9/22。
シルバーウィークは博物館明治村に行ったりして、それなりに楽しんでいました。
七五三……?
いや、初宮参りなのか、参拝者が非常に多くてびっくりしました(祝日でもありますか)。
「熱田神宮」は、何回も来ることになると思うので、少しずつお参りしていこうと思っています。
今回は、本宮向かって左の、細い道を進んでいきます。
突き当たりにあるのが、「一之御前神社」。
「天照大神の荒魂をお祀りします。
神様の御魂のおだやかなおすがたを「和魂」と申し上げるのに対して、時にのぞんで、活動的勇猛的なご神威をあらわされる御魂のおはたらきを「荒魂」と申します。」
「熱田神宮」でいただけるパンフレットには、
「熱田大神の荒魂をおまつりしています」
とあります。
「草薙神剣を御霊代とされる天照大神のことです」
という立場なんですね。
ま、明らかに騙りですが。
このまま、本宮の後ろをまわる「こころの小径」というのが整備されています。
そんなに距離はないです。
本殿の真後ろ。
そのまま進むと、「清水社」に出ます(本宮の東側)。
「罔象女神をまつり、古くから「お清水さま」と呼ばれている。平家の武将平景清が眼を患った折、この神に祈り湧き水で清めたところ、霊験あらたかであった事から眼の神様としての信仰が篤い。」
「平景清」といったら、
↑……という人も多いでしょうか(?)。
熱田に縁がある人のようで(まだ勉強中)、「熱田神宮」の宝物の中には、愛刀「あざ丸」もありますので、刀剣女子のみなさまもウハウハフッフーでしょうか(??)。
眼病を癒す湧泉の話は日本中(あるいは世界中)にありますが、綺麗な水で眼を注げば、多少はよくなるのも道理、な気がします。
「お清水
湧き水の中にある苔むした石は、享禄の古図(1529年頃)にも描かれている楊貴妃の石塔の一部との説もあり、三度水をかけて祈念すると願い事がかない、この水で肌を洗えば綺麗になるとも言われている。」
急に「楊貴妃」なんてビッグネームが出てきたので、ちょっとびっくり。
こちらについては後ほど。
たくさんの方が、水をかけていらっしゃいました。
もちろん、かけてません。
「清水社」の近くには、「御田神社」、
「龍神社」があります。
さて、境内結構混雑しているので、早々にあとにしまして、そのまま本宮の西側に向かいます。
摂社の一つ「下知我麻(しもちかま)神社」があります。
同じく摂社の「上知我麻神社」のほうは、別宮の「八剣宮」と同じ場所に祀られて、御朱印もあるのですが、「下知我麻神社」はひっそり……でもないんですけれどね。
「旅行安全の神様として古くから信仰の篤いお社です。(略)」
さすがに簡単すぎるような……。
近くの大きな交差点を西に渡り、ほぼ「下知我麻神社」と対面するような位置に、
「金刀比羅社」があります。
神紋が「丸に金」……なかなかストレートでよろしか。
境内には「水天宮」と、
「秋葉神社」があります。
さて。
まずは、
↑という素敵な本から。
とその前に、第二次大戦の空襲により、「熱田神宮」もほとんどの社殿を焼失していますので、現在見えている様子と戦前、さらには明治以前(明治23年に、本宮は尾張造から、「伊勢神宮」にならった神明造に変更されている)では全く異なる「熱田さん」だ、とお考えください。
それでは、
「摂社 一之御前神社 本宮の西北炭に近く南面して鎮座。天照大神の荒魂をまつる。」(p30)
「摂社 御田神社 本宮の東方に西面して鎮座。祭神は大年神で五穀豊穣の守護神である。この神社の春祭・秋祭の時に奉る神饌はまず烏に毒見させるという行事がある。」(p32)
「摂社 下知我麻神社 境内の西北隅に西面して鎮座。祭神は真敷刀俾(ましきとべ)命で、俗に「紀太夫社」という。延喜式内社である。」(p32)
「摂社 竜神社 御田神社の南方に西面して鎮座。祭神は吉備武彦命、大伴武日命であり、日本武尊東征に従軍した将軍である。」(p33)
なお「下知我麻神社」については、別ページにも記事があり、
「摂社 下知我麻神社(西門より三〇〇メートル・熱田区旗屋町)
神宮摂社の一つで、祭神は真敷刀俾命といい、宮簀媛及建稲種命の母命である。神戸町にある上知我麻神社に父命、乎止与命を祀り源太夫社とよび、ここを古くは紀太夫社と称していた。奉仕神役の人名をとって名づけたという人もある。因みに或る栗田家は福太夫といい、或る大原家は満太夫といった。(略)」(p94)
とのことです。
