べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「王子稲荷神社」(補)

さて。


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大日本名所図会. 第2輯第5編 江戸名所図会 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑今回も『江戸名所図会』さんです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

269コマです。

 

「王子稲荷社 同北の方にあり。往古は岸稲荷と號けしにや、今当社より出すところの牛黄宝印にしか記せり。
本殿 倉稲魂命、聖観世音・薬師如来・吒枳尼天。
本宮 十一面観世音。
王子権現縁起に曰く、いづれの世にかありけん、此社の傍に、稲荷明神をうつしいはひければ、毎年臘晦の夜、諸方の命婦此社に集り来る。其ともせる火の連りるづける事、そくばくの松明を並ぶるが如く、数斛の蛍を放ち飛ばしむるに似たり。其道野山を通ひ、河邉をかよへる不同を見て、明年の豊凶を知ると聞ゆ。命婦の色の白きと九の尾あるは、奇瑞のものなりと、古き書にありとなむ。下略
因に云ふ、今の世三狐神の名に附会して、伊奈利を白狐とするものは、大なる誤なり。又狐を伊奈利の使者とし、又ここに命婦といへるは、或書に云く、後小松帝の明徳年中一人の老命婦あり、深く稲荷を信じ、毎日詣でけるに、命婦が飼ひける野狐あり、必ず参詣の時は先へ社壇に来り待ちし故に、社人も狐の来るを見て、命婦のやがて詣づるを知り、命婦も年老い世を退りて後は、狐を養ふ者もなく、終に伊奈利山へ至り住みけり。社参の人命婦狐と名け、呼び出して果物などあたへけるが、年経て死しけるを、人憐みて本社のかたはらに埋め、社を建てて祀りしより記せり。是狐を伊奈利の使者とせしよりどころなるべし。
当社は遥に都下をはなるるといへども、常に詣人絶えず。月毎の午の日には、殊更詣人群参す。二月の初午には、其賑言ふもさらなり、飛鳥山のあたりより、旗亭(さかや)・貨食舗(れうりや)、或は水に臨んで軒端をつらねたり。実に此地の繁花は都下にゆづらず。」

 

なんか、途中で「狐=稲荷の神使説」の話になってましたけど……その前段では、明らかに九尾の狐っぽいのが出てきましたね。

『王子権現縁起』、「王子神社」の記事によれば寛永十八年に上梓されたっぽいので(同じ縁起かどうかは不明ですが)、結構いろいろな伝説がくっついて出来上がっているのかな、とも思います。

地元に伝わっていた伝説なのか、箔づけをしたかったのか……何とも言えませんが。

 

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一立斎広重一世一代江戸百景 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑大正時代の出版ですが、もう少し詳しい感じで。

59コマです。

 

「王子の狐火
王子稲荷は王子権現の北にあつて往古は岸稲荷と號けた。関八洲の稲荷の棟梁と伝へられてゐる。此稲荷について江戸時代には一つのいひ伝へがある。王子稲荷の傍に装束畠といふ田甫があつたがm、其所の衣裳榎といふ榎の大樹の下へ、毎年十二月の大晦日の夜にあると諸方の狐が夥しく集り来る。其ともす狐火のつらなるさまは若干の松明を並べたやうに見える。或は数斛の蛍を放つたやうにも見えた。其狐火の行列が野山に通ひ、河邉にかよへる抔其時々によつて不同がある。不同の様子を見て、明年が豊年であらうか凶作であらうかを判断するため、近在の百姓は見物に来たさうである。此事は宵の内にある事もあり、又暁に見る事もあつて時刻の程は定つてゐなかつたさうである。兎に角王子装束榎の大晦日の狐火といふものは、江戸時代の一名物であつて、其狐火の高く飛ぶのや低く飛ぶので狐の官定めになるのだといひ伝へてゐた。」

 

冒頭からほぼ『江戸名所図会』と同じなのは、『王子権現縁起』から引用しているからだと思いますが、榎の話は出ていませんでしたね。

↑には安藤広重「江戸百景」からとった「王子の狐火」の絵も掲載されています。

河辺であることからして、実際に蛍火だった、というのが一番妥当な線。

湿地帯で燐が発光する、という人魂にそれっぽい解釈をほどこしたやや怪しい説もありかな、と思います。

周辺の農民が見にきていた、ということを鑑みて、実際に何かしらの光を飛ばすような習俗だった可能性。

狐がいっぱい住んでいたかも(その割に、そんな記述はないですけれども)。

まあ、いろいろ妄想できますけれども……何かしら、発光現象があった、というのは事実だったのではないかと思います。

 

なお、「王子の狐」という落語は、

 

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円遊落語会 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑なぞをご参考に。

「今時分、人間が狐を化かすようになった……」というお噺です。