※大阪の「伝仁徳天皇陵」、「伝応神天皇陵」を含む古墳群が、世界遺産登録に向けて動き出したようで。
うーん……このあいだの、「宗像大社」関係の登録のときにも思いましたが、なんだろう、ちょっとモヤモヤします。
とりあえず、沖ノ島には観光客を入れる必要ないですよ。
古墳群もね……個人的には、皇室が続いているうちにきちんと調査をするべきだと思うんです。
後世に盗掘なんぞされるくらいなら(すでに「伝仁徳天皇陵」は盗掘されている、なんて話もありますが)、ですけれど。
今回の動きが、そっちにつながるといいな……とは思うのですが、うーん、なんだろうな……難しい。
モヤモヤした話でした。※
1/6。
引き続き守山区、前回の「生玉稲荷神社」から徒歩でも行けます、「小幡白山神社」へ。
◯こちら===>>>
↑守山区の史跡散策路のHPです。
正面。
こちらも、住宅街に突然、といった感じです。
……ちょっと順番がとっちらかっておりますが、本殿向かって左脇。
なんで写真を撮ったのか……。
道祖神。
山神の碑と、何の祠だったか……。
そうそう、さきほどの扉の奥は、「八幡社」だったんでした。
狛犬さんたら、
狛犬さん。
赤みがかっているのは、材質の問題なのかな……。
拝殿。
向かって右手は、「秋葉社」が。
これは……拝殿への階段の辺りにあった、と思います……全体像が思い出せない……。
狛犬さんたら、
狛犬さん。
こんな感じの、小高い丘の上に鎮座まします。
階段下、向かって左手にある祠。
こちらもなんだったか……車祓所だったかな……違う気がする……。
「白山神社略記
東城にあった白山神社(村社)現在地にあった愛宕社、常燈にあった神明社、北屋敷にあった諏訪社とが、明治四十三年七月合祀されて現在の白山神社と称されることになりました。
当社はもと神饌幣帛料供進の指定村社でしたが、戦後社格制度が改って唯今は五等級社になりました。
五等級社とは戦前の県社級に相当します。旧白山神社の社伝は詳ではありませんが姓氏録によりますと、欽明天皇の皇子小墾田王ゆうという方が此の地に居住せられ、王が創建されたものと言われ、今から約千四百年程前に当ります。
一、 祭神 伊邪那美命、火具土命、菊理比売命、天照皇大神、建御名方命
二、 境内社 秋葉社 八幡社 山神社 弁天社
三、 例祭日 十月十七日
四、 御神徳 石川県の白山比咩神社のわかれで、生命の根源である水のことを司られ生む、生み出す、成功くくる(えんむすび)諸産業開拓、豊穣等のご神徳が著しくあります。
境内社の弁天宮は子授、安産にご霊徳が著しいです。」
なるほど、もともとは「愛宕社」だったのが、あちこちから集められた上に、なぜか「白山神社」の名前になった、と。
なかなかな謎チョイスです(当時の氏子の力関係なんかがあったのでしょうか)。
(※もう一基、石に掘られた御由緒書があるのですが、写真がどこか行っちゃったようで……※)
「白山神社御由緒
由緒 社伝については明らかではないが「新撰姓氏録」(八一五)によると、今から役一千四百年程前に、欽明天皇の皇子「小墾田王」という方が、此の地に居住せられ、王が創建されたと云われている。(略)」
「秋葉宮」の灯篭。
「御嶽社」。
もうちょっと近くで。
あ、さきほどの謎の祠はこちらでした。
御嶽信仰ばりばりですな。
別角度から。
こちら「弁天宮」。
はい、ちゃんと島で池ですね。
遠景。
鳥居にむしろが巻かれていますか。
こんもりな感じがなかなか素敵ですよね。
御朱印。
たまたま神職さんがいらっしゃったので、いただきました。
さて。
◯こちら===>>>
