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神社仏閣ラブ(弛め)

「大神神社」(考)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第3編

 

↑『大和名所図会』の188コマの記事より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

三輪山
一名三諸山、又神並山といふ。三輪町のひがしにあり。[祠林採葉抄]に曰く、三室神南火。[神楽注秘抄]に曰く、三室とは神のやしろなり。
夫三諸山は、孤峰峻抜して、林木青葱たり。これを眺るに群山に異なり。山頂に不動・薬師・地蔵の三石の像あり。奥の不動といふ。又弥勒石像弥勒谷にあり。高さ六尺。
[萬葉]
味酒(うまざけ)の三輪の祝(はふり)が山てらす秋の紅葉ばちらまくをしも  長屋王
此五文字に三訓あり。味酒(あじさけ)・味酒(うまざけ)・味酒(うらざけ)なり。崇神帝の御製[日本紀]の歌を證とするなり。又酒を三輪といふ事此神のつくりはじめ給ひしゆゑとぞ。[祠林採抄]に見えたり。」

 

三輪山」についての記事です。

「三諸山」や「神並(かんなみ)山」とも呼ばれていたようです。

「神並」は「神奈備(かんなび)」のことでしょう。

現在の頂上には「高宮神社」があるのですが、神仏習合の時代には「山頂に不動・薬師・地蔵の三石の像あり。」ということだったようです。

これは、主祭神「大物主大神」、そして「大己貴神」、「少彦名神」の垂迹と考えられたからでしょうか(どの方がどの垂迹かは調べればわかりますが、多分「少彦名神」は「薬師如来」でしょう)。

 

続いて、同じく『大和名所図会』の191コマです。

 

「三輪社
神名帳]大神大物主神社。名神大・月次。相嘗、新嘗・[三代実録]に曰く、貞観元年正月授従一位。二月授正一位。三十村民共預祭祀。古記に云く、大己貴命平定萬国。功績既成。仍営建宮殿於日本国之三諸山。就而居住。此大三輪之神也。社傍有一株老杉。名曰験杉。
抑当社の御神は大己貴命素戔嗚尊の御子にして醫道の祖神なり。 嫡后は須勢理姫神[旧事紀]。ある時神光海を照し、うかび来るものあり。大己貴神問うて曰く、汝は誰ぞや。答へて曰く、われは是汝の幸魂奇魂なり。大己貴神のたまはく、吾幸魂奇魂、今はいづくにかすみなんや。答へて曰く、われ日本国の三諸山にすみなんとおもふ。故に則宮をかしこに営み住ましめ給ひき。[日本紀]。又崇神天皇七年、倭迹々百襲姫命大物主神に著りたまひて告あり。更に御夢に、我は是大物主神なり。我兒太田々根子をして我を祭しめよ。かかりしより。太田々根子命を神主としまつらしめつ。此命は大三輪君等が遠祖なり。[日本紀]。扨まつりの日は茅の葉を三つくくりて、巌のうへに置きてそれをまつるなり。社のおはせぬをあやしとて、里人どもあつまりて作りければ、百千烏飛び来たりて、つつきやぶりふみこぼちて、其木をおのおのくはへて去りにけり。其より神の誓と知りて、社は造らざりしとなり。[奥義抄]当社は大和国一宮にして二季の例祭あり。四月卯の日・十二月卯辰の日なり。
三鳥居 本社の三鳥居は神秘なりといふ。
拝殿 五間に十三間、白木造なり。右の脇に勅使の座あり。
伐掛椙 本社の庭にあり。此所御供所なり。
一夜酒社 本社の北にあり。四月の祭日に、一夜に酒を造りて供するなり。
岩倉祠 本社より一町北に有り。
花鎮祠 本社の北に有り。大國谷とて明神鎮座の所なり。
貴船祠 本社より艮五町にあり。
燈明椙 本社より東四町、山の内にあり。
日原祠 本社よりも八町北に有り。天照大神御鎮座の所なり。
神宝祠 本社右の方に鳥居有り。
鴨峯祠 本社より三十町、山の上にあり。雨乞の時ここを祭るなり。
天皇祠 本社の右の方にあり。崇神天皇を祭る。
綾椙社 本社より二町南にあり。古代は大杉なり。鳥居有り。
磯城宮 本社より三町南。いにしへは笠縫里といふ。天照大神始て御鎮座の所なり。委しくは倭姫世紀にあり。
楼門 本社の楼門なり。白木造にして両脇に門守あり。
門椙 楼門の右の脇に大杉二本あり。印の門杉なり。
衣掛椙 右の方に大木の杉あり。玄賓僧都の衣をかけ給ふ所なりといふ。
夫婦石 三輪明神影向の古跡といふ。
二本椙 一株は宝永年中大風の時西の方に倒れあるなり。
御新橋 武市原長者の建立なり。
払戸社 左の脇にあり。
駒留石 四月卯の日催事に、社司此所にて出仕あり。下馬石なり。
大橋 毎年正月十一日夜神事あり。いにしへは大橋の能とて有り、今はなし。
綱掛松 毎年正月九日清浄の綱を掛くる神事あり。
旗建芝 毎年正月十日に、五穀成就の旗七本立つなり。
恵美須社 三輪の町にあり。毎歳正月六日に初市とてあり。
池田 三輪七つ池の一つなり。今池田といふ。
淵橋 むかし長谷川此所に流れし時、淵ありしゆゑに名くるなり。
菜摘田 大鳥居の右にあり。今は菜摘茶屋といふあり。
(略)
二鳥居 大橋と若宮の間にあり。
若宮社 二の鳥居より一町北にあり。太田々根子の命とも、又少彦名命ともいふ。
大鳥居 三輪の町にあり。社記に曰く、むかしは額あり。勲一等大神大物主とあり。今はなし。[観鵞百譚]に云く、神代の文字とて、三輪大明神の額といふあり。今は興福寺の庫中に在り。今ここに小書す。藤公石■(※石扁+郭)の銘の字と甚似たり。世に叔孫通なき故にしる事あたはず。
日向社 三輪山の峯にあり。今高宮と称す。[神名帳][三代実録]等に出づ。
狭井渓 水源は三輪山より狭井寺の跡を巡り、箸中に至り、纒向渓に入る。
狭井坐大神荒魂神社 三輪社の北、狭井川の南にあり。今は花鎮と称す。[神名帳]に出づ。

