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神社仏閣ラブ(弛め)

「南宮大社」(補)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 古事類苑. 神祇部27

 

↑……検索してから式内社だったな、と思い出しましたが、とりあえず『古事類苑』の「神祇部」より。

707ページです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/カタカナをひらがなに改めた箇所あり)。

 

「南宮神社
南宮神社は美濃国不破郡宮代村にあり、原と仲山金山彦神社と称して金山彦命を祀る、延喜の制、名神大社に列し、後本国の一宮と称す、現今国幣中社たり、
(略)
延喜式神名帳頭註]美濃不破郡 金山彦 風土記云、伊弉冉尊、生火神軻遇槌之時、悶熱懊悩、因爲吐、此化神曰金山彦神是也、一宮也(略)
[諸国神名帳 美濃]不破郡仲山金山彦神社、名神大 俗謂南宮、即当国之一宮也、
[美濃明細記 三 神社]一正一位勲一等仲山金山彦大神
本社 金山彦命、見野尊、彦火々出見尊、秘神二座、五座、
木曽路名所図会 二]仲山金山彦神社 南宮に鎮座、正一位勲一等仲山金山彦大神と稱す、延喜式名神大美濃国一宮と稱す、
祭神五座 金山彦命 見野命、彦火々出見尊 罔象女命 埴山媛命此二座秘神とす
(略)
木曽路之記 下]垂井の宿の南に南宮山あり、美濃の中山といふ名所也、不破の中山とも云、南宮のうしろにもひろき谷有、両の谷の中にあるゆゑ、中山と云、又御社山とも云、南宮の社有ゆゑなり、社は山の麓に有、大社なり、東にむかへり、
[美濃明細記 三 神社]一正一位勲一等仲山金山彦大神
慶長五年庚子九月、関ヶ原合戦之時、安国寺之手勢放火、神社爲灰燼、東照大神君祈願、天下一統之後、至于家光公寛永十九年壬午、造営成、元禄七年修造鳥居 石鳥居在垂井、額寛永十九年より、青蓮院尊鎮親王宮御筆、古代額有正一位勲一等
(略)
木曽路名所図会 二]仲山金山彦神
勅使殿 本社の北にあり  
護摩堂 本尊弘法大師御自作、長日天下安全御祈祷を修す、  
本地堂 無量寿仏、勝軍地蔵、多門天、十一面観音、不動尊を安ず、人皇四十五代聖武天皇天平十一年、行基僧正の草創也、法體殿南神宮寺と号す、  
元三大師堂 天喜年中に安置す 右瑞垣の内にあり  
三重塔 社頭にあり  
釈迦堂 同所にあり  
薬師堂 延暦十二年開基、本尊如来伝教大師の作 ◯中略  
十一面観音堂 山上高山宮本地、本尊は行基作、神護年中草創、  
千手観音堂 子安社本地、本尊は慈覚大師の作 ◯中略  
十王堂 宮の入口にあり  
地蔵堂 同所にあり  
鐘 高さ五尺三寸、亘三尺三寸、厚さ三寸五分、無銘、むかし垂井駅の南、森の中盆地より出る、俗龍宮より上りしといふm  狛犬 楼門に居る、仏工春日の作、  
石鳥居額 正一位中山金山彦大神と書す、一品◼︎智院宮尊純法親王の御筆  
鉄塔 塔の南にあり、南蛮鉄なり、如法経を書写し、此塔の中に納む事あり、永正年中迄行之、其後中絶、
(略)
[美濃明細記 三 神社]一正一位勲一等仲山金山彦大神
朱雀天皇天慶三年、平将門叛逆之時、勅祈誓、神功最掲、被授勲一等、
後冷泉天皇康平年中安倍貞任宗任が乱、亦有霊験、被授正一位
(略)
[美濃明細記 三 神社]一正一位勲一等仲山金山彦大神、南宮摂社
本社南 高山大神 瓊瓊杵尊、開耶媛命、此社昔は在于山上、今本社の南に鎮座、山の上にも亦此社あり、美濃神名記正一位高山大神、
本社北 十禅師社 瓊瓊杵尊大己貴命、此社天慶年中、自江州坂本遷座瓊瓊杵尊、有二神、禰宜の説に、大己貴命一座云々、社僧説二座、
本社南 南大神 火明命
本社北 隼人神 火闌降命、美濃神名記曰、正三位隼人大明神、 
一湖千海社、豊玉彦命、塔の西に鎮座、
七王子社 大山祇 中山祇 ◼︎山祇 ◼︎山祇 正勝山祇 闇龗 高龗 七座を祭る、本社の後ろ也
御田代社 豊玉姫命、本社御后宮代村東鎮座
総社、猿田彦大神、入口に鎮座、数立宮とも云
七ノ宮、山王七社、或云、稲荷社、十王堂北道西側
山麓 坂本社 十禅師
(略)
東照宮
稲荷社
荒神社 神秘
山上 高山大神
子安社 保食神、葺不合尊
隼人社
(略)
[本朝神社考 三]南宮 俗号南宮大菩薩
余聞之、美濃国人曰、南宮山神者、天武天皇白鳳之初所建祭也、其華表題曰正一位勲一等金山彦大神、金山彦者何神乎、余答曰、日本紀神代巻所謂、伊弉冉尊将生火神時、悶熱懊悩而吐、即化爲神、号之金山彦是也、此神於五行爲金神、於是乎其人又言曰、初美濃国不破郡府中祭之、後移于郡之南仲山、故号南宮、祭祀供魚鳥、凡産子美濃者、必以南宮爲氏神云、余復告曰、天武天皇、自吉野経伊勢入美濃、塞不破関、遂撃大友皇子、蓋於此時有所祈于美濃中山、而後建神祠耶、其人答曰、彼社家者亦云爾、余復詰問之、答曰、朝敵平将門頭伝、言飛入洛時、神放矢射其頭、今俗称箭路御首宮者、是其縁也、
[美濃明細記 三 神社]一正一位勲一等仲山金山彦大神
崇神天皇五年十一月中十日鎮座 ◯中略 天武天皇、壬申乱之時行幸、社家伝也 ◯中略 天慶乱、依勅命比叡山明達律師、来宮代祈誓、此時十禅師ノ社造営、明達弟子十人爲社僧、至今有十坊、十禅師社僧掌之 ◯中略 南宮神宝有、大織冠鎌足之鎌図形、其形如片鎌鎗、(以下略)」

