べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「田光八幡社」(名古屋市瑞穂区)

……いや、どこか行ったはずなんですけど、どうも写真が見当たらないので、7/23です。
ふらりと「田光八幡社」に出かけましたよ。

 

◯こちら===>>>

www.city.nagoya.jp

名古屋市瑞穂区の史跡散策路のHPです。

 

正面。

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脇の、お「稲荷」さんの鳥居……だったかな。

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「瑞穂村新道の碑」……さすがに読んでいられんです。

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扁額。
結果的に味が出ているけれど、これは汚れているだけなのかもしれない……いや味が出ている。

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参道。

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黒龍様の御神木」。

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こちらは「和合の木」。

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狛犬さん。
目……。

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「和合の木」を別角度から。
絡まってしまったようです。

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拝殿。
向拝に銅板葺き、屋根は瓦葺き。
江戸期に建てられた社殿は瓦葺きであることが多いので、向拝は後付けかな。

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「田光神社と守部宿禰
第十二代景行天皇には双生子の男の子があり兄君を大碓命と申し上げ弟君を小碓命と申し上げます。小碓命はのちに熊襲征伐や東夷を討ち平げた古代武勇の人日本武尊であります。大碓命はやや温和な性格であったようで父天皇からうとまれていたようであります。大碓命の御子押黒之弟日子王その子牟宜都守と続き守部氏の祖で、初代は守部宿禰孫谷は熱田神宮の社職として朱鳥元年西海士郡司兼祭主正祝詞司大内人に任命されその子孫は代々正六位大内人として熱田神宮に社職として明治四年迄奉仕した。また草薙剣の御受取の奉迎使としてお出迎えしたと熱田神宮縁起にみえており、延久年間第十九代彦正が、八幡社を勧請し社を建てたのが始まりと伝えられています。
一、宿禰 古代の姓のこと 天武天皇が定めた八色姓の一つ 第四位の姓
一、大内人 大宮司、祝師、総検校、大内人とあり守部氏がこれをつとめた その下に禰宜があった
一、五郎丸屋敷 大喜地内に防の山とゆう地があり代々守部氏の屋敷跡と伝えられ現在豊岡通りの天理教がそれでありこの地に森部姓多く皆この子孫と云う
参考文献 熱田大宮司由緒書 同縁起抜書 熱田宮旧記 尾張
(以下略)」

 

延久年間は1069〜1074年頃ということなので、平安末期ですか……武士階級に八幡信仰が流行り始める頃、と考えると妥当な感じでしょうか(まあ、その前から、「宇佐八幡宮」なんかは特別扱いされていますから、無理に結びつける必要もないのか……ちょっと時代がずれていると、「熱田神宮」は「源頼朝」とも縁がありますし、幕府を立てて「鶴岡八幡宮」から勧請、という流れの方がしっくりはきますが……)。

 

拝殿。

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「田光稲荷大明神」……

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からの拝殿。

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お「稲荷」さんの手水鉢。

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お「稲荷」さん再び……奥の院扱いかな……。

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おキツネ様の先輩。

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お「稲荷」さん参道。

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拝殿右手、「田光白龍社」と御神木。

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と思ったら、「弘法七本楠」の一本のようです。
反射して読みづらい……「その昔、千二百年前、弘法大師が巡錫の砌、熱田神宮に五本、古井の坂に一本、田光神社に一本、お手植えになったと伝えられる由緒ある楠と尾張名所図会に記載されている名木です。根方には白蛇が棲んでいると伝えられています。樹齢 約千有余年(略)」……あとで調べてみましょう。

 

古木は巨木。

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龍神池。

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この角度から見るとより巨木。

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境内社の、左から「八剣社」「白山社」「秋葉社」「黒龍社」、です。

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こちらもなかなか立派な木でした……なんだろう、楠なのか檜なのか。f:id:bennybebad:20220515190837j:image

 

