べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「五條天神社・花園稲荷神社」

8/4。

上野恩賜公園」散策は続いています。

続いての目的地は、五條天神社花園稲荷神社

 

◯こちら===>>>


上野公園 医薬祖神 五條天神社 - 御縁起

 

両社は同じ敷地内にあります。

観光客がいらっしゃって、写真の順番がごちゃごちゃになっていますが、まずは「五條天神社」から。

 

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真新しい鳥居。

 

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(※引用にあたって旧字をあらためた箇所有り)

「醫薬祖神五條天神社御由緒

祭神 主神 大己貴命 少彦名命

相殿 菅原道真

 

沿革 景行天皇の御宇 日本武尊東夷征伐のため、武蔵忍岡を御通行の砌 大己貴命大国主命)、少彦名命二柱の大神の奇瑞を現し給うことあるに依って同所に両神を勧請せられたのが当社の創祀であると伝えられる。

相殿に菅原道真公を祭祀したのは社名の天神と呼ばれたるにより菅神の尊像なくてはとて寛永十八年道真公の尊像を造り天海大僧正並びに毘沙門堂公海が開眼供養を修したのであると伝う 寛永寺拡張のことなどに依り当時の社地天神山(今の摺鉢山)より暫く当社別当にて連歌師たる瀬川屋敷内(今の五條町)遷座されていたが昭和三年九月廿二日に当地に御遷座し奉った 当社は古より醫薬の祖神として尊崇されている

(略)

 

花園稲荷神社後由緒

祭神 倉稲魂命

沿革 創祀不詳承応三年天海の弟子晃海霊夢に感じ稲荷社廃祀に当社を再興し東叡山擁護の霊社となす

(略)」

 

日本武尊」の伝説がどこまでのものかはわかりません。

菅原道真公を祭祀したのは社名の天神と呼ばれたるにより」という話は、よくありまして。

元々天神地祇(あまつかみ・くにつかみ)」のうちの「天神」を漠然と指してお祀りしていたお社に、後から「菅原道真公」つまり大自在天天神がくっついてしまう、という。

「菅公」は、

 

流行神

 

だったんですが、きちんと根付いたんですね。

「天神山(今の摺鉢山)」は上野公園内にあります(摺鉢山古墳の辺り、でしょうか)。

「瀬川屋敷内(今の五條町)」は、今はないようです(上野四丁目などに編成された模様)。

 

◯こちら===>>>

http://www.city.taito.lg.jp/index/kitemite/abouttaito/kyuchomei/kyu-tyoumei.files/3-15.pdf#search='上野+五条町'

 

↑参照です。

 

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「七福社」。

江戸時代に「七福神」が大流行するわけですが(仕掛人は、「南光坊天海」か、あるいは「徳川家康」自身か)。

もちろん上野にも、ということでしょうか。

 

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かなり狭隘な社地ですが、シンプルでいい押し出しの拝殿だと思います。

 

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手水鉢が、上野らしく「蓮の花」……だと思います。

 

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こちらは通り沿いからの入り口。

小さな橋がかかっていました(写ってませんが)。

 

花園稲荷神社」は、「五條天神社」より高いところにあります。

 

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公園側からの参道入り口。

 

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「御由緒

鎮座の年月、由緒は不詳ですが、往古より此地にあり「穴の稲荷」又は「忍岡稲荷」と云われました。

承応三年(330年位前)天海大僧正の高弟晃海僧正が霊夢に感じ廃絶のお社を再建して上野の山の守護神としました。

この附近より北西一帯が寛永寺のお花畑であったので明治六年花園稲荷と改名し昭和三年現社殿にお遷ししました。

旧社殿の跡は俗称「お穴様」と呼ばれ晃海僧正再建の記が刻まれた岩穴が現存します。

安産の神とも云い、特に縁談、金談の願がけにいただく「白羽の矢」は古来から有名です。」

 

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これは、先ほどの参道を下りてきて、振り返って撮った、んだと思います。

 

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丘に半ば飲み込まれるように建っているのが、なかなかの野趣です。

 

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花園稲荷神社」の正面の道と、「穴稲荷」入り口です。

 