 

摂社や神木まで掲載されています。

図絵も掲載されていますので、さすが大和国一宮、といったところでしょうか。

 

「扨まつりの日は茅の葉を三つくくりて、巌のうへに置きてそれをまつるなり。社のおはせぬをあやしとて、里人どもあつまりて作りければ、百千烏飛び来たりて、つつきやぶりふみこぼちて、其木をおのおのくはへて去りにけり。其より神の誓と知りて、社は造らざりしとなり。[奥義抄]」

 

↑この記述から、磐座信仰と、社殿のないことに関する伝説が伺えます。

 

謎の多い「三ツ鳥居」ですが、「三鳥居 本社の三鳥居は神秘なりといふ。」となっています。

江戸時代末期ですので、その由来は誰も知らなかった、ということですね(神職も知らなかったのか、知っているが隠しているのか……何しろ「神秘」ですから)。

 

 「一夜酒社 本社の北にあり。四月の祭日に、一夜に酒を造りて供するなり。」

「岩倉祠 本社より一町北に有り。」

「日原祠 本社よりも八町北に有り。天照大神御鎮座の所なり。」

「若宮社 二の鳥居より一町北にあり。太田々根子の命とも、又少彦名命ともいふ。」

「狭井坐大神荒魂神社 三輪社の北、狭井川の南にあり。今は花鎮と称す。[神名帳]に出づ。」

 

これが、今回お参りした摂社末社です。

 

さてさて、

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

↑『日本書紀』で三輪が登場するのは、神代紀の、「大己貴神」と「大物主神」の出会いの場面です。

 

「時に、神しき光海照して、忽然に浮び来る者有り。曰はく、「如し吾在らずは、汝何ぞ能く此の国を平けましや。吾が在るに由りての故に、汝其の大きに造る績(いたはり)を建つこと得たり」といふ。是の時に、大己貴神問ひて曰はく、「然らば汝は是誰ぞ」とのたまふ。対へて曰はく、「吾は是汝が幸魂奇魂なり」といふ。大己貴神の曰はく、「唯然なり。迺ち知りぬ、汝は是吾が幸魂奇魂なり。今何処にか住まむと欲ふ」とのたまふ。対へて曰はく、「吾は日本国の三諸山に住まむと欲ふ」といふ。故、即ち宮を彼処に営りて、就きて居しまさしむ。此、大三輪の神なり。此の神の子は、即ち甘茂君(かものきみ)等・大三輪君等、又姫蹈韛五十鈴姫命なり。又曰はく、事代主神、八尋能鰐に化為りて、三嶋溝樴姫、或は云はく、玉櫛姫といふに通ひたまふ。而して児姫蹈韛五十鈴姫命を生みたまふ。是を神日本磐余彦火火出見天皇の后とす。」

 

この前の部分で「大己貴神」は、「国は作ったけど、俺、ぼっちだよ。誰か俺と一緒に国をおさめてくれないかなぁ」と嘆いています。

一緒に国づくりをした「少彦名命」は、どこかいっちゃったんですね(熊野から常世とか、淡嶋から常世とか)。

で、登場したのが「大物主神」です。

自己紹介では、「大己貴神」の「幸魂・奇魂」となっており、このときまで「大己貴神」自身がその存在に気づいていませんでした。

日本の神は「和魂」と「荒魂」に分けられると考えられています(元々はアニミズムですから、自然の恩恵をもたらす側面と、災害をもたらす側面から、こうした考え方に至ったのではないかと)。

そのほかに「幸魂(さきみたま)」、「奇魂(くしみたま)」という状態もあるのではないかと考えられ、簡単に言えばどちらも「不思議な力」みたいなものです。

この四つの状態(考え方によっては、三つの状態)の総体を「神」と呼んでおり、本来は一身不可分のはずですが、何しろ「魂」ですから遊離もしますので、別々にお祭りしたりします。

で、不思議なのは、神自身が自分の「幸魂・奇魂」に気づいていない、という状態。

宗教学的な説はいろいろあるのでしょうが、ここはあえてミステリー風に解釈しますと、「本当に気づいていなかった」、つまり「影の協力者」だった、というのはいかがでしょう?