↑によれば、「吉備武彦命」は、東征に際して「景行天皇」によりつけられた副官らしく、越国に派遣されています。
「日本武尊」が東征を終えて帰還する際に美濃で落ち合い、のちに「日本武尊」が能褒野で倒れたときには、都に一人戻って、「景行天皇」に「日本武尊」の最後の言葉を伝えました。
またその娘「吉備穴戸武媛」が「日本武尊」の妃となり、子を設けています。
信頼篤い副官だった、ということでしょうが、何しろ「日本武尊」の実在が怪しいので、どんなものなのか。
一方の、「大伴武日命」は、同じく「景行天皇」につけられた副官で、「景行天皇」の先代の「垂仁天皇」紀にも「大伴連の遠祖武日」とあることから、信頼篤い武官のようです。
「日本武尊」が東征の終盤で甲斐の酒折宮にあったとき、「靫部(ゆけひのとものを)」を賜ったとされています。
岩波文庫『日本書紀』の補注によれば、「靫部は靫負でもあり、矢を入れる道具のユキを背負うもの、つまり兵士のこと。宮廷諸門の警護にあたり、大伴連がこれを統率した」(要約)とあります。
大伴氏(便宜上、そう呼びます)が既に朝廷の軍事を請け負っていたのか、この時期に何か功績があって軍事を司ることになったのかわかりませんが、職掌の起源を伝えているものと思われます。
なお、
↑では、「吉備武彦命」は、「御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)」という名前になっていますが、「吉備臣等の祖」ともありますので同一人物でしょう。
「大伴武日命」は、『古事記』未登場です。
『史跡あつた』が発行されたのは昭和37年で、名古屋市内にはまだ市電が走っていました。
もはや戦後ではなかったかもしれませんが、戦前の記憶も色濃く残したみなさんが書かれた本だと思います。
もちろん戦後ですので、ご祭神などは、現在の「熱田神宮」の認識とほぼ同じと考えられます。
というわけで、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
いつも通り『尾張名所図会』より引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
何しろ『尾張名所図会』ですから、「巻之三」はほぼ「熱田神宮」の記事、「巻之四」も熱田周辺の記事で埋め尽くされています。
174コマから、当時の「熱田神宮」の様子が図絵として残されています。
現在とはかなり違うことをご確認いただいて、178コマより、
「一御前祠(いちごぜんのほこら)
後本社の北にあり。祭神大伴武日命(おおともたけびのみこと)は日本武尊東征の御供せし副将。[日本書紀]の景行紀に見えたり。
龍神祠(りゅうじんのほこら)
後本社の北にあり。祭神吉備武彦命にして、大伴武日命と同じき副将なり。
まずのっけから、「一之御前神社」の御祭神が違っています。
175コマの、本殿がわかる図絵を見ると、「一御前祠」は、現代の位置関係に近い本殿の西南、「龍神祠」が東南で、一見すると「背後を守っている」という感じがします。
また、「御田祠」はご祭神こそ違っていますが、この移動はそれほど違和感はありません。
ちなみに、『史跡あつた』にあった「この神社の春祭・秋祭の時に奉る神饌はまず烏に毒見させるという行事がある。」というお祭りについても『尾張名所図会』に記事があり(191コマ)、
「同(※二月/ブログ筆者注)初未ノ日
御田社田植祭
はじめ政所にして祝詞をよみ、午の刻此社へ神供を備ふ。社前にて三管の音楽を奏し、神官二人大和舞をなす。又祝部数多太鼓にてはやし、田植唄をうたひ、田うゑの真似をなす。此祭畢(おは)りて、祝部長大宮の広前なる白洲に立ちて、神供の御下を軒に投げてからすに食はしむ。故に此祭をからす祭といふ。」
「此祭畢(おは)りて、祝部長大宮の広前なる白洲に立ちて、神供の御下を軒に投げてからすに食はしむ。故に此祭をからす祭といふ。」……あれ、真逆ですけど……。
ま、まぁ『尾張名所図会』は所詮観光案内ですから、正確さを求めてもいけないのかもしれません。
それから、「お清水」のところにあった楊貴妃の話もあり(187コマ)、
「楊貴妃石塔の址
