べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「多度大社」(考)

さて。

まずは、神社でいただいた由緒書きより……前の記事でも書いたのかな……。

 

伊勢国最北端に位置し、古来、神が坐します神体山と仰ぐ多度山の麓に御鎮座になる多度大社は、御創始は定かではないが、山中に遺された数多の磐座・御神石から推して、神代の古に遡ることが出来る。社伝によれば、五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が造営された。
当社は『延喜式』巻九神名帳桑名郡十五座のうち「多度神社名神大」とみえ、いわゆる延喜式名神大社であり、後一条天皇の御代には東海道六社のうちの一社にも数えられた。また、南北朝時代の暦応年間(一三三八〜一三四一)には多度祭りの上ゲ馬神事も始まったと伝えられ、御神徳はいよいよ広大無辺となり、皇室からも度々幣帛が献られている。
しかしながら元亀二年、織田信長による兵火に罹り、美濃国(現在の岐阜県)赤坂山に御動座になり、御社殿を始め神宮寺などすべての御建物と、歴朝より賜った神位記・御神宝・諸記録のすべてが灰燼に帰した。江戸時代に入ると、桑名藩本多忠勝公により莫大な寄進を受け慶長十年に本宮御社殿が再興され、以降別宮以下摂末社、年中の恒例祭儀等も漸次復興された。御祭神の関係もあり「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば 片参り」と謡われる程の復興を遂げた。近代に入り、明治六年県社、大正四年には国幣大社という高い社格が授けられ、近年は東海の古社として多数の参拝者が訪れる。」

 

御祭神は本宮(「多度神社」)が、「天津彦根命」で、別宮(「一目連神社」)が「天目一箇命」。

式内社は、『神社覈録』とか『特選神名牒』から引用することが多いのですが、どちらも神位についての内容がほとんどなので、面白くないです。

というわけで、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 郷土の史蹟 : 新風土記

 

↑『郷土の史蹟』という新しめの本から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

285ページです。

 

「多度神社と八壺谷
多度神社は伊勢電鉄大垣線多度駅の所在地、多度山は箕山ともいひ、山は甚だ高くないが山上は松杉蓊蔚として頗る眺望に富み、多度山八勝の名がある。その山麓に多度神社がある。国幣大社で多度神を祀る。社伝によれば、この神は天照大神第三の御子、天津日子根命であるといふ。続日本後紀に多度大神宮とあるのはこれで、土俗北伊勢大神宮と称する。旱魃の時は遠近の人の雨祈するを例とした。雄略天皇の御代の創造で歴聖の崇敬厚く、神宮寺を置かれたこともあつたが、元亀年間の兵火にかあkつて衰頽したのを、慶長年間本多忠勝の桑名に封ぜらるるに及び、社殿の再営を図つて以来、桑名侯の尊信を受けて略ぼ旧観に復した。別宮の一目連(ひとめつれ)神社は、本宮の御子天目一箇命を祀ると伝ふ。往古から神殿に扉がない。それが摂社の一拳祠で眼病の神と伝られ、藤の神木が社殿を掩うて陽春の頃になれば、懸艶垂紫恰も水晶簾のやうである。一拳の紫藤は多度秀景の一つである。境内は老樹天を掩ひ、森閑としてただ澗泉の響を聞くばかりの仙境である。御手洗川はその傍を流れ、芭蕉の句『宮人の我名をちらせ落葉川』で知られた落葉川となる。境内の上坂附近には神樹の楠木がある。往昔のは周囲五丈余の大木であつたが、現今のは後に植え換へたものである。なほ御供・明櫃・影向・籠などの神石が社境内にある。例祭の五月五日には、古風な流鏑馬の神事があつて頗る雑沓を極む。社宝の中にも神宮寺伽藍縁起・資財帳の一軸・古鏡三十面は国宝となつたゐる。多度山の中腹に愛宕山がある。その山下に法雲寺がある。法雲寺は一名多度大神宮寺と呼び、続日本紀に『承和六年多度大神宮寺を以て天台の一院となす。』とあるものは、即ちこれである。後ち織田氏の兵燹にかかつて焼燼し、松平氏がこれを重興したけれども、今は滅びて五輪の石塔が所々に散在するのを見るばかりである。(以下略)」

 

天津彦根命」は、「天照大神」と「素盞嗚尊」の「うけい」によって生まれた五男三女の一柱、ですね。

「アマツヒコ」というのは、「鵜葺草葺不合命」や「瓊瓊杵尊」にも用いられていることから、ある種の尊称なのではないかと思います。

逆にいえば、その尊称のために生み出された神格ではないか、と。

天一目箇命(あめのまひとつのみこと)」は、「天津彦根命」の御子神で、鍛冶(かぬち)の神、とされています。

天の岩戸神話で、「天照大神」を引きずり出すためのアイテム(刀斧、鉄鐸)を鍛えています。

高田崇史氏も小説でよく言及していますが、製鉄に従事する人は、片目で炉の火勢を確認するので、視力が低下してしまうことが多かった、という説があります。

そのため、製鉄・鍛治に関係のある存在は、片目(片腕(槌を振るため)・片足(ふいごを踏むため)で表現されている、そうした存在が零落して妖怪化すると、「一本だたら」のように描写されるのではないか、と。