拝殿を向かって右側から。
古木の樹勢よ。

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なんか、可愛かったので……ジ◯リ的なものを感じる……。

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ここからも入れるのです……ちょっと上がってるんですね。

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裏側に回ってみました。
これだけ高い場所にあります。
瑞穂区でも、結構高い場所にあるのではないか……思い出せない……雨が降りそうだったので、ざっと巡っただけでした。
御朱印については不明です。

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さて。


◯こちら===>>>

名古屋市史. 社寺編 - 国立国会図書館デジタルコレクション


「田光八幡社」の記事がなかなか見つからなかったので、『名古屋市史』の「熱田神宮」の項を漁ってみました(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
84コマです。

 

「大内人は一員にして、大喜氏と稱す。守部宿禰なり、尾張氏と同祖と云。遠祖守部宿禰孫谷、朱鳥元年に祭主となりしより、子孫相ついで此職を掌る。貞觀中、守部宿禰清稲、当社の縁起を草す。建武年中、祭主幡屋大夫政継あり、嘉吉年中、守部宿禰五郎丸、菖蒲池に住す、張州府志に「又有大喜殿、熱田遥拝所也、往昔大内人来拝此地而今廃焉」とあり、蓋し大喜寺(呼続村大字瑞穂字田光、旧大喜村の地)の大日堂は其遺跡にして、大内人と云へるは、大喜五郎丸の事なるか、此氏人も亦権宮司に補せられし例あり、田島、馬場、大喜等の家を神官と稱す(略)」

 

引用中、「当社の縁起」というのは「熱田神宮」の縁起のことで、『群書類従』に採録されている『尾張国熱田太神宮縁起』のことだと思われます。
それについて、

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

尾張名所図会』では、

 

「大内人一員
守部宿禰尾張氏同祖にして、今大喜氏と稱す。此家甚古く、朱鳥元年海部郡司守部彦谷を以て官守十二人の長大内人職とすと[熱田本紀]に見えたり。此書は甚怪しく請け難き書なれども、もとより古き偽書にして、其内にはまさしき古伝と覚しき説も見ゆれば、悉くは捨がたきにや。守部は尾張・美濃本貫の姓氏にて、[三代実録]及び[類聚国史]の貞観十年七月十二日の記に、美濃国池田郡の貞婦守部秀刀自が事をしるし、寛平二年の[熱田縁起]に、去貞観十六年春神官別当正六位上尾張連清稲、古縁起修せしよし見えしは、[熱田大神宮鎮座次第本記]に大内人守部宿禰清稲とある同人にて、当家の■祖なり。」

 

と書いています。
名古屋市史』に戻りまして、

 

「五郎丸宅址
瑞穂村坊山字中ノ口(旧大喜村の地)に在り、里俗五郎丸屋敷と稱す、東西北の三方濠址存す、今盡く耕地に属す、五郎丸本姓守部宿禰尾張氏と同祖なり、初め此所に住し、後嘉吉の頃熱田白鳥町(略)に移りて、大喜を氏とす、是れ大喜備前守従五位下守部宿禰清廷の遠祖なり、世々熱田神宮大内人職に補す、五郎丸は其世名なり、子孫田中町に住す、明治以後神官を罷む、同四年(略)大喜を改めて本姓守部に復す、森部氏を稱するもの今猶瑞穂村に多し、其同族の裔ならむ、[愛知郡誌]」

 

という『愛知郡誌』からの引用がありまして、どうやら「守部五郎丸」さんがいたのが、今の「田光八幡宮」の辺りらしい、と。
で、「大喜寺」ってどこだろう、と思って検索して見ると、

 

◯こちら===>>>

増益山大喜寺(愛知県名古屋市瑞穂区) | 名古屋二十一大師十七番札所

 

現存している、という……。
では、ということで『尾張名所図会』を探してみると、

 

「増益山大喜寺
同村にあり。真言宗高野山弥勒院末。境内に大日堂あり。又熱田の遥拝所ありて大喜宝殿といひしが、今は廃せり。」

 

