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「多奈波太神社」からそれほど離れていないところにありました、「綿神社」……歩くにはちょっと遠い……というほどではないと思いますが……まぁ……。
◯こちら===>>>
↑北区の史跡散策路のHPです。
参道入口。
「綿神社
平安時代初期の年中行事や制度などを記した「延喜式」に載る「山田郡綿神社」にあたるとされる格式の高い神社で、譽田別尊、玉依比売命、神功皇后を祀る。社名は玉依比売命が海神綿津見神の娘であることに由来している。
戦国時代、この地に屋敷を構えた平手政秀は、荒廃した社殿を再興し、鏡と手彫りの狛犬を奉納して主君織田信長の奇行・粗暴の平癒を願ったといわれている。」
なるほど、「平手政秀」……爺やでしたっけ……いかん、戦国の話は本当に疎い……中区にある「政秀寺」と関係ありましたよね、確か(おぼつかない……)。
「式内綿神社由緒
主祭神 玉依比売命(神武天皇の御母)
応神天皇(八幡様)(一)綿神社の創建は大変古く、文字の使用もなかった弥生前期に九州の弥生人が此の地に定住し稲作農耕文化を東海以東へ拡めた基となった。其の中核は北九州「志賀」の阿曇部族であろう。即ち故郷九州「志賀」には祖神、海神の裔「玉依比売命」を祀り「海神社」と称し此の新天地も亦「志賀」と偲び名し同じく玉依比売命を祀って「海神社」と称した。既に「延喜式」にも「尾張の山田郡綿神社は筑前志賀の「海神社」と同例の社なり」と記され本国帳にも従三位綿天神(略)綿は海の仮字にて(略)昔は此のあたりまで入海にてさる神社のおわしまししなり(略)とある。文字の転化は縁起や因縁等時代により珍らしい事ではない。
(二)志賀村の領主平手政秀(織田家の家老で信長の師傳役)は常に信長の奇行を心痛せるか天文二十一年綿神社を再建し「願主政秀」と刻名せる神鏡を自ら手彫りの狛犬一対と奉納した(信長も槍先一穂奉納)。政秀の祈願は察するに余りあるも、祈願空しく翌天文二十二年正月十三日遂に諌死するに至った。爾後信長の態度一変し天下平定の基を開いたのも実に政秀の誠忠に依る。即ち政秀なくば郷土三英傑の出現も又疑問ではなかろうか。」
(略)」
ううむ……ここはひとつ、「平出政秀」の狛犬の御朱印を作って……いやいや、下世話な話を……人気が出ればいい、というものではないですから。
しかし、本当に戦国時代の知識がないんだなぁ私……申し訳ありませぬ(誰に?)。
社標。
異体字ですな、「緜」。
参道。
参道。
灯篭。
灯篭の狛犬さん。
参道……結構長いです。
参道……。
なんでかいきなり扁額。
で、拝殿脇から見た摂社……なんか写真の順番がぐちゃぐちゃです。
社殿裏手、だったかな……御山です、ワンダーランドです。
石像がもうワンダー。
ワンダー。
「不動明王」。
わかりやすい。
御嶽講の行者かな……頭部は明らかに後付けに見えますが……鳥?
うーん難しい、持ち物は剣と桃……桃?
唐風の衣装っぽくも思えますし……どなたでしょう。
あー、「聖徳太子」にしときましょう……「菅原道真」かも……。
後ろの方は、「日本武尊」か「神武天皇」か……勾玉を首から下げてますから日本神話だと思います。
おっと、「不動明王」の「八大童子」が。
あ、この方はさっきの方です。
こちらには「三十六童子」……基本「不動明王」信仰なのですね。
こちら御嶽講ですね、多分……まだ勉強してないんですよね……。
うーん、「神変大菩薩」。
槍か戟かを持ってますね……「毘沙門天」にしときましょう。
……さっぱり想像がつかない……え、お公家さんでしょうか……。
「御嶽神社」社標。
遠景。
ワンダーランド。
その手間に「龍神社」。
いきなり戻りますが、本殿向かって左手の摂社。
「多賀神社」と「白山者」でした。
こちら本殿裏手……そう、ぐるっと周りを巡れるのです。
先ほどの、本殿向かって右手の摂社。
「津島神社」と「熊野社」。
こちら、「浅間大社」「秋葉神社」、右が「四十八祖社」……神職のご先祖様でしょうか。
それから、「瑞玉稲荷神社」。
やっとこさ、拝殿遠景。
狛犬さん……ちょっと切ない鳥の……。
拝殿遠景。
境内広いです。
とりあえず今回はこの辺りで(御朱印の有無は不明です〜)。