べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「石上神宮」(補々々々々)

さてみなさん。

……あ、ガ○○ムフ○○トは始まりません。

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 

先代旧事本紀 現代語訳

先代旧事本紀 現代語訳

 

 

↑から、神代〜「神武天皇」以降の「石上神宮」に関係していると思われる記事を拾っていきまっしょう。

物部氏に関するものとして、『日本書紀崇神紀に、

 

「(崇神天皇の)母を伊香色謎(いかがしこめ)命と曰す。物部氏の遠祖大綜麻杵(おほへそき)の女なり。」(p275)

 

とあります。

先代旧事本紀』の系図では、

 

饒速日尊 ー 宇麻志麻治命 ー 彦湯支命 ー 出石心大臣美琴ー 大水口宿禰命 ー 大綜麻杵命 ー 伊香色謎命

 

となっています。

ということは、「崇神天皇」は物部系だということですね。

 

次は、「大物主大神」関係で、「大田田根子」が見つかったあとのことですが(七年)、

 

「乃ち物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)をして、神班物者(かみのものあかつひと)とせむと卜ふに、吉し。」

「十一月の丁卯の朔己卯に、伊香色雄に命せて、物部の八十平瓮を以て、祭神之物(かみまつりもの)と作さしむ。即ち大田田根子を以て、大物主大神を祭る主とす。又、長尾市を以て、倭の大国魂神を祭る主とす。然して後に、他神を祭らむと卜ふに、吉し。便ち別に八十万の群神を祭る。仍りて天社・国社、及び神地・神戸を定む。是に、疫病始めて息みて、国内漸に謐りぬ。」(p282)

 

 

とあります。

古事記』では、

 

「また、伊迦賀色許男命に仰せて、天の八十平瓮を作り、天神地祇の社を定め奉りたまひき。」(p100)

 

となっています。

名前でわかると思いますが、『先代旧事本紀』では、「伊香色謎命」と「伊香色雄」は兄妹となっています(記紀ではそこまでは書いていません)。

 

崇神紀六十年に、「崇神天皇」が、「出雲大神の宮(今の出雲大社か、あるいは熊野大社か)にある、「武日照命(たけひなてるのみこと/武夷鳥、天夷鳥とも)」が天から持ってきた神宝を見たい」とおっしゃり、「武諸隅(たけもろずみ/大母隅とも)」が派遣されました、という記事があります。

神宝を管理していたのは、出雲臣の遠祖「出雲振根」という人なのですが、筑紫国に行っていて「武諸隅」には合わなかったようです。

すると、「出雲振根」の弟である「飯入根」という人が、天皇の命令というので神宝を献上してしまいます。

戻ってきた「出雲振根」は、「数日待てばよいものを、何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」と怒り、弟を殺そうと決意します。

ここで、「出雲振根」は、自分の木刀を持って弟を水辺に誘い、水中で遊んだ後、木刀と弟の刀をすり替えて斬り殺す、という荒技に出ました。

報告を受けた「崇神天皇」は、「大吉備津彦」と「武渟河別」という、当時「四道将軍」の二柱を派遣して「出雲振根」を倒します。

出雲臣は、このことで「大神を祭らず」にいたところ、丹波の氷上の人が「崇神天皇」の皇太子だった「活目尊」に、

 

「己が子、小児有り。而して自然に言さく、

 

玉■(※「くさかんむり」に「妾」)鎮石。出雲人の祭る、真種の甘美鏡。押し羽振る、甘美御神、底宝御宝主。山河の水泳る御魂。静挂かる甘美御神。底宝御宝主。

 

是は小児の言に似らず。若しくは託きて言ふもの有らむ」

 

 

といいました。

皇太子は「崇神天皇」に報告し、

 

「則ち勅して祭らしめたまふ。」

 

となりました。

古事記』にはこの話はないのですが、同じように刀と木刀を取り替えてだまし討ちにする、という話が「日本武尊」と「出雲建」との間に起こったこととして伝えられています。

その後に読まれた歌もほぼ同じですので、これは実際には同じエピソードだったと考えられます。

先代旧事本紀』では、「武諸隅」を「物部武諸隅連公」として、「大母隅」を「物部大母隅連公」として、ともに「伊香色雄命」の孫にしています。

どうも『先代旧事本紀』としては、朝廷勢力が「出雲」への干渉を増していた時代に、物部氏がしっかり関わっていたのだ、と言いたいようです。

もうお忘れかと思いますが、

 

○こちら===>>>

「鷲宮神社」(続)〜関東巡り〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑で妄想を展開したときに出てきたように、「武日照命(たけひなてるのみこと/武夷鳥、天夷鳥とも)」(『古事記』では「建比良鳥命」)は、「天穂日命」の御子神です。