お寺の公式HPでは、こちらの「大日如来」は「熱田神宮」の本地仏とされているようです。
尾張名所図会』「増益山大喜寺」の前の項は、

 

「大喜古城
大喜村のうち、城跡と呼ぶ地三所あり。新田四郎の城といひ、又田光氏あるひは森部氏の居地とし、又岡本久治の古城などいへど、何れも定かならず。其うち田子は此辺の庄号なれば、むかし田子庄司などが旧居を、田光氏と誤りつたへたるなるべし。又森部氏は、熱田神宮大喜五郎丸が本姓守部宿禰にして、古来より爰の住人なれば、しか伝へしも據なきにあらず。外に五郎丸屋敷と呼ぶ地も当村にのこれり。岡本氏・新田氏も当初に由緒ある人なれば、これまた捨てがたかるべし。又此辺に田子が池とよぶ池あり。」

 

「田子」と呼ばれていたのが、「田光」になったのではないか、という説が紹介されています(『尾張名所図会』は、観光案内のようなものではありますが、当時の歴史的事実等がいろいろ盛り込まれていますので、信じ過ぎない程度に参考にしています)。
まあ、ここまで一向に「田光神社」「田光八幡社」のことが出て来ませんが……。

 

◯こちら===>>>

https://www.city.nagoya.jp/mizuho/cmsfiles/contents/0000042/42124/mizuhokentei_2.pdf

 

名古屋市のHPのどこかにあるPDFにたどり着きました。

 

「田光八幡社
創建 延暦元年(782年)
祭神 神功皇后応神天皇仁徳天皇(略)
[境内神社]白龍社、黒龍社、八剣社、秋葉社、津島社、白山社、田光稲荷社
社の由緒によると、延暦元年(782年)に熱田神宮の神官守部公彦正が社を建てたのが始まりとされる。
尾張名所図会の記載によると高さ約40mの大きな楠は、弘法大師お手植えの七本クスノキの一本とされる。木の根元には白龍が住んでいると伝わる。
元禄の頃まで、熱田神宮の社僧が祭礼に大般若経を奉っていた。
鳥居は、皇室の御大典、御成婚、御生誕を機に建て替えられており、八幡鳥居、神明鳥居がある。
また、境内には枝に体を寄せお願いすると痛いところがいえるという欅の木と「夫婦和合の木」という椋と榎の木がある。
神社の周囲は、区画整理事業で削られ元の地形は残っていないが、弥生時代の遺跡や遺物が出土し、又北山には大松石地蔵があった。」

 

むう……なんと便利な資料が……。
で、この資料の中に、

 

「田光遺跡

(略)

・「景行記」27年(12代天皇のころ)熊襲を平らげようと西へ行かれた日本武尊に従った尾張田光(たこ)之稲置が住んでいた。確認される最も古い地名とされる田光の名の由来となる。」

 

とありました。「景行記」とありますが、正しくは「景行紀」で、『日本書紀』の記述になります。

 

「冬十月の丁酉の朔己酉に、日本武尊を遣して、熊襲を撃たしむ。時に年十六。是に、日本武尊の曰はく、「吾は善く射む者を得りて、与に行らむと欲ふ。其れ何処にか善く射る者有らむ」とのたまふ。或者啓して曰さく、「美濃国に善く射る者有り。弟彦公と曰ふ」とまうす。是に、日本武尊、葛城の人、宮戸彦を遣して、弟彦公を喚す。故、弟彦公、便に石占横立及び尾張の田子稲置・乳近稲置を率ゐて来れり。則ち日本武尊に従ひて行く。」(岩波文庫日本書紀2』p84)

 

ですね。
この伝承を信じるとすれば、「日本武尊」の熊襲討伐について行った人の出身地が田子だったということなので、その後の「熱田神宮」との関わりがうかがえる……のかもしれません。
ううん、『日本書紀』に載ってる地名なんだよ、というのはもうちょっとアピールしてもいいのではないかと……。

 

特に考察めいたものはありませんが、「大喜寺」も一度行ってみないといけないな、と思った次第です。