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「水天宮」のあとは、ふらふらしていて発見した、「椙森神社」にご参拝。
◯こちら===>>>
↑東京神社庁さんのhpより。

「椙森(すぎのもり)神社
(略)
椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願した所といわれています。
室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
しばしば江戸城下等の火災で寺社が消失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
明治維新以後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和六年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。
境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正八年に建てられたもの(昭和二十八年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
(略)」
寺社の再建にはお布施が必要で、そのための勧進興行というのが何度も開かれていたようですが、富くじ(宝くじの原型、みたいなもの)が流行したのは、現世利益の末なのでしょうか。
今でも売れてますからね、宝くじ。

別の小さめ案内板。

これが鉄筋造りの社殿です。
うむ……思いの外、頑張っている感じがします(?)。

堂々たる富塚。



狛犬さん。


こう、なんというのか……境内が薄い……(そういう表現が適しているのか……)。


御朱印。
うむ……日本橋七福神、はいいのですが、何故「恵比寿」様……元々「伏見稲荷」じゃなかったのか……ああ、東京神社庁のHPを見たら、しっかり御祭神になっていました……いつのことだろう。
さて。
◯こちら===>>>
大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻,大日本名所図会刊行会,大正9-11. 国立国会図書館デジタルコレクション
大日本名所図会 第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻 江戸名所図会. 第1-4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2024-08-09)
『江戸名所図会』を見てみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
p87です。
「杉森稲荷社新材木町にあり。俗に当社ある故に此所いなり新道と字す。社記に云ふ、此神像は、相馬の将門威を東国に逞しうせし頃、藤原秀郷朝敵誅罰の計策を廻らし、此御神の加護に依て、遂に将門を亡したり。後霊夢を感じ、此地に至り、矯々たる杉の森ある地に崇め祀る。当社是なり。寛正の頃、東国大に旱魃す。太田道灌江戸城にありて、深く是を患とし、此御神に祈るに、其験ありて雨降り、百穀大に登る。依て其頃山城国稲荷山を模して、伍社の御神を勧請なし奉るとなり。毎年四月十六日祭奠、神主小針氏奉祀す。当社始は町屋の後園にありて、参詣の道さへなかりしに、元禄十六年、本多弾正少弼忠晴、寺社の観林たりし時、社へ参詣の道を開き給ふとなり。菊岡沾涼云く、此所は昔杉の木立いと深かりしとなり。又此地の或古老の話に、寛文の頃、此地は小針孫右衛門といへる商戸の地にして、彼宅地にありし稲荷の祠なりしが、其後延宝七年五月二十九日、此辺火災に依て焦土となりし頃、此祠のみ現然と残りければ、諸人皆これを奇とす。吉川氏某深く信仰して、新に蛭子と姫大神とを相殿に祀ると云ふ。又或人云ふ、長谷川町旧名を禰宜町と云ふ。昔当社の巍々たりし時、禰宜の住みし所故にしか号くると、されども此説信じがたし。」
「本多忠晴」公は、「本多忠勝」公の曾孫に当たる人物のようです。
「観林」って何かわかりませんが、wikiさんによれば、どうやら寺社奉行を務めていたようなので、そういうことなのでしょう。
火事で焼け残った、ということで水の神様を祀ることはまあわかるのですが、何故「蛭子」様だったのか……火除けといえば愛宕でしょう……何かあるのか、何もないのか……山じゃないのがまずいのか(?)。
『江戸名所図会』には図絵もありまして、かなりの広い境内が描かれています。
その中に、現在の境内地かなと思わせる部分があります。
江戸の古地図と重なってみられるサイトが昔ありましたが(今もあるのかな?)、そういったもので見てみるのも一興かと思います。