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神社仏閣ラブ(弛め)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々々々々)

さて。

 

兵主神で読み解く日本の古代史 スサノヲ朱蒙─その正体は蚩尤

兵主神で読み解く日本の古代史 スサノヲ朱蒙─その正体は蚩尤

 

 

↑こちらで紹介されている、「蚩尤=兵主神朱蒙スサノオ」というラインについて書いてみたいと思います。

自分でも忘れがちですが、「穴師坐兵主神社」「相撲神社」についての記事なもので。

(※以下、『兵主神で読み解く日本の古代史』を「本書」とする。また、「本書」からの引用は■色で行う)

 

○「素戔嗚尊」の神剣取得について

 

記紀神話で語られる、「素戔嗚尊」が「八岐大蛇」を退治して得た「天叢雲剣」ですが、

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

↑では、

 

「期に至りて果して大蛇有り。頭尾各八岐(やまた)有り。眼は赤酸醤(あかかがち)の如し。松柏(まつかへ)、背上に生ひて、八丘八谷の間に蔓延れり。

 

という「八岐大蛇」を倒すと、

 

「尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。故、其の尾を割裂きて視せば、中に一の剣有り。此所謂草薙剣なり。 (略) 一書に云はく、本の名は天叢雲剣。蓋し大蛇居る上に、常に雲気有り。故以て名くるか。

 

という具合に「天叢雲剣」が出現したとあります。

この「雲気云々」という表記は、『史記』高祖本紀の「李所居之上、常有雲気」から引いていると考えられます(「李」は漢の「高祖(劉邦)」のことで、「高祖の上には常に雲気が有る」という意味です……「高祖」は龍の子なんて言われていたりしますので)。

 

同じ伝承が一書(第二)では、

 

素戔嗚尊、剣を抜きて斬りたまふ。尾を斬る時に至りて、剣の刃少しき欠けたり。割きて視せば、剣、尾の中に在り。是を草薙剣と号く。此は今、尾張国の吾湯市村に在す。即ち熱田の祝部の掌りまつる神是なり。其の蛇を断りし剣をば、号けて蛇の麁正(をろちのあらまさ)を曰ふ。此は今石上に在す。

 

とあり、一書(第三)では、

 

「「……大蛇、頭毎に各石松有り。両の脇に山有り……」(略)素戔嗚尊、乃ち蛇の韓鋤(をろちのからさひ)の剣を以て、頭を斬り腹を斬る。其の尾を斬りたまふ時に、剣の刃、少しき欠けたり。故、尾を裂きて看せば、即ち別に一の剣有り。名けて草薙剣と為ふ。此の剣は昔素戔嗚尊の許に在り。今は尾張国に在り。其の素戔嗚尊の、蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部の許に在り。

 

とあり、一書(第四)では、

 

「……素戔嗚尊、其の子の五十猛神を帥ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨(そしもり)の処に居します。乃ち興言して曰はく、「此の地は吾居らまく欲せじ」とのたまひて、遂に埴土を以て舟に作りて、乗りて東に渡りて、出雲国の簸の川上に所在る、鳥上の峯に到る。時に彼処に人を呑む大蛇有り。素戔嗚尊、乃ち天蠅斫剣(あまのははきりのつるぎ)を以て、彼の大蛇を斬りたまふ。時に、蛇の尾を斬りて刃欠けぬ。即ち擘きて視せば、尾の中に一の神しき剣有り。(略)此今、所謂草薙剣なり。初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。然れども韓地に殖ゑずして、尽に持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に、播殖して青山に成さずといふこと莫し。所以に、五十猛命を称けて、有功(いさをし)の神とす。即ち紀伊国に所坐す大神是なり。」

 

とあり、一書(第五)では、

 

(※前段で「素戔嗚尊」による大八洲への植林神話あり)……時に、素戔嗚尊の子を、号けて五十猛命と曰す。(略)然して後に、素戔嗚尊、熊成峯に居しまして、遂に根国に入りましき。」

 

とあります。

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 

↑では、

 

