べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「若宮八幡社」(再)(名古屋市中区)

1/22。

まだ1月ですが……今年はあまり遠出はせずに、近くをうろうろし直そう、ということで中区は若宮八幡社へ。

 

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「若宮八幡社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です(狐の話が結構面白いと思います)。

 

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ちょっと、狛犬を写真にとるのに目覚めたもので、狛犬さんが基本です。

 

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拝殿。

まだまだ新しいですね。

 

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「連理稲荷」のおキツネ様

 

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社殿のおキツネ様

 

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奥の院のおキツネ様

 

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住吉神社」の狛犬さん。

 

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「神御衣神社」。

 

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「熊野社」「日吉社」「香良洲社」「天神社」「秋葉社」の合祀社。

 

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恵美須神社」。

 

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正面鳥居の狛犬さん。

 

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駐車場入り口の狛犬さん。

 

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御朱印

 

さて、前回の記事ではまだ引用をあまりやっていなかったので。


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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』より、77ページ(コマではないです)から引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

若宮八幡宮 末広町の東側にあり。もと三の丸天王の社の南にありしを、慶長十五年御城築の時、東照神君御鬮をとらせられ、神慮に任せ此所に遷座なさりめ給ひて、御城下の鎮守と定め給へり。抑当社の祭神は、八幡宮応神天皇)の若宮大鷦鷯尊(仁徳天皇)にましまして、八幡宮も相殿にましますとぞ。天武天皇の御宇に始て御鎮座にて、延喜年中再営を加へ給ひ、その後安養寺といふ宮寺をたて、僧坊十二宇をおかれたり。天王坊もその内の一宇なるよし。しかるに天文元年の兵火にかかりて、神宮・僧坊もみな焼亡しけるを、同八年再営ありしよし、社記に見えたり。又[延喜神名式]に、愛知郡孫若御子神社(名神大)とあるは、此御社の事ならんかといへるは、若宮といふよしありげに聞こえ、又牛頭天王の若宮ならんといふ説もあれど、共にたしかなる據もなく、且若宮八幡宮の称年久しくして、遍く人のしる所なれば、社伝に随つて強ひて私意を贅せず。
本社 仁徳天皇
相殿 左応神天皇 右武内宿禰
拝殿
神輿殿
末社 熊野社・稲荷社・山王社・天満宮社・連理稲荷社。
(略)
芝居小家 境内にあり。
(以下略)」

 

図絵もありますのでご参考に。
社殿の配置はいろいろと変わっておりますが、「連理稲荷」の場所は今と変わりませんね。

「芝居小家」が境内にある、とまで書いてあるのに、それに関するエピソード(※前回記事参照)はない、と……もったいない。

「孫若御子神社」が、元々の姿ではないか、という説が以下にも出てきます。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

尾張志』の「2 名古屋」の6ページから。

 

