さ(いは)て。
「垂仁天皇」以後の「石上神宮」ですが、海外記事(主に半島)が増えていくのに連れてなのか、あまり見られません。
一方で物部氏自体は、「物部守屋」に到るまで朝廷内での勢力を拡大していっているようですので、「石上神宮」の力は暗然と存在した、と考えるといいのかもしれません。
↑「神功皇后」摂政前紀九年秋九月条に、
「皇后の曰はく、「必ず神の心ならむ」とのたまひて、則ち大三輪社を立てて、刀矛を奉りたまふ。」
とあり、三韓征伐に出る前、九州にあった際に、『延喜式』神名帳にある「筑前国夜須郡於保奈牟智神社」とされる神社(「大三輪社」)を立てて兵器を祀ったことが書かれています。
これなんか「石上神宮」でもよさそうなものですが、どうして「大三輪社」だったんでしょうね。
続きまして十七代「履中天皇」の記事です。
まだ「履中天皇」が皇太子だったとき、妃にしようとした「黒媛」を、「履中天皇」の兄弟である「住吉仲皇子」が犯すという事件が起こります。
事が露見したことを悟った「仲皇子」は先手を打って「履中天皇」を殺そうとして宮殿(難波にあった「高津宮」=父「仁徳天皇」の宮殿と思われる)を取り囲みますが、「平群木菟宿禰」「物部大前(もののべのおほまへ)宿禰」「漢直の祖阿知使主(あちおみ)」らに助け出されて逃げます。
それからいろいろありまして、最終的に、「石上の振神宮」に逃げ込みました。
同じく「履中天皇」四年十月には、
「石上溝(いそのかみのうなで)を掘る。」
とあります。
↑にもほぼ同じ記事があります。
二十代「安康天皇」は、「石上」に都した天皇です(「石上穴穂宮」)。
↑二十一代「雄略天皇」三年条に、「阿閉臣国見(あへのおみくにみ)」という人が、「𣑥幡皇女(たくはたのひめみこ)」(※伊勢の斎宮)と湯人(ゆゑ/入浴のお世話をする、という意味で皇族の身辺の世話をする職の一つか)の「廬城部連武彦(いほきべのむらじたけひこ)」を貶めようとして、「武彦が皇女を犯して妊娠させた」と風潮する、ということがありました。
「廬城部連武彦」の父である「枳莒喩(きこゆ)」という人がこれを聞いて、息子を殺してしまいます。
その後「𣑥幡皇女」は妊娠していないことがわかったのですが、「枳莒喩」は流言を広めた「阿閉臣国見」を殺そうとします。
その後の文章として、
「石上神宮に逃げ匿れぬ。」
とあるのですが、主語が不在で「阿閉臣国見」が「枳莒喩」から逃げ込んだのか、「阿閉臣国見」を殺した「枳莒喩」が逃げ込んだのかは判然としません。
二十三代「顕宗天皇」は、「履中天皇」の孫で、「市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)」の子供である「弘計(をけ)」のことです。
「市辺押磐皇子」は、「安康天皇」の後継者として有力だったようですが、「雄略天皇」の殺されてしまい、その子供である「弘計」「憶計(おけ)」の二人の皇子は播磨国に逃げ延びていました。
そこでひっそりと暮らしていたのですが、播磨国司の「伊予来目小楯」という人物がたまたま近くにやってきたので、天皇の血筋であることを名乗り出ようとします。
そこで「顯宗天皇」が詠んだのが、
「石の上 振の神榲(かむすぎ) 本伐(き)り 末截(おしはら)ひ 市辺宮に 天下治(しら)しし 天万国万押磐尊(あめよろづくによろづおしはのみこと)の御裔(みあなすゑ)、 僕らま。」
という歌です。
『古事記』では、
「物部(もののふ)の、我が夫子(せこ)の、取り佩ける、太刀の手上(たがみ)に、丹畫(か)き著け、その緒は、赤幡を載(かざ)り、立てし赤幡、見ればい隠る、山の三尾の、竹をかき苅り、末押し靡かすなす、八絃(やつを)の琴を調ふる如、天の下治めたまひし、伊邪本和気(いざほわけ)の、天皇の御子、市邊の、押齒王(おしはのみこ)の、奴末。」
となっています。
↑『播磨国風土記』にも、「弘計」「憶計」の2人が名乗り出る話はありまして、
「淡海は 水渟(たま)る国
倭は 青垣
青垣の 山投に坐しし
市辺の天皇の 御足末 奴僕良麻」(p121)
と詠んだとされています。
二十四代「仁賢天皇」は、「弘計」「憶計」のうち兄の「憶計」で、「石上広高宮」に都しました。
二十五代「武烈天皇」の時にも、「石の上〜」で始まる歌が詠まれたと掲載されています。
ざ〜っと見てきました。
履中紀、雄略紀に、「石上神宮」に逃げ込んだという記事がありましたが、寺社が一種のアジールとなったことの先駆けと見るべきか、半島にあった「蘇塗」に近いものと見るべきか。
といっても「蘇塗」は犯罪者が逃げ込んでもオッケーなところとされており、「石上神宮」の場合はむしろその武力や霊威を楯にして逃げ込んだものを渡さなかったのかもしれません(実際はともかくとして、後世から眺めれば非のないものを匿ったのか、「石上神宮」に匿われたことで非のないものになったのか、はわかりません)。
顯宗紀や『万葉集』にも見られる「石上」で始まる歌は、「石上」が枕詞として「布留」を導きます。
「石上神宮」のあるあたりを「布留」を呼んだことに由来するもので、これに「石上神宮」(というか大和地方)の神木あdったらしき「杉」もくっついて「過ぎる」が導かれる場合もあります。
↑一気に飛びまして、「天武天皇」三年秋八月の記事に、
「忍壁皇子を石上神宮に遣して、膏油を以て神宝を瑩かしむ。即日に、勅して曰はく、「元来諸家の、神府(ほくら)に貯める宝物、今皆其の子孫に還せ」とのたまふ。」
とあります。
「崇神天皇」「垂仁天皇」あたりでやたらと「神宝」をどうこうしていたような印象がありましたが、恭順の証拠として各氏族の「神宝」を召し上げ、それを「石上神宮」の納めていたというところでしょうか。
だんだん何をしているのかよくわからなくなってきましたが(毎回)、まだ続きます〜。