もと清水社の辺にありしが、貞享三年御宮御修理の時廃絶して、今は其旧地のみ残れり。唐の玄宗帝我日本を侵さんの志ありければ、熱田の御神かりに楊貴妃と生れ、彼に仕へて其心を放蕩なさしめ、其事を防ぎ給ひしが、貴妃馬嵬にて失はれしかば、忽本国此宮へ帰り給ひしよしいへるは、五百年来の古書どもにしるして、甚ぶる俗説なり。古板の[長恨歌抄]に、彼方士が蓬莱にして貴妃に尋ねあひしは、則此熱田なるよししるし、大永三年の[樋河上天淵記]に『李唐玄宗募権威。欲取日本。于時日本大小神祇評議給。以熱田神請給。生代楊家而爲楊妃。乱玄宗之心醒日本奪取之志給。誠貴妃如失馬塊坡。乗舟着尾州智多郡宇津美浦。帰熱田宮給云々』と見え、[暁風集]に『尾張之熱田大明神則楊貴妃也。略在仙伝拾遺』など、又[本朝神社考]にくはしくいへる、みな[天淵記]の説に同じ。又楊貴妃が珠簾当所にありしを、亀山帝の勅によりて鎌倉の称明寺に納めしよし、[回國雑記]及び[新編鎌倉志]に見えたり。」
簡単に言えば、「熱田の神様が、楊貴妃になって、日本を攻めようという唐の玄宗皇帝を篭絡し、結果安史の乱、で楊貴妃は死ぬと熱田に(ときには船で知多半島に流れ着いたりして)戻ってきた」という伝承があるよ、と。
似たような話をどこかで聞いたことがあるような……。
ま、とにかく、「徐福」と「楊貴妃」は、近代以前の大陸の有名人の中でも、一、二を争う「日本に流れ着いた人」ですよね(熱田の場合は、もともと熱田の神様ですから、正確ではないですが)。
熱田の辺りを、昔は「蓬莱山」とか「蓬莱島」と呼んでいました。
江戸時代でも、「七里の渡し」という、対岸の桑名までの渡し船の出発点だったほど、熱田は海に近かったのですから、もっと昔は、それこそ「島」に見えてもおかしくなかったでしょう。
なぜそれを「蓬莱」と呼んだのか、は勉強不足です……。
248コマに、「下知我麻神社」の記事があります。
「下知我麻神社
鎮皇門の北の築地の外にあり。熱田摂社七社の一社なり。紀太夫社と称す。[延喜神名式]に下知我麻神社、[本国帳]に正二位下知我麻天神と見え、國造小止與命の妃眞敷刀婢命と、建稲種命の妃玉媛命二座を祭れり。 [神道集]に『熱田大明神始天下時、紀太夫殿宿不借入、源太夫殿雑事進人也』とあるは、蘇民将来・巨旦将来の事を混じあやまりたるなり。」
「紀太夫社」がなぜ「紀太夫社」なのか、は『尾張名所図会』程度では探れませんか……。
「熱田神宮」には、『熱田太神宮縁起』という史料があるので(800年代ということですが、実際には鎌倉〜室町のものだろうと)、それを調べればいいのですが、ちょっと時間がありませんので……。
不思議に思ったのは、おそらくですが、江戸から明治に移るときに、何らかの思惑で境内の整理が行なわれ、いくつかのご祭神が異動したりしたのだと思うのです。
で、大戦の空襲の後、境内地も戦前よりは狭くなったことでしょうが、それを再建することになった、と。
当然『熱田太神宮縁起』を参考にしたのだと思うのですが……「一之御前神社」の祭神が江戸時代(末期)には「大伴武日命」だったのが「熱田大神の荒魂」になっちゃってのは、いくらなんでも適当すぎないでしょうか。
『尾張名所図会』が信用できない資料である、ということは理解した上で、それでもなお「そうじゃないだろう」感が残ります。
うーん……これは『熱田太神宮縁起』をとりあえず手に入れないことにはいけないようですね……あ、デジタルコレクションにあったっけ……。
忘れていましたが、「金刀比羅社」についても記事がありました。
248コマです。
「金毘羅大権現
清の茶屋の西にあり。修験延命院是を守る。夫当神体は、京極高尚讃州より若州小濱へ移り給ふ時、象頭山にまゐり、夫より船出ありしに、央にして流れよる物あり。何心なく取上げしに神像の如し。高尚何の御像とも知り給はず。或夜千手観音、枕上に立ち給ひ、汝が海中にて得た像は金毘羅なり。汝が武運を守護し給はん。信心おこたるべからずと告げたまひて夢覚めぬ。高尚ありがたく思ひ給ひて、屋敷内に祀りたりしが、其後当地へ預け置かれしを、宝暦十年より当院に安置して、日々参詣たゆる事なく、霊験世に知るところなり。」
うーん、私は戦国武将や大名のことにはさっぱり疎いので、「京極高尚」が誰だかわからず、検索しても出てこず。
ただ、「讃州」や「若州小濱」とあるところを見ると、
○こちら===>>>
↑と関係ありそうな気がします。
でも、尾張に住んでいたっぽいので、違うのかなぁ……。
ふう……ちらっと御朱印帳をいただきにいっただけなのに、このブログを書くのにはえらく時間がかかりました。
「熱田神宮」恐るべし。
あ、御朱印は同じですので、割愛します。