(※「神やらい」の後、出雲國の肥の河上、鳥髪の地に降り立った「素戔嗚尊」はそこで国つ神の「手名椎」「足名椎」と出会い、大蛇退治に向かいます)……「その目は赤かがちの如くして、身一つに八頭八尾あり。またその身に蘿(こけ)と檜榲(ひすぎ)と生ひ、その長は谿八谷峡八尾に度りて、その腹を見れば、悉に血爛れつ。」とまをしき。(略)ここに速須佐之男命、その御佩せる十拳劔を抜きて、その蛇を切り散りたまひしかば、肥河血に變りて流れき。故、その中の尾を切りたまひし時、御刀の刃毀けき。ここに怪しと思ほして、御刀の前もちて刺し割きて見たまへば、都牟刈(つむがり)の大刀ありき。故、この大刀を取りて、異しき物と思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。こは草薙の大刀なり。」

 

とあります。

「八岐大蛇」の描写に

「松柏(まつかへ)、背上に生ひて、八丘八谷の間に蔓延れり。」

とあったり、

「大蛇、頭毎に各石松有り」

とあったりするのを「本書」では、「朱蒙」の子である「類利」という人の「石上松下の宝剣」伝説に似ている、と指摘しています(出典は『三国史記』)。

 

「……初め朱蒙夫余に在りて、礼氏の娘を娶り娠むあり。朱蒙の帰る後すなわち生む。これを類利となす。幼年のとき路上に遊び、雀をうったが誤まって水を汲む婦人のかめを割る。婦人罵りていわく、『この児に父なし。ゆえに頑なることこのごとし』。類利は恥じて、家に帰り母に、『我が父は何者なのか。今どこにいるのか。』と聞いた。母は、『汝の父は非常の人なり。国に容れられず南の地に逃れて、開国して王となる。帰る時に我に、”汝がもし男子を生んだら告げよ。我に遺物あり。七稜の石の上、松の下に蔵したから、これを探し得るものが即ち我が子なり”といいました』といった。類利はこれを聞いて、山谷へ行って遺物を探したが、得ることができなかった。ある朝、堂上にいて柱と礎石の間に声がするのを聞き、行って見ると礎石が七稜であった。すぐ柱の下を探し、断剣一段を得た。これをもって屋智、句鄒、都祖らと三人と卒本(※「朱蒙」が「高句麗」を建てた地)に行き、父王に会って断剣を奉納した。王はもっていた剣とあわせ、一剣となるとこれを喜び、類利を立てて太子とした。ここに至って王位を継承した。」

 

『旧三国史逸文の記すところでは、母から「汝父是天帝孫、河伯甥」なること、および父の遺品の所在について、「汝父去時有遺言、吾有蔵物七嶺七谷石上之松、能得此者、乃我之子也」という遺言を教えられ、七嶺七谷石上の松下という謎めいた文言を解いて、宝剣の一片を探しだしたという。この後に類利はついに父の後継者となり、高句麗の第二代王に即位する。

(「本書」p21)

 

「七稜の石の上、松の下に蔵した」「七嶺七谷石上之松」から「剣(の欠片)」が出てきた、というのが、「八岐大蛇」から「草薙剣」が出てきたことに通じるのではないか、というのですね。

「稜」は「かど」だったり「ブナの古名」だったりするようですが、ここでは「七角」と考えるべきでしょうか。

 

○こちら参照===>>>

稜(ソバ)とは - コトバンク

 

ま、似ているといえば似ていますか。

 

それから、「素戔嗚尊」が「八岐大蛇」を斬った剣について、『日本書紀』には、「此は今石上に在す。」とあって奈良県石上神宮にある「布都斯魂(フツシミタマ)」だったり、「蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部の許に在り。」とあって岡山県「石上布都之魂神社」にある剣ではないか、としています。

この「フツノミタマ」「フツシミタマ」から、「素戔嗚尊」の「威霊を「フト、フツ」と尊称したのではないか」、と「本書」では言っています(p28)。

「フツノミタマ」は、国譲り神話に登場する「経津主神(ふつぬしのかみ)」(「香取神宮主祭神」)とも同一と考えられ、

 

