べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「高牟神社」(再/名古屋市千種区)

10/13。

何となく名古屋市内を巡っていなかったので、行ってみました「高牟神社」

 

◯こちら===>>>

「高牟神社」 - べにーのGinger Booker Club

「物部神社」(補・「高牟神社」) - べにーのGinger Booker Club



↑以前の記事です。
まあ、再訪なので(記事にしていないだけで何度か参拝しております)……最近は、狛犬さんハンターとなってきておりますので、そこら辺りを中心に。

 

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ということで、引用なぞを(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

まずは、

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『尾張名所図会』から。

274コマです。

 

「高牟神社 古井村にあり。成務天皇の御宇の鎮座なり。[延喜式]に高牟神社、[本国帳]に従三位高牟天神とあるは此社にて、俗に古井八幡と稱す。
本社 祭神 高産霊尊。 清和天皇の勅によりて、応神天皇を合祭れり。毎年正月元日寅の刻より辰の刻まで開扉あり。御正体は船に乗り給へる神像なり。故に船出八幡とも稱す。寛永十一年、山下大和氏勝修復を加えらり。
例祭 九月十五日。相撲あり。
神宝 弁慶が書写せしといひ伝へたる大般若経五十巻あり。」

 

……ううむ、わりと情報が多い……『延喜式』に名前が載っているくらいですから、古い神社なのですが、江戸時代まで続いていたかどうかの確認は難しいですね。
清和天皇」の勅命で「応神天皇」を合祀……意味ありげ、に見えてそんなに意味はないのか。
おっと、神社もご開帳的なイベントを行なうことがあったのですね、徳川時代には……「応神天皇」に「海上交通」のご利益……もう「八幡大菩薩」になってからは軍神なんですけれど、「神功皇后」と「住吉三神」の影響があるということかな……。
相撲、とあえて書かれているのは、相撲が有名だったから、なんでしょうね(珍しくはなさそうですが……むしろ、ポピュラーな見世物だったから、観光案内的には「ありまっせ」と書いたのかな……)。

 

 ◯こちら===>>>

名古屋市史. 社寺編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『名古屋市史』も見ておきましょうか。
175コマです。

 

「二 高牟神社
高牟神社は愛知郡千種町字古井(もと愛知郡古井村、古井古くは小井に作る)に在り、(略)、古くは八幡宮と號し、俗に古井の八幡と稱す、延喜式神名帳愛知郡の部に高牟神社あり、小社なり、国内神名帳に、従三位高牟久天神、参考本国帳に「従三位高牟神社、天神、一本作正四位下高牟久(古井村号八幡)」尾張国式社座地目録に「高牟田神社(鳴海庄古井村)」とあり、尾張国式社考に社号を考証して、「高は古の仮字、牟は韋宇の上の■を脱せるものにて、決て古韋とありけんなるべく、其を此地にて古井と作るは後の転なり」とし、明治随筆には「高牟は高御魂の略歟」とせり、(本社を延喜式の高牟神社に充つることは、諸書概ね一致する所なれど、尾張国地名考には之を誤なりとし、御器所八幡宮是歟と云へり)、成務天皇の御代の鎮座にして、清和天皇の御宇造営の時、勑して応神天皇を配祀せしめらるといふ、嘉吉元年、寛正二年十一月、天文元年九月、永禄八年五月、慶長八年十一月等に改造あり、寛永十一年正月、山下大和守氏勝修理を加へ、天和三年九月、藩主光義(略)修覆せられし以来、城南の鎮護として崇敬せられ、絶えず修造料を賜はる、(略)、明治初年式内に治定し、五年五月郷社に列せらる、祭神は高皇産霊神神皇産霊神応神天皇の三柱なり。

張州府志、尾張志、金鱗九十九之塵には神皇産霊神なし、尾張神名帳集説、参考本国神名帳集説、塵點録には、按姓氏録曰、高向朝臣武内宿禰六世孫、猪子臣之後也云々、私曰く、武内宿禰仕応神帝、有勲功、故石清水祭之、号上高良、称八幡者、有其故乎」といへり、今社伝に、古来の神職小島家は武内宿禰六世の孫猪子臣の後裔なりといへば、蓋応神天皇の配祀は往古よりなるべし、今神体の高皇産霊神土偶立像、神皇産霊神は同坐像、(此二体は初め宮中に奉祀せられしを、成務天皇の時此社に遷されしものといふ)、応神天皇は束帯乗船の香木坐像にして、御自作と伝ふるものなり。

(略)境内社神明社(略)、金刀比羅社(略)、白山社(略)、稲荷社(略)の四所あり、此外にもと薬師堂ありて同村(略)善久寺(曹洞宗)の持なりしが、維新の際之をハ廃し、本尊の木造薬師如来座像は今之を善久寺の観音堂内に安置す、例祭は十月十四日、(略)十五日氏子大祭にて、大提灯一張を點す(徳川時代には、九月十五日相撲ありき)、古来正月元旦未明(もとは寅の刻より辰の刻まで)に開扉して応神天皇の御霊璽を氏子一般に参拝せしむ(略)、

伝説に弁慶、本社の東の光正院(曹洞宗)に寓し、本社に祈願する所あり、大般若経五十巻を書写して、本社に納め、又松七本、フクラシバの樹を植えたりと、今其写経は消失して、残片をも留めず、フクラシバは枯死し、只弁慶手植の松と称する大木四本のみを存す(略)
境内に古井あり、もと礦泉にして、奇効ありき、これ古井村の名の起源なりといふ、尾張国地名考には此説を排して、古は仮字なり、正字小井村なり、(略)溜池あるより呼初たる地名なり、井は堀井をいふにあらず、田井とて水の溜池の事なり」といへり、
明治随筆に、「祠官の家に伝ふる社記云、元玄海村白山山に坐せしを、慶長築城の時、今の地に移す」と見ゆ、真偽詳ならざれど、姑く一説として茲に掲ぐ」

 

もっと情報多かったな……あちこち端折っています。
社名の「高牟(たかむ)」が何に由来するのか、という考察がいくつか載っていますね……よくわかりませんが。
近くには「物部神社」があるのですが、この「高牟神社」「物部神社」のセットが、「愛智郡」だけでなく、「春日部郡」にもあったのです。
正直よくわかりません……「高座結御子神社」というのが、名古屋にはありまして、「熱田神宮」の摂社なんですが……

 

◯こちら===>>>

「高座結御子神社」 - べにーのGinger Booker Club

補遺「高座結御子神社」 - べにーのGinger Booker Club


さて、何か関係があるのかないのか……物部系の神話の名残のようには思います。
また、本当かどうかともかく、名古屋市教育委員会の案内板にあるように、物部氏の武器庫が「高牟神社」となった、というのであれば、もうそれは「石上神宮」のミニチュア版……あるいは、「石上神宮」があったので、「物部氏」系の集落には武器庫としての「倉」が備わっていたと……この辺りは『日本書紀』の「石上神宮」関連の記事を読んでいただければよろしいかと。

 

◯こちら===>>>

「石上神宮」(補々々々々々) - べにーのGinger Booker Club

 

↑この辺りで紹介しています。
「たかむ」は「たかみくら」の転、くらいでいいのではないかな、と思います。
御祭神的には「高倉下命」だったんじゃないかな……そこに何故「応神天皇」を持ってきたのかはわかりませんが……まあ、そうなっちゃったのであれば、しかたがないかと。
「弁慶」書写の「大般若経」は、徳川時代にはあったのに、昭和初期にはもうなくなっていたのか……。

 

ちょっと雑な感じになりましたが、こんな妄想で終わりたいと思います〜。