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神社仏閣ラブ(弛め)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第3編

 

↑より引用します(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

185コマです。

 

「穴師兵主神社
穴師村の東、弓月嵩にあり。[神名帳][三代実録]に出づ。祭る所は、神代のむかし天皇天降り給ふ時、護斎の鏡三面、子鈴一合を御身にそへさせ給ふ。其一つの鏡は天照太神の霊として、天縣神と御名を申す。一つの鏡は天照太神の前霊として、国縣神と御名を申す。今紀伊國名草宮に崇め奉る大神なり。又一つの鏡子鈴は天皇御食津神、朝夕の御食、夜護日護と齋ひ奉る。今巻向の穴師の大神是なり。

 

ここで語られている鏡三面のうち、「天縣神」がなんなのかよくわかりませんが、

 

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

↑の天孫降臨場面の一書には、

 

「是の時に、天照大神、手に宝鏡を持ちたまひて、天之忍穂耳尊に授けて、祝きて曰はく、「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同じくして殿を共にして、斎鏡とすべし」とのたまふ。」

 

とあり、皇孫としての神器の一つとして鏡が認識されていたことがわかります。

また、

 

古語拾遺 (岩波文庫 黄 35-1)

古語拾遺 (岩波文庫 黄 35-1)

 

 

↑では、天岩戸神話の部分で、

 

「是に、思兼神の議に従ひて、石凝姥命神をして日の像の鏡を鋳しむ。初度に鋳たるは、少に意に合はず。[是、紀伊国の日前神なり。]次度に鋳たるは、其の状美麗し。[是、伊勢大神なり]」

 

とあります(『日本書紀』神代段にも、同じような記述あり)。 

天照大神」を天岩戸から引っ張り出そうとして作った鏡のうち、最初のものはちょっと出来が悪かったのか今ひとつだった、今の「日前神」、で、次に作ったのが素晴らしかった、これが「伊勢神宮」に祀られている、という伝承です。

「一つの鏡は天照太神の前霊として、国縣神と御名を申す。今紀伊國名草宮に崇め奉る大神なり。」という部分で語られている「国縣神」というのが、今でいう「日前国縣(ひのくまくにかかす)神宮」だと考えられています。

最後の「又一つの鏡子鈴は天皇御食津神、朝夕の御食、夜護日護と齋ひ奉る。今巻向の穴師の大神是なり。」ということで、「鏡」と「子鈴」が、「穴師坐兵主神社」の御祭神ということになります。

『大和名所図会』で紹介されているところでは、「鏡」と「子鈴」なんですね。

続いて193コマを見てみると、

 

「纒向山
三輪山の東北にあり。一名穴師山ともいふ。和歌痛足(あなし)山の所に見えたり。峯を弓月嶽といふ。南を檜原山となづく。東は初瀬山に連り、西は珠城山といへり。纒向渓一名穴師川といふ。水源は纒向山よりながれて、穴師・初利・辻村等を経て大豆越を過ぎ、城下郡に至り、初瀬川に入る。
巻向坐若御魂神社 三輪山の北、巻向の檜原にあり。[神名帳][三代実録]に出づ。」

 

「纒向山」と、「巻向坐若御魂神社」が紹介されています。

今の「兵主神社」は、「穴師坐兵主神社」、「大兵主神社」、「巻向坐若御魂神社」の三柱だとされています。

大兵主神社」のことは出てきませんね、『大和名所図会』。

 

続いて、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑より198コマ。

 