頼りっぱなしの『東春日井郡誌』から引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
454コマです。
「白山神社
(略)
祭神 火具土命
(以下合祀したる祭神)
伊邪那美命
天忍穂耳命
大己貴命
大日孁貴尊
天照大御神
豊受姫命
建御名方命
(略)
由緒 社伝明かならず、されど合祀前は、無格社愛宕社祭神火具土命なりしが、明治四十三年七月十五日同所字東城四千五百六十二番、元村社白山神社の祭神伊邪那美命、天忍穂耳命、大己貴命、及び同所字常燈二千二百三十八番、元無格社神明社の祭神大日孁貴尊、其境内神明社の祭神天照大御神、外宮社の祭神豊受姫命、同所字北屋敷、元無格社諏訪社の祭神建御名方命を合祀するに方り、之を村社白山神社と改称せり
合祀したる白山神社は、創建年月は不明なりと雖も、姓氏録に、欽明天皇の皇子小墾田王、曾て此地に住み給へり、此社は王の祀られしものにして、村名の小幡は、実に王より出でたる約言なりと云ふ、」
ちょっと休憩。
「姓氏録に、欽明天皇の皇子小墾田王、曾て此地に住み給へり、此社は王の祀られしものにして、村名の小幡は、実に王より出でたる約言なりと云ふ」
↑この記述が、『新撰姓氏録』にあるそうなんですが……とりあえず見つからないもので……探し方が悪いのかな……。
「欽明天皇」はご存知、最初に仏像を崇拝しようかどうしようかと悩んだ方ですね。
『古事記』『日本書紀』ともに、この「小墾田王」のことは伝えておらず……ざっと見たところいなかったんですけれど……さてどういうことなのか。
伝説ってことで、片付けていいでしょうか。
「張州府志に曰く、三社祠、在小幡村、祀白山、愛宕、八幡、疑是神名式桁機神祠、本国帳従三位桁機天神、祭天棚機媛命、今失社伝、不可得知、凡当村多松林、村民建小祠爲鎮、皆號山神、惣在六所。
尾張志に曰く、三社の社小幡むらにありて、白山愛宕八幡を合せ祀る、 府志に、疑らくは神名式に載たる多奈波太の神社ならむ、天棚機媛命を祭るといへり、今社伝を失ふ故に知れざるよし書るは誤也、その多奈波太神社は田幡村にあり、当村に松林多し、村民小社を建て鎮守とし皆山神と號す、総て六ヶ所にあり、むかし小治田の連等が住し里なれば、其祖神を祭りし古社なるべし、
尾張地名考に曰く、[延喜式]山田郡尾張戸神社、本国帳従三位尾張戸天神、瀧川弘美曰、此神社戦国以来其所在を亡失へり、按に小幡村今の白山宮其俤、(略)張州府志撰書の時、小幡村の三所明神は白山、愛宕、八幡を祀るとあり、今は愛宕は別に社地ありて、この白山の摂社は八幡と、天神とあり、 此天神はもと牛牧村の山伏の家にありしを、修験貧究にして銭八百文に民家へ買入とせしを、買取りて爰に摂社とすと也 【正生考】謹て考に、尾張戸天神の旧地は今の太永寺の西に、天神の森とて三百坪ばかりなる松山 大永寺の控なり ある、則是なるべし、今は社頭なし、大樹の伐株あり、往昔は大永寺の邊を宮地村と呼たりしと也 宮地島の名、今は守山の支村に少し残る され共今寺に於いて天神の森は全く菅原神の事と思はれき、いかにといふに、其伝記に、御治世の後寛永二年岡田伊勢守重経、京都女院の御所造営の監事を勤められし時、北野天満宮を信仰し、社僧松梅院より菅公自筆の画像を請得て、持ち帰り拝敬なせしかども、家に怪しき事再々あるのを惶れて、遂に香花の大永禅師に寄付せられたるよし伝来慥かにして、今門内に現然と画像天神の宮もあればなり、さて天神の森も住僧其菅原天神を混同にして、右伝説の末に明暦、万治の間一たび画像紛失して、尋覚といへども更に獲ることなし、一日天神の森の社内において画像を探得たり、夫より此かた永久寶奉ると書けるは例の牽合付会なるべし、そもそも天神の森は、本国帳にいへる尾張戸天神の森にて、尤宮地村の名残も著名、近世寛永二年岡田重経ぬしの受得られたる年歴より旧くありつる事、今松の伐株を見てもおしはからる、爰を以て天神の森と、寺内の天神は別別なる事をしりぬ。
