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「味鋺神社」の参拝を終えて、初参拝、「別小江(わけおえ)神社」へ行って見ました。
○こちら===>>>
式内社、ということのようです。
ううむ、知らなんだ……。
「略記
(略)
一、祭神 いざなぎのみこと
いざなみのみこと
あまてらすおおみかみ
つきよみのみこと
すさのおのみこと
えびすのかみ
おおわけのむらじ
(略)
一、特記 延喜式(九〇一〜九二二)社にして古く名古屋市史蹟名勝として指定されている。」
なるほど……略記すぎ。
ううむ、結構遠い。
正月なので、おめでたい感じ。
実際、とても賑わっておりました。
「別小江神社
当社は「延喜式神名帳」に山田郡別小江神社、「尾張国神名帳」に従三位別小江天神とある式内社で、往古は六所明神と称したという。
祭神は、伊弉諾尊をはじめ六神。
以前は、ここより約三百m東北の千本杉にあったが、天正十二年(一五八四)織田信雄の命でここに遷座したという。昭和二十年の空襲で焼失したが、四十一年に再興。
大祭は、毎年十月十日から三日間。神輿も出て賑わう。
境内末社の一つ、延喜八幡社(祭神は神功皇后と応神天皇)は昔から安産・小児の守護神として住民の崇敬が厚い。」
○こちら===>>>
戦国時代に疎いので、「織田信雄」が誰なのかわからず、コトバンクさん頼り。
『朝日日本歴史人物事典』より、
「没年:寛永7.4.30(1630.6.10)
生年:永禄1(1558)
安土桃山時代の武将。織田信長の次男。母は生駒氏。尾張国清洲城に生まれる。幼名は茶筅,通称三介。名ははじめ具豊,のち信雄と改めた。「のぶお」とよむ場合もある。永禄12(1569)年,信長が伊勢国司家である北畠具教・具房父子を大河内城に攻めたとき,信雄を具房の猶子にする約束で講和が結ばれ,北畠氏を称した。以後,越前一向一揆討伐,紀伊雑賀攻め,石山本願寺との戦など,信長の主な戦いに参陣している。天正9(1581)年伊賀平定の功により伊賀3郡を与えられ,翌10年の本能寺の変のときは伊勢にいたが,近江土山まで出て光秀敗死の報を聞き,兵をもどしてしまった。そのころ北畠から織田に復姓している。同年6月27日の清洲会議の結果,織田家の家督は信雄でも,3男信孝でもなく,長男信忠の遺児三法師(秀信)が継ぐことになり,信雄はその後見役として清洲城と尾張・伊賀・南伊勢100万石を与えられた。その後,豊臣秀吉と組んで信孝を岐阜城に破り,その後切腹に追いこんだが,やがて秀吉と対立,天正12年には,徳川家康と結び,小牧・長久手の戦で秀吉と戦っている。しかしこのときは単独で秀吉と講和を結び,以後秀吉の越中攻め,小田原攻めに従軍した。ところが小田原攻めののち,家康旧領への転封を拒んで,秀吉の怒りを買い,下野烏山に配流され,出家して常真と号した。のちに家康のとりなしで秀吉の御咄衆となったが,一貫して家康サイドで動き,大坂夏の陣後,家康から大和国宇陀,上野国甘楽・多胡・碓氷郡のうちで5万石を与えられている。叔父の有楽斎(長益)に茶の湯を学び,茶人としても知られる。」
……まあ、ざっと読んでもわかりませんが、「織田信長」の次男ということで、いろいろ鬱屈したものもあったのだろうなぁと思います。
いきなり拝殿。
「蛭子社」「金刀比羅社」。
「恵比寿」様と「大黒」様、ですね。
後ろには、御嶽講のものと思われる碑や小さい祠が。
何か、小さい像が隠れておりますが……見えないかな。
社殿を向かって右方向より。
「清正の石」、だそうです。
「清正橋」の一部……あれ、どこかにありましたね……どこだったかな。
○こちら===>>>
「味鋺神社(北区)」 - べにーのGinger Booker Club
↑ああ、「味鋺神社」でした。
同じ北区にありますので、取り合ったんでしょうか……。
拝殿……ん、幣殿か……。
ご神木……だったと思います。
提灯。
本殿左手。
手前の石鳥居は、手水場の前にありました。
お正月ですので、このテントのあたりで御朱印を描いていただきました。
石標。
やっぱり「別小江神社」と「八幡神社」が並んで書かれているので、どちらも大切にされてきたのでしょう……か。
めでたい感じ。
御朱印。
お正月だからでしょうか、勘亭流のようにダイナミックな文字に墨と金泥で絵が……いや金泥かどうかは知りません……あ、そうだ、いただいたこれ、松の葉なのですが、まだ家の高いところに飾ってあります。
神社でいただいたおたよりによれば、
「三葉の松
別小江神社には、全国でも珍しいと言われる三葉の松があります。常緑樹である松でありながら黄金色になり落葉することから「金運」を得られると言われます。(以下略)」
だそうです。
さきほどのご神木が、その松のようです。
このおたより、安倍昭恵総理大臣夫人が参拝されたという記事もありまして……何といいますか、ナイスタイミングといいますか、本当にこの人はいい人で、あちこちに出かけているのだなぁと……ご本人はクリスチャンでしたっけ?
