そろそろ飽きてきましたので(?)、結論は出ませんが、ぼんやりと終わりにしたいと思います。
「野見宿禰」というのは、伝承では出雲国造家の十四代「襲髄彦」と同一人物である、と言われています。
実在の出雲国造家は二十五代「果安」からではないか、と考えられるので、伝説上の人物といえばそうなのでしょう。
その人物が、「垂仁天皇」の時に突然出雲から呼び出されて、「当麻蹶速」と相撲をとらされて、勝ってしまった、という説話が『日本書紀』に挿入されているのは、この時代に殉葬をやめさせたということを喧伝したいからで、後の土師氏が葬祭・墳墓造り・埴輪造りに重要な役割を果たした、という伝承がまだ色濃く残っていたからでしょう。
ただ、「野見宿禰」が、現在我々の想定する「出雲」(島根県)にいたかどうかはわかりませんが。
「大和」にも「出雲」と呼ばれた場所はありますので。
それに、出雲国造家の祖である「天穂日命」が天神系であり、畿内に本拠地があったのではないかと考えると、実際に「出雲」で「大己貴神」を奉斎している出雲国造家以外の「出雲臣」系氏族が畿内に残っていても不思議ではありません。
で、この畿内に残っていた「出雲臣」系の人たちが、「兵主神」を祀っていた、ということになるのでしょうか。
いやいや、天神系のはずなのに……うーんなんだかよくわかりませんね。
↑の垂仁紀三十二年条、いわゆる「埴輪」起源譚の部分で、
と言っています。
殉葬をやめさせ、「埴輪」で代役させることで「垂仁天皇」の御心にかなった「野見宿禰」は、「鍛地(かたしところ)」を賜ったと。
これが「鍛冶」とは関係ないよ、という説もあるようですが、いやいやどう考えたって「鍛冶」と関係あるでしょう(妄想)。
つまり、「野見宿禰」は、土師氏となる過程で、何らかの「鍛冶」集団を取り込むことになった、と。
ということは、この「鍛冶」集団の祀っていた神が「兵主神」で、「延喜式神名帳」に載る「兵主神」系神社のネットワークは、「鍛冶」集団が関係していたのではないでしょうか。
そこに、後に土師氏となる墳墓造り・埴輪造りの集団が重なっていく。
↑に見られる、
「安師(あなし)の里 (もとの名は酒加(すか)の里。)土は中の上である。
大神がここで飡(スカ/飲食)しなされた。だから須加といった。後には山守の里とよんだ。そういうわけは、山部三馬が里長に任命された。だから山守[の里]といった。今それを改めて安師としているのは、安師川があることによって名としたもの。そしてその川は安師比売神によって名としている。伊和の大神は[この女神を]めとろうとして妻問いされた。。その時、この神は固く辞退して許さない。そこで大神は大いに怒って、石をもって川の源を塞きとめ、三形(御方の里)の方に流し下した。だからこの川の水は少ない。(略)」
「立野
立野とよぶわけは、昔、土師弩美(はにしののみの)宿禰が[大和と出雲を往き来して]出雲の国に通うとき日下部の野に宿って、そこで病気にかかって死んだ。その時出雲の国の人がやって来て、大勢の人を立ちならばせて[手から手に]運び伝え、[揖保]川の礫を上げて墓の山を作った。だから立野とよぶ。すなわちその墓屋を名づけて出雲の墓屋といっている。」
といった話は、この「鍛冶」集団と「墳墓造り・埴輪造り」集団が重なっていく過程で何やらいろいろすったもんだがあった、ということを表しているのではないでしょうか。
そして、統合の過程で「兵主神」=「穴師の神」という図式が出来上がった、と。
そう考えると、「野見宿禰」が「当麻蹶速」を倒すべく呼び出されたところにも何か潜んでいるように思われます。
「野見宿禰」を出雲まで呼びに行ったのは、「長尾市(ながをち)」という「倭直」の祖先なのですが、この「倭直」の始祖というのが、「神武天皇」を大和の地へと導いた国つ神「珍彦(うづひこ)」また「椎根津彦(しひねつひこ)」とされています(大和じゃなく九州だ、という話もあり)。
他にも「長尾市」さん、播磨国にやってきた「天日槍」の様子を見に行ったりしていますので、相当大和の地に詳しかったのではないかと思います。
