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神社仏閣ラブ(弛め)

「伊奈波神社」(続)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第2輯 第1編

 

↑『木曽路名所図会』からの引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

131コマです。

 

因幡神社 厚見郡岐阜稲葉山の麓に鎮座あり。[延喜式]に云く、物部神社物部氏の祖なり。
祭神 五十瓊磯入彦命。垂仁天皇の皇子なり。例祭三月三日。
鳥居額 『正一位因幡社』文永四年丁卯沽洗二日。従三位藤原朝臣経朝書す。
当社はじめは伊奈波山椿原に鎮座し給ふ。天文八年のころ、斎藤秀龍城を築く時、今の地に遷座ある。又土人の諺に云く、此やしろ上古は因幡国にありしより、此神号あり。山を金花山ともいふは、陸奥の金花山に似たるといふ。[神名帳]及び[三代実録]にも見えたれば、物部氏の祖なりとぞ。本社の傍に神木三本杉あり。めぐりには末社多し。中門・回廊・石階・拝殿・鳥居・明轎庫・玉垣・絵馬殿、下段の地に瀧あり。社頭壮麗にして、誠に岐阜一都会の生土神とぞしられける。」

 

127コマには図絵もあり、たくさんの末社がお祭りされている様子もうかがえます。

因幡神社」と書かれており、式内社の「物部神社」でもある、ということですね。

祭神にも、「物部十千根命」が祀られております。

 

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伊奈波神社について|伊奈波神社

 

↑公式HPでは、主祭神である「五十瓊敷入彦命」について、

 

「 先ずお祀りされている神様は、「五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)」と申し上げ、第十一代垂仁天皇の長男で、第十二代景行天皇の兄にあたり、古事記日本書紀にもそのご事蹟が記載され、父垂仁天皇から弓矢を賜り武事をおさめ、また、勅命によって河内、大和、摂津、美濃など諸国に開拓された池溝の数は、実に800に及び、このため諸国の産業は勃興し、農事は豊かになって天下は泰平であったと記している。更に茅渟の川上宮にて劔1千口を作り、これを石上神宮に納めて有事に備えられた。今でいえば内政、土木、軍事などあらゆる面で活躍されたといえる。
   薨去の翌年(景行天皇14年)命のご偉徳を偲び稲葉山金華山)の地(丸山)に鎮斎申しあげたのが始まりで、それ以来1900年余りの長きに亘り、「心のふるさと」として親しまれている。天文8年(1539)斎藤道三稲葉山城を居城とするにあたり、現在の地に遷し奉った。昭和14年11月1日国幣小社に列せられる。
  我々の祖先は揖斐・長良・木曽の三大川に恵まれ水の恩恵に浴したものの一方では、洪水に悩まされ洪水から守り稔り豊かな土地にする事が土地を治める者の最大の務めであり、「水を制する者は天下を制す」と諺があるように、水を制するには金を以て当てるというのが陰陽五行の信仰であり、この地方は特に金、水に関する地名も多く伊奈波神社は水を防ぐ信仰の神社でもあった。近年神徳を慕って家内安全、商売繁盛、初宮詣、七五三詣、安産、交通安全、土建、水利などの参拝が多い。」

 

↑とあります。

同じHPで、『美濃国第三宮因幡社本縁起書』という社伝が紹介されていますが、そこの記述を基にしているようです。

 

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

 

 

↑『日本書紀』での登場場面は、垂仁天皇紀三十年条の、

 

「……天皇、五十瓊敷命・大足彦尊に詔して曰はく、「汝等、各情願しき物を言せ」とのたまふ。兄王諮さく、「弓矢を得むと欲ふ」とまうす。弟王諮はく、「皇位を得むと欲ふ」とまうしたまふ。是に、天皇、詔して曰はく、「各情の隨にすべし」とのたまふ。則ち弓矢を五十瓊敷命に賜ふ。仍て大足彦尊に詔して曰はく、「汝は必ず朕が位を継げ」とのたまふ。」

 

というシーンです。

「大足彦尊」は、「垂仁天皇」の次の「景行天皇」、「日本武尊」の父です。

古代において天皇位は長子継承ではなく、ときに末子継承が行われていたようですので、そのことを表していると考えられます。

五十瓊敷入彦命」は軍事を担った、ということですね。

他には、三十五年条の、

 

「五十瓊敷命を河内国に遣して、高石池・茅渟池を作らしむ。」

 

と、三十九年の、

 