 

諸々の文献から引用されているのですが、そうか『木曽路名所図会』がありましたか……失敗失敗。

延喜式神名帳では「仲山金山彦神社」ですが、「南宮」と呼ばれたのも古い時代のことのようです。

摂社の御祭神なんかがおおよそわかってありがたい限りです。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 不破の古蹟

 

↑『不破の古蹟』から。
44ページです。

 

「四八 南宮神社
南宮神社は宮代村に鎮座し美濃国一の宮と称し金山彦命外四神を祀る境内広潤にして清潔幽𨗉なり桜楓松杉の間に點綴し風致最佳なり神武天皇元年府中に鎮座せしか崇神天皇五年十一月中山の麓に遷座あり慶長五年関ヶ原の役西軍の将安国寺恵瓊此處に陣し社殿兵火に罹かりしを徳川家光命じて再建せしめ盡く旧観に復し勅使殿拝殿釣殿回廊舞殿神楽御供所神輿舎其他数十の殿舎金碧燦爛たらしめたり石鳥居は垂井にあり正一位中山金山彦大神の額は寛永十九年に掲げ青蓮宮一品尊純法親王号は円智院宮の真筆なり円柱周り七尺四寸高さ二丈一尺六寸あり神木白玉椿は瑞牆の中本社の西北にあり有名なり朱雀天皇天慶三年平将門反す詔りして賊徒平復を祈らる神験あるを以て勲一等を授けらる後冷泉天皇康平年中安倍貞任の乱にも霊験ありて正一位を授けらる摂社末社殆ど四十あり神宝には古駅鈴二個鎌鉾一柄古代鐙一足其他刀剣の類甚多し本社の側に白玉椿あり古来有名なり(略)」

