「榎白山社」を後にしまして、ごく近くにある「宗像神社」へ。
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「宗像神社(名古屋市西区)」 - べにーのGinger Booker Club
↑以前の記事です。
冬の日の昼間は、鮮烈です(?)。
「遷坐由来」の碑。
以前の記事で、だいたい現代語訳してあります。
本殿向かって右手に進むと、「金刀比羅社」があります。
その手前で左手を見ますと、狛犬さんたちが。
引退されたのか、仲睦まじくてよろしいかと。
狛犬さんたら
狛犬さん。
青銅の鋳造品でしょうか、結構珍しいし、近代的なデザインでかっこいいです。
「金刀比羅社」。
右手奥の「多聞龍神」。
他境内には、「和徳稲荷社」があります。
鳥居が、ご神木で左右に分かれておりますな。
珍しい。
お狐さんたら、
お狐さん。
手水鉢。
お狐さんたら、
お狐さん。
「和徳稲荷社」本殿。
御朱印。
この葵紋はこれでいいのかな……。
さてさて。
『尾張名所図会』では探せなかったので、
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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋
↑『尾張志2 名古屋』より。
6コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「宗形社
下御深井の内なる池の中島にありて今弁財天と申す社家の伝記に田心姫命を祭るといへり是はもと筑前ノ国宗像郡宗像神社に擬して三神を三處に移し祀れる事いちしるしく正しさもなべてならべておほゆる社也鎮坐のはじめは詳ならされとも応永五年三月宝徳二年五月など書る棟札も伝はりていと近世に祀れる社にはあらす (略※『日本書紀』『古事記』の引用)此両書に伝る説各異にして奥津宮邊津宮中津宮にまします處の神名互にたがへり又今彼社(筑前国宗像社)に伝たる説には三島ノ宮毎に三神を配享せるよしにて其中坐を本主とする也とそ(元来は一神一島に鎮座し給ひて三神三所にましまし事上文の古書ともに見えたるを中世己後かく配享する事世の常となりて諸国社々大かた■かり皆延喜式以後の定也)さて奥津宮といふは今奥島といふ島にて祭神田心姫を主として中坐に坐す左市杵島姫右湍津姫なるよし澳津島の社家の伝説也又宗像の社記の説に澳島社の神坐は中を市杵島姫とし主として左を田心姫右を湍津姫とす中津宮は祭神湍津姫を本主とし左田心姫右市杵島姫とす邊津宮は田心姫を主として左湍津姫右市杵島姫なるよし云り又筑前国続風土記に云三神御鎮坐の地古事記日本紀旧事紀三部本書の説同ならす三部の内にも又説多くしていづれか是なる事を知ら■後花園院文安元年に大宮司氏俊三社の縁起を改書せける其詞に曰第一ノ神は海泡を集て島を築居を遠海の奥に■めし給ふは末世に至るまて異国を降伏し給ふへきよし御誓ありて彼島にとどまり給ふ則奥御島と号す是日本高麗との中間にて遠瀛に居給ふ是を田心姫と号し奉る第二ノ神は居を中海の奥に示し給ふ今大島と号する是也中瀛に居給ふ是を湍津姫と号し奉る第三ノ神は居を海濱に示し給ふ今田島と号する是なり海濱に居給ふ是を市杵島姫と号し奉ると書りこの縁起は末世の説にして古き依證なけれはうちまかせては證としかたしいはむや三神鎮座の地日本紀旧事紀古事記にも背けり且鎮座の時も日本紀とあはすいかなる伝説ありてかく記してにやいぶかしと貝原篤信云り書紀古事記を初として古伝に異説あれはいつれをよしとも今定かには辨へかたけれと一神つ■奥中邊と三島に別れて鎮座しまへる事はうたがはさるなり さて此處の宗形の社も三神三所に別れて鎮座し給へり其社は此下御深井なる中島の宗形社又深島なる深島社武島なる瀧島社あり(略)此三社ともに同時に鎮座し給へる事疑なかるへし慶長年中御城御造営の時当社の地は北御庭の内となりしによりて源敬公殊に尊敬したまうひしをはしめとして御代々絶す御修理加へさせ給ひて並々ならぬ御社にそ有ける応永(略)
摂社 和徳稲荷社(倉稲魂命を祭る此やしろ旧は上御深井にありしを宝暦二年二月此ところにうつし祭れり) (略)」
