10/13。
中区は新栄付近にある、「白山神社」へ参拝。
公式HPはなく、神社仏閣ブロガー諸先輩方の記事はあるので、検索してみてください。
鳥居。
こんもりしております。
こんもり。
拝殿。
狛犬さん。
ごつごつ、むちむちしていて、これはこれでよろしいかと。
拝殿遠景。
末社の「床主」……「床主社」でよかったんだっけ……。
神楽殿(かな?)から拝殿を。
狛犬さんその2。
参道から拝殿を。
最初の鳥居とは、反対側になります。
こちら、駐車場がある側の鳥居……だったと思います。
「郷社」の社標。
おまけ。
近くにあった、「八王子社」と「青木神社」。
団地の一角、みたいな感じで鎮座されておりました……遷座できなかったのかな……いや、比較的新しい造りなので、遷座された結果、か。
さらにその一角に、「地蔵菩薩」堂が。
鎮守を残した結果、みたいな感じでしょうか。
さて。
◯こちら===>>>
大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『尾張名所図会』に、おそらくそれと思われる記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
146コマです。
「白山権現社 駿河町通の東、小山の上にあり。此辺の生出神なるゆゑ、本社拝殿美を盡せり。例祭は六月九日、神楽ありて、町々の献灯山上まですき間なく、昼をあざむき、殊に群集せり。」
……まあ、「白山神社」は「稲荷」「八幡」「天神」とまではいかないまでも、比較的多い神社ですし……東海地方は、美濃と越前に白山がまたがっており、美濃側からの登頂も盛んに行われていたようですので、紙幅をそれほど割く必要はない、ということだったのかな、と。
◯こちら===>>>
名古屋市史. 社寺編 - 国立国会図書館デジタルコレクション
困った時は『名古屋市史』。
郷社ですから、載っているだろう、と。
142コマです。
「四 白山神社
白山神社は東区東田町四丁目の南方に在り、社殿は古墳の上に立つ、(略)、創立の年月詳ならず、往古は春日井郡清須朝日郷に鎮座ありしが、慶長年中ここに遷座す、玄海寺社務を掌り、社を玄海寺の奥院とす、貞享二年、円教寺に改む、(略)、明治初年村社に列し、明治四十四年十二月二十二日、郷社に昇格す、此社地もと二段歩、山の走畑三段あり、燈明畑と云ひ、除地なりき、祭神は菊理媛命、(略)、境内神社は稲荷社(祭神宇迦之御魂神、尾張志に、「近世に曲瀬氏よりあづけとなれり」とあり)、須佐之男神社、天神社(祭神は菅公、岩津天満宮と称し、天保十年の勧請なり)あり、例祭はもとは六月九日、十日にして、九日に神楽あり、十日に餅を投ずるを例とせり、又小車に人形を飾りて、町中を曳きしこともあり、(以下略)」。
ほほう……古墳でしたか……。
名古屋市教育委員会のHPを見てみましたが、発掘調査に関する情報は見つからず……そういうものをネット上にどんどんあげておいてほしいですね……図書館に行かねばか……。
◯こちら===>>>
「白山宮」(日進市) - べにーのGinger Booker Club
「白山神社(大須)」(名古屋市中区) - べにーのGinger Booker Club
「小幡白山神社」(名古屋市守山区)〜高速初詣その3〜 - べにーのGinger Booker Club
近年、尾張東部、守山区から春日井、瀬戸にかけての地域の古墳群を「しだみ歴史の里」とかなんとか名前をつけて一大歴史スポットに仕立て上げようという構想が進行し、もうできたんだっけな……な感じで、いや、行ってみたいのですが、それはともかく、尾張東部の「白山神社」系で、いくつか巡ってみたところから、古墳と関係のある記事を引っ張ってみました。
そして、「白山神社」といえば、被差別部落と関係がある、と考える方がいらっしゃり、例えば現代の被差別部落に関する著書といったらこの人だろう、という塩見鮮一郎氏の『異形にされた人たち』
から拾ってみると、
「白山神社は被差別部落の氏神として、このところ、とくに注目されているが、白山神社が必ずしも部落にあるわけではない。白山神社が比較的近距離に二つあって、そのひとつが部落、ひとつはそうではないこともある。総本社はよく知られているように、石川県の白山比咩神社である。菊池山哉は、「東日本に於ては中世以降白山権現は部落以外には氏神として居ない」と断定している。一般的には、江戸時代になってから、関東各地の部落に白山神社ができたが、これは弾左衛門がすすめたからだといわれている。」(p176)
「また、
白山神社は長吏ばかりの神様ではない。別所の人も白山神を祀る、
と聞いた。」(p191)
といったことが書かれています。
塩見氏の検証は主に関東地方ですので、東海地方でどうだったのか、ということまではよくわかりません。
「長吏」というのは被差別部落の長的な人の呼称ですが、お寺を総括する立場の人の呼称でもあります(寺の「長吏」という呼称が先にあったものと思われます)。
「別所」は、この本で書かれているところでは、いわゆる「エミシの俘囚」を住まわせたところ、ということのようです。
新栄の「白山神社」は、清須越で移ってきたもので、もともとの清須ではどのような状況だったのかはわかりません。
また、古墳の上(近く)に神社がある、というのは、「白山神社」に限らず多く見られます。
古墳、というのは実はそこら中にありますし、ある程度の規模の古墳が密集しているところは、古代に栄えた土地だったことを示しています。
つまり、古代においては栄えた土地、ということです。
「古墳」を磐座のように考えて神社として祀るのは、わりと一般的な考え方だったのかもしれません。
そもそも、「野見宿禰」の後裔「土師」氏のような氏族は、「古墳」の造営と維持を役割としており、非常に重要で、ハレがましい存在だったと思われます。
しかし、「古墳」が作られなくなり、ケガレの思想が強くなると、「造営と維持」から「造営」の役割が落ち、「維持」をするだけ……墓守のようになっていきます。
「やな仕事」になるわけですね。
そして、「古墳」の記憶も地域からは失われていく、崩れる、崩される、神社として残っていれば幸い、「塚」と伝承されれば近寄りたくないものになっていったとしても不思議ではないと思います。
「古墳」の上の神社であることが重要なのではなく、「古墳」の上の神社だと「認識」されているかどうかが重要だったとすれば、さて、そんな墓の上の神社を鎮守だ氏神だ、と思いたいものでしょうか。
神社なのでそう簡単には廃せない、墓の上にあってはなおさら祟りということもある、じゃあどうしようか……。
そんなことをちょっと妄想します。
いかんな……もっと勉強しなければ。
『名古屋市史』の、「燈明畑と云ひ」というのは、『尾張名所図絵』の「町々の献灯山上まですき間なく、昼をあざむき、殊に群集せり」のことを表しているのでしょうか。
盛大なお祭り……一般的にイメージされる、被差別民からちょっとずれているような気がします……が、祭りは「ハレ」の日ですから、そういったことは関係なかったのか……こういった方面からのアプローチもあるんでしょうか。
不勉強不勉強。