「五十瓊敷命、茅渟の菟砥川川上宮に居しまして、剣一千口を作る。因りて其の剣を名けて、川上部(かわかみのとも)と謂ふ。亦の名は裸伴(あかはだかとも) (略) と曰ふ。石上神宮に蔵む。是の後に、五十瓊敷命に命せて、石上神宮の神宝を主(つかさど)らしむ。 一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥の河上に居します。鍛名は河上を喚して、大刀一千口を作らしむ。是の時に、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、幷せて十箇の品部(とものみやつこ)もて、五十瓊敷皇子に賜ふ。其の一千口の大刀をば、忍坂邑に蔵む。然して後に、忍坂より移して、石上神宮に蔵む。是の時に、神、乞して言はく、「春日臣の族、名は市河をして治めしめよ」とのたまふ。因りて市河に命せて治めしむ。是、今の物部首が始祖なり。

 

という記事があります。

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 

↑『古事記』では、垂仁天皇記において、

 

「次に印色入日子命は、血沼池を作り、また狭山池を作り、また日下の高津池を作りたまひき。また鳥取の河上宮に坐して、横刀一千口を作らしめ、これを石上神宮に納め奉り、すなはちその宮に坐して、河上部を定めたまひき。」

 

とあります。

垂仁天皇」の宮は纒向(奈良県)にあったようです。

次代の「景行天皇」も宮は奈良においています。

垂仁天皇」の前代「崇神天皇」の時代には、四道将軍が派遣されたり「武埴安彦」の反乱があり、「垂仁天皇」時代には皇后「狭穂姫」の兄「狭穂彦」の謀反があり、「景行天皇」の時代に「日本武尊」が活躍したように、まだまだ天皇の威光が国中には及んでいない時期だったようです。

五十瓊敷入彦命」も武力を司っていたようですから、各地を巡っていたのかもしれません。

河内国をまかされたのは、奈良への防衛拠点だったからなのか。

天皇以外の皇族で記紀に記事がある方というのは、当代に活躍された方なのだろうと思います。

 

一方の「物部十千根命」です。

やはり『日本書紀垂仁天皇紀の二十五年条に、

 

「……阿倍臣の遠祖武渟川別・和珥臣の遠祖彦国葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根・大伴連の遠祖武日、五の大夫に詔して曰はく……」

 

と、当時の有力な五つの氏族の一つとして登場し、二十六年条に、

 

「……天皇物部十千根大連に勅して曰はく、「屢使者を出雲国に遣して、其の国の神宝を検校へしむと雖も、分明しく申言す者も無し。汝親ら出雲に行りて、検校へ定むべし」とのたまふ。則ち十千根大連、神宝を校へ定めて、分明しく奏言す。仍りて神宝を掌らしむ。」

 

とあります。

前代「崇神天皇」の頃にも、天皇が出雲の神宝を見たい、と言ってひと騒動が起こっています(書き方は、出雲国造家の内紛のようですが)。

どうも出雲国の力を天皇家が恐れているようで、事あるごとに嫌がらせをして(徳川幕府が参勤交代させたみたいなことでしょうか)、国力を低下させようとしている気配があります。

「三種の神器」がひとの目に触れなくなったのは、それほど昔のことではないと思いますが、「神宝」は世人が簡単に見られるものではない、というのは共通した認識だったと思います。

「国の宝」であれば一層、王でなければ見られないでしょう。

それを「見たい」「見せろ」ということが「圧力」なんでしょうね。

崇神天皇」の時代の騒動で、出雲国造家は力を落としているようですが、「神宝」がどんなものかはっきりとは明かしておらず、「垂仁天皇」の時代にも「物部十千根命」を派遣して検分させています。

その内容が書かれていない、というのがちょっと意味深ですね……本当に「物部十千根命」は、「神宝」を見たのでしょうか。

さらに、垂仁紀八十七年条には、

 

「五十瓊敷命、妹大中姫に謂りて曰はく、「我は老いたり。神宝を掌ること能はず。今より以後は、必ず汝主れ」といふ。大中姫命辞びて曰さく、「吾は手弱女人なり。何ぞ能く天神庫に登らむ」とまうす。 (略) 五十瓊敷命の曰はく、「神庫高しと雖も、我能く神庫の為に梯を造む。豈庫に登るに煩はむや」といふ。故、諺に曰はく、「天の神庫も樹梯の隨に」といふは、此其の縁なり。然して遂に大中姫命、物部十千根大連に授けて治めしむ。故、物部連等、今に至るまでに、石上の神宝を治むるは、是其の縁なり。昔丹波国の桑田村に人有り。名を甕襲と曰ふ。則ち甕襲が家に犬有り。名を足往と曰ふ。是の犬、山の獣、名を牟士那といふを咋ひて殺しつ。則ち獣の腹に八尺瓊の勾玉有り。因りて献る。是の玉は、今石上神宮に有り。」

 

とありまして、ここで「五十瓊敷入彦命」と接点がでてきます。

石上神宮」が物部氏の掌るところとなったのは、この時代の伝承からだったのですね。

 

ちょっと長くなりそうなので、本日はこの辺りで〜。