さて。
神社でいただいた由緒書から。
「由緒
当神社は古来殖産産業、財宝主宰、金運招福の御神徳あらたかな神として、篤い信仰を集めている美濃国屈指の名社である。
御鎮座の年代は遠く上代に在って。成務天皇の御代(西暦一三五年)、物部臣賀夫良命が国造としてこの地に赴任され、国府をこの高台に定められ、篤く金大神を尊崇されたと伝えられている。
境内の東北の隅に命を祀る古墳「賀夫良城」があり、近くに「蕪城町」という町名が存するのも之に由来するものと思われる。
当神社の主祭神 渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)は、景行天皇の第六皇女で、伊奈波神社の祭神 五十瓊敷入彦命の妃である。
伊奈波神社に伝わる縁起によれば、五十瓊敷入彦命は、朝廷の命をうけて奥州を平定したが、一緒に同行した陸奥守豊益は命の成功をねたみ、一足先に都に帰り、命が帝位をねらっていると讒奏したため朝敵として攻められ、この地に至りて討滅された。
夫の死を聞かれた妃渟熨斗姫命は、悲しさのあまり都を発ち、御跡を慕って此の地を訪れ、爾来、朝夕ひたすら夫の死を悼んで、その故地の辺りで御霊を慰められつつ生涯を終えられたと伝えられている。
その間、命は地域住民を母の如く温かく慈しまれた。後世の人々は命を聖観世音菩薩とも称え仰いだ時代もあるほど、慈悲深い神として慕われ、やがてその信仰は財宝をもたらす神として信仰されるようになった。
元和三年(西暦一六一七年)加納城主は本殿、拝殿、瑞垣、鳥居等を建立寄進している。
明治三十六年より数年の歳月をもって本殿、祭文殿を始め諸建物を造営したが、昭和二十年七月九日岐阜市空襲の際、焼夷弾を浴びて烏有に帰するところとなった。
昭和三十三年に至りて漸く一応の復興は出来たものの、時局財政困難な状況下での造営であったため、建築資材等も思うにまかせず、又その規模も小さく、年を逐って老朽化が進んで来た。
そこで昭和五十八年に造営奉賛会を結成し、会員、氏子崇敬者の赤誠溢るる協賛により、昭和六十三年三月金神社社有史以来の大造営をみた。現在の社殿である。(略)」
ということのようです(実は、この由緒書の伝説が、私の「日本武尊殺人事件」と結構被っていてですね……ということは、よくある話なんですけれども……)。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 岐阜市案内 : 附・長良川鵜飼記
↑『岐阜市案内』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
38Pです。
「金神社 金町にあり。緑樹鬱蒼として、閑静なるところなり。社格は郷社にして、その祭神は彦多都彦命の後妃縣神及び其生み給ふ所の二王子市隼雄命、擁列根(だつらね)命の三柱を奉祀せり。創立は不詳伊奈波神社と同時代なりと言伝ふ。毎年四月五日祭典を行ひ伊奈波神社より渡御の儀式あり。境内の東北に一石あり。「カブラギ」又は御陵と云ふ。物部神社の御孫臣賀夫良命の御墓なりといふ。本社主神は伊奈波神社主神彦多都彦命の妃神にましませば伊奈波神社とは離るるべからざる神社なり。」
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↑岐阜ではお世話になる『新撰美濃志』の462ページ、「稲葉権現」の摂社紹介の中に「金神社」の記事があります。
「金大明神 は伊奈波神の御妃渟熨斗媛命をまつる是景行天皇の皇女なり 類聚国史 又 三代実録に 貞観十一年十二月廿五日戊申授美濃国正六位上金神従五位下 と見え 美濃神名記 に厚見郡正三位金大神としるしたる社なり 当社本縁起 にいへる 陸奥国よりむかへし金石の御魂にて金華山と呼べることのもとの神なるへし 金石を伊奈波の神の本体を申す事古き伝へにや 日本霊異記 にも美乃国方縣郡水野郷楠見村有一女人姓縣氏也年迄于廿有餘歳不嫁未通而身懐妊逕之三年山部天皇世延暦元年癸亥春二月下旬産生二石方丈五寸一色青白斑一色専青毎年増長有此郡名曰淳見是郡部内有大神名曰伊奈婆託卜者言産二石是我子因其女家内立忌籠而斎往古今来未都見聞是亦我聖朝奇異事矣卜者籠斎往古託 と見えたり(略)」
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↑『岐阜市史』より、448ページです。
「金神社(略)
一、祭神 渟熨斗媛命
五十瓊敷入彦命 左相殿
日葉酢媛命 右相殿
市隼雄命 同 四座 木像座像(社伝)
一、由緒
渟熨斗媛命は、景行天皇の第六皇女で、五十瓊敷入彦命の妃である。社入記に、美濃国厚見郡上加納村、金津山正三位金大明神、俗称金堂、祭神は、人皇第十二代景行天皇の皇子、五十瓊敷入彦命の御妃渟熨斗媛命とある。美濃国神名帳に、厚見郡十八社の内、正三位金大神、三代実録に、清和天皇貞観十一年十一月二十五日、授美濃国正六位上金神社従五位下、とあるは此社の事である。