「この韴霊の剣は、現在、天理市石上神宮に奉仕されている。古くは御殿なくして拝殿の後ろ四方に井垣をして、その中に松樹雑木茂っているのを禁足地とし、この中央深く磐座を設けて韴霊が埋斎されていたという。松樹雑木の生い茂る土中の磐座の上に神剣が奉斎される形式は、そのまま朱蒙の石上松下という隠語的遺言を連想させるものです。」(p29)

 

とあります。

それから、「八岐大蛇」の体内から出現した「草薙剣」、「天叢雲剣」ですが、『古事記』では、「都牟刈(つむがり)の大刀」としています。

 

「刈(カル)は朝鮮語の刀kalであり、また都牟とは高句麗始祖の名として伝わる東明、朱蒙、鄒牟、都慕と同じです。そうすると、都牟刈の大刀の語義は、朱蒙の刀剣というに他ならない。スサノヲが布都御魂の霊剣をもって、大蛇を退治し、その胎中から都牟刈の大刀を得るという伝説要素は、類利が石上松下から朱蒙の断剣を得た神話を彷彿とさせる。」(p29)

 

「都牟刈(つむがり)の大刀」イコール朱蒙の刀剣」という 説です。

英雄が龍(蛇)を殺す、というある意味で普遍的な伝説の、半島や日本での表出の一つをここに見るお、ということですね。

一つツッコミを入れるとすれば、「朱蒙」の剣は王統の象徴として受け継がれているはずですが、「素戔嗚尊」の話では受け継がれるのは「素戔嗚尊」の佩剣ではなく、発見される別の剣です。

「フツ」「フト」の神霊としての剣は、神としては祀られていますが、後の「三種の神器」には入れてもらえなかったようです。

伝説は変化していくものですから、大陸→半島→日本と伝わってくるうちに変化した、と考えれば、それほど矛盾はないでしょうか(?)。

 

○「朱蒙」神話との関係

 

さて、前回の記事でも半島の始祖神話について書きましたが、

 

○こちら===>>>

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々々々) - べにーのGinger Booker Club

 

↑、あらためて「本書」で紹介されている「朱蒙」の話を。

 

「夫余王解夫婁(カブロ)はある日、鯤淵のほとりで大石の下から金蛙をみいだし、これを太子とした。この国の宰相、阿蘭弗の夢に日輪が現われ、そのお告げで都を迦葉原に移し東夫余と号した。

天帝が太子(天王、天王郎)を夫余の旧都に降遊させた。太子は解慕漱(カムス)と号し、五竜車に乗り、白鵠に騎して熊心山に降った。その様子は、首に鳥羽の冠をいただき、腰には竜光の剣を帯び、朝には事を聞き、暮には天に昇った。天王郎は銅室を設け宴をはって、河伯の三人の娘を招き、長女の柳花を娶った。天王郎と柳花は河伯の国にいたり、妖術を競って勝利して娘と成婚の儀を行った。この後、天王郎は一人で昇天してしまい、怒った河伯は柳花の口をしばって優渤水に流してしまう。

東夫余王金蛙は、水中から引き上げられた柳花が天帝の子の妃であることを知って、別宮においた。その女は日影に追われて懐妊して朱蒙を生んだ。最初、五升もある大卵で生まれたため不祥として捨てられたが、鳥獣が守ったので母に返した。その卵から生れたのが朱蒙である。朱蒙とは善射を意味している。

成長した朱蒙は技量が抜きん出ていたため、金蛙王と七人の王子に嫉まれ、難を避けて南に逃れる。河を渡って卒本に到り、高句麗建国を成しとげる。」(本書p32)

 

残念ながら私には半島の言葉がわかりませんので、実際にどのように発音されていたのかを知る術はありません(そんなこといったら、上古の日本語だってわかりません)。

ともかく、「解慕漱」は「カムス」と読み、「解夫婁」は「カブロ」と読むようです。

夫余王である「解夫婁」の「解」は姓で「大」という意味で、「夫婁」は夫余族の崇拝した神霊でその語義は「火pur」、「赫purk」、「明park」ではないか、とのことです。