 

ざっと書かれているのは、鎮座したのが「神武天皇」の頃、「崇神天皇」の頃に中山の麓に遷座関ヶ原の合戦で西軍の「安国寺恵瓊」が焼き払った、それを「徳川家光」が再建した、といったところでしょうか。

あと、「平将門」の反乱を平定したのもこちらの神様の験力である、と。

ふむ。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 新撰美濃志

 

↑『新撰美濃志』という、岐阜県関係ではお世話になる文献から。
72ページです。

 

正一位勲一等仲山金山彦神社は美濃の中山に御鎮座ありて延喜神名式に不破郡仲山金山彦神社 名神大 同し神祇式名神祭二百八十五座のうちに仲山金山彦神社一座美濃国 とみるゆ 美濃神名記に正一位勲一等仲山金山彦大神と録せり当国の一宮と称しまた南宮とも申すまた美濃一国の氏神なるよしは 神社考に初美濃国不破郡府中祭之後移于郡之南仲山故号南宮祭祀供魚鳥凡産于美濃者必以南宮爲氏神云 と見えたり 社記に神武天皇元年鎮座当国府中又崇神天皇五年十一月中子日遷坐中山麓天武天皇壬申騒擾時幸行云云 とありて久しき御世よりこの国にしづまりましまし蒼生を守り給へる尊き御社なるが慶長五年の逆乱に石田三成が賊徒安国寺恵瓊ここに陣せしかばその兵火に社頭荒蕪頽廃せしを大猷院将軍の御世に御再営ありて殿宇ことごとく旧貫に復しいとも尊き御社なり (略) 本社 祭神五座 金山彦命 見野尊 彦火火出見尊 罔象女命 埴山媛命也 のちの二座は神秘なりといふ 卜部兼邦の神道百首に あらはるる御名も頼もし影高き金山彦を祭る神垣 藤川記に南宮の鳥ゐは南にあり云云 名も高き南の宮のちかひとて山の東の道そただしき と見へたり此哥をもつて見れば東山道の国々を守り給へる御ちかひのよし聞えたり 
摂社 十禅師社 本社の北瑞牆の内に鎮座ありて二宮と称す祭神大己貴命 天慶年中近江の坂本より勧請すよりて社僧の説には 瓊々杵尊 大己貴命 二座とす  
高山大神 本社の南瑞牆のうちに在りて三宮と称す祭神瓊々杵尊 木花開耶姫命なり 美濃神名記に正一位高山大神とある祠にてむかしは山上に在しがのち今の所へ迂座す 山上にも叉此神社あり  
隼人神 本社の北瑞牆の内にありて四宮と称す祭神は火闌降命 美濃神名記に正二位隼人大明神とあるはこの祠なり  
南大神 本社の南瑞牆のうちに鎮座 祭神は火明命 五宮と称す  
七王子社 本社のうしろ瑞牆の内にありて 大山祇 中山祇 麓山祇 離山祇 正勝山祇 闇龗 高龗 の七神を七扉にまつれり  
御築地外の末社は 
御田代社 東南の方にありて祭神豊玉姫命本社の御后也と云 
湖千海(コセガイ)社 南の方の山にありて豊玉彦命を祭る  
数立社 楼門そり橋の外北の方に鎮座ありて惣社と称し塩土老翁をまつる  
落合社 北東の方にある小祠にて祭神素盞嗚尊相殿五座といふ 将門調伏のいのりをせし所に鎮座ありて其所水の落合なりし故社号とす  
七之宮 大門通り北の方西側にありて山王の七社也といひ或は稲荷と云  
衣裳堂社 大門通東側七之宮の向へに鎮座ありて天吉葛(アマノヨサツラ)を祭るむかしは常楽会といふ祭祀ありしか今は廃して行はす  