途中で「宗像三女神:の話が入っているのでえらく長くなってしまいました。
どうも元々は「深島社」「瀧島社」があって、「宗形社」と合わせての「宗像三女神」だったようなのですが、それが名古屋城の北御庭の内になったことで、藩祖「徳川義直」の崇敬篤くなった、ということのようです。
「武島社」が、近くにあるんだったっけ……調べてみようと思いつつ、なかなかできていなかったりします。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編
↑では『名古屋市史』の「社寺編」も見ておきましょうか。
181コマです。
「六 宗像神社
宗像神社は西春日井郡金城村大字上名古屋字西内江に在り、境内は四百十四坪あり、もと辨才天といひしが、藩祖義直 敬公 筑前の宗像神社を勧請して、宗形社と号せり、今俗に辨天又は御深井の辨天と稱す、もと下御深井の池の中島 御深井向島と稱す、今北練兵場の西なる招魂社の森是なり(略) にあり、勧請の年月詳ならず、(略)従来は徳川家の私社なりしを、明治七年九月村社に列して、以来、開門して諸人の参拝を許され、同十四年金城村大字上名古屋の全部 もと西区五平蔵町は当社の氏子なり は本社の氏子となり、十六年七月維持規定を定め、二十二年六月、下御深井より今の地に正遷宮あり、祭神は中央田心姫命、左倉稲魂命、右徳川従二位権大納言義直卿霊なり、張州志略には神殿三座瀛津島姫命、湍津姫命、市杵島姫命とせり、敬公の霊は敬公自ら其荒魂を配祀すといふ、椋園時事録明治六年九月二十八日の條に、「源敬公ノ御社 宗形相殿 御霊代紛失ニ付、今日新ニ御霊代被納、 内家ヨリ 右ハ敬公御秘蔵ノ御太刀、竝ニ御所持ノ御笏、コノ二品ヲ桐ノ御箱ヘ入レ、被納候由、又右御深井内處々ノ御社、悉皆壹ヶ所ヘ合併、御一社ニ合享相成候由」とあり、
(略)境内神社には金刀比羅社、須佐之男社 祭神は須佐之男尊なり、もと当村の辻天王なりき の二所あり、
此金刀比羅社殿はもと本社の境内神社和徳稲荷社の本殿にして明治初年御深井の内なる種々の小社の合祀せられし以来、今の如く称するに至れり、和徳稲荷は祭神は倉稲魂命なり もとは屋船句句智命、屋船豊宇氣姫命なり もと上御深井に鎮座す、勧請の年月詳ならず、(略)本殿に合祀の神社は金刀比羅社 祭神は大己貴命、崇徳天皇なり、安政七年藩主茂栄、下御庭内に建立す、社前の銅製高麗狗一対は、同年米浜より寄附せしものなり、今の称はこの神社より起れり 、大山上西稲荷社(略)、大山中段稲荷社(略)、愛宕秋葉二社合殿(略)、國玉稲荷大明神社 もとは江戸市ヶ谷に在りき 、稲荷社 もとは江戸戸山にありき 、牛御前社 祭神は素盞嗚尊なり、もとは江戸に在り 、天白稲荷大明神社 もと御下屋敷に在りき 、白髭明神社 祭神は猿田彦大神なり、もと下御庭北島居上北より一に在りき 、五條天神社 祭神は少彦名命なり、もと下御庭鳥居上より北、御花畑北東に在りき 、吉田社(略)、牛頭天王八幡大神二社合殿(略)、智鯉鮒神社(略)、津島神(略)の十四所なり、
例祭はもと九月八、九両日なりしが、今は十月八日試楽、市内及び郡部斯道の名匠、各其門人と共に、凡二百名の盲人音曲の奉納あり(以下略)」
↑別文献の引用(孫引きになっています)もあるからか、なかなか詳しいことが書かれています。
「従来は徳川家の私社なりしを、明治七年九月村社に列して、以来、開門して諸人の参拝を許され」
↑なるほど、『尾張名所図会』にないわけです、そりゃそうですよね城内ですもの。
「金刀比羅社」の前の青銅製狛犬は、安政七年の頃にはもうあったようですね。
「和徳稲荷は祭神は倉稲魂命なり(もとは屋船句句智命、屋船豊宇氣姫命なり)」
見間違いでなければ、こういう風に書いてあったのですが、気になりますね……。
さすが御三家の一つ、江戸から勧請したらしき摂社も多かったり、何気に藩祖「徳川義直」の御霊(しかも荒魂っぽい)が祀られていたり……ああ、だから御朱印にも葵の紋、ですか。
ううむ、深い……尾張の勉強をしないとね……と思いつつもミーハーに神社仏閣巡りが限界です。
まだまだまいります〜。