元亀年中、暴風の爲め、社殿破壊し、再建した。其後、元和三年丁巳三月、旧加納城主、松平飛騨守の誕生あつた時、右社殿が風霜の久しきを経て、傾頽して居るのを痛歎し、之を建立した(金神社縁起古書)とある。
当社境内の北に接して古墳がある。桜の大樹あつて、其の下に、一個の自然石がある。土俗此地を称して、「カブラキ」亦「ミササキ」とも云ふ。これ古へ、三野後国造、物部臣賀夫良命の墓であるよしを言伝へて居る。蓋し、カブラキとは、賀夫良城にて、賀夫良は、臣賀夫良の略語、城は、古事記伝に奥津城にて、屍を蔵る構を云ふとあるから、恐らくそれであらう。
一、金神社の祭神に就て 金神社の祭神を、彦多都彦命の妃、縣氏と主張するものもある。其の根拠とするこころは、大日本史神祇志に、「金神社は、厚見郡上加納村にあり。蓋し、丹波道主命の室縣氏、及び其の生むところの二王子を祀る云々。又、註に、道主嘗て本国にあり、縣氏を娶りて二子を生む。後人、社をたてて之を祀る。二子は、石を以て神体となす云々」とあるに依るのであるが、さきに伊奈波神社の條に述べた如く、此記事は日本霊異記の文を、根拠としてゐるのであつて、延暦頃の出来事であると記述してゐるから、あまり信を措くことが出来ない。加之、仮に、これを肯定するも、社伝にある木像にして坐像四つ柱と合はない。故に、これは、社伝のままを正当と見た方が穏当であらうと思はれる。」
諸説いろいろ、という感じですが、基本は「伊奈波神社」関係……おっと、そういえば、由緒によると、御祭神は
「金大神
渟熨斗姫命 景行天皇第六皇女(一云 五十瓊入彦命)
日葉酢姫命 垂仁天皇皇后(五十瓊入彦命の母)
五十瓊入彦命 垂仁天皇第一皇子
市隼雄命 一云 五十瓊入彦命の御子」
となっており、この四柱をもって「金(こがね)大神」ということのよう……で、思い出したのが、
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「伊奈波神社」 - べにーのGinger Booker Club
「伊奈波神社」(続) - べにーのGinger Booker Club
「伊奈波神社」(続々) - べにーのGinger Booker Club
「伊奈波神社」(妄) - べにーのGinger Booker Club
↑「伊奈波神社」での妄想です。
「伊奈波神社」の御祭神は、
(1)丹波道主命(彦多都彦命)……「開化天皇」の子である「日子坐王」の子。四道将軍の一人。因幡国造。
(2)日葉酢媛命……(1)丹波道主命の娘で、「垂仁天皇」の皇后。
(3)五十瓊敷入彦命……(2)日葉酢媛命の子で、「垂仁天皇」の皇子、「景行天皇」の兄。天皇位ではなく、軍事職を選択。「石上神宮」の神宝を掌る。
ということになっておりまして……じっと見ると、「金神社」の御祭神とあんまり変わらないのがお分かりかと。
↑の『岐阜市案内』には、
「その祭神は彦多都彦命の後妃縣神及び其生み給ふ所の二王子市隼雄命、擁列根(だつらね)命の三柱」
という記述がありまして、ある時代までは、「伊奈波神社」の御祭神について「丹波道主命」という伝承と、「彦多都彦命」という伝承とがあったのではないか、と思わせます。
「物部十千根命」に関しては、昔は「物部神社」があったので、相殿になったのはあまり遠い時代のことではありません(「伊奈波神社」と「物部神社」の関係性は、「金神社」と「賀夫良木神社」に何となく重なる部分があり、これはこれで興味深いです……物部系氏族の勢力範囲の拡大は、いわゆる大和朝廷初期においては、天皇系の一族の拡大とともにあった、ということなのかもしれません)。
というわけで、そう考えますと、「伊奈波神社」の祭神は、まるっと「丹波道主命」系の一族に入れ替わっていると思われます。
「丹波道主命」と「彦多都彦命」が同一人物だった、という説は『岐阜市案内』にあるのですが……どうなんでしょう、あんまりはっきりとしたことはわかりません……誰かがそういうことにした、という可能性はあるのかな、と。
で……これ以上掘り下げるには、どうにも私の根気と下調べが足りなくなってきていまして……。
一つ、ずっと引っかかっているのがですね、少なくとも『日本三代実録』の頃には、「金神社」(と呼ばれていた神社)が美濃国にあったらしいのですが、これが何故に「金」なのか……。
Goldのことを指しているのか、貨幣のことなのか(大陸から入ってきていてもおかしくはない)、あるいは五行思想なのか……あり得るのは冶金技術や製鉄技術という意味での「かね」でしょうか(実は、これも『岐阜市史』で考察されて……あれ、されていた気がしますが……)。
そうしますと、「南宮大社」や「猿投神社」とも繋がってくるような気がしますし……結構昔から、「金神社」は「伊奈波神社」の妃神、つまり女神だと考えられていたようですので、この地域土着の女神(「伊邪那美命」のような存在かな)を祀っていたのが、だんだんと変遷していったのかもしれないです。
それほど遠くないですので、「南宮大社」ともども、また参拝させていただこうと思います。
ああ、中途半端……これだから……(ちょっとまだ、沈んでいるもので……)。