そんな「長尾市」さん、
「時に天皇、是の言を聞しめして、則ち中臣連の祖探湯主(くかぬし)に仰せて、卜ふ、誰人を以て大倭大神を祭らしめむと。即ち渟名城稚姫命、卜に食へり。因りて渟名城稚姫命に命せて、神地を穴磯(あなし)邑に定め、大市の長岡岬を祠ひまつる。然るに是の渟名城稚姫命、既に体悉に痩み弱りて、祭ひまつること能はず。是を以て、大倭直の祖長尾市宿禰に命せて、祭らしむといふ。」(岩波書店『日本書紀2』より)
ということで、「穴師」に祀られた「倭大国魂神」の祭祀を、「渟名城稚姫命」から引き継いでいるのです。
この辺りの構図は、「大神神社」で「大物主大神」を祀るために、「大田田根子」を連れてこなければならなかったことによく似ているように思います。
大王にくっついて都を渡り歩いていた「天照大神」と「倭大国魂神」、さらに「大物主大神」は、大王家の手に負える存在ではなかったらしく、仕方がないので「大物主大神」はその子孫とされる「大田田根子」に、「倭大国魂神」は「倭直」の祖先「長尾市」に、「天照大神」は最終的には「倭姫命」によって都から遠ざけられることとなったのでした。
「倭姫命」は「垂仁天皇」の娘ということになっていますが、わざわざ「倭」の名を冠したのですから、大和地方の姫だったか、あるいは「倭」にささげたという意味での「倭姫命」なのか。
こう考えると、「天照大神」もまた、大王家の祖先神というよりは、大和地方土着の存在で、大王家に取り込まれたにも関わらず祟りをなすほどに恐れられた、というのは、その本来の奉斎氏族が全然大人しくしなかった、ということなのかもしれません。
「倭大国魂神」も同様で、「大物主大神」とは異なるにしろ大和地方の強力な神で、その奉斎氏族の力を抑えることができなかった。
しかたないので「長尾市」に祀らせると、奉斎氏族も納得したので少し大人しくなった、と。
そんな「長尾市」が、「当麻蹶速」に対して「野見宿禰」を連れてきて戦わせたのは、この「当麻蹶速」が暴れん坊だったというだけでなく、大王勢力に反旗を翻そうとしたからなのかもしれません。
それで、「出雲」から「野見宿禰」を呼んできた。
この構図も何かに似ているな、と思ったんですが、「八岐大蛇」退治ではないか、と。
いえ、「当麻蹶速」が蛇だったかどうかはわかりませんが、大和の氏族であれば、「大物主大神」をはじめとした蛇神を信仰していたとしても不思議ではありません。
この蛇神奉斎氏族の勇者を、どこからともなくやってきた勇者が討つ、という構図がまさに、「素戔嗚尊」の「八岐大蛇」退治のようではないか、と(というよりは、日本神話に限らず繰り返し持ち出されるモチーフなんですけれども)。
そして「野見宿禰」は、霊剣は手に入れませんでしたが、「鍛地」すなわち鍛冶氏族を取り込むことになった。
となると、「八岐大蛇」は、
ですから、蛇神であり、「雨師」「風伯」を引き連れた「蚩尤」でもあった、ということになるのでしょうか。
うーん……。
「穴師坐兵主神社」、そして「穴師大兵主神社」が二柱一組のように祀られているらしく見えるのは、他の「兵主神社」にもあるようで、しかしどちらも「兵主神」なので何やらよくわからず、結局別々の神なのだろう、と考えられ「素戔嗚尊」と「御食津神」ではないか、とも言われている、と。
そうすると、「巻向坐若御魂神社」はなんなのか……。
とりあえず「巻向坐若御魂神社」のことは忘れまして(をい)、「兵主神社」の方だけ。
大和土着の信仰対象で、金属精錬に関係のある神で、風の神で、蛇の神でもあった、となってくると、「大物主大神」と同じで何のことやらさっぱりわからなくなりますが。
片方は「大兵主神」なのだから、この組み合わせは、「大国主神」と「少彦名神」でいいんじゃないでしょうか。
あるいは、同じ神を祀っていたけど氏族が違っていたので、区別をするために「大」をつけた、とか(そんな馬鹿な?)。
「穴師坐兵主神」と「穴師大兵主神」のどちらかは、「少彦名神」でいいと思うんですよね。
だって確か、「蚩尤」って「炎帝」つまり「神農」の子孫ですよね?
「神農」といえば「医祖」でしょう?
