べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々)

※風邪気味でぐったりしていました。みなさまもご自愛ください。※

※ミスって編集途中でアップロードしてしまいました。m(_ _)m※ 

 

さてさてさて。

「相撲神社」のほうがほったらかしだったので、そちらに。

ネット上でいろいろと起源を検索してみたのですが、はっきりとしたことが書かれていないのですよね。

神社としては新しそうなのですが、祠くらいは古くからあったのかもしれません。

 

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

↑の垂仁天皇七年条より、

 

「七年の秋七月の己巳の朔乙亥に、左右奏して言さく、「当麻邑に勇み悍き士有り。当麻蹶速(たぎまのくゑはや)と曰ふ。其の為人、力強くして能く角を毀き鉤を申ぶ。恒に衆中に語りて曰はく、『四方に求めむに、豈我が力に比ぶ者有らむや。何して強力者に遇ひて、死生を期はずして、頓に争力せむ』といふ」とまうす。天皇聞しめして、群卿に詔して曰はく、「朕聞けり、当麻蹶速は、天下の力士なりと。若し此に比ふ人有らむや」とのたまふ。一の臣進みて言さく、「臣聞る、出雲国に勇士有り。野見宿禰(のみのすくね)と曰ふ。試に是の人を召して、蹶速に当せむと欲ふ」とまうす。即日に、倭直の祖長尾市を遣して、野見宿禰を喚す。是に、野見宿禰、出雲より至れり。則ち当麻蹶速野見宿禰と■(※手偏に角)力(すまひと)らしむ。二人相対ひて立つ。各足を挙げて相蹶む。則ち当麻蹶速が脇骨を蹶み折く。亦其の腰を蹈み折きて殺しつ。故、当麻蹶速の地を奪りて、悉に野見宿禰に賜ふ。是以其の邑に腰折田有る縁なり。野見宿禰は乃ち留り仕へまつる。」

 

有名な、当麻蹶速」対「野見宿禰」のヴァーリトゥードの場面ですね。

この伝承から、「相撲神社」が「穴師坐兵主神社」境内に祀られているのですが、この中には「どこで相撲を取ったのか」が書かれていません。

垂仁天皇」の宮は「纒向珠城宮」で、この辺りですから、今の「相撲神社」の場所だった可能性もありますが、はっきりとはわかりません。

「カタヤケシ」という地名が、

 

○こちら===>>>

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」〜奈良・京都めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「相撲神社」の案内にも書かれていますが、これもどこなのか。

そもそも「カタヤケシ」の意味も今ひとつわかりません。

さて、「野見宿禰」はこの後、垂仁天皇三十二年に、「日葉酢媛命」(「垂仁天皇」の皇后)がなくなったときに、それまで行われていた殉死の風習をやめて、「埴輪」を作って代わりに埋めるように進言します。

これによって、「野見宿禰」の末裔は「土師氏」を名乗り、天皇家の葬制を司ることになります。

ただよくわからないのは、「故、当麻蹶速の地を奪りて、悉に野見宿禰に賜ふ。」となっているにもかかわらず、「当麻」の地は現在まで名前が残っていることです。

何で「野見」に変わらなかったんでしょうね。

古代氏族には当麻氏がいたようですので、殺された「当麻蹶速」はともかく、その氏族は残された、と。

ということは、「野見宿禰」に与えられたのは支配権だけなのか?

というか、「野見宿禰」、明らかに一人で出雲から来ていますが、「当麻蹶速」が当麻氏の勇士だったら、後で「野見宿禰」は当麻氏に復讐されてもいいような気がします。

そういうことがなかった、ということは、本当に「野見宿禰」が一騎当千の強者だったのか、何か他に事情があったのか。

まあ、「垂仁天皇」に重用されたようですから、そんなことはできなかっただけ、かもしれません。

それにしてもこの場面、ヒーロー物や不良漫画によくある、「威勢のいい強そうなやつが、もっと強そうなやつにやられる前に自分を誇示する」というお決まりのパターンが透けて見えますね。

物語として考えると、神話の時代から有効なプロットだったというべきか、有効なプロットだから現在まで残っているというべきか。

「其の為人、力強くして能く角を毀き鉤を申ぶ。」……「当麻蹶速」の力を誇示した部分は、「角(つの)を毀(か)き鉤(かぎ)を申(の)ぶ(角をこわし、鉤を伸ばす)」ほどの力があったという意味です。

岩波書店日本書紀』の注には、

 

「通証に淮南子を引き「桀之力別觡(※角に各)伸鉤」とある。」

 

とあります。

手元に『淮南子』がないのでわかりませんが、大陸の本に「桀」と出てくれば、おそらく夏王朝の最後の王「桀」のことだと思います。

「桀の力は角を別け鉤を伸ばす」という描写から、「当麻蹶速」のことを示しているとすると、「桀」がそうであったように「当麻蹶速」も「暴君」だったのかもしれません。

実際に「暴君」だったかどうかはともかく(暴れん坊、くらいの意味かもしれないです)、そういう人間だったので、正義のヒーロー「野見宿禰」に倒されちゃったんだよ、という……あれ、本当にヒーロー物みたいですね。

歴史書などに書かれていることですから、殺した側(「野見宿禰」)を正当化しようという意識がどこかにあるのだとすれば、「当麻蹶速」はそんなに悪いやつではなかった、と考えてもいいと思います。

悪いやつじゃないのに、「野見宿禰」に倒されてしまった。

日本書紀』編纂時には、すでに儒教的な考え方が輸入されていますので、「悪いやつは、天に背くやつだから、やられたって仕方がないのだ」、という思想を逆手に取って、「やられちゃったっていうことは、悪いやつだ」にしちゃったのではないでしょうか。

そのために、「桀王」の描写を典拠とした。

当麻蹶速」は悪いやつだったんだよ〜、と行間ににじませようとした。

さて、こういう場合、高田崇史式に考えるとどうなるのか、なんですが。

そう、悪いやつじゃないのにやられちゃったら、それは「怨霊」になるのです。

祟るのです。

だから、お祀りするのです。

 

 

ところが、そういった気配が「相撲神社」にはありません。

 

日本の神様読み解き事典

日本の神様読み解き事典

 

 

↑の「野見宿祢・当麻蹶速」の項目には、

 

「当神社は祭神として、勝った野見宿祢と負けて投げ殺された当麻蹶速の二神を祀っている。」

 

とあります。

他にはそういった記述がなさそうでしたので(何しろ、この場面以降「当麻蹶速」は出てきませんので)、いつの頃までなのか、何を根拠としたものかは不明です。

神話の闇に消えた「当麻蹶速」とは異なり、このあと「野見宿禰」は葬送儀礼を司るという大役を手にします(歴史的な話ではないですよ)。

なんか、「当麻蹶速」がちょっとかわいそうに思えてきました……。

 

まだ続きます〜。