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「穴稲荷

正しくは忍岡稲荷と云い花園稲荷の旧跡である。

左奥のお社は、寛永の初め天海が寛永寺を草創の際に忍ケ岡の狐の住み處を失った事をあわれみ一洞を作りその上に祠を建てて祀ったものと云われている。」

 

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お狐様は、穴に住んでいます。

お狸様もですけど。

 

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これは……神輿庫にかかっていたのかな……。

 

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これはどこだか忘れましたが、何しろ有名人の名前があったもので。

 

こじんまりとした敷地に、身を寄せるように、潜むように立ち並ぶ社殿が濃密で、なかなかな素敵スポットです。

結構、観光客が多いのがあれですが(お前もだろ)。

 

さて、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3

 

↑の240コマに、「五條天神宮」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■で置き換える)。

 

「五條天神宮

東叡山の巽の麓、瀬川氏の地にあり。祭神少彦名命一坐、(本朝醫道の祖神にして五條天神と稱す)北野天満宮を相殿とす。(菅神の像は寛永十八年慈眼大師開眼ありて、当社の相殿に鎮座せしむ)当社、はじめは東叡山のうちにありしが寛永寺草創の砌、御連歌師瀬川昌億が宅地に遷させらる。(菊岡沾涼云ふ、其旧地は上野御本坊の邊なりしと)毎歳節分の夜、白朮(うけらの)神事を修行す。

北國紀行云

正月の末武蔵野のさかひ忍の岡に優遊しはべり。鎮坐の社五條天神と申しはべり。折ふし枯れたる茅原を焼きはべり。

契りおきてたれかは春の初草に忍びの岡の露の下萌  堯恵

 

祭神少彦名命一坐」……「大己貴神」はいつから祀られているんでしょうか……。

時代的に、当然ですが「瀬川氏の地」にある頃ですので、今の「五條天神社」ではありません。

「堯恵」という人は、

 

◯こちら===>>>

尭恵とは - コトバンク

 

↑によれば、

 

「1430-? 室町時代の僧,歌人
永享2年生まれ。天台宗の学僧。法印。二条派の歌人尭孝(ぎょうこう)について種々の口伝をうけ,「古今抄延五記」など歌書の注釈を執筆。公家,武士,僧にわたるひろい交遊でも知られる。号は藤の坊。著作に「吾妻道記」「東国紀行」,家集に「下葉和歌集」。」

 

↑ということですので、1400年代には既に創建されていた、と見ることができます。

 

また、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸叢書 : 12巻. 卷の貳

 

↑の13コマに、『江戸名所記』の「牛天神」の記事があります。

寛文の頃の発行である『江戸名所記』ですから、『江戸名所図会』より古いわけです。

この「牛天神」が、「五條天神社」のことではないか、と思われます。

 

「六 牛天神

東叡山黒門の際、右の方にあり、堯恵法師中興として、上野の鎮守なり、ある人いはく、北條氏康関東対治の後、霊夢おはしけり、菅丞相御手に一枝の梅花をもち、大なる牛にのりて都の右近の馬場より、御ようがう有けりと、夢さめて此やしろを初めらる、久しく大破に及びしを堯恵中興してその程うしなはずといへり、松梅はもとより神木也、一花ひらきそめて、梅は天下の春をしらしめ、時雨に色かへぬ十かへり、松は忠節無二の徳をあらはし賜ふ、されば老松紅梅殿、みな此御神の末社たる事、これまたふかき故ありとかや

人ことにまうてくるまの宮めくり、牛天神やよたれたるらん」

 

……堯恵法師が中興した、と書かれています。

そんなことがあったのなら、社伝に残っていそうですが(『北國紀行』の記述から引っ張ってきたんじゃないでしょうか)。

それはともかく、この書き方では完全に天満宮ですね。

神社でいただいた由緒書にも、

 

「相殿におまつりしてあります菅原道真公は、寛永十八年(約370年前)に合祀され、歌の道の祖神として俗称下谷天満宮とも云われました」

 

とあります。

連歌師である瀬川昌億の地に遷されたのは、この「歌の道の祖神」ということが大きいのかもしれません。

祭事の中に、なかなか読めそうにない「白朮(うけらの)神事」というのがありました。

これも神社の御由緒書によれば、

 

