さてはて。
「穴師坐兵主神社」のところで散々引用しましたが、「野見宿禰」と「当麻蹴速」が相撲した時代の方です。
二十五年条に、
「阿倍臣の遠祖武渟川別・和珥臣の遠祖彦国葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根(とちね)・大友連の遠祖武日」(p38)
という、当時の有力な氏族五人の一人として「物部十千根」が出てきます。
二十六年秋八月条には、
「天皇、物部十千根大連に勅して曰はく、「屡使者を出雲国に遣して、其の国の神宝を検校へしむと雖も、分明しく申言者もなし。汝親ら出雲に行りて、検校へ定むべし」とのたまふ。則ち十千根大連、神宝を校へ定めて、分明しく奏言す。仍りて神宝を掌らしむ。」(p42)
とあります。
先代「崇神天皇」の時にも、出雲の神宝を見るために「武諸隅」が派遣されていますが、そのときに確認しているはずなのに、「垂仁天皇」の時代になって「物部十千根」が派遣されています。
同じエピソードじゃないかと思うのですが、どうなんでしょう。
「崇神」「垂仁」と、どうも「神宝」にこだわっている感じを受けます。
三十九年冬十月の条に、
「五十瓊敷命(いにしきのみこと/※「垂仁天皇」の皇子で、弟はのちの「景行天皇」)、茅渟の菟砥川上宮に居しまして、剣一千口を作る。因りて其の剣を名けて、川上部(かわかみのとも)と謂ふ。亦の名は裸伴(あかはだかとも)と曰ふ。石上神宮に蔵む。是の後に、五十瓊敷命に命じて、石上神宮の神宝を主らしむ。 一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥の河上に居します。鍛名(かぬちな)は河上を喚して、大刀一千口を作らしむ。是の時に、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、并せて十箇の品部もて、五十瓊敷皇子に賜ふ。其の一千口の大刀をば、忍坂邑に蔵む。然して後に、忍坂より移して、石上神宮に蔵む。是の時に、神、乞して言はく、「春日臣の族、名は市河をして治めしめよ」とのたまふ。因りて市河に命せて治めしむ。是、今の物部首が始祖なり。」(p50)
とあります。
同じ記事が『古事記』垂仁記に、
「次に印色入日子(いにしきいりひこ)命は、(略)、また、鳥取の河上宮に坐して、横刀一千口を作らしめ、これを石上神宮に納め奉り、すなはちその宮に坐して、河上部を定めたまひき。」(p106)
とあります。
「五十瓊敷命」、突然剣を千振りも作ったらしいです。
が、前振りがありまして、垂仁紀二十七年秋八月条に、
「祠官に令して、兵器(つはもの)を神の幣とせむと卜はしむるに、吉し。故、弓矢及び横刀を、諸の神の社に納める。仍りて更に神地・神戸を定めて、時を以て祠らしむ。蓋し兵器をもて神祇を祭ること、始めて是の時に興れり。」(p42)
と、武器の類を神社に祭る祭祀が、この時代に始まったと書いています。
ええと、そうするとですね、散々出てきた、「素戔嗚尊」の「十握剣」が「石上」にあったとかいう話や、崇神紀九年の、
という話はどうなるんでしょうね。
それはともかく。
また垂仁紀三十年では、「垂仁天皇」が「五十瓊敷命」と「大足彦尊」(後の「景行天皇」)に、それぞれ願いのものを言わせているのですが、その中で「五十瓊敷命」は「弓矢が欲しい」とおっしゃり、「大足彦尊」は「皇位が欲しい」とおっしゃって、それぞれが望みのものを手にいれた、ということがありました。
「武器を神社に祭る」ことが始まり、「五十瓊敷命」は弓矢を手にした、つまりなんらかの武力を手にいれたということではないかと考えられます。
これらを前振りとして、「五十瓊敷命」は、自分の力を誇示するがごとく、「茅渟の菟砥川上宮に居しまして、剣一千口を作る」わけです。
「茅渟の菟砥川上宮」は河内(和泉)にあるとされ、その辺りが「五十瓊敷命」の勢力地だったのではないかと考えられます。
※なお、「五十瓊敷命」などについての妄想が、
○こちら===>>>
「伊奈波神社」 - べにーのGinger Booker Club
「伊奈波神社」(続) - べにーのGinger Booker Club
「伊奈波神社」(続々) - べにーのGinger Booker Club
「伊奈波神社」(妄) - べにーのGinger Booker Club
↑にありますのでよろしければ。
その剣を「石上神宮」に納めた、また最初は「忍坂邑」に納め、続いて「石上神宮」に遷した、ということになっているようです。
「忍坂邑」が大和地方だとすれば、「神武天皇」が現地の敵対勢力を誘い込んで誅戮した場所で、「坂」でもありますから何らかの神が祀られていても不思議ではないです。
