べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「石上神宮」(補々々々)

○こちら===>>>

古代史学者の上田正昭さん死去 京大名誉教授:朝日新聞デジタル

 

↑古代史学者の上田正明氏が死去されました。

ご冥福をお祈りします。

とはいえ、ちゃんと著書も読んだことないんですけどね。

この方の功罪を云々するのは死者にムチ打つようですが、最大のものは「渡来人」という言葉を、他の方々と一緒に広めたことでしょう(司馬遼太郎氏なんかも入っていますか)。

それまで、半島や大陸からやってきた氏族に対しては「帰化人」という呼称が使われていましたが、「日本人中心の発想だから」という理由で「渡来人」という呼称を提唱されました。

文明の進んだ大陸や半島から、文明の遅れた日本に対して、文物をもって渡ってきた、という意味でしょうか。

戦中、アジアに対して非道な行いをした大日本帝國への反省、という意味もあるのでしょう。

ただ、「渡来人」ってじゃあそのあとはどうなったのかというと、多くは日本人になるのですね。

そうでない人は使者ですから、用事が済んだら送り返されています。

ということは、「帰化」しているわけで(これを、現代の語感で考えると違和感があるのかもしれませんが)、それも別段日本から招聘したわけでもないので(「鑑真」和尚なんかとは意味合いが違います)、「帰化人」と呼ぶことに何かまずいことでもあるのか、という気がします。

それに、「日本人中心」に日本の歴史を考えることが、何か悪いことなのでしょうか。

こうした発想が「大東亜共栄圏」につながるのだ、ということなのかもしれないですが、だからといって何故に半島や大陸におもねる必要があるのかわかりません。

「インディアン」ではない、「ネイティブアメリカン」だ、という話とは次元が違います。

ただ、言葉自体は定着してしまいましたからね……「渡来」した人たちは、結局は「帰化」したのだ、ということは説明しておかなければ片手落ちだと思います。

この人のせい、というわけではないですが(他にもいろいろいますから)、古代の日本語を現代の朝鮮語で解釈すると何か見つかるのではないか、とか「檀君神話」は日本の神話の原型だとか、いい出しちゃう人が出てきたんですねぇ……その現代の朝鮮語とやらは大日本帝國が整備したものだということもお忘れになられたのか。

日本の「進歩的文化人」というのは……。

あ、私は単なる妄想家ですので、朝鮮語で解釈するという話自体は嫌いではないですし、なんでもやってみればいいと思っています(面白ければ)。

 

(余談でした)ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

さて。

 

先代旧事本紀 現代語訳

先代旧事本紀 現代語訳

 

 

とはいえ、あんまり長々と引用ばっかりしていても先に進まないので、ここからはぎゅっと圧縮していこうかと思います(でっきるかな……)。

先代旧事本紀』「巻第三 天神本紀」によれば、

 

・「饒速日尊」は、「天忍穂耳尊」の子供で、天孫として降臨することになった。

・「十種の神宝」と「布留(フル)」のまじない(「たまふり」とも言います)、三十二柱の随神(多くは古代氏族の先祖とされている)、五部(いつとものお)の人、天の物部二十五部などもともに天下った。

・「天磐船」を用いて降った場所は、「河内の国の河上の哮(いかるが)の峯(大阪府交野市の磐船神社付近か)。

・そこから、大倭の鳥見の白(庭)山に遷った。

・順調にことが進んで、「長髄彦」の妹「御炊屋姫」を娶った。子どもが生まれる前に亡くなった。

・「速飄(はやちかぜ)の命」にそれを知らされた「高皇産霊尊」は、亡骸を天に昇らせて、七日七夜の間、遊楽して泣き哀しみ、天で埋葬した。

(p139〜146)

 

となっています。

 「巻第五 天孫本紀」には、「饒速日命」のお名前として、

 

「天照国照天の火明櫛玉饒速日の尊」

「天の火明の命」

「天照国照彦天の火明の尊」

饒速日の命」

「胆杵磯丹杵穂(いきしにぎほ)の命」(p237)

 

が掲載されています。

割合として、どう考えても「火明」の方が多いですよね……。

続いて、

 

・「饒速日尊」は、「長髄彦」の妹の「御炊屋姫(みかしきやひめ)」を妻として、「宇麻志麻治(うましまち)の命」が生まれた。「男だったら「味間見(うましまみ)の尊」、女だったら「色麻弥(しこまみ)の命」にしよう」と決めていた。

・「饒速日命」は、そののちお亡くなりになった。

・妻の夢に出てきた「饒速日尊」は、「どうかあなたの子供を私の忘れ形見とするように」と、「天璽の瑞の宝(十種の神宝?)」を授けた。また、「天の羽弓矢(はゆみや)、羽羽矢、神衣帯(かむみなおび)、手貫(たまき)を登美の白庭邑に埋葬して墓とした。

・「饒速日尊」は天上で「天道日女命(あめのみちひめのみこと)」を妃として「天香語山命」(尾張氏の遠祖)が生まれ、地上では「御炊屋姫」を妃として「宇麻志麻治め命」が生まれた。

・「天香語山命」は、天下って名前は「手栗彦命(たくりひこのみこと)」または「高倉下命(たかくらじのみこと)」とおっしゃる。この方は、「饒速日尊」に従って天下り紀伊の国熊野村におられた。

(p237〜240)

 

 

とあります。

この後に、『日本書紀』『古事記』にも書かれる、「高倉下命」に「武甕雷神」から神剣「韴霊」が下された、という例の話が入っています。

さらに、

 