穴師坐兵主神社覈録 名神大月次相嘗新嘗
穴師は阿那志、兵主は音読にて比也宇須と訓べし ○祭神詳ならず、 神祇正宗云大国主命也、欽明帝御宇鎮座、秘説曰、天照大神也、考證云、素戔嗚尊、比保古云、大己貴神、孰れ一定ならず、 ○穴師村に在す、 大和志、同名所図会、 ○式二、四時祭下相嘗祭神七十一座、 中略 穴師社一座、 同三、臨時祭 名神祭二百八十五座、中略 大和國穴師神社一座
考證云、兵主神者、謂素戔嗚尊也、諸神■以爲八千矛神、而未爲至当、通考神名帳、其■七也云々、大倭本紀曰、 釈日本紀引用、御食津神今巻向穴師社所坐、據旧事紀文、一山両地祭素戔嗚與御食云々、此外六の説取に足らず 伴信友云、史記封禅書、漢書郊祀志曰、八神、一曰天主、二曰地主、三曰兵主云々、速胤按るに、雨師龍穴に同じく、漢語を用ひしなるべし、さては素戔嗚尊御食津神を祭るとの説こそ然るべけれ、諸国に数多く、祈年祭に預る謂れあるあぞかし
類社
近江國野洲郡、壱岐島壱岐郡兵主神社、各一座名神大、和泉國和泉郡三河賀茂郡、近江國伊香郡丹波國氷上郡、但馬國朝来郡、同國養父郡、同國城崎郡、播磨國多可郡兵主神社、各一座 但馬國出石郡大生部、同國気多郡久刀寸、因幡國巨濃郡許野乃、同國同郡佐彌乃兵主神社、各一座 但馬國城崎郡兵主神社、播磨國餝磨郡射楯兵主神社、各二座
速胤按るに、但馬播磨に二座として祭れるこそ、実に素戔嗚御食津の両神なる事明かなるべけれ、
神位
三代実録 貞観元年正月廿七日甲申、奉授大和國従五位下勲八等穴師兵主神正五位上、」

 

祭神としてはたくさんの説があって、「大国主命」、「天照大神」、「素戔嗚尊」、「大己貴神」、「八千矛神」、「素戔嗚尊御食津神」などなど。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑ついでにこちらも見ておくと(75コマ)、

 

穴師坐兵主神社(略)

祭神 素戔嗚尊
今按釈日本紀に引る大倭本紀の注に一鏡及子鈴者天皇御食津神朝夕御食夜護日護齋奉大神今巻向穴師社所坐拜祭大神也とあるは下の若御魂神とこの兵主神と二社に拜祭る由と聞えたるに度会延経が神名帳考證に此社の所に建速須佐之男命の食物を大宜都比賣神に乞ひて殺し玉へることと右の大倭本紀注とを引きて謂ふに兵主神素戔嗚尊なり其は穴師社と巻向社と一山なる両地に祭り又同郡に稔代神社穴師大兵主神社相並び又播磨國餝郡に射楯兵主神社二座とある射楯は素戔嗚尊帥子五十猛神到於新羅國とある五十猛と言相捗り出雲國に韓国伊大氐神社と云あり然れば兵主神素戔嗚尊なること著名なりと云る考当れるに似たり故今之に従ふ

巻向坐若御魂神社(略)
祭神 稚産霊命
今按古事記 伊弉冉尊の御石隠の條 に次拾屎成神波邇夜須毘古神次波邇夜須毘売神次於尿成神名彌都波能賣神次和久産巣日神此神之子謂豊宇気毘売神云々とある和久産巣日神は書記一書に軻遇突智娶埴山姫生稚産霊此神頭上生蠢輿桑臍中生五穀とあるは異なる傳なれども豊宇気毘賣神の御親なると合せて思へば既に土と水との神たち成坐て次に穀物の成るべき産霊の神なりと古事記傳に云るが如し
(略)
所在
今按大和志に巻向坐若御魂神社在三輪山北巻向檜原とみえる奈良縣注進状にも三輪村字檜原と云れば此地と決めて可なるに似たれど一説にこは檜原神社にて大神神社摂社垂仁天皇の朝に天照大御神を齋祭りし所なれば若御魂神社と云は謬なりと云り故今さだめては云がたし」

 

大兵主神社」についてはあまり大したことが書かれていなかったので割愛。

「巻向坐若御魂神社」の御祭神は「稚産霊命(わくむすびのみこと)」とされています。

日本書紀』の「伊弉冉尊」が自ら生んだ「軻遇突智」(火神)によって焼け死ぬ場面の一書で、

 

