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前回の続きで、太子堂の周辺をうろうろしてみました。
まずは「円泉寺」へ。
◯こちら===>>>

「聖徳太子之碑」。
何故に、関東で、「聖徳太子」なのか……という素朴な疑問はさておき。

「円泉寺
聖王山法明院とよび、真言宗である。文禄五年(一五九七)に建てられ、開山は賢恵僧都である。本尊は不動明王立像及び二童子像である。また境内の太子堂には聖徳太子像がまつられ、太子堂の地名は、これにもとづいている。
世田谷教育界の恩人宮野芟平先生の碑がある。
先生は、明治三年郷学所がつくられてから、太子堂幼童学所、荏原学校となまえは変っても、引きつづき校長として郷土の教育につくした。この荏原学校は区内最初の小学校である。(略)」
寺のことはあまり書いてませんな。

参道。

本堂扁額。




彫刻は当時のものでしょうか……違うかな。

太子堂。



「聖徳太子」といえば、いわゆる『職人由来書』で、大工さんの祖とされている……のですよね(詳しく覚えてないです……どこかに本があるはずなんですが)。

太子堂、がこっちですね。
下にはホールがあるようです。

本堂遠景。

「八幡神社」に向かってうろうろしていたら、「林芙美子旧居」を発見しました。
ちらっと見ただけですが……。

参道の石標。
うろうろしていたら、「太子堂八幡神社」にたどり着いていました。
◯こちら===>>>

まず「弁財天社」がありました。

「弁財天社」に突き当たって、右を見ると「八幡神社」の鳥居が。


狛犬さん。
良き耳。

(略)
御由緒及此地の沿革
当社の鎮座年歴不詳なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦一五九二〜六年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられている事から少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。
太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。
此の鎌倉道の附近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村一二一=二番ちの辺を(五丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう読んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残りである。
真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の號をとりて部落の村名とした。
以上は、古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。」
源氏ときたら「八幡」様なのですが、里人が簡単に「石清水八幡宮」を勧請できたんでしょうか……武士階級が絡んでいるように思います。

拝殿。


建物自体は江戸以降かな……。


お稲荷さんもあります。

神楽殿。

拝殿正面遠景。
何か催し物だったかな……単に暑かっただけか……。


狛犬さん。

「出羽三山神社」と「鹽竈神社」がありました……関東だな、という感じがしますね(?)。
それより、手前のタコが気になりますね……何故タコなのかはわかりません。





御朱印が思いのほかたくさんでした。
日付は、まあ、あまり気にせずに……。
さて。
◯こちら===>>>
蘆田伊人 編『大日本地誌大系』第7巻 風土記稿3,雄山閣,昭4-8. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1214845
(参照 2024-10-03)
『新編武蔵風土記稿』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
12コマです。
「◯太子堂村
太子堂村は、郡の北の方にて菅苅庄に属す江戸日本橋を距ること二里半、村内円泉寺境内に弘法大師造立の太子堂あり、故に村名起れりと云、(略)小名三軒茶屋を境とす、(略)開闢の年代は詳ならざれども、彼太子堂の由来、及末に出せる村民與左衛門天正年中村内にて新田を開発せしなど云を合せ考ふれば、もとより古田ありしことは論なし、いづれにも古き世より開けたる地なるべし、又與左衛門が租税を始て御代官松風助右衛門へ納めし時は文禄元年なりといへば、おもふに御打入より後御料所となりしならん、夫より後正保の頃は御代官伊奈半十郎支配所にて、其外は山本傳次郎志村又左衛門等の知行交れりと云ことはものに見えたれど、二人が当所を賜はりし年月を詳にせず、慶安年中に至り井伊掃部頭が領分となりし地もいてきしにより、今は井伊家の領地及前の二人が子孫山本橘次郎志村内蔵助等の知行と、大貫次右衛門が御代官所と交れり、
(略)
八幡社 除地一町四方村の南にあり、小祠古木森鬱として幽邃の地なり、鎮座の年歴を傳へず、神体紙幣を建つ村内円泉寺の持、
円泉寺 境内除地二千二百五十坪、村の東の方にあり、新義真言宗多摩郡中野村法泉寺の末、聖王山法明院と号す、開山賢慧法印は当国葛飾郡新堀村の産慶長十六年十月三日寂す、本堂七間半に五間南に向ふ、本尊不動明王木の立像にして、長さ二尺五寸許なるを安ず、側に八幡の木像あり、白馬に跨り弓箭を帯す長八寸許、太子堂 境内にあり二間半四方、檐間に太子堂の三字を扁額す、長谷の僧正動潮の筆なり、聖徳太子の像は長一尺一寸ばかり、相伝ふ往古弘法大師廻国のとき此地に來り自から此木像を彫刻して当所に安置し、住僧に円泉坊の號を授けられしと云、按ずるに此寺往古より草庵にてありしを、賢慧法印の時に至り始て一宇の梵刹となれるか、又十一面観世音の立像を安ず、長三尺餘運慶の作なりと云、当村の名もこの堂ある故に起れると云事は村名の條に見ゆ、(略)」
「弘法大師」と「運慶」、「夢窓国師」、辺りの名前はあちこちの寺の縁起に出てきますが、そんなに全国くまなく歩いてはいないでしょうから、箔をつけたい寺側の事情、でしょうか(もはや言ったもの勝ち、みたいな)。
いずれ古くから人は住んでいたし、お寺はあったようです。
今回は以上です〜。