・「宇麻志麻治命」、またの名は「味間見(うましまみ)命」、または「可美真手(うましまて)命」は、「長髄彦」から主人とされていた。東征してきた「神武天皇」との(例の)すったもんだが起こると、彼は「長髄彦」に従わずこれを殺害し、軍勢を率いて「神武天皇」に帰順した。

・「神武天皇」はこの忠節に感謝し、「宇麻志麻治命」を重用し、また、「韴霊(布都主の神魂の刀、または佐志布都、または建布都、または豊布都)」を「宇麻志麻治命」に授けられた。

・「宇麻志麻治命」は「神武天皇」に、「天璽の十一種(「十種神宝」のことだと思われるが、なぜか十一)」を献上した。

・「神武天皇」の平定が終わり、朝廷を開いて初めて皇位につかれると、「宇麻志麻治命」は真っ先に「天の瑞の神宝」を献上した(「十種神宝」は献上済みでは?)。また神楯を立ててお祭りした。また、五十櫛(いくし)、あるいは今木というものを、「布都主の剣」の周りに刺し巡らして、大神を神殿にお祭りした。また「天璽の瑞の神宝」も奉納し、天皇のために鎮魂した。

・また、「宇麻志麻治命」は朝廷では、国中の物部を率いて矛と楯を立てて儀式を執り行った。

・十一月十一日(庚寅)に、「宇麻志麻治命」は鎮魂(たましずめ)の祭りを始めた。天皇から、「あなたの親である饒速日尊は、天から天璽の神宝を授かってきた。それを鎮めとして、年毎に中冬中寅に行うことを恒例としなさい。それぞれの役目を果たして末長く鎮祭とするように」と言われた。これが「御鎮祭(みたましずめのまつり)」である。祭りの日、猿女の君たちは神楽を掌り、祝詞を奏上した。大きな声で一二三四五六七八九十と言いながら神楽を歌い舞うのは、「瑞の神宝」に由来するか?

(p247〜251)

 

 という感じです。

整理しますと、

 

・「饒速日命」の御子として、「天香語山命またの名を高倉下命」と「宇麻志麻治命」がいらっしゃった。

・「神武天皇」(天孫「瓊瓊杵尊」の曾孫)の東征に際し、「高倉下命」は「武甕雷神」から降ろされた「韴霊」を持ってきた(傘下に入った)。

・「神武天皇」と「長髄彦」の戦いの際、「宇麻志麻治命」は伯父である「長髄彦」を裏切って「神武天皇」についた。

・「神武天皇」は「宇麻志麻治命」に「韴霊」を授けた。

・「宇麻志麻治命」は、「神武天皇」に「十種神宝」を献上した。

・「宇麻志麻治命」は、「韴霊」と「十種神宝」をどこか(宮中?)に奉納し、「御鎮祭」を掌った。

 

まず年代的に考えますと、「高倉下命」と「宇麻志麻治命」は、「神武天皇」から見たら祖父の世代にあたります。

若干、年代設定に無理があると思います。

同じ「饒速日命」の御子でありながら、「高倉下命」と「宇麻志麻治命」の立ち位置が違うのは、「高倉下命」が天で生まれ、「宇麻志麻治命」が「長髄彦」の妹「御炊屋姫」との間の子(地で生まれた)ことの差なのかもしれません。

「高倉下命」は、「天香語山命」としては尾張氏の祖先となっていますが、これが現在でいうところの尾張なのかどうかはよくわかりません(大和には「高尾治(尾張)」という地名があり、ここが尾張氏の発祥ではないかとも考えられています)。

しかし、紀州、大和の一部に、いち早く「神武天皇」の傘下に入った勢力がいた、という見方はできますし、尾張国辺り(海人族)もそういった流れに乗っかった可能性はあります。

で、「宇麻志麻治命」の方は、大和土着の大勢力「長髄彦」と組んでいたのですが、勝ち目がないと思ったのか何なのか、裏切って「神武天皇」につきます。

「高倉下命」は神剣「韴霊」を、「宇麻志麻治命」は「十種神宝」を、それぞれ献上していますが、そのどちらも「宇麻志麻治命」によって祀られることになったようです(と『先代旧事本紀』が主張している、という意味です)。

 

さて、「石上神宮」の御祭神は、

 

・「布都御魂大神」……「韴霊」(「武甕雷神」から授けられた神剣)

・「布留御魂大神」……「十種神宝」(「饒速日命」が授けられた天璽瑞宝)

・「布都斯魂大神」……「十握剣」(「素戔嗚尊」の佩刀)

 

でした。

「十握剣」がどんな経緯で「石上神宮」に来たかはまだよくわかりませんが、『先代旧事本紀』の主張では、「韴霊」と「十種神宝」は宮中に集められました。

しかし……「神武天皇」って何も持ってなかったんですねぇ……あ、「天羽羽弓」「天羽羽矢」は持っていたか。

でも、もらいものばかり宮中で集めて、自分のアイデンティティっぽいものは何も祀らないというのも何かおかしな話ではないでしょうか……ああそうか、「天照大神」を祀ったんでしたっけ(改めて書かれていないのは、それが当たり前だったからでしょうか……それにしては「神武天皇」がやっていることって、「赤土」をとってきて「八十甍」を作らせて、呪いをかけているだけなんですけどね)。

 

ともかく「石上神宮」の御祭神がそろったっぽいので、続きはまた次回に〜。