ギリシャ神話のサイクロプスという単眼の巨人が、やはり鍛治の達人(ゼウスの雷霆を鍛えた)とされるのも、同じものが根底にあるのではないか、とも。

で、一方で、本宮のほうですが、雨乞いの神だと言われ、ということは龍神ですね。
また、

 

日本の神様読み解き事典

日本の神様読み解き事典

 

 

『日本の神様読み解き事典』の「一目連大神」の項目より、

 

「一目連は主として江戸時代に庶民の間でその霊力を信じられていた神で、その地方中を稲光りさせたり、風雨雷鳴を起こしたりすると恐れられていた神である。
一目連とは、中部地方の方言で「つむじ風」のことである。
『和漢三才図会』巻三の「天象類」のなかに、「颶(うみのおおかぜ)」という項目がある。それには、「伊勢・尾張・美濃・飛騨の諸国では、不時に暴風が吹くことがあるが、これを俗に一目連といい、神風となす」という意味のことが漢文体で書かれている。ちなみに、颶は颶風で、秒速三二・七メートル以上の最強風のことをいう。(以下略)」

 

とあり、そのほか『斉諧俗談』や『笈埃随筆』(こちらには、「一目連」ではなく「一目竜」だ、という土地の人の話があります)といった文献からの引用もあったりして、要するに「暴風雨」なのだ、と。

ふむふむ。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大神宮叢書. 第3 後篇

 

『大神宮叢書』の第3・後編の中の「桑名郡」の記事に、「多度神社」という項目があります。

続日本紀』『文徳天皇実録』からの引用の他に、面白そうなものを。

454ページからです。

 

「(略)左経記ニハ、寛仁元年九月廿日乙卯、依可被定一代一度奉幣、早旦退出、風聞、頭右中辨於摂政殿御前書定文云々、東海道使蔭子藤原季忠、十月二日丁卯、巳刻許、右大辨被参八省東廊、被行大祓、是依京畿七道諸神一代一度幣帛神宝等被奉也、東海道伊勢国多度社、尾張国熱田、駿河国浅間、伊豆国三嶋、下総国香取、常陸国鹿嶋、云々(以下略)」

 

『左経記』は、「源経頼」の日記だそうですが、ちょうど謎だった「東海道六社」っぽいものが載っていたもので。

 

東海道伊勢国多度社、尾張国熱田、駿河国浅間、伊豆国三嶋、下総国香取、常陸国鹿嶋、」

 

平安時代から、大社という認識はあった、ということですね(神代に由来を遡れるような大社と肩を並べていますしね)。

 

「(略)延暦二十年多度寺資材帳云、以去天平宝字七年歳次癸卯十二月庚戌朔廿日丙辰、神社以東有井於道場、満願禅師居住、敬造阿弥陀丈六、于時在人託神云、我多度神也、吾経久劫作重罪業受神道報、今冀永為神身欲帰依三宝、如是託説雖忍数遍猶彌託云々、於茲満願禅師神坐山南邊伐掃、造立小堂及神御像、号称多度菩薩云々、種々所修功徳先用廻施於多度大神一切神等云々、ト載スレハ鎮座ハ天平宝字ノ前ナル事ハ明ナリ。(略)」

 

ここのところは、「満願禅師」という僧侶が、多度の神様の願いを聞き入れて、仏道に帰依させてあげた、つまり神仏習合が行われた、ということが書かれています。

 

○こちら===>>>

kotobank.jp

 

コトバンクの『朝日日本歴史人物事典』より、

 

「満願
生年:生没年不詳
奈良時代後期の修験僧。養老年間(717~24)に大和(奈良県)の智仁の子として生まれ,弘仁7(816)年に死去したと伝えられる。20歳のとき,出家し,日課として方広経1万巻を読んだことによって「万巻」とも表記される。諸国を巡歴して,地方に仏教を伝播させるとともに,仏事をもって神に奉仕する神宮寺を建立し,神像を造立して,神仏習合を推進した。天平宝字7(763)年に,伊勢国(三重県)桑名郡の多度神社近くの道場に住み,丈六の阿弥陀仏の像を造立したところ,忽然と人が現れて,「重い罪業を行ってきたため,報いとして神の地位(神の身となって)を受けている,永久に神の身を離れるために,仏法に帰依したい」と多度神の託宣を告げた。満願は山を切り開いて,小堂を建て,また多度神の神像を造り,多度神に菩薩号を贈り,多度大菩薩と名づけて,この多度神宮寺に安置した。これが文書に現れた最初の神像制作である。のちに,桑名郡の郡司や他の僧侶,在家の仏教信者の手によって,多度神宮寺(多度神社)は整備された。この10年ほど前の天平勝宝1(749)年,常陸国(茨城県)鹿島において,鹿島神宮寺を創建し,大般若経600巻の写経をし,仏像を描いている。また天平宝字3(759)年には,相模国(神奈川県)の箱根山で修行していたところ,霊夢の中に三神が現れ,箱根三所権現(箱根神社)を創建したとされる。<参考文献>『伊勢国多度神宮寺伽藍縁起 并 資財帳』『筥根山縁起并序』」