氏神社 山の麓にありて勝氏宮氏の祖神を祭る宮勝は不破郡本貫の姓氏なれば氏神と称せしなり下の太領神社の條にくはしくしるせり  
坂本社 山の麓にありて日吉の七社を勧請す  
東照宮 山の麓にありて龍飛将軍家の御宮と称し奉る  
稲荷社 山の麓にありて宇賀魂命を祭る  
荒神社 山の麓にありて荒御前神を祭る当社地主の神なりといふうりその塚は悪魔降伏を築こめしといひ将門調伏の供器をここに収めしと云伝へたり  
子安社 山上にありて祭神保食神伊弉冊尊也社の前に王子石とて白黒の石二ツあり参詣の女此石をまはして男子を生む事を祈る故に子泰石といふ社号も此石より起れり  
高山権現社 同所にありて祭神は境内の摂社に同じ麓より十八町山上にありゆゑに奥の院と称す  
隼人社 同所いなりて祭神境内の摂社に同じ  
神明社 同所にありて宗源大神宮と称す  
その外山上山下のうちに
松下社 八咫烏を祭る 
神明治社 崇道畫敬天皇を祭る 
弁財天社 金敷金床社 
等ありて今廃社となりたるもあり 又十八末社とて 春日 八幡 富士 熊野 熱田 日吉 白山 祇園 住吉 諏訪 愛宕 多賀 三輪 稲荷 天満宮 兒御前 等の小祠ありしか中古より廃絶し今は其地其地に神号の標杭を立たり 
殿宇は 勅使殿 本社の東北にあり  
護摩堂 同じ所にありて弘法大師の像を安置す  
本地堂 本社の南東にありて法躰殿南神宮寺と號す天平十一年行基菩薩の開基にて勝軍地蔵多門天不動尊無量寿仏十一面観世音等の像を安置す  
拝殿 本社の東のかたにあり  
釣殿 本社と拝殿の間なり 
回廊 拝殿の左右のつづきなり  
舞殿 拝殿の東にあり  
鐘楼 護摩堂の東の方にあり洪鐘高さ五尺三寸径三尺三寸厚さ三寸五歩無銘なりむかし垂井の宿の南森のうちの盆池よりあがりしといひ伝ふ  
元三大師堂 本地堂の東の方にありて天喜年中の創立なり  
楼門 東の門にて督長またこま犬を左右に置く狛犬は仏工春日の作といひ伝ふ  
反橋 楼門の外に架す左右に通用の板橋あり (略)
薬師堂 延暦十二年の創建にて伝教大師作の薬師像を安置せり  
千手観音堂 子安の本地仏と称し慈覚大師作の千手観音の像を安置す  
十一面観音堂 高山権現の本地仏にて行基菩薩の作の十一面観音の像を安置す天平神護年中の開基なり (略) 
神木白玉椿 は瑞牆のうち本社の北西にあり夫木和歌抄に宝治二年百種豊明節会従三位行家卿 現存六帖には藤原行宗朝臣と見えたり 美濃山の白玉椿いつよりか豊のあかりにあひはしめけむ 此歌新拾遺集にも入れり 南宮社十首に伊豆守利綱 色かえぬ白玉つはきみの山に神や八千代のたねをうゑけむ 権律師秀永 梓弓八千代の花はみの山の白玉椿さきやそめにし と見えたり  (略)
鐡塔 南の山にありて小さき家をつくりて其うちに置き雨露をふせく南蛮鐡にて其かたち釜の形の如く高さ五尺六寸七分上の亘り二尺二寸五分下の亘り三尺二寸上の重ねに朔日より卅日までの日をしるし上に菩薩六体下に四天王の像を鋳つけ其かたち甚雅にして珍らしき塔なり如法経を書写して此塔中に納めしといふ銘ありて左のごとし