「◯うけらの神事 は二月節分の日の夕方行います。病の鬼を祓う古式床しい追儺で「蟇目式」「うけら焚き」「病鬼との問答」「豆まき」等の神事が続きます。(略)」

 

ということです。

元々「追儺」自体は、大陸の宮中行事から始まっていると言われますが、それが神道やら仏教やらと習合して、ついに「病鬼との問答」するようになったのか、と思うと、何か面白いです。

 

さてさて一方の「花園稲荷神社」ですが、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3

 

↑の115コマに「忍ばずの池 中島辨財天社」の図絵があるのですが、その中に「穴のいなり」との文字があります。

125コマからの記事では、

 

忍岡稲荷祠 文珠楼の左にあり。石窟の上に祠ある故に、世俗穴稲荷となづく。当山草創の時、開山慈眼大師これを勧請ありしといへり。又江戸雀に、当社を浄雲稲荷と記せり。浄雲とは木食浄雲の事なるべし。按ずるに、慈眼大師勧請の後、此沙門再興にてもありしにや、ここを以て浄雲の號ある歟。又或説に、当社は太田道灌勧請なりともいへり。霊験他にこたえる故に、常に諸人絶えず。」

 

とあります。

「木食浄雲」という人をさくっと検索してみると、どうやら上野と縁が深い模様。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸叢書 : 12巻. 卷の貳

 

↑の『江戸名所記』ではどうなっているかというと、

 

「七 忍岡稲荷

此社まで猶忍ぶの岡のうち也、太田の道灌これをくはんじやうせらる、本社は洞の内にあり、ほらの上にもまた社あり、やしろの前は、すなはち石のほりぬき也、穴のまへ雨わきに白き狐あり、神木は榎木なり、やしろの右のかたに京櫻あり、柳のゑだに櫻の花をさかせるがごとし、春風にうちなびく有さま、朱の玉垣にいろをそへて、且ちる花や匂ふらん、宜禰がうちふり白幣を棚をへだてて見るがごとし、石壇のしたに泉水あり、岸は石にてたたみたり、西の方にむかへば、忍はずが池はめのしたにみゆ、またすてがたき絶景なり、護国院はこれ、明神の霊夢によりて立られしところ松櫻竹のはやし、萬木ゑだをきしり、梢の花色をあらそふ、鳥井の内に茶やあり、

わかをもふねかひをみつの御社に、ゆふかけてさく京櫻かな

いにしへ空海和尚、入唐帰朝の後、東寺の門前にして、稲を荷ひて来り賜ふ、その時はおきなのすがたにておはしましけるを大師これをいはひしつめまつり賜ふ、稲荷山これなり、此明神を太田道灌勧請せられし、かの本山は紅葉を名物として、歌にもよみけることあり、又あをかりしよりといふ本歌を思ひ出て、

あおかりしいなりの山はさもあらはあれ、いまはあやかれしろききつねに」

 

という感じです。

風景の浮かぶ、なかなかの情感溢れた紀行文ではないか、と思います。

神社で戴いた由緒書には、

 

「お穴様の左億にありますお社は、古書に弥左衛門狐と記され、寛永寺が出来る時忍岡の狐が棲む処が無くなるのを憐れみ、一洞を造り社を祀ったと云われます。」

 

とあります。

また、

 

「晃海再建の記

東叡山中西岸池邊 昔有一祀 伝云 稲荷神宮 唯有其跡 宮社廃絶 予依霊夢 将再興 仍巌窟中 新納金銅神體 且造宮祠 □当山擁護霊社矣 祝日 天下清平 仏法安寧 諸願如意 永劫妙霊 承応甲午仲冬吉日 権僧正法印晃海」

 

も掲載されています。

果たして、再建したのは「晃海」なのか、「木食浄雲」なのか。

 

 

 

 

まぁ、何回も再建されている可能性もありますが。

 

 

「穴稲荷」としては、

 

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近代デジタルライブラリー - 彰義隊戦史

 

上野戦争での「黒門・穴稲荷門の戦い」として有名なのだそうです。

戊辰戦争の勉強をした記憶はないです……近代史は……。

 

 

 

 

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大きな神社では、巫女さんが御朱印を受け付けてくださるのですが、こちらの巫女さんは特に丁寧だったような気がします。

暑かったせいですかね……。