「解夫婁(カブロ)」なので、出雲国風土記』にみえる熊野加武呂乃命に比定され、『出雲国造神賀詞』では「「伊邪奈岐の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」とあって、八雲村の熊野大社祭神、スサノヲの別名とされている。」そうです。

「解慕漱」は天帝の太子で、それが「腰には竜光の剣を帯び」ていることに象徴されるそうです。

檀君神話」に出てくる帝釈天の子「桓雄(カムス)」の写音で、両者は同一だと指摘されているそうです(『韓国古代史』李丙燾による)。

「解慕漱」の「解」が夫余の王族の姓なら、「墓漱」が名前で、これが「フト」「フツ」と音が似ていると。

素戔嗚尊」と「解慕漱」の神話の共通要素として、

 

・妻を閉じ込めた

 八雲立つ妻籠みの宮」(「素戔嗚尊」)

 「銅室俄に成り、空中に壮麗たり」(「解慕漱」)

・妻と櫛の関係

 八岐大蛇を退治する際、奇稲田姫を「湯津爪櫛にとりなして、御髻に挿し」(「素戔嗚尊」)

 天王郎が河伯の宮で柳花と成婚した後、「取女黄金釵刺革輿、従孔独出升天(※女の黄金釵を取り革輿に刺し、孔より独出て天に昇る」というような意味)」とある(「解墓漱」)

・婚姻後の不在

 「然して後に、素戔嗚尊、熊成峯に居しまして、遂に根国に入りましき」(「素戔嗚尊」)

 成婚した後、「取女黄金釵刺革輿、従孔独出升天」とある(「解墓漱」)

 

といったものが見られるそうです(あと、「素戔嗚尊」が居た「熊成峯」と天王郎が降臨した「熊心山」、河伯の女が遊娯していた「熊心淵」にも関係があるのではないか、と/本書p33)。

 

○「蚩尤(兵主)」、「朱蒙」、「素戔嗚尊

 

さてさて、それでは「蚩尤」の話です。

 

「さて高句麗始祖の東明、朱蒙、鄒牟なる神人は、葛盧山の金で初めて兵器を鋳たと伝説される古代中国の鋳物神蚩尤のことです。(略)

貝塚茂樹氏によると、蚩尤は風を支配し、ふいご技術によって青銅兵器製造を行った部族の代表者であり、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれている人物であるといっている。特に彼は、山東地方の斉国では、天王・地主につぎ、八神の一として兵主と呼ばれて尊重されていたとする(『中国神話の起源』)。(略)

ところで言語学者の川崎真治氏によると、中国神話の鋳物神、蚩尤は、青銅器文明の発祥地メソポタミア南部において、人類最古のウル・シュタール語で鋳物師を指すシムグsimug'、シウsiu略してシsiを語源としている。鋳物師の人類最古の呼称であるウル・シュメール語のシムグが東に伝播して、古代中国の鋳siu蚩尤となった。そしてさらに東へ進んだ日本では、次のように変化している。

simug>imudji>imodji イモジ 鋳物時

simug>imuk>ibuku イブク 伊吹

ibuku + be>ifukube イフクベ 伊福部

ifukube>ifokibe イホキベ 五百木部

ibuku>imuku>muku ムク 椋

最後の椋は和銅の由来で知られる秩父の椋神社のムクで、秩父には同名の椋神社が六社もあって銅の神を祀っている。この椋ムクについて、古文献にはイムクと記録されているといいます。また伊福部、五百木部は古代日本の鋳物師です。弥生時代からはじまった日本青銅器文化の言葉ーー鋳物師、伊福部は、ウル・シュメール語のシムグを語源としていた。紀元前三千年に始まったメソポタミア青銅器文化の、鋳物師のシムグは、蚩尤(中国)。朱蒙(朝鮮)、そして日本にまで伝播していたのです。」(本書p39)

 