平氏能登入道沙彌浄普
平氏左京亮氏仲
土岐美濃守源朝臣法名常保
土岐刑部少輔源朝臣頼世法名真兼
右兵衛大夫秀行 藤原散位秀顯
源盛光 沙彌道順
沙彌浄阿弥
勧進聖 沙彌妙全
大工河内国高大路家久
応永五年戊寅八月十日敬白

古銘は鎌倉二位の尼の建立新銘は応永再興の修補の銘なりといふ 賎の小手巻に慶長庚子の秋関ヶ原の節長宗我部此山に陣して鐡塔を竃に用ひて兵糧を炊し故に破損せりと云としるせり塔の家の側に泉井あり 如法水と云名水なり(略)」

 

引用が多くて申し訳ない……読みやすいように適宜改行を入れています。

木曽路名所図会』には図絵もありますので、そちらもご参考にしていただければ、と。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第2輯 第1編

 

↑151ページからです。

伝教大師」作の仏像があったり、元三大師堂があったりと、「平将門」の反乱を鎮めるべく比叡山から「明達」を招いたあたりから、だいぶ比叡山色が強くなっているように思えますね。

御祭神の近くを固めている摂社は、基本「瓊瓊杵尊」と「木花開耶媛命」関係なのですが、その意図はよくわからないまでも、整理の仕方に「日吉大社」の「山王七社」「二十一社」に近いものを感じます(つまり、(恐らくは)天台宗の僧侶が解釈した神統譜があったのだろう、と)。

それ以前のこと、となるとよくわかりませんけれども……「天武天皇」が壬申の乱で東国から助力を受けたときに何かあったのか、そういえば「不破関」ですからね……古代の歴史に直結した場所なのですが……なんでしょう、地味な印象が拭えない……実に見どころたっぷりで、掘り下げると非常に面白そうなんですけれども。

 

「南宮神宝有、大織冠鎌足之鎌図形、其形如片鎌鎗」

 

↑これなんか面白そうな情報ですよね。

奉納されている刃物、特に鎌の起源をここに求めたくなります(違うと思いますけれど)。

 

ところで

 

 

梁塵秘抄 (岩波文庫 黄 22-1)

梁塵秘抄 (岩波文庫 黄 22-1)

 

 

 

梁塵秘抄』には、

 

「南宮の本山は、信濃の國とぞ承る、さぞ申す、美濃の國は中の宮、伊賀の國は幼き兒の宮」

 

という歌が残されており、これが何かしらのルートを表しているのではないか、と言われたりしています。

御祭神が「金山彦命」であることから、信濃→美濃→伊賀、という鉄に関係するルートがあったのではないか、あるいは逆に伊賀→美濃→信濃というルートか……。

わざわざ「二位の尼」、つまり「平時子」が「鉄塔」を奉納した、ということにも意味があるのでしょうけれども……単純に金属の神様だったから、という理由なんでしょうか(普通、お経を収めるなら石塔ですものね……考えすぎか)。

ううむ、不勉強なのでこれ以上は踏み込めませぬ……。

 

罔象女命 埴山媛命此二座秘神とす」

 

↑とかもよくわかりませんし(五行的な何かかな……)。

 

あ、そうそう、「金山彦命」は、「火乃迦具土神」が生まれたあとで「伊弉冉尊」が吐き出して生まれた神、ということですが、これは製鉄の過程を考えると、炉の中から金属を取り出す暗喩なのではないか、ということです。

吐き出す、というのは実は生まれる、ということで、これは「女陰」を「ホド」といい、「火処」と通じ、つまり「炉」を女神の胎内に例えてのこと、という説があります。

「吐き出す」がどうにも納得できなかった私は、この解釈がありだな、と思っていますがいかがでしょう。