「時に伊弉冉尊軻遇突智が為に、焦かれて終りましぬ。其の終りまさむとする間に、臥しながら土神埴山姫及び水神罔象女を産む。即ち軻遇突智、埴山姫を娶きて、稚産霊を産む。此の神の頭の上に、蚕と桑と生れり。臍の中に五穀生れり。」

 

とあり、また、

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 

↑の同様の場面では、

 

「この子を生みしによりて、みほと炙かえて病み臥せり。たぐりに生れる神の名は、金山毘古神、次に金山毘賣神。次に屎に成れる神の名は、波邇夜須毘古神、次に波邇夜須毘賣神。次に尿に成れる神の名は、彌都波能賣神、次に和久産巣日神。この神の子は、豊受氣毘賣神と謂ふ。

 

とあります。

日本書紀』では、「稚産霊命」はあきらかに穀物神ですが、『古事記』の方ではそこまではっきりとは書かれていません。

しかし、「この神の子は、豊受氣毘賣神と謂ふ。」という、比較的新しいと思われる記述において、「豊受氣毘賣神」とは「伊勢神宮」外宮の「豊受大神」のことだと思われますので、主祭神のお食事を準備する穀物神(あるいはその祖神)と考えられます。

結局のところ、「穴師坐大兵主神社」の御祭神は「素戔嗚尊」で、今は合祀されている「巻向坐若御魂神社」の御祭神は「御食津神」、ということになるようです。

なお、

 

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穴師坐兵主神社 - Wikipedia

 

wikipediaでは、

 

「元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇八千矛神大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神御食津神であるとしているが、他に天鈿女命素戔嗚尊、天富貴命、建御名方神大己貴命の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。

巻向坐若御魂神社の祭神若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある。

上記の2社は、『正倉院文書』に天平2年(730年)に神祭を行った記録があり、貞観元年(859年)に従五位上の神階が授けられた。

穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である。祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする。大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命天日槍命という説がある。

中世ごろから、穴師坐兵主神社が穴師上社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになった。応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した。」

 

↑とあります。

今の場所はもともと「大兵主神社」があったところで、そこへ「穴師坐兵主神社」と「巻向坐若御魂神社」が合祀されたということだそうです(文献が明示されていないのが気になりますが、まぁ社伝ということで)。

ところで、『神社覈録』の中の、

 

伴信友云、史記封禅書、漢書郊祀志曰、八神、一曰天主、二曰地主、三曰兵主云々」

 

↑の部分ですが。

伴信友という人は、江戸時代末期の国学者で博覧強記、「延喜式神名帳」の考証である『神名帳考證』は名所図会系や『神社覈録』などで引用されています。

この人の本も手元にほしいですね……もっとも、現代における古代史研究からどのように判断されるのかは難しいところですが(本居宣長平田篤胤も、当時の知見でしかないですから、批判にはさらされるでしょうけれども、現代で古代史妄想なんかする人はみんな似たようなものだと思いますので)。

史記』からの引用ということで……『史記』については書くまでもないでしょうか。

前漢武帝の頃、司馬遷という人が書いた歴史書です(教科書的な説明だな……)。

史記』についての論評はあまたありますのでおいておいて(というか、それだけで人生終わってしまうかもしれないです)、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 史記. 第2

 

↑から、伴信友のいっている部分を引用してみます。

102コマです。

 

