陵は弘文天皇の御陵である、壬申の乱に敗れて長等の山前に崩御になりしことは日本書紀の文に明である、御陵は明治十年六月今の地に推定せられた、兆域は方五十間である、宇治拾遺物語

山崎の地は天皇の皇子におおはしましける時の家地なりけるが、御軍の敗れにて其地に還りまして遂にゆゆしき御事のありしなり、其期に天皇與多王に遺詔給ひけるによりて、其地を陵所として葬奉り、又後園城寺を建て給ふ。

と見へてある。
壬申乱の不祥事は記するも恐慄に堪へざるも、茲に一言附記したきは弘文天皇が山前にて崩御し給ひしは書紀七月二十三日の條に、

於是大友皇子走て入らんに所無し、乃ち還て山前に隠る、以て自ら縊れぬ、時に左右大臣及び群臣皆散り亡く、唯物部連麿、且た一二の舎人之に従へり云々

二十六日の條に

将軍等不破の宮に向ふ、因て以て大友皇子の頭を捧げて営の前に献る。

とあるは何たる悲惨事ぞ、天武天皇の将軍村国男依が瀬田決戦の後弘文天皇の御頭を携へて美濃の不破に至り天武天皇の営に献り御実験に供したとあれば長等の山前には御胴以下の屍を葬りりたるものなるを思ふ、然らば不破の行営に叡覧に供した御首は如何にせしかと思ふ時、不破郡荒尾村に鎮座ある御首神社を追想せざるを得ぬ、御首神社に付ての伝説に平将門が討れし時其の首が空中を西し京都に向かふたを一の宮南宮の髪が射留て此所に落ちたりといふ、故に御首の神に参詣して祈願する者が南宮神社にも参拝すれば其祈願は功無しといはれて居る、将門征討の時朝廷より延暦寺の明達阿闍梨を美濃に遣はし南宮寺にて将門調伏の祈願を修せしめられし事は扶桑略記、元享釈書等に見へて「結願之時賊主将門の首到来」と見へてあるが、さりとて逆賊の首を神に祀る謂れなし、此の御首の神こそ弘文天皇の御頭を葬りし所にて因て祭祀をしたのであろう、御首神社社殿後方に小丘あり、此丘それ御陵墓でなからうか、」

 

御陵の比定は明治10年と比較的新しいです。

それより、

 

不破郡荒尾村に鎮座ある御首神社を追想せざるを得ぬ、御首神社に付ての伝説に平将門が討れし時其の首が空中を西し京都に向かふたを一の宮南宮の髪が射留て此所に落ちたりといふ、故に御首の神に参詣して祈願する者が南宮神社にも参拝すれば其祈願は功無しといはれて居る、将門征討の時朝廷より延暦寺の明達阿闍梨を美濃に遣はし南宮寺にて将門調伏の祈願を修せしめられし事は扶桑略記、元享釈書等に見へて「結願之時賊主将門の首到来」と見へてあるが、さりとて逆賊の首を神に祀る謂れなし、此の御首の神こそ弘文天皇の御頭を葬りし所にて因て祭祀をしたのであろう、御首神社社殿後方に小丘あり、此丘それ御陵墓でなからうか」

 

○こちら===>>>

「御首神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑まさか「弘文天皇」を「御首神社」と結びつけている方がいらっしゃるとは……なかなかな強者です(しかも面白い)。

むーん、一本取られましたな。

 

ところで、「新羅善神堂」、

 

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この手前あたりから、左手(南)へと向かって伸びている道がありまして。

 

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こんな道なんですけれどね……どうやらここを通ると「三井寺」へショートカットできるらしい、と知り、歩き出したはいいものの、結構な山道で……しかも途中で、山頂へ向かっている↑に「新羅三郎義光の墓」って書いてあったので、「行ってみたいが……どこまで登るのか……」と怖気付いてひたすら「三井寺」を目指しました。

あとでいろいろ検索したら、確かに「新羅三郎義光」の墓があるようで……失敗した……いえ、ここで終わりの旅路であればよかったんですが、先があるもので……。

 

というわけで、次の目的地は「建部大社」です〜。