あんまり指摘されないようなんですが、これってどういうことかというと、「武日照命」もまた、天孫なんですね。

ほら、「天照大神」と「素戔嗚尊」の「誓約(うけい)」で生まれたのが、「天忍穂耳尊」、「天穂日命」他六柱の神々。

それぞれの子供が「邇邇芸尊」と「武日照命」。

まごうことなき天孫なので、当然「天神の子の証として神宝を持っている」はずなのです。

ここで言われている「出雲の神宝」が何なのか、「活目尊」が聞いた歌によると「鏡」のようですが、それが「天神の子としての神宝」なのか、もともとの「出雲の宝」なのかはよくわかりません。(※2016/3/16修正:「天から持ってきた宝が見たい」ということなので、当然「天神の子としての神宝でしたね)。

 

おっと、脱線脱線。

 

先代旧事本紀』「巻第五 天孫本紀」では、

 

「〜伊香色雄の命は、(略)磯城の瑞牆の宮で天下を治められた天皇崇神)の時代に大臣にご命令を下して、神々へのお供え物の麻布を分けて、天つ神・国つ神のそれぞれの社を定め、物部が率いる多くの人々たちが作った神祭りのための品々で八十万の神々をお祭りした。その際に布都の大神の社を大倭の国の山辺郡の石上村(略)にお遷ししてお建てした。天つ神の先祖が饒速日の尊に授けて、天から受け継いで持って来られた天璽(天孫のあかしとなる)の瑞の宝を同じ場所に共に納め、石上大神とお名づけした。国家の氏神として崇拝し鎮座された。皇后の一族である大神臣が神宮を謹んでお祭りした。」(p255)

 

としています。

崇神天皇」の時代に疫病が流行り、どうやら祟りの源は「大物主大神」のようだ、ということが分かったので、「大田田根子」を連れてきて「大物主大神」の神主に据え、さらに「倭直長尾市」が「倭大国魂大神」を祀って(「天照大神」も宮中から弾き出していますが)、それでやっと他の神々を祀ってもいいという占い結果になった、というのが『日本書紀』『古事記』の大筋です。

先代旧事本紀』はそれに加えて、

 

「便ち別に八十万の群神を祭る。仍りて天社・国社、及び神地・神戸を定む。」

 

という『日本書紀』の記述からでしょうが、

 

「天つ神・国つ神のそれぞれの社を定め、物部が率いる多くの人々たちが作った神祭りのための品々で八十万の神々をお祭りした。その際に布都の大神の社を大倭の国の山辺郡の石上村(略)にお遷ししてお建てした。天つ神の先祖が饒速日の尊に授けて、天から受け継いで持って来られた天璽(天孫のあかしとなる)の瑞の宝を同じ場所に共に納め、石上大神とお名づけした。」

 

という「石上神宮」の由緒を入れ込んできています。

これに関しては、そもそも物部氏系の歴史書ですので、自分の氏神の由緒を入れることは不思議ではありません(神社の由緒って、そういうのが多いと思いますので)。

それより、「布都の大神の社を大倭の国の山辺郡の石上村」「お遷し」した、ということは、それまでどこにあったのか……あ、ひょっとして吉備にあるっていう、「石上布留神社」にあったんでしょうか。

それを、今の「石上神宮」の地に遷した、ということになると、「素戔嗚尊」の佩刀「十握剣」はやはり吉備にあった、と……で、そこから一緒に持ってきて、「韴霊」と「十種神宝」と合わせてお祀りした。

先代旧事本紀』的な解釈をすれば、こうした説明がつけられる、ということですね。

割と無理のない説明かと思いますが、そうなると何故「素戔嗚尊」の佩刀が吉備にあったのか、という大きな謎が残りますし、そもそもそれを何故物部氏が祀っていたのかがもっと大きな謎ですし。

一番根本的な疑問は、「天安河原の誓約(うけい)」の場面で「天照大神」は「素戔嗚尊」の「十握剣」を「噛み砕いて」、御子神を生み出したはずで、とすると「素戔嗚尊」はその後どうやって「十握剣」を持って「八岐大蛇」を退治できたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、多分直してもらったからですね(ほら、「イシコリドメ」とか「アマツマラ」とか、優秀な鍛冶神が高天原にはいたようですから)。

それはいいのですが(?)、「崇神天皇」の時代というのは、「出雲の神宝」の件もそうですが、「神宝」を集めていたのかな、と思わせますね。

その割には、「出雲の神宝」はほったらかしにして水底に沈んでいるっぽい歌があったり、「天照大神」は追い出されたりしているんですが。

このズレはなんなんでしょうねぇ……。

 

 

 

結局長くなってきましたが、お付き合いを〜。

まだ続きます。

 

(※2016/3/16修正)