先に挙げた崇神紀九年の、
という記事でも、武器を祀られているのは「坂」の神です(「坂」は「サカイ」でもあります)。
垂仁紀八十七年春二月条では、
「五十瓊敷命、妹大中姫に謂りて曰はく、「我は老いたり。神宝を掌ること能はず。今より以後は、必ず汝主れ」といふ。大中姫命辞びて曰さく、「吾は手弱女人なり。何ぞ能く天神庫に登らむ」とまうす。五十瓊敷命の曰はく、「神庫高しと雖も、我能く神庫の為に梯を造てむ。豈庫に登るに煩はむや」といふ。故、諺に曰はく、「天の神庫も樹梯の隨に」といふは、此れ其の縁なり。然して遂に大中姫命、物部十千根大連に授けて治めしむ。故、物部連等、今に至るまでに、石上の神宝を治むるは、是其の縁なり。」
とありまして、やっと「物部十千根」が「石上神宮」を主管することとなりました。
ところが、先ほど挙げた垂仁紀三十九年条の「一に云はく」、つまり異伝では、
「其の一千口の大刀をば、忍坂邑に蔵む。然して後に、忍坂より移して、石上神宮に蔵む。是の時に、神、乞して言はく、「春日臣の族、名は市河をして治めしめよ」とのたまふ。因りて市河に命せて治めしむ。是、今の物部首が始祖なり。」
という具合に、「春日臣」の「市河」という人が治めており、それが「物部首」の始祖だと言っています。
異伝は異伝なので、という具合に突き放すこともできますが、垂仁三十九年条(「五十瓊敷命」が「石上神宮」の神宝を掌る)から、垂仁八十九年条(「大中姫」に「石上神宮」の主管を譲ろうとするが断られ、「物部十千根」に渡る)の間、実に五十年の歳月が流れているのですが、記事としては「垂仁三十九年」の次が「垂仁八十九年」、つまりその間の五十年間の記事は無いんです。
ということはこの件、どうしても書いておかなければいけないことだったのだと思われます。
『先代旧事本紀』では、「物部十千根」は、前回出てきた「伊香色雄」の子どもとなっています。
内容は『日本書紀』とほぼ同じです。
このあたりの系譜の年代の矛盾が気になる人は気になると思いますが(前回出てきた、「崇神天皇」に仕えて出雲の神宝を見に行った「武諸隅」は、「伊香色雄」の孫なので、「伊香色雄」の子どもである「物部十千根」の方が後の時代になって活躍しているのがちょっと変)、何歳離れているなどの描写は全然ないので、「ま、そういうものか」と思っていただければと。
「春日臣」の「市河」という人については、ええと、また調べておきます。
『日本書紀』垂仁紀には他にも、丹波で「牟士那(むじな)」という獣の腹から出てきた「八尺瓊の勾玉」を「石上神宮」に納めたという記事や、「天日槍」の末裔が持っていた神宝をてんの「垂仁天皇」が見たいといって、献上させたという記事があります。
やはり、「神宝」を集めているような印象があります。
あと、いつも気になっていたのですが、「一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥の河上に居します。鍛名(かぬちな)は河上を喚して、大刀一千口を作らしむ。是の時に、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、并せて十箇の品部もて、五十瓊敷皇子に賜ふ。」という部分。
どうして、「十箇の品部(しなべ)」だったんでしょう。
「品部」は、それぞれ様々なものの制作に関係した氏族のことなのですが、この中に「大穴磯辺(おおあなしべ)」なんてあるのが気になりますよねぇ、「穴師坐兵主神社」について考えてきた身としては。
↑の「一に云はく」の前の部分(本文)には、「茅渟の菟砥川上宮に居しまして、剣一千口を作る。因りて其の剣を名けて、川上部(かわかみのとも)と謂ふ。亦の名は裸伴(あかはだかとも)と曰ふ。」という描写があって、剣の名前に「川上部」「裸伴」とつけられたらしいことがわかります。
これは、本来剣を鍛えた氏族に対する呼び名だったものが、そのまま剣の名前として使われたもの、と解釈されています。
だとすると、逆に考えれば、その直後の「一に云はく」の部分の、「楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、并せて十箇の品部」は、それぞれに対応した何らかの「物」があった、ということではないでしょうか。
いや、実際あったんでしょう。
それが、「饒速日尊」の持ってきたという天璽の瑞宝、いわゆる「十種の神宝」だったとしたらどうですかお客さん(?)。
とはいっても、あんまり共通点がないんですよねぇ……。
というわけで、続きます〜。