べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「深島神社」(名古屋市北区)

8/14。
盆真っ只中……に何をしとるんだという感じですが、北区の「深島神社」へ行ってきました。
公式HPは……ないのかな。
北区といっても、名城公園のすぐ東側で、中区と勘違いしそうです。

 

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拝殿。
尾張造っぽい、のかな。

 

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ピンボケ……「御霊石」。

 

「深島神社神主神谷左内が初代尾張藩徳川義直公(一六〇七〜一六五〇)の命を受けて木曽山中へ入り秘法をもって厳修し霊験を感応し当神社に安置された御霊石であります。
古来より「願い事を祈願すれば万事あらたかな御霊験がある」との言伝えがあります。」

 

……古来ってほど昔ではないですが、まぁ400年経ってますから。

 

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「深島稲荷神社」です。

 

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本殿……致命的なピンボケ。

 

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おキツネ様
素朴、と言い張ろう。

 

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狛犬さん。

 

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拝殿遠景。

 

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「当神社由来
(略)
一、御祭神
本社殿 田心姫命
東社殿 牛頭天王
西社殿 石神社 石土彦神石巣姫神
末社 深島稲荷狼
一、御由緒
創建年月は明らかでないが「尾張志」に応永五年(西暦一三九八)三月改築との記録がありそれ以前の鎮座であることは明らかである慶長年間(一五九六〜一六一四)名古屋城鬼門の守護神として新たに荒神社並びに石神社を尾張藩祖源敬公建立し篤尊敬せられ更に弐代藩主光友卿以降も歴代藩主は甚だしく崇敬せられた明治五年(一八七二)据置公許となり同十八年(一八八五)五月十三日村社列格昭和十四年(一九三九)九月十四日指定村社となる昭和二十年戦焼し昭和二七年再建され現在に至る
従来十三等級であったが平成五年愛知県神社庁へ申請し平成六年十等級社に昇格した(以下略)」

 

とのこと。
「石神社」が謎ではありますが、さっきの「御霊石」のことかな……と思います。

 

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鳥居と社標。
それほど大きな神社ではないですが、住宅街の中に風情佇む感じでした。

 

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鳥居。
夏の空と夏の木々でした。
御朱印は、あるんでしょうか……よくわかりません。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

尾張志. 2 名古屋 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

尾張志』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
7コマです。

 

「深島(シムトウ)社
柳原深島にあり此社号をしむたうと云い深島を字音によめる也柳原も深島も此處の地名也かの宗形三座の其一神にて湍津姫命を祀ると社説にいへりさて此地名によりて按するに深島といふはかの本所宗形の奥津宮に当るへく武島といふは湍津姫命の御名より出たる地名なる事紛るへくもあらねは実は武島社は湍津姫命深島社は市杵島姫命を祭れるならむを此社説を伝へ誤りたるものなるへし(今の社説に武島社を市杵島姫命とし深島社を湍津姫命としたるはこことかしこと混したるものならむ)かくて宗形社はかの筑前なる本所の中津宮に当り深島社を奥津宮にあひ武島社は辺津宮に合り又その祭神の混したらむとおほしきを改て武嶋社を湍津姫とし深島社を市杵島姫とするときは宗形社は旧説のまま田心姫命にて是則日本紀に見えたる古伝説によく符号せり今一己の憶説を記してさらに識者の考訂をまつ扨稲荷牛頭天王(二神)相殿に祭れり此やしろもとは別所にありしを勝綱主(法号得性院と申て源戴公の御末子也)の御さたによりて此處にうつせり」

 

……まずはなんでまた「深島」を「しんとう」などと読んだのか……。

 

◯こちら===>>>

名古屋市史. 社寺編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

名古屋市史』もみておきましょう。
179コマです。

 

「四 深島神社
深島神社は西春日井郡杉村大字上名古屋字柳原の西北(もと深島)に在り、(略)、もと弁才天とも、深島弁才天ともいへり、勧請の年月は詳ならず、宝暦四年六月、文政五年五月、同十一年十二月、天保三年九月、嘉永元年九月、明治四十二年九月に各修造遷宮あり、明治初年村社に列す、祭神はいま湍津姫命と定め、稲荷神(略)、牛頭天王(素盞嗚尊、稲荷神は藩主宗勝の子勝綱(幼名藤馬)江戸より之を勧請して、宝暦六年二月、社殿を建立し、天王社は宝暦十一年二月造替遷宮して、共に邸内に奉祀せしが、勝綱の卒後、勝長(松平掃部頭宗勝の子也)其屋敷を拝領して、本社へ合祀せしものなり)、荒神(略)、石神(石土彦命、石巣姫命、以上荒神石神の二神は、荒神社、石神社としてもと城内にありしを、元禄七年閏七月、藩主の命に依りて、柳原神祇祭場殿の側に遷座し、明治十一年本社に合祀す)の四座を相殿とす、

尾張志には、湍津姫命を祀るといへる社説を否認して、深島といふはかの本所の宗形(略)の奥津宮に当るべく、武島といふは湍津姫命の御名より出たる地名なる事紛るべくもあらねば、実は武島社(略)は湍津姫命、深島社は市杵島姫命を祭れるならむを、此社説は伝へ誤りたるものなるべし、今の社説に武島社を市杵島姫命とし、深島社を湍津姫命としたるは、こことかしこと混じたるものならむ、かくて宗形社はかの筑前なる本所の中津宮に当り、深島社は奥津宮にあひ、武島社は辺津宮に合りといへり、但し之は日本書紀を根拠とせるもの、古事記には多紀理毘賣命(田心姫命)は奥津宮に坐し、市寸島比賣命は中津宮に坐し、田寸津比賣命は辺津宮に坐すとあれば、強ち筑前の宗像神社を以て、之を誤りなりと断定すべからざるが如し(以下略)」

 

というわけで(?)、名古屋城鬼門付近には、三つの「弁財天」があり、それぞれ「深島社」「武島社」「宗像社」と呼ばれていたんだぞう、と。

 

◯こちら===>>>

「宗像神社(名古屋市西区)」 - べにーのGinger Booker Club

「冨士浅間神社」(西区) - べにーのGinger Booker Club

「宗像神社」(名古屋市西区)(再)〜高速初詣その1〜 - べにーのGinger Booker Club


↑過去記事でもちょこっと触れておりますが、通常「弁天」様一つで「市杵島姫命」を祀ってそれまで、ということが多い中、本家の「宗像大社」にならってお社を三つ勧請しているのが珍しい、と……何か意図があったのだと思われますが……鬼門除けに「弁天」様というのもあまり聞かないし、「宗像三女神」というのもなかなか……何かあるのか。
ううむ……この辺りの考察は郷土史家の方にお任せしましょうか。
機会があったら考えてみたいと思います。

 

……あ、そうか、「清洲越」の前に、すでにあったと思われるわけなので、そこから考えていかなければいけないのか……「名古屋城」自体はありましたね(「那古野城」かな)。

池か井戸か、があったようなので、水辺の神様で「宗像三女神」が勧請された、と見るのが妥当かな……創建年代がわからないのですよね……ふうむ。

やっぱり、機会があれば考えてみよう、と。