『日本書紀』では、「大国主神」と「少彦名神」で、まじないや「病を療むる方」を定めた、とありますから、どちらも「神農」の子孫の資格は十分ではないでしょうか。
なんかもう、いろんな属性が絡み合っているので解読しづらいですが、そんな適当な解釈もあってもいいのではないかな、と思います。
で、もし「当麻蹶速」が「兵主神」=「大国主神」・「少彦名神」を祀っていたのであれば、出雲臣の「野見宿禰」が連れてこられた理由がわかります(本当に「野見宿禰」が出雲臣だったとしたら、ですが)。
何しろ出雲臣、「天穂日命」を祖先に持ち、その役割は「大己貴神」を祀り続けることです。
祀り続ける、ということは、「ずっと死んでいてください」というのと同じ。
「大己貴神」を殺し続ける権能を与えられた出雲臣です、「兵主神」の退治に一役買ったとしてもおかしなことはありません。
その結果、「兵主神」、あるいはそれは「倭大国魂神」なのかもしれませんが、「倭直」に祀られ続けることになる。
「天穂日命」の裔である出雲臣は、畿内の出身だった可能性がありますから、土着の氏族の中で、いち早く大王家についたもの達だったのかもしれないですね。
「出雲」と同じ構図が、ここにできあがる、というわけです。
となると……あれ、「素戔嗚尊」が「大国主神」を滅ぼした、ってことになるような……ああ、このあたりは忘れましょう。
『出雲国風土記』に「八岐大蛇」退治の話がないのはなぜか、という問いに対する明確な答えは、
↑で考察されていますので、ご参考に。
そろそろ終わりでいいかな……あ、時代が前後しまくりますが、『日本書紀』応神紀十四年条に、
「是年、弓月君(ゆつきのきみ)、百済より来帰り。因りて奏して曰さく、「臣、己が国の人夫百二十県を領ゐて帰化く。然れども新羅人の拒くに因りて、皆加羅国に留れり」とまうす。爰に葛城襲津彦を遣して、弓月の人夫をからに召す。然れども三年経るまでに、襲津彦来ず。」(岩波書店『日本書紀 2』p204)
『古事記』応神記に、
「また秦造の祖、漢直の祖、また酒を醸むこと知れる人、名は仁番(にほ)、亦の名は須須許理等、参渡り来つ。」(岩波書店『古事記』p145)
とあります。
いわゆる秦氏の来朝なのですが、その祖先が「弓月君」だったと言われているのですね。
で、「穴師山」の隣の「弓月嵩」が、秦氏に関係しているのではないか、という人もいるようです。
さて、どうなんでしょうか。
そういえば、
「葛城襲津彦(かつらきのそつひこ)」
↑この人、
↑この人と似てませんか?
古代にはよくあった名前なんでしょうか。
え〜……あ、あとですね、もし「倭大国魂神」が「兵主神」で、本当に「蚩尤」だとしたらですね、「天照大神」と同じ宮中に祀られることを拒んだ理由があります。
↑の「大荒北経」に、
「人あり、青衣をきている。名は黄帝の女、■(※女偏に跋の右側、以下「魃」の字を用いる)という。蚩尤は兵器をつくって黄帝を伐つ。そこで黄帝は応竜をしてこれを冀州(国のまなか)の野に攻めさせた。応竜は水をたくわえ、蚩尤は風伯と雨師をまねき、暴風雨をほしいままにした。そこで黄帝は天女の魃をあまくだした。雨はやんでついに蚩尤を殺した。ところが魃は、天にのぼりかえることができなかったので、(魃の)居るところには雨がふらない。」(p171)
という描写があります。
「黄帝」の娘である「魃」は旱(ひでり)の女神、要するに太陽神のマイナス部分であるといえます。
その旱パワーで「蚩尤」を殺しているのです。
そりゃ、同じ屋根の下にはいたくないでしょう。
あ、いえ、「天照大神」が旱の女神、だというわけではないのですが、太陽神ではありますからねぇ……。
で、「穴師坐兵主神社」に「鏡」が祀られているのは、封印のため、でしょうか……。
こんなものか……ああ、そうそう、「炎帝・神農氏」は牛頭人身で、「蚩尤」もまたそれに近いものだと考えられています。
そこから、「蚩尤」→「素戔嗚尊」→「牛頭天王」と移っていくような話もあります(「牛頭天王」の神使が「河童」だ、という話もあるようです)。
以前引用した、
○こちら===>>>
↑なんですが、そこ4コマ、「蚩尤」に関する記事に、
「太原村落間祭蚩尤神不要牛(※午?)頭今冀州有蚩尤川即涿鹿之野漢武時太原有蚩尤神晝見亀足蛇首首(※首の「目」が「月」になった字)疫其■(※人偏に「芬」)遂立祠」
↑というのがあります。
大雑把に訳すと、
「太原村に蚩尤神が祭られている。牛頭は用いない。今冀州に蚩尤川があるが、これが涿鹿の野(※「黄帝」と「蚩尤」が戦ったところ)である。漢の武帝の時、太原に蚩尤神あり、昼に見ると亀の足に蛇の首を持ち、疫病を流行らせたので、ついに祠を立てた」
くらいの意味でしょうか。
いくらか時代のズレはあるでしょうが、「蚩尤」が決して牛頭人身の神というだけではなかった、という認識もあったようです。
むしろ「蛇」っぽい、と。
旱を恐れるのもわかりますよね、なんとなく。
ていうか、河童っぽいですね……。
信じるか信じないかは……(ぐふっ)。
と、とりあえず、だらだらと続けてきましたが、今の知識ではこの辺りが妄想の打ち止めです……。
次は、いよいよ「石上神宮」の予定〜。