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神社仏閣ラブ(弛め)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々)

さてみなさん。

 

あ、いえ特に意味はありません。

 

野見宿禰」の末裔の土師氏ですが、

 

続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

 

 

↑の光仁天皇天応元年六月の条にこんな記事があります(もともと現代語訳です)。

 

遠江介・従五位下の土師宿古人と散位・外従五位下の土師宿禰道長ら十五人が、次のように言上した。

 

土師の祖先は天穂日命※略)より出ています。その十四世の孫の名を野見宿禰※略)といいます。昔、纒向の珠城宮にて天下を治められた垂仁天皇の時代には、古い風習がなお存在していて、葬儀の仕方にきまりがありませんでした。凶事があるたびに、殉死者を埋葬するのが多くの例でした。そんな状態で皇后(日葉酢媛命)が薨じて殯宮(棺を葬儀まで安置する仮御殿)が庭にありました時に、垂仁帝が群臣を顧みて「妃の葬儀はどのようにしたらよいであろうか」と尋ねられました。群臣たちは答えて「ひとえに倭彦王子(垂仁天皇の同母弟)の旧例(近親の者を生き埋めにした)にしたがわれたらよろしいでしょう」と申し上げていました。この時に私どもの遠い先祖である野見宿禰が進み出て、「わたしが愚考致しますに、殉死者を埋葬する儀礼はとくに仁愛ある政治に背くものであります。国に利益をもたらし、人に利益をもたらす道ではありません」と申しました。そして土部(はじべ)三百余人(垂仁紀には「一百人」)を率いて、自ら指揮をとって、埴土(粘土)を取り、様々な物の像を作り、進上致しました。垂仁帝はご覧になって大そう喜ばれ、殉死する人と替えられました。名付けて「埴輪」と申します。いわゆる立物とはこれであります。このことは往帝(垂仁帝)の仁徳と先臣(野見宿禰)の残した仁愛の心とが後世に寛大さを示したもので、民はこれを頼りとしております。

そこで、祖先がなしてきたことを顧みますと、吉事と凶事が相半ばしていて、天皇の喪礼の時には葬儀を掌り、祭りの日には祭事に与っております。このように奉仕してきましたことは、まことに世間の習慣にも合致しておりました。ところが今はそうではなく、もっぱら葬儀のみに与っております。先祖の職掌を深く考慮してみますに、本意はここにはありません。そこで居住地の地名にちなんで、土師を改め菅原の姓にしていただきますようお願い致します、と。

 

天皇は勅して、願い通りにこれを許可した。」

 

また、桓武天皇延暦元年五月には、

 

「少内記・正八位上の土師宿禰安人らが次のように言上した。

 

「私どもの遠い祖先である野見宿禰は、土で物の形を作り、それを殉死の人に代えて、めぐみを後世に伝え、民はこの恩恵を蒙っています。しかるに、その後子孫は、ややもすると凶事とされる葬儀のみに携わりがちです。先祖の功績をたずねて思いますに、これは本意ではありません。それで、土師宿禰古人らは前年(天応元年六月二十五日)居住地の名に因んで、氏姓を『菅原』と改めました。ところが当時、安人は遠国に任ぜられていて、その例に与り及びませんでした。どうか、土師の字を改めて秋篠(添上郡秋篠郷に因む)とすることをお願い申し上げます」と。

天皇は勅してこれを許可し、安人の兄弟男女六人に秋篠の姓を賜わった。」

 

とあります。

 光仁天皇天応元年条のほうの、

 

「昔、纒向の珠城宮にて天下を治められた垂仁天皇の時代には、古い風習がなお存在していて、葬儀の仕方にきまりがありませんでした。凶事があるたびに、殉死者を埋葬するのが多くの例でした。そんな状態で皇后(日葉酢媛命)が薨じて殯宮(棺を葬儀まで安置する仮御殿)が庭にありました時に、垂仁帝が群臣を顧みて「妃の葬儀はどのようにしたらよいであろうか」と尋ねられました。群臣たちは答えて「ひとえに倭彦王子(垂仁天皇の同母弟)の旧例(近親の者を生き埋めにした)にしたがわれたらよろしいでしょう」と申し上げていました。この時に私どもの遠い先祖である野見宿禰が進み出て、「わたしが愚考致しますに、殉死者を埋葬する儀礼はとくに仁愛ある政治に背くものであります。国に利益をもたらし、人に利益をもたらす道ではありません」と申しました。 」

 

という記述ですが、

 

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

 

 

によれば、垂仁天皇二十八年条の「倭彦命」の葬送の場面で、

 

「是に、近習者を集へて、悉く生きながらにして陵の域に埋み立つ。(略)天皇、此の泣ち吟ふ声を聞しめして、心に悲傷なりと有す。群卿に詔して曰はく、「夫れ生に愛みし所を以て、亡者に殉はしむるは、是甚だ傷なり。其れ古の風と雖も、良からずは何ぞ従はむ。今より以後、議りて殉はしむることを止めよ」とのたまふ。」