 

……引用した『資材帳』の現代語訳も載ってました、ありがたい。

どうも、「満願禅師」、修験僧ということは私度僧(国家非公認の僧侶)っぽいですけれども……この辺りは、専門的なものを読まないと私では何ともかんともですが、とりあえずあっちこっちで神の願いを聞き入れては仏法に帰依させる、ということをやられたようです。

結果「神殺し」かけしからん、という意見もおありかと思いますが、むしろ「神の延命」のように思えるのですよね、私には。

仏教が比較的鷹揚だった、ということも関係していそうですが、一介の修験僧がですよ、「多度の神」を「多度大菩薩」にしちゃうんです。

すごくないですか?

「菩薩」っていったら「如来」の次に悟りを得られると信じられていて、多くの「菩薩」は実際にはすでに悟っているけれど人界の凡俗どもを哀れんで救いをもたらそうとしている存在なのです。

例えば、仏教に取り込まれたらしき「帝釈天」なんかは所詮「天部」ですし、「阿修羅王」なんて「天部」ですらない。

それなのに、「多度大菩薩」……これはもう、仏教を利用して神の延命を図ったとしか……思えなくもない、と思いませんか?

そしてそれは、結構うまいこといったのでしょうね、本地垂跡なんてアクロバティックなものも生み出し、神が仏教に取り込まれた、と思わせつつ神は延命したのです。

江戸期以降の国学のおかげで、それをぶっ壊したのが、果たしてよかったのかどうなのかはまた意見の分かれるところでしょう……。

 

「(略)是ヲ以テ後世祭神ヲ臆測シテ、国常立尊或ハ大若子命或ハ天津彦根命トモ云ヘリ。共ニ信受シカタクナム。(略)」

 

で、まあ、祭神についてはいろいろ言われているけれども、どうもどれも違うんじゃないの、というご意見。

 

製鉄に関係する神は暴風にも関係している、という説があったような気がしますが、それをおいておいて、「多度の神」については二つの系統、「暴風」の神と「鍛治」の神、があるとしましょうか。

もちろん、「暴風」の神のほうが古い信仰なのでしょうが、あんまり痕跡が見られないような……しかし、『風土記』の「伊勢国逸文」に登場する「伊勢津彦」はですね、東(諏訪)に追いやられるにあたって、「大風を起こし海水を巻き上げ波に乗って、辺りを昼のように照らしながら東に向かう」のです。

太陽神であり暴風神、の様相が伺えます。

これを伊勢の神の属性、と単純に捉えるわけにはいきませんが、「暴風津、いてもいんじゃね?」ってことで、名前を奪われた暴風神がいた、と。

じゃあ「鍛治」の神はどうなったのか、といいますと、これも古来からいても不思議ではないんですが、ちょっと引っかかるのが、神社の由緒書きにあった、

 

織田信長による兵火に罹り、美濃国(現在の岐阜県)赤坂山に御動座になり、御社殿を始め神宮寺などすべての御建物と、歴朝より賜った神位記・御神宝・諸記録のすべてが灰燼に帰した。」

 

っていうやつで。

「美濃」って、当時は「織田信長」の国なのに、なんでまたわざわざ「美濃」に御動座になったのか。

それも気になるのですが、『延喜式』では「多度神社一座」、その他の記録でもですね、「別宮」への言及はないわけです。

もし、「別宮」が古来からあったのだとすれば、「暴風」の神と「鍛治」の神、それぞれを祀っていた、という可能性があります。

「別宮」が結構新しいとするとですね……「美濃」から属性をお借りしてきた、ということになったりしないですかね……ほら、「南宮大社」。

梁塵秘抄』の例の、

 

「南宮の本山は、信濃の國とぞ承る、さぞ申す、美濃の國は中の宮、伊賀の國は幼き兒の宮」

 

です。
これを、製鉄関係のラインだとすると、「美濃」に御動座になったのをいいことに、お借りしてきた……なんて。

で、すでに「本宮」にはどちらの属性も失われて久しいので、「別宮」に「暴風」も「鍛治」も祀ってしまえ、あ、そうだ、ちょうど「一目連」というのがあるじゃないか……みたいな。

「一目連」が流行したのは、江戸時代だそうですからね。

 

 

 

 

 


いやまあ、妄想ですけれど。

 

 

 


うん、なかなかの妄想に育った。

というわけで、この辺りで〜。