さて。
『尾張名所図会』を探して見たんですが、どうもなさそうなので、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 6 春日郡
↑『尾張志』の「春日郡」より引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
56コマです。
「別小江神社
延喜神名式に見えて今在所詳ならず」
……あれ。
ううむ……。
○こちら===>>>
↑『神社覈録』を見てみます。
404コマです。
「別小江神社
別は和気と訓べし、小江は仮字也、○祭神在所等詳ならず
連胤 按るに、春日郡乎江神社の別宮なるべし、されど今共に在所だにしれずなりしには、いかにともはかりがたし、集説に、物部印葉連之弟大別連歟と云るは例の推量りなるべし、(略)」
を……あれ、結局よくわからない。
「物部大別連公」は、『先代旧事本紀』で触れられており、
「この連公は難波高津の宮で天下をお治めになられた天皇(仁徳)の時代に侍臣を承り神宮を謹んでお祭りした。軽嶋の豊明宮で天下をお治めになられた天皇(応神)の皇太子である菟道稚郎子と同腹の妹、矢田皇女は難波高津の宮で天下をお治めになられた天皇(仁徳)の皇后となられたが御子をお授かりにならなかった。それで侍臣の大別の連公に命じて皇子代(諸国の国造の民の一部を割いて皇族名をつけその租税を皇室関係の経費としたもの)を定められた。皇后の名を氏とし、氏造とし改めて矢田部の連公の姓を授かった。」(p262)
とあります。
『日本書紀』には登場しませんので、独自の伝承なのでしょう(信憑性はよくわかりません)。
「大別連公」から「別小江」、「おおわけ」から「わけおえ」になった、というのはちょっと納得しがたいですが、物部氏の勢力がこの辺りまであった、ということなのかもしれませんし、近隣の「味鋺神社」などの物部系伝承によるものかもしれません。
そうなると、「乎江神社」という式内社の別宮という話は成り立たなくなりますので、さてどんなものなのか。
少なくとも延喜の頃に、「別小江神社」と呼ばれた神社があったのは確かです。
○こちら===>>>
↑『特選神名牒』ではどうでしょう。
166コマです。
「別小江神社
祭神 今按社伝祭神六所明神にて大乃伎神社の條に記せるが如くなれど例の疑し別小江神と云に據らば春日部郡乎江神社の別社などにやあらんされど彼乎江神社の所在詳ならねば今決めがたし
(略)
今按一説に春日井郡小田井庄上小田井村にます諏訪社なりと云れどこは固より春日井郡にて山田郡にはあらずと云ひ又更に由緒もなければ従ひがたし安井村の方は本国神名帳に大江天神とあり此村に地名に大江葭山千本杉など云處あれば一つの據とすべくまた浅野長政の父勝行が此村に住て大江八幡を祭りしとき社司稲垣某に與へし免状の文に別小江神社其方は社人の事候間五百文餘令修造云云天正十二申二月十五日勝行(花押)稲垣十太夫殿とあり是亦証するに足れり姑く附て考に備ふ」
↑「乎江神社」も所在不明、「別小江神社」も実は所在不明で、「六所明神」がそうなんじゃないの、的なノリで定められたっぽいです。
○こちら===>>>
↑『西春日井郡誌』を見てみましょう。
203コマです。
