さて。
こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会
いつも通り『尾張名所図会』から見ておきましょう。
81ページです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「綿神社 西志賀村にありて、今綿八幡といふ。祭神神功皇后・応神天皇・玉依姫なり。[延喜神名式]に山田郡綿神社、[本国帳]に従三位綿天神と見えたり。綿は海のかり字にて、海童神を祭りしなるべけれど、中世八幡と称するより、今の祭神となれり。むかしは此辺まで入海にて、さる神社のおはしまししなり。此西なる新川を掘りし時、地中よりはまぐりの殻の多く出でし所ありて、今もそこを貝塚とよべり。志賀は水辺の里を呼べる例多く、淡海の志賀里をはじめ諸国に多し。[神名式]に筑前国糟屋郡志加海神社とあると同例の社なり。瑞牆・幣殿・拝殿・鳥居等あり。末社神明社・白山社・浅間社・熊野社・荒神社・粟島社あり。例祭三月十五日・八月十五日。」
『尾張志』はほぼ同じ記述でした。
かつて、この辺りまで海が入り込んでいて、神社が存在していた、と。
貝塚があったのがその証拠だ、と。
その「さる神社」が、昔の祭神は「海童(わだつみ)神」だったけれども、中世に「八幡」様になった、と。
「志賀」というのが水辺にある地名だ、と。
もちろん「綿」は、綿花から作るコットンのことではなく、「海」という意味でしょう。
現在の「綿神社」周辺は内陸で、かつて海が近かったなどなかなか想像できません。
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『神社覈録』はどうでしょう。
785ページです。
「綿神社
綿は和太と訓べし ◯祭神和田首祖、集説◯在所詳ならず◯姓氏録、和泉国神別 和田首、神魂命五世孫天道根命之後也、
考証云、綿津見神、又和太連祖天児屋命、(以下略)」
こちらは、どこに存在するかはわからないし、「綿」は「和田」のことではないか、となっています。
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『特選神名牒』も見ておきましょう。
259ページです。
「綿神社
祭神 綿津見命
今按社伝祭神応神天皇神功皇后玉依姫と云へど綿津見神なるべきこと所在の村名を西志賀村とあるを思ふに筑前国糟屋郡志加海神社の志賀島にますに由縁ありて聞ゆるは古へ阿曇連氏人の此国に移り住て其祖神を此に移し祭れるものなるべし
祭日
社格 郷社
所在 山田荘西志賀村 今属春日井郡今按尾張国式社考に尾張地名考等には西志賀村に坐と云り但し地名考は祭神海童神ならんと云によりて摂社なる兒の宮なるべしと云り本国帳集説に矢田村飯田村平田村能田村等の内にあらむかとも云り是又綿と云によりて田文字ある處々を集め云るのみにて何証なし殊に平田村は春日井郡にてもとの山田郡の地にあらねば云に足らずさて此志賀の地往古は此邊までも入海なりしによりて綿神社もあるなるべし本社宝物の内に奉納綿神社願主政秀と彫つけたる鏡一面あり政秀は平出氏にて享禄天文の頃の人と思ゆ其頃は綿神社と唱ふることなれば此社と定めて難なかるべしと云に従ふ」
こちらでは、「阿曇」氏族が九州から移り住んできたのではないか、としています。
筑前の「志加海神社」なんて、そのままじゃないかという感じなんでしょうかね。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編
『名古屋市史』にもありましたので、336ページです。
「七 兒子社
兒子社は西春日井郡金城村大字東志賀八幡神社境内の西側にあり、もと兒の宮、又は兒の御前社と称して、同郡西志賀村綿神社の東辺 地は東志賀村に属す、境内二畝歩あり、除地なりき、今畑となる に在りて、同社の摂社なりき、昔より小兒の守護神として崇敬せらる、尾張地名考には綿神社は即ち兒の宮なりとの説を取りて、「知多天神は今兒の宮といふもの是也、八幡宮より巳の方一町にあり、社司曰、兒の宮は旧は本社の地相殿にありしを、近世今の地に遷して摂社とせり、古証文にも和田八幡と一串に書有る書どもありといふ」と見えたり、
勧請の年月詳ならず、安永年中より藩主の崇敬厚く、時々参拝ありて、修造料等を給はり、御札守等を差上げしが、維新以後其関係絶えたり、明治七年八幡神社の境内神社として今の地に遷座し、同年改造遷宮す、祭神は天御中主尊なり、
尾張地名考に「社殿に兒の宮は天の御中主尊を祀るといふものは戦国以来の誤也、謹考に、綿の神社は祭神海童三神也、海童の字に就て、後世の兒の宮と呼なるべし」と見えたり、
神殿、拝殿、旧地より移建、 石鳥居 明治三十七年四月建設 等あり、例祭は五月二十一日なり 徳川時代には三月十四日に太々神楽ありて、府下の士民参詣群集せり、 四月十四日より三十日まで、毎月小兒の「ハヤテ」除の禁呪として、赤丸を額部に畫くを例とし、参詣者年々増加し、現今一日約二萬人を算すといふ、神職は従来綿神社の神職森家にて奉仕せしが、現今の社掌は山田清良なり、(略)」
まあ、正確に言うと「綿神社」ではないんですけれどもね……『尾張地名考』を書いた津田正生翁によれば「綿神社は即ち兒の宮なり」という説があるとのことで……そっちは行ってないんですけどもね……。
『海人たちの世界ー東海の海の役割』という本のp258には、「名古屋南部の遺跡分布」という図が載っており、そこには弥生時代の海岸線北限が、西志賀辺りまで迫っていたのではないか、とされています。
この本、なかなか興味深いもので、いずれネタにして妄想してみたいと思いますが、とりあえず「綿神社」、昔は「海神社」で、ご祭神は「(大)綿津見神」あるいは「海童三神(住吉三神)」、「住吉三神」だとすればいずれ「八幡」様とつながるのもわからないではないですし、何なら尾張の勢力が大王の妃をどのくらい輩出していたか、「応神天皇」もそうですから、この辺りからも妄想することは可能っぽいです……。
ところで、前回の「多奈波太神社」、結構唐突な感じがするのですが、機織りと水辺の関係性、みたいなものも何かの本で読んだことがあるっぽいので、いつかもうちょっと調べてみたいなぁと(天の川とか、「素盞嗚尊」の狼藉の場面とか)。
で、なんですけれども、「わたじんじゃ」と「たなばたじんじゃ」ってのは、「秦氏」に関係してるんじゃないのか……ってついつい妄想してしまうのが高田崇史ファンの悪いところですね……そういえばちゃんと「秦氏」の本も読んでないなぁ……もう完全に自分の中では古代イスラエルから渡ってきた人認定ですから(『ムー』系を読みすぎ)。
うん、もうちょっと妄想したいところですが、頭が回らないのでこの辺りで〜。