国づくりの最終段階でやってきた「大物主神」、実のところ「大己貴神」とは別人で、「大己貴神」の協力者だった「少彦名命」がいなくなったので、チャンスと思って同盟を持ちかけた。

もともと大和地方の実力者だったので、「俺は今後もここをおさめる、お前さんはそっち(出雲)をおさめる」という取引が成立したのではないか、と。

もっと妄想すると、手垢のついた「二重人格」とか……これはやめておきましょう。

大物主神」のセリフ、「如し吾在らずは、汝何ぞ能く此の国を平けましや。吾が在るに由りての故に、汝其の大きに造る績(いたはり)を建つこと得たり」で気になるのは「大きに造る績を建つこと得たり」の部分。

「績」には「つむぐ、糸をつくる」という意味と、「つみかさねる(功績、実績)」という意味があります。

その前に「造る」が出てきて、これは「成す」という意味だとすると、「大きな実績を手にした」という意味なのでしょうが、後に「大己貴神」が「杵築の大社(出雲大社)」を建てられたことを考えると、ちょっと意味深ですね。

※余談ですが、この部分の前に、「少彦名命」との国づくりと命との別れ、この後に「少彦名命」の正体について書かれています。

このプロット、普通で考えると逆じゃないかなと思うんですよね。

少彦名命」との出会い、国づくり、別れ、それから「大物主神」との出会い、の方が自然じゃないかなと。

この点からも、この記事自体が、後から挿入された記事ではないのか、と思ってしまいます。※

 

 一方の、

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

↑『古事記」の同じ部分では、

 

「ここに大國主神、愁ひて告りたまひしく、「吾獨して何にかよくこの國を得作らむ。孰れの神と吾と、能くこの國を相作らむや。」とのりたまひき。この時に海を光して依り来る神ありき。その神の言りたまひしく、「よく我が前を治めば、吾能く共與に相作り成さむ。若し然らずは國成り難けむ。」とのりたまひき。ここに大國主神曰ししく、「然らば治め奉る状は奈何にぞ。」とまをしたまへば、「吾をば倭の青垣の東の山の上に拜き奉れ。」と答へ言りたまひき。こは御諸山の上に坐す神なり。」

 

となっています。

古事記』には「大物主神」の名前も出てきませんし、それが「大國主神」の「幸魂・奇魂」だともされていませんし、そもそもこの時点では「国づくり」が完全には終わっておらず、 「大國主神」の嘆きは「俺、ぼっちになっちゃったよ。どうやって國を作り終えたらいいんだよ。誰か一緒にやってくんないかな」です。

「国づくり」が終わっていないので、この「依り来る神」は、「俺を大和に祭ってくれれば、国づくりが成功するよ」と誘っています。

「依り来る神」の目的は、「大和」の支配権だった、ということなのでしょうか。

 

この『日本書紀』と『古事記』の神話の齟齬に、何か秘密があったら面白いなぁ……と古来多くの人たちが妄想をたくましくしたことだと思います。

 

でも、よく考えたら結果は同じで、大己貴神(大國主神)」は「大物主神(依り来る神)」のことは知らなかったし、「大和」の支配権もその神のものだったのです。

 

日本書紀』や『古事記」は、様々な編集がなされていて、神話の順番なんかもかなりぐちゃぐちゃになっているのではないかと思われる部分もあるようです。

それでも、ひとまず文献に沿うとしたならば、「国づくり」の範囲が如何ともしがたい以上、ここまでに登場した神話で判断するしかなく、「伊弉諾尊」から「大己貴神」に至るまでの間に、実際に神の降り立った場所で出てくる地名は、「出雲」か「筑紫(日向)」か「紀伊」か「熊野」か「淡路島」か「伯岐」か「氣多」か「高志」か、その程度です(国生みの場面は除きます)。

「大和」が登場するのは、かろうじて「伊弉冉尊」が火の神を産んで神去りの後、「伊弉諾尊」が流した涙が「香山の畝尾の木の本にまして、泣澤女神と名づく。」(『古事記』)と言及されるだけで、実際に「伊弉諾尊」がそこに立ったわけではありません。

ということで、「天つ神系」にしろ、「素戔嗚ー大己貴の国つ神系」にしろ、この段階では「大和」を手に入れていたわけではなく、そのために「大己貴神」本人でさえ知らなかった「大物主神」という「大和」の支配者が登場し、「大己貴神」に対して共同統治をもちかけたのです。

 

 

 

 

……多分。

 

 

 

とりあえず、今回はここまで。