 

続いて三十二年条、「日葉酢媛命」の葬送の場面で、

 

天皇、群卿に詔して曰はく、「死に従ふ道、前に可からずといふことを知れり。今此の行の葬に、奈之為何む」とのたまふ。是に、野見宿禰、進みて曰さく、「夫れ君王の陵墓に、生人を埋み立つるは、是不良し。豈後葉に伝ふること得む。願はくは今便事を議りて奏さむ」とまうす。則ち使者を遣して、出雲国の土師壱佰人を喚し上げて、自ら土部等を領ひて、埴を取りて人・馬及び種種の物の形を造作りて、天皇に献りて曰さく、「今より以後、是の土物を以て生人に更易へて、陵墓に樹てて、後葉の法則とせむ」とまうす。」

 

とあります。

 『続日本紀』の言い方では、群臣達は殉死を、つまり旧弊を進めていますが、「野見宿禰」が殉死をやめるように進言した、という感じになっています。

日本書紀』のほうでは、殉死をやめろといったのは「垂仁天皇」ご自身です。

さて、どちらのほうが真相に近いのか……。

ともかく土師氏は、 

 

天皇の喪礼の時には葬儀を掌り、祭りの日には祭事に与っております。このように奉仕してきましたことは、まことに世間の習慣にも合致しておりました。ところが今はそうではなく、もっぱら葬儀のみに与っております。先祖の職掌を深く考慮してみますに、本意はここにはありません。そこで居住地の地名にちなんで、土師を改め菅原の姓にしていただきますようお願い致します」

 

かつては祭礼にも携わっていたのに、もっぱら今では葬礼のみが仕事となっているので、改姓してほしい、と主張して認められます。

でも、『日本書紀垂仁天皇三十二年条の続きには、

 

「是、土師連等、天皇の喪葬(みはぶり)を主る縁なり。」

 

とあり、『日本書紀」が正しければ、ほとんど土師氏の言いがかりみたいなものです。

が、『日本書紀」が書かれた時点ですでに大型古墳は作られなくなっており、『続日本紀』の桓武天皇の時代ともなれば古墳時代なんて遥かな昔です。

古墳時代に、土師氏の埴輪作成技術、というよりは、築墓技術はもてはやされたでしょう。

 

風土記 (平凡社ライブラリー)

風土記 (平凡社ライブラリー)

 

 

↑『播磨国風土記』の「揖保の郡」の記事には、

 

「立野

立野とよぶわけは、昔、土師弩美(はにしののみの)宿禰が[大和と出雲を往き来して]出雲の国に通うとき日下部の野に宿って、そこで病気にかかって死んだ。その時出雲の国の人がやって来て、大勢の人を立ちならばせて[手から手に]運び伝え、[揖保]川の礫を上げて墓の山を作った。だから立野とよぶ。すなわちその墓屋を名づけて出雲の墓屋といっている。」

 

とあって、これが築墓技術の巧みだったことを語っているのではないかと言われています。

また、「祭礼」と「葬礼」が表裏一体だった例として、『三国志』の「魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条」、つまり『魏志倭人伝』には、

 

「始(いま)し死したらば、喪(なきがら)を停むること十余日、[その]時に当たりては肉を食わず、喪主は哭泣すれど、他人は就きて歌舞飲食す。」

 

とあります。

 (※以下より引用)

倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)

倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)

 

 

これは貴人の話ではありませんが、主人が泣いているのに歌舞飲食しているのですから、ある意味で「葬礼」と「祭礼」の同一性を示しているのではないでしょうか(ちなみにこれ、「天岩戸神話」にもよく似ています)

時代が下り、仏教伝来、死穢の思想、こういった文化的なものが、本来土師氏の持っていた「神聖さ」を、ただ「汚れたもの」として差別していったのでしょう。

すると、土師氏としては、

 

「しかるに、その後子孫は、ややもすると凶事とされる葬儀のみに携わりがちです。先祖の功績をたずねて思いますに、これは本意ではありません。」

 

と語るように、そういったものを自分たちに押し付けられるのはたまったものではない、と考えても不思議ではありません。

殉死をやめさせたかどうかはともかく、古来より「葬礼」と「祭礼」を司る誇り高き自らの姓がレッテルでしかないのだから、別のものに変えてほしい 、というのは自然なことなのかもしれません。

(ざっと読んでみたんですが、『続日本紀』、姓を変えてほしい、と願い出る記事が結構多くて、「文武天皇」〜「桓武天皇」の時代が、文化的な転換期だったことをうかがわせます)

そうして改姓したのちの姓が、「菅原」だったり「秋篠」だったりします。

そう、ここでようやく、菅原道真とつながってくるんですね。

 

といったところで、また続きます〜。