「別小江神社(式内) 萩野村大字安井字東出二百二十番地にあり。祭神伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日孁命、素盞嗚命、月読命、蛭子命を祀れる村社なり、一般には大別連を祀るといふ、創始年月詳ならざれども、延喜式神名帳に山田郡別小江神社、本国神名帳に、従三位別小江天神とある官社にして、元は当所千本杉と称する所に鎮座ありしを、天正十二年、織田信雄の命により、今の地に遷座せり、時に修造料五百文を下附せられたり、其証文今猶社内に存せり、慶長十三年、伊奈備前守検地の際、社領を没収せらる。(略)殿宇には神殿、拝殿、祭文殿等あり境内神社に五あり、八幡社(祭神神功皇后及誉田別尊)神明社(祭神天照大神)御嶽社(祭神大己貴命少彦名命)金刀比羅社(祭神崇徳天皇)津島社(祭神須佐之男命)之なり例祭は十月十日とす。
八幡社の由来。当社は元、別小江神社境内に於ける一村社なりしが大正九年六月十五日、其境内神社として合祀せらる、往古神功皇后の三韓を征し給ふや、凱旋後、筑紫に於て皇子御降誕あり、其時尾治国造、稲種御産屋に奉仕し御神胞を奉戴して当国春日部郡安井邑に帰り之を千本杉に奉安して、大胞(おほえ)の神と称す。天智天皇の白雉七年九月始めて官幣を奉り後神功皇后及誉田別尊を祀れり、称して延奈八幡といふ永正十七年八月大洪水ありて社殿大破に及びしが、安井郷士浅野又左衛門長勝(旧姓は藤井ならんか)津島に地を賜りて之に移住しこの八幡社も共に遷座したりき、天正十年長勝は、其従姪安井郷士犬飼八郎左衛門秀長と共に信長の命によりて秀吉に従属し、毛利氏を攻めるや、秀長乃ち誉田別の神像を奉戴して出陣し、神瑞によりて姓を浅野と改め、天正十一年、安井に帰りて社殿を造営し、奉戴せし所の神像を奉安せり、又是と同時に津島より神功皇后の神像をも遷座合祀せしものなり。(略)
爾来当社は軍神として、武運の長久を祈る将士の崇敬特に厚く、祭祀料又は神領を奉り、社殿を造営する等の事、古来屢々行はれたるが如し、尚世俗安井の里にて出来し藁を、産褥に敷く時は、安産疑なしとて、今尚其の説の盛に行はるるは、蓋し当社の由来より出しものならん。
現今安井には、犬飼、浅野の性最も多く、毎歳八月十五日には、犬飼祭りとて、此の一族の祭典ありて、村民に神酒を施與す。」
神社でいただける由緒書にも同様の記事があります。
「往古神功皇后の三韓を征し給ふや、凱旋後、筑紫に於て皇子御降誕あり、其時尾治国造、稲種御産屋に奉仕し御神胞を奉戴して当国春日部郡安井邑に帰り之を千本杉に奉安して、大胞(おほえ)の神と称す。」
↑ここにある尾張国造の「稲種」というのは、「日本武尊」の妃の一人「宮簀媛」の兄「建稲種」になるのでしょうか……ちょっと年代設定に苦しい部分がありますけれども。
とにかく、胞衣(えな)を祀ることで「大胞(おほえ)」と呼ばれた神社ができ、それが地名の由来にもなり……で、「別小江」にもつながっている、という感じでしょうか。
うーん……難しい。
『尾張国神社考』(原題「尾張国神名帳集説本之訂考、ブックショップマイタウン発行)には、やっぱり所在がわからず、と書かれており、どうも江戸の末期には「別小江神社」と呼ばれている神社はなく、「六所明神」がそれで、国学の隆盛やら何やらで式内社同定が熱心に行われるようになってきて、改めてここがそうだ、とされたのではないか、と思います。
延喜式の頃の「別小江神社」かどうかはわからないけれども、地域的なもの、規模的なものなどから考えて、蓋然性は高い、ということでしょうか。
物部系の神、というのは後付けのように思われますが、この辺りに物部氏の影響が大きかった可能性も十分にありますし、うーん、もうちょっと尾張の物部系氏族について情報がないと、妄想もできませんですね……。
今度は初詣でなく、もうちょっとゆっくりお参りしたいものです。
さて、そろそろ……いえいえまだまだ参ります。