べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「椙森神社」(東京都中央区)

7/29。

「水天宮」のあとは、ふらふらしていて発見した、椙森神社にご参拝。

 

◯こちら===>>>

www.tokyo-jinjacho.or.jp

 

↑東京神社庁さんのhpより。

 

 

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「椙森(すぎのもり)神社

(略)

椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願した所といわれています。

室町中期には江戸城太田道灌が雨乞い祈願のために山城国京都府伏見稲荷の伍社を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。

しばしば江戸城下等の火災で寺社が消失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。

明治維新以後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和六年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。

境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正八年に建てられたもの(昭和二十八年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区文化財に登録されています。

(略)」

 

寺社の再建にはお布施が必要で、そのための勧進興行というのが何度も開かれていたようですが、富くじ(宝くじの原型、みたいなもの)が流行したのは、現世利益の末なのでしょうか。

今でも売れてますからね、宝くじ。


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別の小さめ案内板。


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これが鉄筋造りの社殿です。

うむ……思いの外、頑張っている感じがします(?)。


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堂々たる富塚。


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狛犬さん。


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こう、なんというのか……境内が薄い……(そういう表現が適しているのか……)。


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御朱印

うむ……日本橋七福神、はいいのですが、何故「恵比寿」様……元々「伏見稲荷」じゃなかったのか……ああ、東京神社庁のHPを見たら、しっかり御祭神になっていました……いつのことだろう。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻,大日本名所図会刊行会,大正9-11. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻 江戸名所図会. 第1-4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-08-09)

 

『江戸名所図会』を見てみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p87です。

 

「杉森稲荷社新材木町にあり。俗に当社ある故に此所いなり新道と字す。社記に云ふ、此神像は、相馬の将門威を東国に逞しうせし頃、藤原秀郷朝敵誅罰の計策を廻らし、此御神の加護に依て、遂に将門を亡したり。後霊夢を感じ、此地に至り、矯々たる杉の森ある地に崇め祀る。当社是なり。寛正の頃、東国大に旱魃す。太田道灌江戸城にありて、深く是を患とし、此御神に祈るに、其験ありて雨降り、百穀大に登る。依て其頃山城国稲荷山を模して、伍社の御神を勧請なし奉るとなり。毎年四月十六日祭奠、神主小針氏奉祀す。当社始は町屋の後園にありて、参詣の道さへなかりしに、元禄十六年、本多弾正少弼忠晴、寺社の観林たりし時、社へ参詣の道を開き給ふとなり。菊岡沾涼云く、此所は昔杉の木立いと深かりしとなり。又此地の或古老の話に、寛文の頃、此地は小針孫右衛門といへる商戸の地にして、彼宅地にありし稲荷の祠なりしが、其後延宝七年五月二十九日、此辺火災に依て焦土となりし頃、此祠のみ現然と残りければ、諸人皆これを奇とす。吉川氏某深く信仰して、新に蛭子と姫大神とを相殿に祀ると云ふ。又或人云ふ、長谷川町旧名を禰宜町と云ふ。昔当社の巍々たりし時、禰宜の住みし所故にしか号くると、されども此説信じがたし。」

 

「本多忠晴」公は、「本多忠勝」公の曾孫に当たる人物のようです。

「観林」って何かわかりませんが、wikiさんによれば、どうやら寺社奉行を務めていたようなので、そういうことなのでしょう。

火事で焼け残った、ということで水の神様を祀ることはまあわかるのですが、何故「蛭子」様だったのか……火除けといえば愛宕でしょう……何かあるのか、何もないのか……山じゃないのがまずいのか(?)。

『江戸名所図会』には図絵もありまして、かなりの広い境内が描かれています。

その中に、現在の境内地かなと思わせる部分があります。

江戸の古地図と重なってみられるサイトが昔ありましたが(今もあるのかな?)、そういったもので見てみるのも一興かと思います。