2/23。
やっと……2023年の記事に……(まだ?)。
某ガールズバンドのライブがあるということで上京したのですが、こっち方面は最近来ていなかったので、いっちょ「阿佐ヶ谷神明宮」に。
◯こちら===>>>
阿佐ヶ谷の駅で降りたのは初めてかな……阿佐ヶ谷姉妹には会えなかった(そりゃそうだ)。
鳥居。
西側の大鳥居です。
狛犬さん。
結構大きくて、造作もしっかりしていました。
えっと……なんだっけこの入り口……。
写真の順番が……。
社殿。
こちら元宮だそうです。
位置関係は、↑のHPで確認してくださいな。
拝殿。
神明造っぽい(神明宮だから)。
神門より。
能楽堂、だったと思います。
彩雲っぽかったので。
「天神」様。
算額っぽい、ということなのか。
正面参道。
御朱印。
「月読社」だけあるのはなぜだったのか……もうよく覚えていません。
さて。
斎藤幸雄 編 ほか『江戸名所図会』2,有朋堂書店,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2024-04-10)
『江戸名所図会』を見ておきましょうか(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
p497です。
「阿佐ヶ谷神明宮 同西の方、阿佐ヶ谷にあり。中野の通よりは右へ入りて、十八町計あり。阿佐ヶ谷は小田原北條家の所領役帳に、中野内阿佐ヶ谷とあり。太田新六郎の所領にして、昔は中野に属せし小名なりしとおぼし。祭神伊勢に相同じ。神体は一顆の霊石なり。毎歳九月十六日を祭祀の辰とす。別当は真言宗にして、阿谷山世尊院と号す。中野の寳仙寺に属す。則ち寶仙寺の旧地なり。相伝ふ、景行天皇の四十四年、日本武尊東夷を征伐し給ひて、御凱陣の時、この地に休らひ給ひしかば、其後土人等尊の武功を慕ひ奉り、其地を封じて一社を経営し、神明宮を勧請す。然るに建久の頃、此地の農民横井兵部といへる人、(略)祈願あるひより、伊勢太神宮へ参詣せんと、勢州能保野の駅舎に宿す。其夜太神宮の霊示ありて、翌日宮川の水中にして、一顆の霊石を得たり、依て神意に任せ、古里に携へ帰り、件の神明宮の社に安置して、神体となし奉るといへり。其後祇海といへる沙門、神告あるにより、社を今の地に遷すとなり。其旧地は七八町東の方にあり、土人これを元伊勢と称す。」
ご存知の通り、関東には「日本武尊」関係の神社が思いのほか多いのです。
記紀の時点で京から関東まで出張ったという神話が残っていて、風土記にも名前が残っているのですから、土地土地に足跡があっても不思議ではないですし、それが一人の英雄ではなかったとしても、畿内の勢力が武力を持って東に進んだ跡と言えるでしょう。
しかし、普通は「日本武尊」が御祭神になっても不思議ではないのですが、神明宮……ううむ、何となく、元々は別の御祭神だったんじゃないかと思います……何があったのやら。
というわけで、ちょっと周辺をうろっとしてみます。