[附言]現住瑞道曰寛政九年当寺十九世の和尚禅明の時、此庫裏を修復せむとて、官府に願ひて天神の森の大木両度に三十八本を伐取、或は用材にし、又は沽代なして、即作事にかかられたり、扨神罰の丁るまじき事かは、丁れりともとも、手斧始の日より第五に当る日禅明は故なくして頓死せらる、又其松の根を掘採し人夫どもは、おのおの疫病を煩ひてみなみな死たり、さて和尚なくなりたるに付て、法類十二ケ寺の内五ケ寺の僧侶此寺に敵対して、あられぬ訴訟を企、寺内の騒乱凶事連綿六ヶ年の間、無住荒廃困窮に及びたりしを、予眼前視る所なり、是偏に天神の神罰なりと予はしりぬ、然れども人夫の病死は一時にあらで、疫災永引漸々に死したれば、村民はそれを慮付さる族もありきと話されたり、[正生考]右はまさしく尾張戸天神の神罰なるべし、然るを瑞道和尚はじめ、いづれも菅原神の神罰と思ひおられき、(尾張戸神社の部参照)
明細帳合祀以前白山神社の部に曰く、当社ハ勧請年月不詳ト雖モ、姓氏録ニ欽明天皇の皇子小墾田王当所ニ居タモフ、依テ村名小幡ト云フハ、小治田ヲツツメテ言フコトナリ、此皇子御代々彦神ニ祀玉ヒシト、古老ノ口碑ナリ。」
↑この辺り、孫引きになってしまいますが、こうしてまとめていただけるのはありがたいです(いや、本当はちゃんと原書に当たらないといけませんけれども、学術論文でもないので、ちょっと手抜きを)。
『尾張地名考』は、いつもお世話になっている『尾張神名帳集説本之訂考』と同じ津田正生翁によるものなので、当時(江戸末期)の口碑が採取されていて興味深いところもあれば、独自の視点もありますので、参考程度に。
守山区、東谷山に「尾張戸神社」があるのですが、その旧地が「太永寺」の西の「天神の森」という松林だった、というところからこの「白山神社」が「尾張戸神社」と同一視される、という説があるのではないか……といったところでしょうか。
みんな「天神」を「菅原道真公」つまり「天満大自在天神」だと思い込んでいるが、そうれはなくて、「尾張戸神社」の神である、と。
勝手に木を切ったら祟られたんだけども、「尾張戸天神」じゃなくて「菅原天神」の祟りだと思い込んでいたのでさあ大変。
なかなか面白い伝説だと思います。
「(略)
境内社
(略)
弁天社
祭神 市杵島比賣命
(合祀したる祭神)
市杵島姫命
但し元愛宕社の末社、厳島社の祭神市杵島比賣命なりしが、明治四十三年七月十五日許可を得て、同所字東城四千五百六十三番、元村社白山神社境内市杵島社の祭神市杵島姫命を合祀するに方りて、之を弁天社と改称したり。
(以下略)」
普通、神仏分離したんだから、社名は「厳島」に寄せてくるだろう、と思わせておいてまさかの「弁天様」回帰。
まあ、明治後期なら、そんな目くじら立てる人もいなかったかもしれないですけれども。
「小墾田王」については謎なので調べたいところですが……そうか、『新撰姓氏録』、買わないといけませんか。
Kindleにないかな……(『神皇正統記』はあった……買ったはず……)。
守山区って、実は遺跡の街、古墳の街だったりするんですけれども、名古屋中心部からのアクセスが悪く、地下鉄も通っていないのでちょっとほったらかしになっている感じがあります。
きっと巡ったら面白いだろうなぁ……と思いつつ、有名どころしか行けていないのに、反省。
でも、戦国時代とか興味があまりないもので……小幡城とかね……。
まあいいや。
次も尾張です。