若宮八幡社
末広町の東側にあり 此社もとは那古野庄今市場(今三の丸天王社の南)といふ地に有しを慶長十五年御遷府の時此処に遷座し奉れり 祭神は三座にて中坐仁徳天皇と本主とし左は応神天皇右は武内宿禰也と社説にいへり又文武天皇の御代に鎮座ありて後延喜年中に再興し給ひ供僧坊宇すへて十二宇を建添させ給へり 那古野庄内の鎮守の社にて此宮寺を安養寺と呼り 大永年中今川左馬介氏豊那古野の城を築て柳の丸と号け住ひ給たりしを海東郡(社説に中島郡とかけるはあやまり也)勝幡城主織田弾正忠信秀不意に此城をおそひとらるるとき今市場を放火したり◼︎◼︎は神社僧坊悉焼亡◼︎◼︎るを天文八年再興有ける 後に太閤秀吉公より社領二百石を寄附し給へるよしなとも社記にいへり さて此社を今は若宮八幡と称すれと往古はただ若宮とのみ呼来れりとそ 天野信景が本国神名帳集説に若宮社延喜十一年三月勅建(此処にかくいへるは供僧十二院の事にて神社鎮座の事にはあらし此下の文に盖往古鎮座而延喜帝加再復者乎といひ社説にも文武天皇の御代の鎮座也をいへれはなり)当時有供僧十二院旧無八幡号といへるは其本據さだかならねとも其頃まては慥に若宮との◼︎称し來りて八幡といふ称は其近き年頃(宝永四年以前)よりいひそめつといふことの著明伝はれりしなるへし 又同署に引用したる亀尾山再興記の文に蓬莱興之地威神垂鎮座金亀闃然愛霊尾亀尾山号由此(按熱田神宮寺号亀頭山亀尾対此之称云々)また曰安養寺(若宮宮寺)本尊熱田八劔御作即座下敷霊劔云々按此等之説則当社熱田所摂祠歟旧書以当社序天王祠上盖往古鎮座而延喜帝加再復者歟其若宮号近孫若御子(熱田孫若御子名神俗称彦若宮式内神社也)といへり さてこの孫若御子神社と申は今熱田大宮鎮皇門内南面に三社ならひ居給ふ中の一社にて社号も上古のままに伝はりて正しき其神◼︎はましませとももしくは此若宮社其本処にもやあらむとおほしきよしを附録してしはらく後の識者の考へをまつ事左のごとし そもそも延喜式神名帳に愛智郡孫若御子神社(名神大)と見え尾張国神名帳に愛智郡従三位上孫若御子天神(こは貞治本に據り神位は文治二年三月の宣命に加階増進せられたるにて今に至れる也明応本是に同し元亀本に正四位下とあるは古代のままなる写本に◼︎りて◼︎けるなるべしされは総て貞治本なるよりは諸社悉神位卑し皆准へて知へし又一位二位なとに上の字を添えたるは書写の者のみだり◼︎ざなるへし)とある 則此神◼︎て孫若御子といふ社号は熱田大神日本武尊)の御孫歟もしくは曽孫ならむも知へからす 既に神祇宝典に誉田天皇の御霊也此天皇日本武尊の孫也故号而曰孫若御子神也とかかせ給へるは古意にかなへる御説をこそおほゆれ 神名帳頭註に尾張国年魚稚武彦王三座を祭るとも吾勝尊を配享して四座なりともいふは皆中世巳後のさたなるべし(延喜式に一座とあれはなり) さて此頭注及熱田社説に稚武彦王といへる御名は孝霊天皇の御子なる稚武彦命と申に混したる名なり是は古事記に若建王とあるぞ正しき其文にいはく此倭建命娶伊玖米天皇之女布多遅能伊理毘賣命生御子帯中津日子命(一柱)又娶其入海弟橘比賣命。生御子若建王(一柱)とあるともて知へし 書紀には初日本武尊娶両道入姫皇女爲妃生稲依別王次。足仲彦天皇次。布忍入姫命次稚武王とあるにてしるへし 此若建王は書紀によれは御母は両道入姫皇女にて仲哀天皇の御弟にましまし古事記によれは御母は弟橘姫命にましまして御腹いつれも尊く坐す皇后たちのうませ給へる御子にしませば熱田大神御子神の列に殊にいはひ奉るはさるへきゆゑある事なるへし 孫若と◼︎も称奉れるは彼宝典にかかせ給へることと聞ゆる也 さて今の熱田なる孫若御子社といふはもとは遥拝所なりしが遂に本處と成たまへるか又うつして祭奉れる御社にもやあらむさ云ゆゑは先上古は大中小社と三等の差別及境域四至町数の格式なともいと厳重なりしおもふ■は宝亀二年二月十三日の太政官符に大社四至限九町といひ三間檜皮葺正殿一宇(高一丈二尺有板敷戸一本)堅魚木八丸(長五尺径九寸)千木四支(長一丈三尺)と記し瑞垣珠垣内外鳥居幣殿拝殿舞殿直会殿板倉盛屋左右廊馬屋等まて載て各間数寸尺とさへ記せること甚詳なり◼︎はかり厳重なる名神大社の(名神大社とはかの延喜神名式に名神大と記しこの太政官符に大社云々とあるをいふ) 熱田本宮の境内に今の如き小社にましますへくもおお■すしかれとも此若宮社は既に延喜の頃より宮寺僧坊あまた置れ仏家の掌れる御社となれるによりていつしか古社号を失ひはてて若宮とのみ申て遂に孫若御子といふ名の残らぬをさすかに熱田は大社にて元来かの社に属たる摂社にますが故に移して祭れる社なからも正しく旧社号の伝はれるにもやあらんあなかしこ (以下略)」

 

◼︎は、だいたいが変体仮名です(すみません、なかなか覚えきれませんで……)。

ざっと読んでいただいて、結局のところ「孫若御子神社」なのかどうかはよくわからないのですが、現在の「熱田神宮」にある「孫若御子神社」は確かに大社というには……という規模ですので、「熱田神宮」にあるのは遥拝所、という説はなかなか面白いように思います(「諏訪大社」を思い起こしますね)。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』「社寺編」の238ページから「若宮八幡社」の記事があります。

 

「三 若宮八幡社
(略)
境内摂社は、熊野神社(中央伊弉冉尊、左速玉男神、右事解男神を祀る、此赦もと城内に鎮座ありしが、寛文四年光友ここに徒す)、稲荷神社(倉稲魂命を祀る、元禄五年藩主綱誠の創建)、日吉神社大山咋命を祀る、元禄五年綱誠の創建)、天神社(菅公を祀る、寛永八年藩主綱誠の妾梅昌院創立)の四所にして、境内末社は、連理稲荷神社(宇賀之魂命を祀る、天保四年創立)、香良洲神社(末に詳説す)、神御衣神社(もと御衣社と称し、裁縫師が私に祀りしものなり、祭神不詳、明治三十六年海西郡立田村に鎮座の多度社(祭神不詳)と、津島社とを合せて、此社に遷す、是より始めて末社の列に入り、祭神を素盞嗚尊とす)、祖霊社(創立年次不詳、旧祠官の霊を祀る)の四所、もと境外の末社にして今離末せるものは西春日井郡清水町の八王子社、同杉村字西杉の春日神社、愛知郡中村大字則武字大秋の八幡社、同字中島の八幡社、同村字中野高畑の八幡社、水神社、同大字栄の八幡社、天地神社なり
(略)
香良洲神社はもと葉栗郡木曽川中小島と云ふ鹽濱に鎮座あり、式内の川島神社と称し、社地九町三段歩有り、天文の兵乱に廃頽せしを、一宮の社人大市へ遷す、寛延四年、若宮裏矢場町(今二之切西側)若宮の地域内に遷座あり、明治(十二年の届に既に末社たり)に至り、若宮境内末社となる、寛政十年、文化二年に社殿を修造す、祭神は天照大神少彦名命(略)」

 

↑主に摂社末社を中心に引用してみました(『名古屋市史』は大正年間の発行ですので、今とあまり変わりがありません)。

名古屋市史』に資料として、『尾張志』の全文が引用されていました(変体仮名はかなり直してある)……失敗失敗。

ともかく、徳川の時代には「若宮八幡社」、名古屋でもかなり大きな神社でしたので、記事もあちこちにたっぷりあります。

気になる方は、各自検索のほどを〜。

さて、ブラブラしようっと。