というわけで、とりあえずこのあたりで。

大陸から半島を通って(あるいは通らずに)いろいろな文物が渡ってきていますし、シルクロードの果てからやってきたものが正倉院に残っていたりしますので、伝説が渡ってきても不思議なことはありません。

そういう意味で、「蚩尤」と「素戔嗚尊」の間に「朱蒙」がいる、というのは別段否定するものでもないのかもしれません(百済高句麗から渡ってきた人が多かったことは事実でしょう)。

ここから先に深入りすると、「天日槍」とかいろいろ、やっかいな人たちが出てくるんですよね……そのあたりの神社はまだ行っていませんし、本が何冊も書けるような内容なので、捨てておきます。

参考になった本、ということで紹介させていただきました。

 

 

ところで、

 

「……初め朱蒙夫余に在りて、礼氏の娘を娶り娠むあり。朱蒙の帰る後すなわち生む。これを類利となす。幼年のとき路上に遊び、雀をうったが誤まって水を汲む婦人のかめを割る。婦人罵りていわく、『この児に父なし。ゆえに頑なることこのごとし』。類利は恥じて、家に帰り母に、『我が父は何者なのか。今どこにいるのか。』と聞いた。母は、『汝の父は非常の人なり。国に容れられず南の地に逃れて、開国して王となる。帰る時に我に、”汝がもし男子を生んだら告げよ。我に遺物あり。七稜の石の上、松の下に蔵したから、これを探し得るものが即ち我が子なり”といいました』といった。類利はこれを聞いて、山谷へ行って遺物を探したが、得ることができなかった。ある朝、堂上にいて柱と礎石の間に声がするのを聞き、行って見ると礎石が七稜であった。すぐ柱の下を探し、断剣一段を得た。これをもって屋智、句鄒、都祖らと三人と卒本(※「朱蒙」が「高句麗」を建てた地)に行き、父王に会って断剣を奉納した。王はもっていた剣とあわせ、一剣となるとこれを喜び、類利を立てて太子とした。ここに至って王位を継承した。」

 

『旧三国史逸文の記すところでは、母から「汝父是天帝孫、河伯甥」なること、および父の遺品の所在について、「汝父去時有遺言、吾有蔵物七嶺七谷石上之松、能得此者、乃我之子也」という遺言を教えられ、七嶺七谷石上の松下という謎めいた文言を解いて、宝剣の一片を探しだしたという。この後に類利はついに父の後継者となり、高句麗の第二代王に即位する。

(「本書」p21)

 

↑この部分、本書の筆者が「朱蒙」の王位継承が、「素戔嗚尊」による「八岐大蛇」退治の神話の源泉である、と主張している部分なんですが。

 

倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)

倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)

 

 

↑に収録されている『三国志』烏丸鮮卑東夷伝高句麗条の中にですね、

 

「其の俗、淫なり。男女已に嫁娶せば、便ち稍く送終の衣を作る。厚く葬り、金銀財幣、送死に尽くす。石を積みて封と為し、松柏を列べて種う。」(p48)

 

とあるんですね。

「石を積みて封と為し、松柏を列べて種う。」……これ、お墓のことですよね?

初代「朱蒙」の時代はどうだったか知りませんが、「高句麗」の風習として、こういうお墓を作っていた蓋然性は高いです。

ということは、単にお墓に遺物を一緒に収めた、っていうだけの話になりませんか?

朱蒙」は「扶余」国から抜け出して、「高句麗」を作っていますので、「扶余」国にあるとしたらそれは「空っぽのお墓」です。

「死んだことにして逃げ出した」、ということではないでしょうか?

ここから妄想して、私だったら、「八岐大蛇」の描写に「松柏(まつかへ)、背上に生ひて、八丘八谷の間に蔓延れり。」とあったり、「大蛇、頭毎に各石松有り」するのを、

 

「「八岐大蛇」とはつまり「巨大古墳」のことで、そこに収められていた宝の剣を「素戔嗚尊」が持ち出したのだ」

 

という説をぶち上げますけれどね。

時代はむちゃくちゃですけれど、ちょっと面白そうだなこれ……。

 

 

そろそろ、そろそろ終わりにしたいと思いますので……。