「是に於て始皇、遂に東のかた海上に遊び、行くゆく名山大川及び八神を禮祠し、僊人羨門の属を求む。八神將古より之れ有り、或は曰く、太公以来之を作る、齊の齊たる所以は天齊を以てなりと。其祀絶えて起る時を知るもの莫し。八神、一に曰く天主。天齊を祠る。天齊は淵水、臨菑の南郊山下に居る者なり。二に曰く地主。泰山梁父を祠る。蓋し天陰を好む。之を祀るに必ず高山の下、小山の上に於てす。命じて畤と曰ふ。地陽を貴ぶ、之を祭るに必ず澤中の圓丘に於てすと云ふ。三に曰く兵主。蚩尤を祠る。蚩尤は東平陸監郷に在り、齊の西境なり。四に曰く陰主。三山を祠る。五に曰く陽主。之罘を祠る。六に曰く月主。之萊山を祠る。皆齊の北に在り、勃海に竝ぶ。七に曰く日主。成山を祠る。成山海に斗入し、最も齊の東北隅に居る、以て日出を迎ふと云ふ。八に曰く四時主。琅邪を祠る。琅邪は齊の東方に在り、蓋し歳の始る所、皆各々一牢の具を用ひて祠る。巫祝損益する所、珪幣襍異なり。」

 

読み方すらわからない感じがあったりしますが、とりあえず、

 

「三に曰く兵主。蚩尤を祠る。蚩尤は東平陸監郷に在り、齊の西境なり。」

 

↑のように、「始皇帝」の行った儀式の中で祀られる「八神」のうちの「三」に出てくるのが「兵主」で、それは「蚩尤」のことだ、といっています。

「蚩尤」はおいておきまして、「郊祀」というのはなんなのでしょうか。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 古事類苑. 神祇部11

 

↑の41コマに「郊祀」の記事があります。

 

「郊祀
郊祀とは、郊野に圓丘を築きて昊天を祭り、其祖を天に配祀するを云ふ、故に又圓丘祭とも云ふ、支那の祭法に仿ふなり、我邦に於ては、神武天皇四年、天神を鳥見山中に郊祀すること見えたれど、固より支那に仿ひしにあらず、其支那の法に依りて郊祀を行ひ給ひしは、歴朝の間に於て桓武文徳の両天皇のみ」

 

 これに、

 

○こちら===>>>

郊祀 - Wikipedia

 

↑の情報を加えると、冬至には天子自ら王都の南郊に至って天を祀り、夏至には北郊に至って地を祀る」のだそうです。

桓武天皇」が登場したので、『續日本紀』を……あれ、講談社学術文庫の全訳ものが、なぜか(上)が二冊ある……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 六国史. 巻4

 

↑こちらから引用します。

 

延暦四年十一月の条に、

 

「○壬寅、祀天神於交野柏原賽宿祷也」」

 

延暦六年十一月の条に、

 

「○甲寅、祀天神於交野、其祭文曰、維延暦六年歳次丁卯十一月庚戌朔甲寅、嗣天子臣謹遣従二位行大納言兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣継縄敢昭告于昊天上帝、臣恭膺睠命、嗣守鴻基、幸賴穹蒼降祚覆燾謄徴、四海妟然、万姓康楽、方今大明南至、長晷初昇、敬采燔祀之義、祇修報徳之典、謹以玉帛犠齊粢盛庶品、備茲■燎、祇薦潔誠、高紹天皇配神作主尚饗、又曰、維延暦六年歳次丁卯十一月庚戌朔甲寅、孝子皇帝臣諱謹遣従二位行大納言兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣継縄敢昭告、于高紹天皇臣以庸虚忝承天序上玄錫祉、率土宅心、方今履長伊始粛、事郊■用致燔祀于昊天上帝、高紹天皇、慶流長發徳冠思文、封越昭升、永言配命、謹以制幣犠齊粢盛庶品、式陳明薦侑神作主尚饗」

 

とありました。

時期的には旧暦十一月で冬至の日のようです。

当時の都は長岡京、その南郊で今の大阪府交野市、というのも位置的にあっています。

延暦四年では「天神」を、延暦六年では合わせて「光仁天皇(天宗高紹天皇/「桓武天皇」の父)」を祀っているので、まさしく「郊祀」のようです。

「郊祀」のときに祀られる「八神」のうちの「三」である「兵主」が、「蚩尤」だった……ということは、兵主神=蚩尤」なのか。

 

といったあたりで長くなってきましたので、次回に〜。